2010-12-29

畏れの中で。

今日のムリエッタ, CAは雨。
ここに来ても、NJほどではありませんが、
肌寒いです。


こちらの今夜の最低予想が1度Cで、
明日の夜は氷点下に下がる予想が出ています。


昨日は6時25分のフライトのために朝4時に出ました。
「国際便に乗るのかよ!」という感じもしますが、
何があるかわかりません。
とにかく早く出ました。


そしたら・・・やっぱりありましたねえ。
空港の周辺の雪かきが全然終わってない!
NJ TurnpikeからI-78に乗り換えて、Airportに行く道が
しっかり閉鎖されているではありませんか・・・。


もちろん、迂回路の表示も何もありません。
この道大丈夫かなあ、という「閉鎖されてはいないけど、雪かきは終っていない」という道をうろうろしながら、迷いながら、雪かきのトラックに「お前ジャマだ!」と言われているんじゃないか、という恐れを感じながら、何とか1時間後の5時には空港入り。


で、建物の中に入ったら、大大行列。
朝5時でこれかい!ってくらい、めちゃくちゃ混んでいて、
一番すいている列に並んだら、ウンともスンとも動かない。
「やべえ〜」と思っていたら、アナウンスが・・・。


「念の為にアナウンスしますが、外のチェックイン(curbside check-in)は開いています。飛ぶ便のチケットを持っている方は、そちらでチェックインが出来ます。」と言っているではありませんか。「念のためじゃない!ちゃんと言ってくれないとわからない!」と、国内線なんて何年に1回しか乗らない自分は、とにかく「Thank you!」とつぶやきながら、無事チェックインを済ませたことでした。そして、やたら人が少なく、行列にもなっていないセキュリティをゆっくり通って(いつもは靴を脱いだり、ベルトを取ったり、PCを出したり、財布を出したり、ポケットの中を確認したり、すべて後ろの人の「早くしてよ!」オーラを気にしながらやっている)、中に入ってほっとして、パネルを見たら、


こんな感じ。




セキュリティがすいているわけです。
これって、いくつもあるパネルのうちの一つで、Cで始まる空港行きが並んでいるパネルですが、見事にCancelの列が・・・。


その中で、ポツポツと「On Time」の文字。私が乗る飛行機は下から5番目の6:25発のクリーブランド行き。ちなみに離陸の時にパイロットが「私たちの飛行機が今朝最初に飛ぶ飛行機です」と言っていたので、上のパネルの中で6:00発シカゴ行はキャンセルか遅延か、どっちかだったんでしょう。そして、特に目に止まったのは私のあとの便、9時45分発のクリーブランド行きもキャンセルになったこと。rebookの時に「念のためにもう一便遅い飛行機のほうがいいかも。何とか集会前に会場に入れるし・・・」と一瞬思ったのですが、「いやいや、少しでも早い方が・・・」と6時25分の便にしたのでした。


そんな中で無事乗り継ぎも1時間余りの予定が40分となったのですが、まあ、問題なくすんで、LAXに到着したのでした。


会場に着いて聞いたのは、NY周辺から8人が飛行機の便が取れなくて来れなくなったとのこと。


そんな中で、道が開かれたことに畏れを感じながら、昨日の夜のメッセージをさせていただきました。


テーマは「どん底での恵み」


私たちの本当の姿は嵐の中で見えてくる。見せつけられる。すべてが順調なときに、みんな仲良くやっているときに、しっかり立っていられて当然。でも、嵐が来たときに私たちはほんとうの自分の弱さや愚かさ、身勝手さを見せつけられる。でも、その時こそ、神さまの恵みを知るチャンスなんだ、自分のほんとうの姿が見えてきたときにこそ、神さまの愛を知ることができるのだ、ということを、自分自身の証しを交えながら、語らせていただきました。


私の証しはもうここで過去に書いているので、
まだの方はこちら。
証し第7章
証し第8章
証し第9章
証し第10章

昨日、終わった直後、そして今日も、皆さんが声をかけてくださって、
思わされたことを分かち合ってくださいましたが、
一人ひとり、神さまから触れられたところは違っていて、
その事の中にも主の御業を感じました。


みなさんのお祈りに心から感謝します。


今日のことも、朝はアメリカ人で日本の学生のために伝道しておられる方々、やがて日本に宣教師で行こうと思っている方々との交わりの時が与えられて、また午後には大倉信先生の分科会に出席させていただいて、いろいろ考えさせられて、書きたいことはいろいろあるんですが、明日の夜の集会のために準備をしたいので、これくらいにして、また今度。


今日の聖書。
今日はヘブル12:14−29を読みました。


「この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。」27−28節。


私たちは動かされないものを持っている。
これは実感の話ではなくて、
神の約束の言葉。

神さまが約束されてるのは、
揺り動かされないものなのだと、
だから、他のものが揺り動かされて、取り除かれても大丈夫。

本当にホンモノが与えられているから。

そんなモノが与えられているんだということに、
単純に感謝しました。

主よ、
あなたが与えてくださったこの時に感謝します。
あなたの与えてくださっているものが、
確かなものであることに心から感謝します。
ここに立って歩むことができますように。

思いっきり感謝。

みなさんのお祈りに感謝します。
今日、無事にEquipper Conferenceの会場に着きました。
3時頃に着いて、集会は7時から。
少しゆっくりする時間も与えられて、
夕食もガッツリ食べて、
心から賛美をして
大胆にメッセージを語らせていただきました。

主がお一人ひとりの心に触れてくださったことに感謝。

色々感謝したいんですが、
もう、ちょっとへろへろなので、
今夜はこのへんで。

2010-12-27

雪かき完了。

はい、昨夜の「想定外」の結果はこんな感じ。




車のタイヤを見ると大したことはないかなと思いましたが、
実際、タイヤの周りはちょっと雪が少なくて、
他のところのほうが深かったです。
ですから、やっぱり45−50センチくらいだったかなと思います。


さて、下の写真はなんでしょう?
車です。


車種は?
コレでわかったらスゴイ。








正解はHonda Civicです。
上の写真の右のほうの車を前から見たところです。



はい、コレはお約束の "snow angel" を作っている下の娘です。
それなりに雪かきを助けてくれました。


マジ疲れました。


ちなみにこのビデオは、NJのもうちょっと南の方に住んでる方が、
5分おきにシャッターを切ったこまどり撮影。
こんな感じでどんどん降ってました。



December 2010 Blizzard Timelapse from Michael Black on Vimeo.


さて、私のEC会場入りは、明日の午後の予定です。
ニューアークを朝早く出る予定です。


そして、ハジは残念ながら、今日もキャンセル。
もうちょっと早く空港が開くと思っていたのですが、
午後1時の便でもアウトでした。
(というか、今ちょっと車を出して回ってきたのですが、ラジオでは午後5時にやっとLGAだけ開いたと言っていました。)
変更のために策を尽くしましたし、
航空会社の日本語サービスの方もいろいろな可能性を探ってくださったのですが、
結局今回は断念でした。


一度はエアチケットの高さに諦めながら、
でも、なんとか予算内のチケットを見つけて、
どんなに楽しみにしていたか、見てきたし、
アトランタで一生懸命ファンドレイズをしていたことを知っていたので、
今回も何とか道が開かれるようにと願っていたのですが、
一つ一つ自分で交渉して、自分で決断してきたこと、
残念ですが、これも、主が祝福としてくださるようにと祈ります。


親バカとしては、自分の席を譲れるなら、譲ってやりたいところですが、
(もうすぐヤツも二十歳になるんですが、何だか・・・ですね)
さすがに講師としてお招きいただいているのに、
「代わりに息子に行かせます」ってわけにもいかず。
自分に神さまから任された働きを果たして来ようと思います。


さて、今日の聖書。
今日はヘブル11:27−40でした。


「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。」39節。


自分は最近「この世の天国」を強調しすぎてきたのかもしれない。
つまり、「あの世」を待ち望むのではなくて、
この世で神様と共に歩む歩みは天国なんだ、
闘いはあり、悩みはあるけれど、
神様が共におられるから、喜びを持って歩んでいくことができるのだ、
それを強調してきました。

でも、ここでは、「約束されたものは得なかった」、つまり、この世では本当に約束されたものを完全に得ることができるわけではないのだ、ということがはっきりと言われているのです。

そこに希望を持っていく事の意味も考えさせられました。

どれほど豊かなものを準備しておられるのか、
楽しみにしながら、歩んでいきたいと思います。

神さま、
あなたがわたしのためにこの世だけではなくて、
もっとスゴイ天国を準備してくださっていることに心から感謝します。
希望を持って歩んでいくことができますように。


明日の飛行機が守られますように。
まもなく始まるEC2010に豊かな御業をなしてください。

2010-12-26

こんな感じ。

5時半。
6時半。
8時半。

8時半頃はちょっと小康状態でしたが、また9時前からHeavy Bandがかかってきました。

聖書による支え。

やあ、来てしまいましたねえ。
Blizzard Warningです。
今、夕方の5時半ですが、激しく降っています。
帰宅して2時間ほどですが、
この2時間で5センチくらい行っているのでしょうか?


こんな感じ。


明日の朝まで吹雪になって、
40センチから60センチだそうです。
ほんと?という感じもしますが、
この降り方が朝まで続いたら行っちゃいますね。


ご勘弁いただきたいです。


そう、本来、自分は今ごろ空港でCA行の飛行にの搭乗時刻を待っていたはず。
でも、飛行機はもちろんキャンセル。
火曜日の朝の乗り継ぎ便でCAに向かいます。


ハジは、今日の午後の飛行機がキャンセルになりましたが、
何とかして、明日、ECが始まるまでに会場に入りたくて、
今朝4時半に家を出て、空港で早い便への変更への直接交渉。
しかし、あえなく、明日の昼過ぎの便に。


昨日の夜から、今日の朝にかけては、本当にそれに振り回され、
あっちこっちに電話をかけたり、走りまわったり・・・。
さすがに疲れました。


昨日の朝、書いたとおり、今年のクリスマスは、
「想定外」がキーワード。


・・・まさに・・・という感じです。


でも、イブに語らせていただいていただけあって、
こんなことの中でも、神さまのメッセージを聞こうという思いが湧いてきます。
自分にとって想定外、予定外のことも、
神さまが許されたこと。


神さまのメッセージを運ぶために用いられるのだと信じます。


個人的には前の日に会場に入って、
最初から参加して、どんな集会なのか、雰囲気を知っておいて、
火曜日の夜の自分のメッセージの奉仕に備えようと思っていたのですが、
それがままならない中で、それなりにプレッシャーです。
でも、だからこそ、祈らされる。霊的な備えをしっかりしようと思わされる。
またそれまでの雰囲気に振り回されない、主のメッセージを語るようにとも導かれているように感じます。


とにかく、このことが、主によって最善にされる確信があるから、感謝です。


でも、1年以上前から準備を進めてこられた皆さんは、東海岸の多くの参加者の予定変更の続出で、今本当に大変な中におられると思います。主がその思いを守ってくださいますように。


そして、今日は礼拝は各自家庭で・・・。
私はハジと一緒に教会に行って、留守番をしておりました。

礼拝の時間、そこに来られた方々とお祈りをして、
皆さんをお送りした後、ハジと二人で賛美集会でした。
ハジがキーボードを弾いてくれて、リードしてくれて、
祈りを共にしました。

今日の在宅礼拝の聖書の箇所はマタイ6:33。
「神の国と神の義とをまず求めなさい。そうすれば、これらのものはみな、添えて与えられるであろう。」

この1年、教会で掲げて歩んできた言葉です。

「神の国と神の義」私たちが求めるのはそれだけ。
神の愛の支配と十字架に表された神の救い。
それがあれば十分です。
ほかのものは、神さまの愛の支配の中で生きるときに、
みんな添えて与えられる「おまけ」です。

だから、ハジの存在もホントは「おまけ」(ゴメン!「宝」でもあるんだけどな・・・)。
声の質似てるなあと思いながら、おまけくんと賛美をしながら、
おまけくんとこのように同じ思いで神さまを賛美できる、
神さまからのおまけに感謝しました。

でも、時々、自分たちはホンモノよりもおまけのほうを大切にしやすい。
神さまよりも神さまが与えてくださる「もの」の方を大切にしやすい。
神さまの愛よりも、気の利いたプログラムやイベントの方に注目しやすい。

神さまに愛されている喜びにあふれて、
歩ませていただきたいと思いました。

でもやっぱり、「おまけ」もうれしい。(笑)

でも、最終的におまけを求めるんじゃないですよね。
そこらへんがむずかしい・・・。

さて、今夜はコレくらいで、与えられたクリスマス明けの時間を家族と過ごします。

2010-12-25

想定外のクリスマス。

メリークリスマス!
キリストの降誕を心から祝い、感謝します。


多くの方々から、お便りやカードをいただいていますが、
今年は諸事情で、私達のクリスマスレターは、年明けかな、という感じです。
失礼します。
ここで、ひとこと、ごあいさつ。
みなさんの祈りに支えられて、このようにクリスマスを迎えられることを、
心から感謝します。
これからも、どうかお祈りください。
そして、共に歩んでまいりましょう。


昨日の夜は子どもを入れて100人くらいの方々が来られて、
共にクリスマスを祝いました。


イブのために与えれたメッセージは、
「想定外のクリスマス」
昨日も想定外のことに振り回されながら、
自分がいかに「想定外」のことに弱い人間かということを思わされていました。
だいたい、与えられた時間と、「しなければならないこと」のバランスが悪すぎ。
というか、準備を着々を進めているタイプならいいんでしょうが、
(でも、その場その場で結構追われているような気もする・・・)
すべてがいっぺんに襲ってくる。
それで何とか、予定を決めて、こなしていくのですが、
時々、そこに「想定外」のことが起こる。
そうすると、「あああああ」とパニックになってしまうんですね。


いえ、だいたい「しなくてはならないこと」なんて何もなくて、
(イエスさま的には「ただひとつだけ」御言葉に聞くこと)
すべては、「自分で選んで自分に課している」んでしょうが、
昨日のポイントはそこにあるんじゃなくて、
そんな想定外のことにイライラしたり、怒ったり、
「どうして?」と神に求めたり。


クリスマスの時にも、
行き違いがあったり、渋滞にはまったり、事故にあったり、
人生の中でも、
病気や失業、夢見てきたことが失望に終わるようなこと。
「こんなはずじゃなかった」
「神さまを信じているのに」
「神様がいるなら・・・」
「どうしてこんなことが?」


でも、考えてみたら、クリスマスはまさにそんな想定外のことのど真ん中に起こった。


マリヤとヨセフの人生設計の中に、
処女懐胎やそれを受け入れる夫、ということは、
なかっただろうし。
「全世界の人口調査をせよ」との勅令もなかっただろうし。
ベツレヘムの村に行ったら、居場所がなくて、
赤ん坊を飼い葉桶の中に入れて寝かせるなんてことも、
たぶん、計画の中にはなかったんじゃないか。
「行けばなんとかなるだろう」って、
そんな感じだったのか・・・。
でも、「客間には彼らのいる余地がなかった」


でも、そんな想定外のことの中に、
神のメッセージが語られた。


「飼い葉桶の中に寝かされている赤ん坊こそ、救い主」これが、私達への「しるし」だ。


この救い主は、上から見下ろして、
「人間はおろかだなあ、お前たちをすくってやろう」と
自分は天の上にいて、下の愚かな人間を、
蜘蛛の糸で釣り上げるような方ではない。


溺れている私達のところに飛び込んできて、
私達の痛みや悲しみを知って、そこから救う方だ。


自分を与えて、
私達に命を与えるかただ。
そういう救い主だ。


そのメッセージは、「想定外」の事の中に、
語られた。


想定外のことを受け入れることは、
神の主権を認めること。
神の導きを信頼すること。
そこにも、神のメッセージが込められていることを、
信じること。


そう信じたら、
昨日起こった一つ一つのことも、
今週起こった一つ一つのことも、
平安の中に受け入れることができる。


感謝。


さて、明日は今年の最後の日曜日、
一年を振り返って、感謝の礼拝を捧げましょう。


そして、礼拝後、夕6時半ニューアーク発の飛行機で、
Equipper Conferenceに向かいます。


持ち物の準備、なんにもしてない。
6日間だから、洋服足りるかな?
最近、3−4枚を着回しているような気がする。
水着があると温泉に入れると、経験者から聞いた。
昨日の夜の段階で、327人の参加者がいるそうだ。


持ち物リスト、どこにあるんだろ?
講師はネクタイしなくていいのかな?
寒いのかな?Tシャツかな?とか、なんにも調べてない。


Wifiはつなげる、という確認はしたけど。


あ、それで、青字はお天気ネタ。
なんでコレが青字かというと、


週末のstormがちょっと心配になってきたこと。


日曜日の午後から降りだして、
15−20センチ積もる、という予報も出てきています。


でも、私達にとって「想定外」のことも、
神さまの御手の中にあって、
神さまのメッセージが込められている。


そう思うと、平安です。


この平安が守られるようにお祈りください。


さて、今日の朝の聖書。
今日はヘブル人への手紙の11章1−12節。


「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」1節。

ここに出てくる、天地創造から、アブラハムまでの信仰の系譜、
じっくり読んでみると、
そこに出てくるのは、
神の御言葉への信頼、
そして、そこに従うこと、
そして、そのように行動すること、
そんなことを見て取れます。

そのように歩みたいと思わされました。
信じたら、そのように歩む。

そこに与えられる祝福もあるんだと思います。

新しい年に・・・なんて言わないで、
今日、今ここでの歩みから、
神を信頼して、
御言葉の真実を信じて、
そこに大胆に歩んでいこうと思います。

主よ、
私の信仰の歩みの守ってください。
想定外のことが、
多分、これから、私の人生の中に起こってくるから、
このようなメッセージを与えてくださったのだと思います。
どうか、そんな中でも、あなたを信頼して歩めますように。
平安の中で守られますように。


そして、あなたの御言葉の真実を、
信頼して、歩ませてください。


ひとり子イエスを与えてくださった、
その恵みに感謝します。

2010-12-22

与えられたものの中で。

NYCに来て、ミッドタウンのMCを仮オフィスに仕事中。
相変わらず毎日「平凡に」寒い日が続いています。
-10度に下がることもなく、+5度に上がることもなく・・・って感じ。


でも、この週末のstormの予報が騒がしくなってきました。
ある人は「superstorm」という使っている人もいました。
Superstormと言えば、1993年3月ですね。
アトランタに住んでいて、休暇中、フロリダに行っていて、
帰れなかったという経験をしました。


でも、「Superstorm」で自分のブログ内検索をかけると、
2009年2月にも「superstorm並か?」という予報が出ているんですね。


まあ、天気予報で食べておられる皆さんにとっては、
やはりどれだけ注目されるか、も大切でしょうから、
ちょっとでも、可能性があると、どうしても「superstorm並か?」と、
やってしまうんでしょうね。


今のところ、NY周辺では、日曜日から月曜日に雪になる可能性があります。


礼拝もあるし、またそのあとCAに飛ぶので、
個人的には大したことなく終わって欲しいところです。


そういえば、今、ヨーロッパでは大変なことになっていて、
今年の1月に洗礼を受けた、ロンドンに住んでいる方が、
家族のところに来るために土曜日に来ようと思っておられたのですが、
キャンセル続きで、明日(木曜日)来れるか?というところだそうです。


24日のキャンドルサービスに来れるように、
明日は無事飛行機が飛びますように。


いろんなコトがあったのですが、
まず、月曜日のおじさんは来ませんでした。


そして、Operation Santaの買い物は先週終えて、
今日、郵便局に祈りつつ出してきました。
この小包が一人の少女の喜びとなりますようにと。
でも、2週間前に書いたことの他にも、
いろいろ考えさせられました。


そして、今本当に思わされているのは、
もっと心に触れる働きをさせていただきたいという思い。


そして、先週末から、自分の失敗なんですが、
Macのトラブルで、んー、という感じ。


1年前に15年ぶりくらいのMac復帰だったので、
Fusion上にWinを走らせて、
いくつかのWinのソフトを使っているのですが、
そのWin上でUSBを認識しなくなってしまったんですね。
困るのはプリンタ。
Win上のPublisherを使っている文書とかを、
プリントしようとしても、Mac経由にすると1枚5分くらいかかる・・・。


と書いたところで、あ、PDFに変換してMacからプリントすればいい、と思いつきました。
そうだ!そうしよう。


Win上のUSBを復活させるのは結構手間がかかりそうなので、
来年になってからゆっくりと・・・。


ああ、晴れ晴れ。


でも、そんなことをしながら、
思わされたことは、
自分に与えられた時間は限られているということ。
そのなかで、それをどう使うかが大切。


でも、そう考えると、
例えばお金だったら「神さまは必要なものは与えてくださるから」と私たちは言いますが、お金も、体力も、能力も、記憶力も、理解力も、


「必要なら神さまが与えてくださる」という視点だけではなくて、
「神さまが与えてくださるものをどのような優先順位で使っていくか」という視点が、どれだけ大切かと思います。


健康もそう。
私たちは病気になったら、「癒されるように」と祈ります。
やはり、そのように祈るべきだと思います。
でも、私たちへの神さまの祝福は必ずしも健康の中にあるとは限りません。


1年、健康が守られたことを感謝しながら、
そんなことも思わされています。


つまり、与えられている健康の中で、
何をなすべきなのか?ということ。
責任というか。


さて、仕事に復帰です。

2010-12-20

与えられた時間の中で。

モバイル版も始めました。
モバイルで、いつものPC版を見たい方は、
一番下のほうの「View Web Version」からどうぞ。

ちょっと久しぶりの更新ですが、
やはり週末のStormの予報は2日前くらいになくなり、
実際、ほんとに大丈夫でした。
毎日平凡に寒いです・・・。


今度は次の土曜日、クリスマスデーあたりに雪の可能性が出ていますが、
ま、こちらも大丈夫でしょう。


あと、明日は冬至ですね。
そして、偶然だそうですが、
明日の未明には皆既月食があります。
東部時間で1時半ごろから始まって5時ごろに終わる。
その中の1時間半くらいが皆既食だそうです。
って、つまり自分がいつも爆睡している時間帯ですね。


お天気的には平凡な「晴れて寒い夜」でしょうから、
よく見えると思います。


夜中に目が覚めたら、西の空に注目です。
「皆既だったら何にも見えないじゃないの・・・」なんて
ツッコミは入れないでくださいね。
日食みたいに派手じゃないですが、
赤銅色に鈍く輝く月が見えると思います。


昨日は洗礼式がありました。
来週くらいにはお証しを教会HPで読めるようにしていただけると思いますが、
本当に神様が圧倒するように働いてくださったなあ、という方です。


2年前に初めて来られたときは、
サンクスギビングの愛餐会の終わりの方。
そして、そのあと、クリスマスイブに来られ、
礼拝にも時々来られ、
お子さんをJOYJOYキャンプに送られて、
それでお子さんたちが喜んで教会に集うようになられ、
そして、今年の東海岸の日系教会の合同ファミリーキャンプで、
本当に主に触れられました。


今回、いろんなことを考えさせられています。
祈りの大切さ、
自分はいつも「礼拝からおいでください」とお誘いするけど、
愛餐会の最後の方にちょっと来られるだけでも、
神様の恵みに少し触れることができる、
そこから始まる、ということとか。


感謝。


昨日のJOYJOYクリスマス、天気が大丈夫だったのですが、
期待していたほどたくさんの子供たちが来れなくて、
ちょっと残念でしたが、でも、楽しいひと時でした。


中高生たちの人形劇も、ほんと、よかったです。


写真は教会のHP(www.jccofn.org)から。


さて、今日は、さっき読んだ今日の聖書から。
ヘブル9:11-22


「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょうか。」14節。

イエスがその生涯をかけて、私たちのためにあがないをしてくださったことに感謝。
それは、決して、あの十字架の何時間かだけではなくて、
ずっとずっと「御霊によって」守られて、
神へのささげものとして、己をきよく守られたから。

その力が、私のうちにも注がれている。

読みながら、正直、「私は死んだ行いから本当に離れているだろうか?」と思わされたが、だとすると、それはまた希望だ。神様が私をまたこれからもきよめ続け、神様に仕える者と造り替えてくださるのだ。

この神様のなさることに希望を持ちつつ歩んでいこう。

主よ、
どうか、私をさらに死んだ業から解放してください。
わたしのこころをきよめ、
あなたに仕える者として整えてください。


「楽しみにしてます!」コールがなかったのでどうしようかと思ったのですが、それでやめた・・・というのはちょっと大人気ないので(すでにこういうことを言っている段階で大人気ない・・・)、アドベント聖書日課第4週をアップします。・・・が、まだアップしていないので、多分朝10時ごろまではリンク切れだと思います。それよりも後の時間帯でクリックしてください。

今日は朝8時に時々教会に寸借に来るおじさんとアポがあるので教会に居残り。「病院にいくのでお金貸して!」というけど、お酒やドラッグになるお金をあげるのは嫌なので、「じゃあ、俺が送っていくから・・・」と約束したんだよねえ。さて、おじさん、果たして8時に現れるでしょうか?

アドベント聖書日課第4週

2010-12-16

使命。

毎日寒いです。
でも、一昨日は最高が-4.7度、昨日は-2度。そして、今日はとうとうプラスになって、0.7度C。でも、午後4時にはまた氷点下に戻ってしまっています。
明日の朝も、また-6度とか7度まで下がります。


そして、週末のstormですが、
うーん、ビミョウです。
というか、可能性低いと見ているのですが、
なんだかわかりません。


勝手な祈りかもしれませんが、
東にそれて欲しいです。


さて、昨日はブラジルから日本に行かれている
日系ブラジル人の宣教師の方が、
ブラジルに一時帰国される途中に、
NYに立ち寄られて、ちょうど、NYCで毎月もたれている集会に来られました。


そこでお証を伺ったのですが、
本当に楽しかったです。
愉快!という感じでもありました。


そのなかで、心に留まったのが、
15歳の時にクリスチャンになって、
でも、その後日本に行って、教会に行けなくなってしまって、
その時に、感じた思い。
「教会に行きたい!」


その後、教会に戻っても、
何度も挫けそうになった。


だから、「教会に行っていた、でも行かなくなった、やっぱり行きたい、でも行けない」という人のために働きたい。そのような自分の気持ちを分かってくれる人がいなかった、だから、私はそういう人のために働きたい、という思い。


大切な働き人だと思いました。


今、日本でポルトガル語での日系ブラジル人のための働きから、日本語での、その周りにいる人々への働き、教区での若い世代の人々への日本語での働きへと広がりが出てきているそうです。


それぞれ、通ってきた道が違う。
私は子供の頃から教会で育ってきて、
何も問題がないかのように教会から離れないで育ってきて、
でも、そこに決して複雑な思いがなかったわけではない。
だから、同じような中で歩んできた人々と、「恵みと痛みを分かち合う」働きもしたいと願っている。
この宣教師は「自分が教会から離れて、帰ってきた者として、そのような人たちへの働きがしたい」と思っておられる。


神様によっては、どんな経験も無駄になることはない、そう思わされました。
神さまは一人ひとり、違う使命に立たせてくださっている、そのように思わされました。


さて、火曜日の聖書から。
ヘブル人への手紙6:9−20でした。


「また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」19節。

幕の内とは、神との親しい関係の象徴的な言葉。
旧約聖書の時代のユダヤの文化の中で、
神の臨在される場所として描かれています。

そこに私たちはイエスによって招かれている。
神との近い関係、親しい関係に招き入れられている。

そんな中で、私はその「特権」を十分に使っているだろうか、

そのことを問われているように思った。

この特権を使わない手はない、ですね。

「今日一日のためにあなたが私の心の王座に座ってください」と祈りました。

雅歌1章12節の「王がその席につかれた時、私のナルドはそのかおりを放った」という言葉を心に思いながら。

主よ、
王であるあなたが、私をあなたとの親しい関係に招き入れてくださってありがとうございます。その特権を無駄にしないで、あなたの招きに応じて、進みゆかせてください。あなたが、私の心を支配してくださいますように。私の心があなたの香りを放つようになりますように。

2010-12-14

期待して祈ること。

今日は本当に寒い一日でした。
最高気温が-4.7度C。
風が強くて、体感気温はもっと低かったです。


今夜は-10度Cくらいまで下がって、
明日ももう一日氷点下のようです。


またWeekend Stormの可能性が出てきています。
今週末はクリスマス礼拝とJOYJOYクリスマスですから、
おもいっきり外れて欲しいです。


「祈り」について、いろいろ考えさせられ、
実際に祈らされている中で、
なんども読み直す本がありますが、
その中でも、Jim Symbaraの"Fresh Wind, Fresh Fire"、加藤常昭の「祈りへの道」、そして、最近ではBill Hybelsの「祈れないほど忙しい?」の3冊は自分を支えてくれる本です。


三者三様ですよね。
日本の神学者、説教者で、本当に深い心の動きを明かしながら、一緒に祈りへの道を歩んでいこう、と招く加藤先生と、とにかく共に祈って神さまの奇跡を見よう、とブルックリンの貧しい地域(今はずいぶん周りがキレイになってきましたが)で伝道をしてきたシンバラ先生と、時代の先端を走る人々にどのように福音を伝えるかを考えながら挑戦をしてきて、ミドルクラスのアメリカ人の心を掴んできたハイベルス先生、みんな違うんですが、祈りの大切さを伝える思いは共通しています。


先週から、今週にかけて、「祈れないほど忙しい?」と「祈りへの道」を読んでていて、その両方に出てきた聖書箇所に心が留まりました。
それはルカ18章1−8節のイエスの譬え話です。

また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。


実は最近ある「聖書を読む会」で学んだところでもあります。


どの注解書でも出てくるのですが、
「神さまがこの裁判官みたいな方であると勘違いしてはならない」んですよね。「まして神は・・・」なんだから。


そんな訳はない、わたしはそんな勘違いするわけがないと思いながら、でも、いつの間にか、神さまをなかなか祈りを聞いてくださらない、いじわるな方だ、とか、そこまで行かなくても、「自分の祈りの熱心さは足りないから、聞いてくれないだろうな」とか、「他の人の祈りは聞いてくれるけど、わたしのは半端な祈りだからダメだよなあ」とか、「もっと何回も祈らなきゃ、長い時間祈らなきゃ、聞いてくれないよな」思っていることないだろうか、と思わされたんですよね。


ビル・ハイベルス先生は、若い時代に、お父さんからクレジットカードを一枚渡されて、世界中を旅するようにと言われたそうですが、その感覚が神さまとの関係にも生きているんでしょうか。ほんとに大胆に主に求め、期待する先生ですよね。自分はどうしても、育った環境から「どうしても必要なもの以上は求めてはいけない」って思いがあるんですよねえ。間違っているわけではないんでしょうが、「神さまのために冒険する」とか「神さまは豊かだから、大きく求めなさい」とか、御言葉からそうなんだ、と思うのですが、まだまだ「自分自身の感覚」になっていないんだと思います。


インドネシアに行っておられた先生も言っておられました。「日本人はどうしても神さまを小さく考えすぎる。この世界を造り、世界を支配しておられる大きな神さまを信じなさい」と。


そうですよね。お天気牧師として、いつも思わされる、この自然の大きさ、そして、最近は夜空見上げオヤジでもっと思い知らされるこの宇宙の大きさ。この宇宙を造られた神さまを信じているんだから、祈るときにも、その神さまの大きさを忘れないで祈りたいと思います。


その神さまが、私たちのことを心に留めてくださっていることを信頼しながら。


さて、昨日の聖書。
昨日はヘブル人への手紙5:11−6:8でした。


「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たち」5:14。

一昨日の夜、役員会で遅くなって帰ってきて、
さすがにすぐには眠れなかったので、
翌朝、さすがに早く起きるのはきつかったですが、
いつものように6時に教会に行って聖書を読んでいました。
そこで目に留まったのがこの言葉。

この言葉を思い巡らせながら、
前の晩もたれたミーティングのことを思わされたときに、
本当にこのような「感覚」を持っておられる方々が、
そこには導かれ、集められていたなあと思わされたのです。

その時、主がこのような同労者を与えてくださっていることに、
心から感謝が湧いてきました。
教会への愛をもって、そして、訓練されて、何が神に喜ばれることなのか、何を私たちは神さまから託されているのか、という感覚を与えられている人たち。
感謝の祈りに導かれました。
そうしたら、いつの間にか、疲れが癒されているんですね。
正確に言うと疲れを忘れさせられた、というか。

幸せな牧師だと思いました。

立派な会堂でもなく、メンバーの人数でもなく、
このような同労者に支えられていることに幸いを感じました。

主よ、
あなたの与えてくださっている訓練によって、
教会のひとりひとりも整えられていることに感謝します。
ものごとを見分けることができる「感覚」を持っておられる方々が与えられていることに感謝します。
あなたが私たちの感性をもっともっと整え、
私たちが、あなたの御思いを知っていくことができますように。

Snow Coating Town

朝、起きたら、辺りは薄ーく雪化粧。
積雪がほんの少しの時、
dustingとか、coatingとか言いますが、
今朝は、coating++くらいです。



-7度C。寒い朝です。
寒い一日になりそうです。 BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop

2010-12-13

アドベント第3週ですね。

うっかり、アドベント第三週目の聖書通読日課をアップするのを忘れていました。

こちらです。

アドベント聖書日課第3週。

楽しみにしてくださっている方もおられるのだと信じて・・・いますが、
忘れることもありますので、「楽しみにしてますからねえ」メッセージをください!!
(図々しく要求するようになった自分・・・)

主に目を上げて。

夜の更新を封印していたんだけど、
そうすると、ほんとに更新できない・・・。
日曜日、自分一人帰るのが遅くなったので、
興奮して眠れないので、ちょっと掟破りの更新。


夜中の12時43分。
外の気温は7.5度C。
昨日の日曜日の昼間は10度以上あったから、
それに比べると温度は下がってきたけれども、
まだ本格的に下がるのは今日の午後くらいから。


車はちょっと長期入院中。
ディーラーも理由が今ひとつわからないみたい。
また今週部品を取り替えてみるらしい。
今度こそ、解決して欲しい。


先週、いろんなコトを思わされてきた。
特に祈りについて・・・。


一つは自分は神さまよりも、
周りの人、聞いている人に、心が向いていることが、
どれだけあるだろうか、ということ。


そして、自分の心にむけて祈っていることがどれだけあることだろうかと、
主に向かって祈っていこうと思った。
主に祈りをささげ続けようと思った。


もう一つはどこまで自分が神さまを信頼して祈っているか、ということ。
もちろん、神さまのみこころを求めて祈っているんだけれども、
「どうせ、神さまには神さまのお考えがあって・・・」とちょっとひねくれて、祈っていることがあるだろうかと。ちょっといじけ気味に、というか。


自分が子供に「一応お願いするけど、どうせ、お父さんは自分の好きなようにするんでしょ」と言われたら、すごい嫌だろうなあと思いつつ、自分ってそういうふうに祈っていることはないだろうかと。


ほんとうに、わたしに最善をして下さり、わたしの祈りを聞こうとしておられる主を、信頼して、たくさんたくさん、祈っていこうと思う。
真実に祈り続ける者でありたい。


さて、最近の「日々のみことば」から。
先週の後半からヘブル人への手紙を読んでいます。
「造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」ヘブル4章13節。

神様の前にはすべて明らか。
でも、主は私たちに悔い改めを求められる。
告白を求められる。
それは、私たちが罪から解放されるため。

ただ、私たちを裁くために、私たちの罪を示すのではなくて、
私たちを自由にするために、
私たちをその罪から解放するために、
私たちに悔い改めを求められるのだ。

そう思うと、神さまにすべてさらけ出されている、って、
すごいことだなあと思う。
スゴイ安心感だなあと思う。

主よ、
あなたが全てを知っていてくださることに感謝します。
どうか、私たちを罪から解放し、痛みから自由にしてください。
あなたに見ていただいている幸いの中に、感謝しつつ歩む者でありますように。

2010-12-09

「サンタのこと」コメント感謝。

車、再々入院中。
原因がわかったら携帯に電話してくれ、
と頼んだけど、
その携帯、車の中に忘れてきた。(爆)


取りに行かなければ・・・。


昨日の記事に、2つコメントを頂いて、
コメント通知は届いているのですが、
なんでかわかりませんが、本体には反映されないので、
こちらでご紹介。


まずは、はちこさんから、


先生、サンタとプレゼントのこと、先生の「複雑な思い」、分かる気がします。

アメリカのクリスマスのギフト交換の習慣は、私もずっと複雑な思いで見てきました。まぁ、皆さん、「大切なのはもらうことではなく、与えること!」と言いながらギフトを用意するわけですが、結果として子供にはやっぱり、「もらうのが当然」の感覚を養っている気がしてなりません。
うちの子も、「もらうのが当然」の感覚を持ってしまっていると思います。せめて、自分がもらうだけでなく、ギフトを贈ることをもっと強調しようと、ワールドビジョンのギフトカタログを見て、何を贈るか一緒に考えたり、お世話になった方たちや日本のおじいちゃんおばあちゃん、兄弟間でのギフトなど、与えるほうの機会も作るようにしているのですが…
(ちなみに、我が家もサンタは来ません。)

Operation Santa Clausですが、確かに複雑ですね… その手紙を書いている子供たちは、周囲の子がたくさんのプレゼントをもらっているのを見て、自分も…という思いがあるのでしょうね。クレクレ・スピリットは助長したくないけれど、自分が稼いだわけではないギフトを、ただ贈る人の厚意によって無償でもらうことができた、という経験をさせてあげるのは良いことなのかなとも思ったり… ほんとに複雑です。先生がためらいつつも手紙をもらって来られたお気持ち、分かる気がします。

アメリカ人は、ある面、日本人には考えられないくらいgenerousで、本当に気前良く与える人たちだなと思います。ボランティアもよくするし。でも、時にはそのgenerosityが、受け取る人の「尊厳」や「生きる力」を奪うことにもつながっているんじゃないか…と感じることもあるのです… アメリカの大都市に行くと、beggerがやけに多いように感じるのは気のせいでしょうか。

ハイチの地震のときも、アメリカ人は援助団体だけでなく、個々の教会や個人も大勢援助に駆けつけたそうです。私の教会からもチームが行きました。でも、トニー・カンポロだか誰かが、そうやって出かけていって何でもやってあげてしまうことは、ハイチの人たちの益にならない、というようなことを言っていました。彼らに依存することを教えてしまう、と。

あー、なんだか話しが広がってしまいましたが、私自身、なんとなく似たようなことを考えていたので… 長くなってしまい、すみません。


そして、こちらは旧ジャージーさんから、



かきごおり先生
そちらよりは、暖かいと思いますが
すっかり、冬の暗い空になっています

サンタさん。。。
とっても悩ましい。。。
甥は、カトリックの幼稚園に通っていたんですが
クリスマス前になると
家にあるマリア像の前に正座して
「サンタさんが、○○を持って来てくれますように」と毎日祈るので
その祈りを聞いて、妹が買いに行くてなことをやっていました
ある年は、「黒いうさぎ」
「色まで指定で、参った」と言っていたことが懐かしいです

今年のクリスマスプレゼント。。。
五年来、交友のある楽友が
実は、クリスチャンだと月曜日に判明
霊的会話のできる友を主が身近に与えてくださったことに感謝です
(日本じゃ、なかなかクリスチャンに出会いませんから。。。)

先生からのプレゼントを受け取ったご家族に
主からの恵みと祝福が豊かにそそがれますように


コメントありがとうございます。
また、ちょっと時間を作って、お返事させてください。

2010-12-08

サンタのこと。

NYCからの更新です。


ちょっと考えるところがあり、
夜の更新はこれからはしないようにしようと思います。
Flex Timeの牧師の働き、
毎日とは行かなくても、
一日のうちで隙間を見つけて、
アップしようかと思います。


毎年のようにこの季節になると一言書かないではいられないサンタのこと。
私はちょっとこだわりがあり、うちの子供たちのところには来ないことになっています。
「サンタはお父さんやお母さんがプレゼントを買ってあげられない子たちのところに来るんだよ」と。


それはこちらにも書きました。


2006年12月14日の日記。


そして、4年越しの願いだった、Operation Santa Claus、今日、NYCの中央郵便局に行って、とうとう一つ手紙をもらってきました。


でも、いろいろ考えてしまいました。


1回に10通の手紙を渡されて、その中から、「ああ、この子の願いを聞いてあげたいなあ」という手紙を選んで持って帰って、プレゼントを準備するのですが、手紙を読んでいるとなんだか、「クレクレ・スピリット」を助長しているんじゃないか、と思わされて、悔しくて涙が溢れてきました。「XBoxが欲しい、このソフトをつけて。」とか、「あれも、これも、これも、これも、それからこれも・・・」といくつもいくつも列挙してあったりとか・・・。うちの子たちにも、そんなプレゼントをあげたことはありません。どうしても欲しければ、自分でがんばってお金を貯めて買って欲しい、そう思ってきました。


クリスマスはプレゼントを「もらう日」だと子供たちが思っているって、これ、どうなの?ってほんとに思うんです。


なんだか、とんでもなく複雑な思いがしてきて、やめようかな、とも思いました。自己満足みたいな気もしたり・・・。でも、せめて・・・と、「子供に、洋服とか、靴とか、そういうものを送ってくれませんか」というお母さんのお便りを持って帰りました。決して納得したわけではないのですが、きっと、きっと、ほんとに一年間、洋服とか、買ってあげられなくて、靴も穴があいていて、でも、クリスマスの時に、買ってあげるお金もなくて・・・ということだと信じて。


女の子向けなので、うちの子たちにも手伝ってもらって一緒に準備したいと思います。私の心も守られますように、そして、子供たちにとっても幸いな経験となりますように。




あ、あと、車、日帰り治療ができなくて、入院しましたが、一泊で退院許可がおりました。
でも、今日は多分迎えに行けないので、明日にでも迎えに行こうと思います。
・・・もう、これで終わりになってほしい・・・。




さて、最近の「日々のみことば」から。
月曜日はレビ記の27:16−24でした。
この日でレビ記は読了。


「牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。その善い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。」32−33節。

人間はさもしいですよね。
10匹目が神さまのものとしてささげられるとすると、
その10匹目に、「これは手放していいかな」というものが
来るようにと、心のなかで願うものなんでしょうね。

自分もそうだろうなと思います。

神さまが最高のものを与えてくださったのに、
自分は最高のものを持って行こうとしない。

どこまでも自己中心的な者だと思います。
だから、このようにハッキリと書いてある。

最高のものを主のところに、
大切なモノを主のところに、
だって、主がまず大切なモノを私たちに与えてくださっているのだから。

主よ、
クリスマスに、
あなたが大切な大切なひとりごを与えてくださったことに感謝します。
私たちに一番大切なものを下さったことに感謝します。
私もあなたに、また人々に、大切なモノを分かち合っていく、勇気を与えてください。
心に平安を与えてください。

2010-12-07

シフトロック初体験。

今日は一日小雪が舞っていた。
Thanksgiving Dayにも降っていたという証言もありますが、
自分は確認していないので、今日がMy初雪。


天気予報では、この週末にstormが東海岸にやってくるということです。
まあ、例によって、先のことなので、毎日変わる予報に振り回されることでしょう。


いまは夜中の12時で、外の気温は-0.6度。
明日の朝は-4度位の予報が出ています。


今日はデイオフで、豆腐の修行の日だったのですが、
昨日の夜に大豆を水につけておく、というのを忘れたので、
純粋におやすみ。


それに再修理に出す予定だった車、
予約が明日になったので、
今日はウチでおとなしくしておりました。


その修理の必要なのは、
第一がcheck engineランプの再点灯。
理由の解析だけで105ドルですからねえ。
修理の翌日に点灯ですから、
まあ、これは交渉してno chargeを狙います。


もう一つが下の写真。


シフトのレバーのところにもう一本、ドライバーが刺さっています。


なんでこんなことになっているかというと・・・。


あれは、土曜日の午後、突然、シフトがPから動かなくなったのです。


焦りましたねえ。Pから動かない、ということは、車が全く動かない、ということですから・・・。修理工場までも、レッカーしてもらわないといけません。


でも、きっと何か、方法があるはず。
しかし、中古で買ったこの車、
なぜか、マニュアルがついていません。


幸運にも出先でなかったので、
適当に「シフトロック解除」でぐぐったら、
車種によっていろいろな方法が出てくるのですが、
うちの車の場合、シフトレバーの横の小さなカバーを外して、
そこにドライバーを挿し込んで押す、と書いてありました。


たしかに、小さなカバーがあって、
外せるようになっています。
それをはずして、現れた穴にドライバーを挿し込んで、
恐る恐る、押してみました。


ちょっと勇気いりますね、これ。
いままで25年くらい車に乗ってきましたが、
シフトが動かなくなる、ってのは初めてでした。
でも、「シフトロック解除」という機能がどの車にも付いている、とすれば、
こういうこと、よくあるんでしょうね、きっと。


それから、今日まで、どうしても車が2台必要な場面では、
このドライバーを押しこんで、ギアをRに入れます。


こんなことでも、書いておけば、誰かの役に立つんじゃないかと思いつつ。




明日の修理がお安く上がりますように・・・(祈)


今週は、「心の王座をキリストに明け渡そう」ということを思いめぐらし、実践する一週間です。

今週のアドベント聖書日課(PDF文書)

イエスは、恐れではなくて、愛によって、私たちの心を支配してくださる。
脅かしではなくて、共に歩んでくださることによって、従いたい心を起こしてくださる。

自分も少しでもそのような者となりたい、そう思います。

主よ、
私の心の隅々までも、
あなたのものとさせてください。
すべてをあなたに明け渡した平安を、
私に与えてください。
そして、私も、人とともに歩むことを大切にする者でありますように。

2010-12-05

アドベント第2週。

昨日は余り寝ていなかったのですが、
今日はほんとうに元気でした。
忙しかったのが、よかったんだと思います。


でも、一日終わると、さすがに、
目がショボショボします。


ですから、あっさりと更新して、
明日に備えます。


うちの車、
Check Engineライトが点灯して、
先週金曜日にちょっとお金かけて直した車、
土曜日にはまたCheck Engineライトが再点灯、
+シフトロックが作動して、シフトがPから動かない。


「え〜、これはレッカーしてもらうしかないか?」と思ったのですが、
マニュアルに従って、シフトレバーの横の蓋を開けて、
ドライバーを突っ込んで走っています。


明日、また病院送りですね。


今日も寒いです。
明日もその後も、その後ずっと寒そうです。


いまは夜9時半で、−0.1度。


明日は曇りがちで小雪も舞う予報が出ています。


アドベント聖書日課第2週目、アップしました。

2010-12-03

神の愛の大きさ。

今朝はしっかり冷えて-2度。
昼間も5度Cくらい。


そして、今は夜の10時半。
すでに0.3度C。
明日の朝はまた同じくらい冷え込みそうです。


昨日は金星と共演していた三日月。
今朝も楽しみに起きたら、
今朝は月はまだ昇ったばかり。そして、薄っぺら。
金星とは大きく離れて、
明るさも金星の勝ちかな、と言う感じでした。
一日でずいぶん変わるんですね。


でも考えてみたら、月は28日で同じところに帰ってくるわけで、
一日で13度ずつ動いていくんですね。
明日の朝6時にはまだ地平線ギリギリみたいです。
(Sky Walkで調べられる・・・これスグレもの)


さて、今日の聖書。
今日はレビ記26:27−39。


「あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる」29節。

あり得ないでしょう。
恐ろしいですよね。
想像もできませんし、したくもありません。
自分の可愛い子供達を食べてしまうなんて。
極限状況になったら・・・ということは誰もわからないでしょうが、
でも、今の私の心ではどうしても想像できません。

そして、このような箇所を読むときに、

今まで、

「これは旧約聖書だから・・・」(こわいねえ、でも、新約の時代の自分たちは大丈夫なんだよ・・・)
「いつまでも悔い改めないと・・・」(神さまは憐れみをもって待っていてくださる。でも、いつまでも信じないと、こういう事になるよ・・・)

というメンタリティーで読んでいました。

「日々のみことば」誌の解説も、後者のように読んでいます。

でも、今朝、あたり前のことなんですが、
大切な事に気がつきました。

これは罪の結果なんだ。
イエスが私たちの罪をあの十字架の上で負ってくださったときに、
この罪の結果も、全世界の罪、全時代の罪を、たった一人で、
そして、たった6時間の間に凝縮して、負われたのだ。
私の罪も、本当ならば、このような結果になっているはずなのに、
それをイエスが代わりに負ってくださったのだ、と。

そうしたら、本当に恐ろしく思いました。
そして、その恐ろしい罪の呪いを一身に受けられたイエスが、
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われたのが、本当にわかるように思いました。

ちょっとした心の中の革命のような出来事。
言葉にすると、なんだか、うまく表現的ないのですが、
旧約聖書の読み方が変わり、
イエスの十字架の過酷さ、
そして、そこまでしてくださったイエスの愛を感謝しました。

主よ、
あなたの愛を感謝します。
あなたがわたしのためにここまでして下ったこと、
この罪の呪いを、この恐ろしい結果を引き受けてくださって、
心から感謝します。
罪の深刻さを忘れてしまうことがないように、助けてください。
そして、あなたの愛の中で生きる喜びに歩ませてください。

2010-12-02

光は闇の中に輝いている。

昨日の嵐はすっかり晴れて、
今朝はこんな風景が。


下の光は街灯なんですが、
東の空に輝くのは・・・
ちょっと拡大すると、





右は月で、左は金星。
iPhoneのカメラなので、月が半月くらいに見えますが、
実際はもっと細いです。
Sky Walkによると下弦三日月(28%)。
その月と金星の競演。


本当に圧倒させられる光景でした。
今朝も聖書の言葉を思い出させられました。


「光は闇の中に輝いている。」


クリスマスの恵みに感謝。


今朝はちょうど0度。
昼間は5度くらいまでしか上がらず、
今、夜の11時過ぎですが、-0.1度Cまで下がってきています。
天気はいいのですが、寒い日が続きそうです。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記26:14-26。


「あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き・・・」19節。

自分の力を頼む高慢さ。
主はそれを打ち砕かれるという。

そう、人間の罪の本質はここにある。
神の前の小ささを認めないで、
自分の力を信頼しているところ。

主のもとにひざまずこう。

主よ、
自分の力を信頼するのではなくて、
あなたの前に自分のほんとうの姿を認めて、
あなたの力を信頼して歩むことができますように。

2010-12-01

闇はこれに勝たなかった。

いつもの自分だったら、
「勝たなかった」にはビックリマークでもつけたいかもしれない。
でも、ホントはいらないんだろうな、と、今日思っています。


静かに、静かに、でもたしかに、光は闇を照らしている。
「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」ヨハネ1:5。


そこには派手な音楽も、センセーショナルなナレーションもいらない。


本当に静かに、しかし確信に満ちて、それを宣言すればいい。


1週間ほど前にはちこさんがTwitterで紹介してくださった、
パスター・ビルの言葉がずっと心に残っています。


Sitting in The Dirt (One Step at a Time)


英語のブログなので、自分の言葉でエッセンスを紹介すると、
悲しみの中にいるときに、
「信仰的な正解」で励まされることよりも、
「一緒に泥の中で座ってくれる」誰かの存在が、
どれほどありがたいか。
何をしたらいいかわからないけど、ただ、あなたと共にいたい、
そういう人の存在がどれほど助けになるか。
でも、それが最後ではない、それで終わりではない、
そのただ中に、復活の主がおられる。




今日も幾人かの痛みの中を通っておられる方々を思いながら、
何も出来ない自分を感じていました。


何の励ましの言葉も持ち合わせていない自分。


ただ、主に祈らされます。
イエスをよみがえらせた神の力が私のうちに働いていることだけが希望です。


今日はすごい嵐でした。
雨は大雨まではいきませんでしたが、
すごい風でした。
でも、たいした被害はないみたいです。


今、夜の11時半で、3.9度Cまで下がってきています。


明日の朝は0度くらい。
そして、その後、冬の走りのような寒さになりそうです。
でも、もう12月なんですね。当然か。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記の26:1-13。


「わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる。」12節。

神の祝福の中心はこれ。
神さまが私たちと共にいてくださること。
これをいつもいつも見失わないようにしていたい。

これは約束だから、私たちが気がつこうが気がつかまいが、
わたしたちが実感していようがいまいが、共にいてくださる。

私たちが忘れてしまっても、
主は決して忘れてしまわることはない。

共にいてくださる。

旧約のこのところでは、
「神の戒めを守るならば・・・」
でも、新約の約束は、
「イエスに於いて、私はいつもあなたがたと共にいる」
ということ。

条件抜きで、私たちが何かをする前から、
私たちと共にいてくださる。

主よ、
あなたが共にいてくださることが力です。
そのことを見失わないように守ってください。
闇が、私の歩みを、
そして、私が大切に思っているひとりひとりの歩みを、
覆ってしまうように思えるときにも、
あなたがそこにいてくださることを、思い出させてください。

2010-11-30

教会への神の思い。

今日は雨。
夕方からかと思っていたら、
午前中から降りだした。
一日雨だった。


明日は大雨です。
まだうちの前の通りも落ち葉集めに来てくれていません。
下水が詰まって、あふれるところもあるかもしれませんね。
お気をつけて。


その後、ちょっと冬っぽい、寒さが始まるようです。


さて、今年は12月24日(金)はキャンドルライトサービス。
そして、12月25日(土)はクリスマスですが、
その日は、中高生と大学生のクリスマス会。
そして、26日はいつもどおりに日曜礼拝。
その日の夕方にCAに飛んで、
翌日からはJCFNというクリスチャンの団体の、Equipper Conferenceという5泊6日の大会の講師の一角を担わせていただきます。


遅ればせながら、プロモーションビデオなどをご紹介。



で、準備はずっと前から進めているのですが、
あと4週間を切って、いよいよ追い込み。
皆さんに迷惑をかけないように・・・と思いながら、
もうかけてしまっています。


そんな準備をしながら、思わされるのは、
神さまの教会への思い。


神さまは私たちを育てる場として教会という存在を準備された。
いろいろ弱さも、欠けもあるけれども、
「キリストのからだ」として、愛してくださっている。


教会という場で、私たちは養われ、支えられ、
そして、砕かれ、整えられる。


順調なときはいい。教会が好きでたまらない時、気の合う仲間となんでも言い合えるとき、沢山の人達が加わって、エキサイトしているとき、そんな時はいいのだと思う。ああ、「これが教会なんだな〜」「これこそが、イエスが願われていた教会だ」「聖霊が働かれるときにこんなことが起こる」と。


でも、そうでないとき・・・。
そこが大切なんだと思う。


第一ヨハネ4章20節。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記の25章39−55節。


「あなたの神を恐れなさい」43節。

これは、同胞が落ちぶれてしまっても、奴隷にするな、という神の命令に続く言葉。

私たちは神を恐れているのか?
いったい、わたしはホントのところ、神を恐れているのか?
問われていることを思わされた。
自分の心に問いかけた。

いったい、じぶんは神を恐れているのか?

すべてをご覧になっている神を、
すべてを、わたしの心の奥にあるものさえもお見通しの神を、
自分は恐れているのだろうか?

いつの間にか、自分の都合や、自分の権利や
そのようなものばかり主張していないだろうか?

神の前に恐れ、神の前に歩み続ける者でありますように。

主よ、
あなたを恐れます。
あなたの前に、跪きます。
あなたを第一とすること、
それを本当に教えてください。