2010-04-03

感謝をメモる。

今日も暖かい穏やかな一日でした。
花が一気に咲いてきています。
桜も咲いているんでしょうね。
あんまりじっくり見るチャンスがなくて、
何の花が咲いているのか、わからなかったりするのですが、
とにかく街中の木々が花をつけているようです。


この暖かさは来週半ばまで続くようですね。
7日は30度近くまで上がる予報が出てきています。


でも、その後はぐんと下がって、15度くらいの日が多くなりそうです。
17日は遅霜の可能性も・・・。


一度暖かさに慣れてしまうと後がコワイかも。


今週の初めの立ち読みの日の話。
もう一つパラパラと立ち読みした本があって、
その本には、「感謝ノートを付けなさい」と書いてありました。


感謝なんて無理をしてするもんではありませんが、
でも、自然に湧いてくるのを待っていていいのか、というのもあります。
すぐに忘れてしまったり、意識しないですぎてしまうこともあります。


イエスに癒された10人の中で感謝を表したのがたったの1人だったという聖書の記事もあります。


ですから、私もやってみようかと思って、祈りのノート(ルーズリーフなので)の最初の頁に「感謝のページ」を足しました。


でも、実際書こうと思うと、常時20件というのは、結構チャレンジですね。


今日の感謝・・・明日のための備えを時間が与えられたこと。祈って支えてくださっている方々がおられること。今日お電話で話した方の中に、「明日、行きます!」と言われた方がおられたこと。


「感謝をメモる」ちょっとやってみようと思います。


今、のんちが、お米を計っていたのだけれども、途中で袋が空っぽになった。そこで、買ってきた新しいお米の袋を取りに何歩か歩いたら、「あれ、何杯まで入れたんだったっけ?」だって。あるよねえ、こういうこと。文字通り、三歩歩いたら忘れる、今日この頃の夫婦の会話。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ27:57-66。


「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」66節。

石の蓋があって、
そこに封印がされて、
番兵が番をしていた。

これでもかってもんですよね。

ある本には、
「兵隊たちも、こんなに虚しい仕事はなかったんじゃないか」って書かれていました。

ですよね。

でも、その大きな石も、底に施された封印も、そして、番兵達も、イエスの復活の力の前には何の意味もなかった。

その復活の力が私達のうちに注がれている。
その復活の力によって生かされている。
その大きさを思わされています。

その祝福を100%戴いているだろうか?

主の復活の力をもっともっと経験させていただきたいです。
約束どおりに主がしてくださることを信頼して歩みます。

主よ、
あなたの復活の力に感謝します。
明日の礼拝をあなたが豊かに祝福してくださいますように。
集われる方々、ひとり残らず、その復活の力を知ることができますように。
イエスを蘇らせたあなたの力に触れることができますように。

2010-04-02

Good Fridayの夜。

今日の3時頃に一回アップしようと思ったのですが、
うまくいかなくて、書いたものが消えてしまったので、
「まあ、いいや、神様が『書かなくていい』と思われたんだな」と思っていました。


イエスが十字架にかかられた日。
いろいろなことに手を動かしながら、
ずっと夜の集会のための準備をかねて、
「ペテロがイエスを『知らない』と言ったのは今頃かな、
「ああ、今頃、十字架につけられたんだな」
「我が神、我が神、どうして・・・」と叫ばれたのは今頃だろうか?


そんなことを思いながら、過ごしていました。


イエスが罪の固まりになって、神に捨てられた者とされたこと、
その意味を思わされました。


今日の聖書はその十字架の箇所。
マタイ27:45ー56。
「神殿の幕が上から下まで真二つに避けた。」51節。


神の方から、救いの道を開いてくださった。
私たちのがんばりではなくて、
主の方から開いてくださった道。


神と人とを隔てる幕を裂いてくださった。


感謝。


主よ、
あなたに祈れるということが、
どれほど特別なことか、
どれほど大きな愛が注がれているのか、
思わされました。
感謝します。
祈る特権を無駄にすることがありませんように。

Good Fridayの11時。

Good Fridayの11時。
子供たちは学校が休み。
お仕事が休みの方々もちらほら。
2日続けてのぽかぽかの春の日です。

イエスが十字架にかけられたのは朝9時頃かという印象があったが、
今日改めて聖書を読んでいると、
ヨハネ19:14では、昼頃ピラトの許で裁判を受けている。

人々が「そいつを十字架につけろ!」と叫んだのは今頃だったのだろうか?

昨日、ある方が「クリスチャンにとって、イエスが十字架につけられた日は、暗い日ですか?」と聞かれて、「んー、あまり馬鹿騒ぎはしないですが、暗いと言うよりも感謝かな」とお答えしたのですが、今日、改めてイエスの十字架を思いながら過ごしている中で、「ホントのところ、イエスの苦しみの深いところまではわからない・・・」というところに、ぶち当たっているように思います。

私もあそこにいたら、「そいつを十字架につけろ!」と叫んでいた一員。

ただ、周りに流されて、そのように叫んでいただろう。

今夜の集会のために準備をしつつ。

2010-04-01

ことばをもとめる。

暖かくなりました。
朝はちょっと寒かったですが、
昼間は20度を超えて、本当に春本番です。
明日も晴れて、暖かくなります。


イースターの前ですが、今年の春は勢いがあります。


4月になって、日本では新しい年度が始まったんですね。
私も人生の6割日本でしたから、自然と4月は新しい気持ちになります。


ですから、このブログもいろいろ考えることもあり、
新しく歩み出そうと思っています。


その一つは、「日々のみことば」が毎日更新できなくてもとらわれない、ということです。
・・・昨日もそうしたのですが、何日かまとめて書く、または飛ばす日もあるかもしれません。


ほかにもいろいろあるのですが、
何よりも自分の中で大切だなあと思うのは、
「わくわくしないなら、更新しない」ということです。


楽しまないと、楽しくないですからね。


月曜日にMITSUWAで待ち合わせがあって、
早く着いていたので、本屋さんで、立ち読みをしていました。
というか、いすもあるんですよね、あそこ。


2冊、ぱらぱらとめくっていたのですが、
渡辺淳一さんの「鈍感力」
そして、香山リカさんの「しがみつかない生き方」


両方話題になった本ですよね。


で、「鈍感力」の方は、「こまかいことにとらわれないで、環境に適応した生き方が必要」ということを言っているみたいですし、「しがみつかない・・・」は、何にでも意味を求めたり、こだわったり、一生懸命になったりしない生き方を勧めているようです。


で、両方共感する部分が多かったのですが、
それよりも感心したのが、本の題の付け方。


「環境適応力」じゃあ、誰も買わないですよね。
それを「鈍感力」という言葉で表したから、
私みたいな、「鈍感コンプレックス」を持つ人たち・・・つまり、鈍感なんだけど、「自分が鈍感なことにも気がつかない」という筋金入りの鈍感になりきれなくて、自分が鈍感であることを気にしている人たち・・・に「ああ、鈍感でもいいんだ!」と一歩間違えば、とんでもない勘違いになりそうな勇気を与えてくれる本になったんですよね。


「しがみつかない・・・」も「こだわらない」とか「肩の力を抜いて」とかやったら、ダメなんでしょうね。「しがみつかない・・・」というちょっとアクの強い言葉だから、「これおもしろそうだな」と思わせる。「自分はしがみついているかなあ」という人も、「しがみつく生き方は嫌だよねえ・・・」と思っている脱力系の人も、ちょっと読んでみようかな、と思う。そして、最後の章が「『勝間和代』を目指さない」だから、こりゃまた痛快。本人が狙ったのか、編集者が狙ったのか、わかりませんが、話題作りになりましたね。


ああ、欲しいなあ、そういうビビッとくる言葉が沸いてくる頭。
ちょっと、この先、挑戦してみよう、っと。


でも、神様の言葉はそういう言葉ですね。
私たちの心をわしづかみにしてしまう言葉。
その言葉を預かっているんだから、その言葉の力を台無しにしないようにしないと。


さて、明日はGood Fridayで、イエスが十字架にかかった日。
今夜はイエスが最後の晩餐で、弟子たちの足を洗った晩であり、
またゲッセマネで血の汗を流して祈られた夜です。

今日の聖書は、マタイ27:27ー44。
「もし、神の子なら、自分を救ってみろ」40節
「イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか」42節
「もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」43節

3つの「もし・・・なら、・・・しろ」というあざけりの言葉ですが、
驚くことに、その「・・・なら」の部分は全く当たっています。
・・・そしてその後の部分が的外れなのです。

ここに人の思いと神の思いとの違いを見ます。
人々は大きな思い違いをしてました。

ペテロがイエスの受難の預言を聞いて「先生、そんなことがあってはなりません」と言ったときに、イエスは「引き下がれ、サタン、あなたは神のこと思わずに人のことを思っている」と言われました。

神様の救いの計画と、人々の「救い」についての考えは違いすぎました。

私はどうだろうか?と思わされました。
神様の考え、神様の計画に気持ちを向けているだろうか、そこに集中しているだろうか?

神様はイザヤ書55章で、「御言葉」こそ、全く見当違いのことを考えている私たちに、神の思いを伝えるものであることを宣言されています。

私はどこに心を向けているだろうか?

神様の御声を聞かせていただきたい、聖書から語っていただきたい、そのように思います。もっともっと真剣にもっともっと飢え渇きをもって、「主よ語ってください」と求めていこうと思いました。

主よ、
私があなたの声を聞いていくことができますように。
あなたのみ思いに心を向けていくことができますように。
そして、私のうちにも、言葉を与えてください。

2010-03-31

パニック。

今朝までは、雨が残っていましたが、
次第に空は明るくなり、
夕方にはすっかりいい天気になりました。

明日からはしばらく晴れて暖かくなりそうです。
というか、汗ばむようなひもありそうです。

今週は受難週。
明後日はイエスが十字架にかかったGood Fridayです。
ですから、教会の皆さんには、「イエスの十字架を覚えながら、イエスがどんな思いで十字架に進んでいかれたのかを思いながら過ごしましょう」とアピールをしています。
でも、それはまた自分に対するメッセージでもあります。


一番弟子であったペテロがイエスのことを3回も知らないと言ってしまう。
もちろん、それは本意ではなかったわけです。
でも、彼は女中さんに「あなたはイエスの弟子でしょう」と言われて、
あわてて、イエスを否定するのです。
「何を言っているんだ?」と。
ある意味、不意をつかれたのだと思います。
パニックを起こした、と言ってもいいかもしれません。

今日も、自分も同じような弱さを持っていることを思い知らされています。
私も、とっさのときに、正しい答えができなくなることがある。
本当の気持ちとは裏腹な答えをするときがある。
もちろん、「どちらが本当の気持ちなのか?」と問われると、
またどちらなのか、本当に心許ないのだが、
どうにも気持ちが苛立ったり、慌てて逃げ腰になってしまったり、
そんなことがある。

十字架にかかられたイエスの弟子だなんて、恥ずかしくて言えやしない、そんな自分の姿に愕然とするのです。

ああ、また神様の憐れみしかない。

そんなことを思わされます。

さて、日曜日から今日の分までの「日々のみことば」の中で思わされたこと。
マタイ26:57ー27:26。
イエスの裁判の様子が出てきます。

27章の最初のところにはイエスを裏切ったユダが、
イエスを売った祭司たちのところに「私は間違っていた」と言いに行ったところ。
それに対して、彼らの答えは「知ったことか」でした。
「自分たちには関係ない」ということでした。

そして、その後に出てくる総督ピラトの態度も、
「私には責任がない」というものでした。
彼の妻は「関わらないでください」ということでした。

逃げたい気持ち、面倒なことに関わりあいたくない気持ち、
そんなところは、ないだろうか?
逃げてしまったことがどれほどあっただろうか?

それに対して、イエスは私たちのために、
面倒なことに関わってくださった。
面倒を面倒と思われないで、関わってくださった。

十字架まで行ってくださった。

感謝。

私も、そのような歩みをさせていただきたい。
主が歩まれた道に、一歩でも近づいて歩みたい。

主よ、
あなたが私に持ってくださった関心を、
私も人々に対して持つことができますように。
あなたの愛には到底届きませんが、
でも、あなたの愛を映す者とならせてください。

2010-03-30

自分と切り離せないものと切り離せるもの。

今日は朝になってから、がんがん降りました。
昼頃、ちょっと出かけるところがあったのですが、
道があちらこちらで冠水。
車高の低い車は水没するんじゃないか、というところもありました。
うちの近辺は前回の大雨、暴風の比ではなかったですが、
場所によっては、同じくらいひどかったみたいです。


明日は回復に向かい、明後日からは春本番になりそうです。


今日は、ある方と、私にとって、また相手にとって「牧師」という前提のないひとときを過ごしました。本当に幸いなひとときでした。親のこと、NJでの生活のこと、子供の教育のこと、自分の将来のこと、いろんなことを語り合いながら、また互いの言葉に耳を傾けながら、初めてお会いしたことを感じさせない時間でした。


そんなときを過ごしながら、「私」と「牧師」ということは、切り離しうることなんだなあと思いました。いえ、ずっと切り離していられるかはわかりません。神様の与えてくださった使命だと思っているので、たぶん、ずっと「牧師」でない自分を生きなさい、と言われると、無理かもしれません。でも、ひととき、「牧師」であることを置いておいて、一人の「人」として人と対することはできる。そして、それがまた喜びだったりする。でも、「クリスチャン」であることは、自分と切り離せない。それはひとときも。それは「自分」であることの一部なんでしょうね。


もしかしたら、やっぱり、ちょっと肩に力が入っているかもしれないな、と思います。もっともっと、自分であること、もっともっと、神様が造ってくださった自分であること、そこに平安をいただいて歩んでいきたいと思います。


今日のような時間、もっともっと造っていこうと思いました。


さて、27日(土)の聖書。
土曜日はマタイ26:47ー56。


「そのようなことをすれば、こうならねばならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」54節。

祈りの中で、「できればこの十字架を負わなくて済むように」と願われたイエスが、ここでは、「いや、私はこれを負わなければいけないのだ」とはっきりと十字架に進んで行かれていることがわかる。なんとしてもこの御言葉が成就されなければ・・・というところに立っておられた。

やはり、それは祈りの中での答えだろうと思う。
確信と平安がイエスの中にあった。

自分はどうだろうかと思う。
確信と平安が与えられるまで祈っているだろうか?

人の言葉や、周りの態度によって、
「それもそうだなあ」と変わってしまうような祈りの答えはないだろう。

状況や人の答えではなくて、
主の答えをいただいて歩んでいきたい。
主が導かれてるところに歩んでいきたいと思います。


主よ、
祈りの中に答えを与えてください。
あなたの与えてくださった答えに従って歩む者とならせてください。
あなたの答えをいただくまで、何度でも何度でも、祈らせてください。

2010-03-29

割れた9年ものの中身。

昨日、割れてしまった9年もののイースターエッグ。
その中はどうなっているんでしょう?
気になりますよね。


はい、ビデオを撮りました。
昨日と同じシャツですが、
2日続けて同じの着ているんじゃないですよ、
昨日撮ったビデオです。





中身は予想通りでしたが、
「乾燥ピータン」でしたね。


でも、思ったよりも透き通った琥珀色。


長い長い時間をかけて、ここまでなるんですよね。
見えないところで。


そういうとこ、何か、私たち人間と似ていますね。


雨は昨日の夜かなり降っていましたが、
今日は小康状態。
夜になってからまた降り始めるようですが、
どうでしょうか?


26日(金)の聖書。
マタイ26:36ー46。


「どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」42節。

イエスはずっと十字架に向かって歩まれた。
十字架に向かって歩んでこられた。

でも、いざ、十字架を前にして、
やはり、戦いがあった、葛藤があった。
できれば十字架を避けたかった。

しかし、イエスの最後の結論は、
「父なる神のみこころに従う」ということだった。
祈って祈って、祈り抜いて、
こたえをもらって、まっすぐに歩み始めた。

自分もやはり葛藤を覚えることもある。
逃げたくなることもある。
投げ出したくなることもある。

自分も義務だから・・・とか、
乗りかかった船だから・・・とかではなく、
神様から答えをもらって、
神様からの納得をもらって、
歩み続ける者でありたい。

主よ、
なやむこと、まようこと、
あなたから、答えをもらって、
祈って答えをもらって、
歩み始めることができますように。
あなたの見声を聞くことができますように。

2010-03-28

9年もののイースターエッグ。

今日は寒さはぐっとゆるみましたが、
午後からは雨が降ってきました。
これから雨が本格的になって、
明後日、火曜日まで続きそうです。


2日間での雨量は75から150ミリと予想されていて、
2週間前に続いて、また洪水が起こりそうです。
ただ、今回は風はあまり強くないのでは、と思います。


大きな影響が出ないようにと祈ります。


さて、昨日も作った、イースターの卵。
毎年、JOYJOYイースターではエッグペイントをします。
そのたまご、私はなんとか割らないように気をつけます。


なんでかというと、
そのまま風通しのいいところに置いておくと、
中身が小さくなって、カラカラと音を立てるようになるからです。


今回初めての試みですが、
コンピューター内蔵のカメラで、
ビデオを撮って、YouTubeにアップしました。






あー痛い痛い。(3:17)9年ものが・・・。


皆さんももうやっておられるかもしれませんね。
もしも、9年もの以上のコレクション、それから、15グラム以下のコレクションがありましたら、是非、ご連絡ください。あ、ダチョウの卵とか、ワニの卵とか、蛇の卵とか、そんなので作ったイースターエッグも教えていただきたいですねえ。


さて、25日(木)の聖書。
マタイ26:26ー35。


「私は決してつまずきません。」33節。

前の日、水曜日のところとつながってくるのですが、
自分はけっしてつまずかない、
他の人がそういうことがあっても、
私はそういうことは絶対にない、と言いきったペテロ。

その必死さが伝わってきます。
「イエス様、そんなこと言わないでください」
「そんな風に、私のことを見ていたのですか?」
そんな気持ちだったと思います。

でも、彼は自分のことが全然わかっていなかった。

私もそうなんだと思います。
自分では自分が自分のことを一番よくわかっているつもりだけれども、
本当に自分のことをわかっておられる方は、神様。

神様の見ておられるように自分を見る。
自分自身で神様がどんな思いで見ておられるかを知る。

そのようになりたいなあ、と思います。

主よ、
あなたは私をどう見ておられますか?
人がどう見ているかではなくて、あなたはどう見ておられますか?
私はどのようにあなたに仕えるべきでしょうか?
あなたが見ておられるように、自分自身を、そして、人々を見ることができますように。