2020-04-10

2020 Good Friday集会 「十字架上での叫び」マルコ15:33-41

ビデオの中で、聖書を読むのを忘れていましたが、

今日はマルコ15:33-41です。




先週から、なぜかスマホだと、

埋め込んだビデオが見えないので、

こちらにリンクを貼っておきます。

ビデオを見る方はこちらから。

https://youtu.be/uByN5Aioyks

 

私たちはイエスの苦難の中での祈りについて7週間にわたって、学びを続けてきました。

1週目「変貌の山での祈り」

2週目「神の栄光を求める祈り」

3週目「ペテロのための祈り」

4週目「弟子たちのための祈り」

5週目「ゲッセマネの祈り」

6週目「十字架上でのとりなしの祈り」

 

 このように見ていくと、1,2,5週目の祈りは十字架に向かっていかれるご自分の使命についての祈りであり、3,4,6週目は人々のため、また私たちのための祈りでした。しかし、ご自分の使命についての祈りも、その使命は、私たちの救いのためでありました。そういう意味では、イエスの祈りは、いつも、私たちのための祈りであったことを思わされます。

そして、このイエス様の祈りを見ていくと、イエスはいつも父なる神との親しい関係の中で、信頼関係の中で祈りをささげていかれたことがわかります。そうです。イエスがこの十字架への道を歩みぬかれたのは、父なる神との親しい交わりゆえであり、ヘブル9:14にあるように、聖霊様の助けによるのです。つまり、この十字架は、三位一体の神の御業だったのです。

 

父なる神、子なるキリスト、そして、聖霊なる神が共に歩んでこられたこの十字架への道の、その頂点において、イエスは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と祈られました。

 

この「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」というこの祈り、どうして、イエスはこのような祈りをささげられたのだろうか、これは古来問題になってきました。イエス様はずっと十字架にかかるために、歩んでこられた、それなのに、ここに来て、まさか、「どうして?」なんて言うなんて、納得行かない、というのであります。

 

ここには2つの理解があります。一つは、このイエスの叫びは、詩篇の22篇を十字架上で、暗唱しておられたのだ、という理解です。この詩篇の22篇の最初の言葉が「わが神、わが神、どうして、わたしをお見捨てになったのですか?」というなんです。そして、この詩は、イエス様の十字架を予言するような詩です。イザヤ書の53章が旧約聖書の中で一番はっきりとイエスの十字架の意味を表している聖書箇所だと言われます。それに対して、この詩篇22篇は旧約聖書の中で、一番はっきりと、イエスの十字架の苦しみを預言した聖書箇所だと言われます。イザヤ53章は、客観的に外側からイエスの十字架の意味を見て、詩篇は主観的に、イエスご自身の内側から十字架の苦しみを見ているのだとも言われます。

 

少し見てみましょう。

 

詩篇22

 

1わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。 2わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。

 

6しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。 7すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、 8「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。

 

12多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、 13かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。 14わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。 15わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。 16まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。 17わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。 18彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。

 

いかがでしょうか?本当に、イエスの十字架の場面を見ているようですね。

 

このように、この詩の前半は神に対する「どうしてですか」「わたしの苦しみを見てください」という嘆き、訴えが出てきます。しかし、後半は、ガラッと変わって、神様への信頼、信仰、賛美、救いの確信が歌われているのです。たとえば、23-24

 

 23主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。 24主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。

 

ですから、ある人々は、イエス様は十字架の上で、苦しみの中でも、父なる神への信頼と、勝利の確信をもって、この詩篇22篇を暗唱しておられたのだ、と理解するのです。みなさんも、このようなメッセージを聞かれてきたかもしれません。

 

もう一つの理解は、本当に、イエス様は、父なる神に捨てられたと感じられた、いや感じられただけではなく、父なる神に見捨てられたのだ。イエスは3日目に死からよみがえられるのですが、しかし、この瞬間、この時、イエスは私たちの罪を負って、私たちのために神様に見捨てられてくださったのだ、その苦しみが口から溢れ出たのがこの叫びなのだ、という理解です。わたしはこの立場に立っています。

 

それは、ガラテヤ人への手紙の313節の言葉が土台です。

 

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある。」 

 

イザヤ書536節にはこのように書かれていますね。

 

「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 

 

イエス様の上に私たちすべての者の罪が置かれた時に、イエス様は呪われた者となってくださって、父なる神から見たときに、罪の塊となって、呪われた者として、見捨てられたのです。本来、私たちが負うべき罪をご自分の上に負われて、私たちが叫ぶべき叫びを代わりに叫んでくださって、十字架の上で、私たちのための贖いの御業をなしてくださった。その神に見捨てられた者としての叫びがこの叫びだったのです。

イエス様は、三位一体の信頼関係の中に十字架への道を歩んで来られた、とお話ししました。イエスはそのご生涯を通して、いつも、父なる神に「お父様」と呼びかけておられました。聖書の中でイエス様が「神よ」と言われたのはこの箇所だけです。この時、いつも親しい関係、父なる神との信頼関係の中におられたイエス様が、父よ、と呼ぶことができなくなって、「わが神、我が神」と叫ばれたのです。それほどに、私たちの罪は深刻なのです。そこまでして、神は私たちの救いの道を開いてくださったのです。

 

そのイエスの叫びの深刻さを前提に、詩篇22篇を読む時に、改めて、この詩がイエスの十字架の苦しみを預言したものであるかがより深くわかります。

 

ここには十字架の上でのイエスの3つのレベルの苦しみが出てきます。

1つは肉体的な苦しみです。十字架の話をする時に、この肉体的な苦しみ、その苦しみがどれほどのものであるか、それを説明する時があります。この十字架刑は、人間をいかに苦しめて死刑にするか、ということで考えられた処刑法だそうです。しかし、それについてはあまり聖書は多くを語ろうとはしません。

2つ目は精神的な苦しみです。人々に嘲られて、罵られて、捨てられる事によってどんなに苦しいのか、それが出てきます。イエス様は、「おまえが神の子ならば、自分を救ってみろ、そしたら信じてやる」と罵られた時に、全能の神であるイエス様は、どんなに屈辱的だっただろうかと思います。

3つ目は霊的な苦しみです。「父なる神に捨てられる」という苦しみがどれほど大きかったかと思います。実際のところ、この詩篇22篇で「どうして、わたしをお見捨てになるのですか?」と叫んだダビデ自身も、実際には神に捨てられていたのではなかったのです。私たちがそのように感じるときは100%、それは誤解です。神様は私たちのことを見捨てることはありません。しかし、イエスはここで本当に捨てられたのです。

 

このイエスが私たちの罪を負われて、捨てられてくださった。それがイエスの勝利です。それがイエスの栄光です。第1回目にはイエスが輝いて栄光の姿になられたことを学びました。また2回目の学びでも、イエスが「わたしが栄光を受ける時が来た」と言われた、ところを読みました。そのイエスの栄光は、十字架の中に表されています。この十字架の中にこそ、イエスのサタンに対する勝利、罪と死とに対する勝利が宣言されているのです。

そして、その時、神殿の幕が真二つに裂けました。これは、罪人の私たちが聖なる神のご臨在に触れた時に、死んでしまわないようにと、私たちと神とを隔てている幕ですが、その幕がもう必要ない!という神の宣言です。もう、大丈夫、あなた方とわたしはいつも一緒に歩めるのだ、と。

 

イエスは、その十字架、み苦しみの中で何を見ておられたのでしょうか?それはイザヤ書の53章の11節に書かれています。

 

「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」

 

この光は私たちが救われて、喜びにあふれて歩んでいる姿です。私たちの救いを見て、イエスは満たされていました。イエスは最後にこう言われました。「すべてが終わった」と。それは「完了した」「救いのために必要なことは、全て成し遂げられたのだ」という意味です。

 

どこまでも私たちを愛し、私たちのためにご自分を与えてくださったこのイエスの恵み、三位一体の神の御業を通して、私たちは、その三位一体の神の交わりの中に招かれているのです。感謝して、その神様の招きに応えようではありませんか?