2010-03-20

自分のものとしての信仰。

日本では春分の日、アメリカでは春の初日。


今日も暖かかったです。
でも、ほとんど一日教会の中にいましたから、
あんまり感じませんでしたが・・・。
ただ、地下とか寒いんですね、こんな日は。
うちも、教会も、地下はひんやりです。
夏はいいのですが、春は着るものの調整が難しいです。


明日ももう一日暖かい日になりそうです。
でも、夜からは雨で、
火曜日からは寒いくらいになりそうです。


でも、もうこれからは夜の時間よりも昼間の時間の方が長い!


わくわくですね!


JOYJOYイースターまであと1週間!
一週間前時点での天気予報・・・雨か雪!ハハハ、どうなるか。
雪はともかくとして、とにかく金曜日からまた冷えてくるみたいです。


さて、Purpose Driven Lifeの20日目。
「壊れた関係を築きなおす」ということ。
これは本当に大きな課題です。


日本の文化の中では、アメリカにおけるよりも難しいのではないかと思います。
特に問題を指摘しても人格を否定しない、ということ。
頭でわかっていても、それが受け止められないケースがほんとにたくさんあると思います。
受け入れながら、問題を指摘する、
指摘している方は受け入れているから指摘しているわけで、
もう見捨てていたら指摘しないのでしょう。
でも、指摘されている方は、そんな風にはなかなか思えない。
問題と人格を分けてりかいするなんて、そんなできることではない。


んー、とうなりながら読んでしまいました。


一つでも、二つでも、そのような回復の御業を見ることができますようにと祈らされました。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ25:1-13。


「油を少し私たちに分けてください」8節。

分けられるものと分けられないものがある。
分けたくても分けられないものがある。

人のふんどしで相撲が取れないものがある。

その厳粛さを語っているところだと思う。
一人一人が、神様の前に立って、神様の答えをもらって、
前に進んでいくこと。
誰も代わりはできない、
誰も代わりになることができない。

イエスは弟子たちに「あなたは私のことを何と呼ぶか?」と問いかけられた。

人の言葉ではなくて、
自分の言葉を求められた。

私も自分の答えを神様からもらおう。
神様が私をどのように導こうとされているのか、
主が私にどのようなことを使命として与えてくださっているのか。

主よ、
あなたに従う者とならせてください。
あなたとの関係の中に生かしてください。
借り物の信仰ではなくて、自分自身のあなたとの関係の中で、
答えを見いだして歩んでいくことができますように。

2010-03-19

毎日が金曜日。

今日も暖かかったですねえ。
火曜日からずっと春です。
そして、明日も20度を超えます。
一気に木々が芽吹いて、花粉も飛び始めています。


日曜日から、天気が崩れ始めて、
月曜日は雨みたいです。


そして、来週は現実に引き戻されるみたいです。


時計、買いました。
実は1月に日本でどこかにおいてきてしまって、
それからしばらく、礼拝メッセージの時も、iPhoneで時間を確認していたのですが、
さすがにそれもおかしいよなあ、ということで、今日、ちょっと時間を見つけて、買ってきました。






で、なかなかかっこいいのですが、
買ってみてわかったこと。


真ん中の3本の針以外はみんな飾り。
外側の数字のついた回転ベゼルみたいなものも、
文字盤にある3つの小さな針も、全部動きません!


さすがに、外側の回転ベゼルはすぐ、「ああ、これは飾りね」と思ったのですが、
文字盤の中にある3つの小さな針は動くと思いましたよ。
そして、曜日は金曜日であっているけど、日付は8日じゃないから、
直そう、と思っていろいろ触ってみるのですが、
どこを触っても動きません。


よく見たら、3つの針はそれぞれ右、下、左、ときれいに向いているんですね。


やられました。


まあ、文句が言える値段でもないので、全然OKですし、
(もし真ん中の3本が明日止まったら、絶対文句言います)
これが飾りに過ぎないことはほかの誰にもばれるものでもないでしょうから、
全く気にしていないのですが、そこまでやるか、とは思いましたね。


毎日が8日の金曜日です。
Thank God It's Fridayというわけですね。
わたしにとっては金曜日は週末に向けての準備の追い込みの時なので、
身が引き締まる思いです。


お店の人がレシートを見せながら、6月17日までは交換や返品はできるからね、
と言っていたので、まあ、しばらく使って、ゆっくり考えることにします。


さて、3月16日(火)から19日(金)の聖書。
マタイ24:15−51をまとめて。


「この天地は滅び去ります。しかし、わたしの言葉は決して滅びることはありません。」35節。


やはり、何に焦点を当てているかですよね。
どこにピントを合わせているか。
滅び去るものに焦点をあえた生き方をしているか、
変わることのない、神の言葉をしっかり握ってい歩んでいるか。
それが問われているのだと思います。

いつ来るかわからないイエスの再臨。
たとえ、それがすぐには来なくても、
いつ来るかわからない、わたしの人生の最後の日。

それなのに、「どうせすぐには来ないよ」なんて考えて、
好き勝手なことをしていることはないだろうか?

いつそれが来たとしても、
それを平安のうちに受け止めることができるだろうか?

そのために、決して滅びることのない聖書のみ言葉に生きる者とならせていただきたいと思います。

主よ、
どうか、あなたの御言葉によって生かしてください。
いつも、どんな時代にも変わることのない、
御言葉を信頼して、そこに堅く立っていくことができますように。

2010-03-18

感謝。

どこまで信憑性のある話かどうかわかりませんが、
6時間以上寝ないとホルモンの関係で、内臓脂肪がつく、という記事を読んで、
今日またぎりぎりになったので、もう休みますが、祈ってくださった方々のための報告。

朝の集会も午後のキッズクラブも本当に主が多くの方々を送ってくださいました。
特にキッズクラブは久しぶりの30名近くの子供たちが集まって、
どこまで伝わったか・・・とは思いますが、
イエスの十字架の話をしました。
みんな真剣に話を聞いてくれました。

感謝。ではでは。
皆さんも夜更かしはしないようにしましょう。
・・・「プロフェッショナル」とか見ていると、
なんか、睡眠3時間半とか、24時間以上手術をしていた外科医のせんせとか出てきますが、「無理をする勧め」みたいに感じてしまうこともあったりします。

ここ一番の踏ん張りは大切だろうと思いますが、
弓の弦の張りすぎは、よくないですよね。

はい、ほんとに、これで。

2010-03-17

一気に春。

今朝は氷点下に下がって、
朝教会に行くときにはフロントガラスが凍っていたのですが、
昼間は暖かくなって、一気に春です。


昨日、1輪だけ咲いたクロッカスですが、
今日はこんなに咲きました。




ぜひ数えてみてください。
20輪以上咲いていますよね。


今、11時過ぎですが、6度くらいまで下がってきています。
明日も朝は2度くらいまで下がりますが、昼間は20度近くまであがる予想が出ています。


この春の陽気は日曜日くらいまで続くみたいです。
その後のことは何も言いませんが・・・ハイ。
日曜日くらいまで、です。


さて、Purpose Driven Lifeの19日目。
small groupの話の続きです。


最初の言葉大切だと思いました。
というか、この本は毎日のセクションの最初の言葉、
よく考えられていますね。


「共同体は、献身を要求します。」


一つ一つの必要なこと挙げていくと、


・正直さ
・謙遜さ
・思いやり
・秘密を守ること
・頻繁に集まること


最後の「頻繁に集まること」の大切さを思います。


たぶん、神様のリズムなんだと思います。
神様が私たちの魂に刻み込んだリズムがあるんだと思います。


さて、3月15日(月)の聖書。
マタイ24:1−14


「あわてないようにしなさい」6節
「そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」8節

戦争が起こったり、
飢饉や地震が起こったり、
人々の愛が冷えてしまったり、

そんなことがあったら、本当に慌てるだろうと思います。
ふるわれるだろうと思います。

でも、主は「慌てるな」「始まったばかりだ」と言われるのです。

このような世の終わりについての記述を読むと、
何のために書かれているのかと思いますが、
やはり、私たちが慌てないためでしょう。
混乱しないため、だまされないため、
堅く立っていくためでしょう。

自分の歩みの中で、どれだけ慌てることがあるだろうかと思います。
どれだけ、あたふたしていることがあるだろうかと思います。

主のみ言葉を信頼して、
堅く立つ者でありたいです。

主よ、
あなたを信頼します。
動じない者とならせてください。
動じない強さを与えてください。
あなたを信頼して動かない強さを与えてください。

2010-03-16

久しぶりの晴れ!

まだまだ、電気が戻らない方もおられるようですし、
ウチも今日プチ停電(1時間ほど)があったのですが、
今日は久しぶりにすかっと晴れて、暖かくなりました。
やっぱり晴れるって、元気になるんですね。


そして、晴れて元気になるのは人間だけじゃありません。




はい、この日を待っていたかのように、今年初めてクロッカスの花が咲きました。
でも、今年はなんだか、今までに比べて花芽が少ないような気がします。
肥料も何も与えていないので、何も文句は言えないのですが、
満開で、どれくらい咲くのか、これからどんどんつぼみが出てきてほしいものです。


Purpose Driven Lifeの18日目。
18日目と19日目はSmall Groupについてです。


うわべだけの交わりではなく、心を開いた交わりの場。
ここ数年、そのことを思わされていますが、
いよいよ神様が私たちをそこに導こうと
情熱を持って、働いてくださっていることを、
このところ思わされています。


19日目のところにもっと詳しく出てきますが、
そこには勇気が必要だったり、
時間を捧げることが必要だったりします。


主がそれを求めておられるならば、
Rick Warrenが言うように、
単なる方法論ではなく、教会として本質的なことならば、
それが私たちが生かされている「目的」だとまで言うならば、
勇気と知恵と慎重さと愛を与えていただきたいです。


とにかく主に従って行けますように。


3月14日日曜日の聖書。
日曜日はマタイ23:29−39。


「『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。」30節。

これは、イエスが偽善者たちの愚かさを非難することばです。
自分たちだったら、そんな過ちを犯すわけがない、と言っている愚かさを指摘しているのです。

確かにそういう人たちいたなあ、と思います。
「自分が十字架の場面にいたら、自分は絶対にイエス様を守っていた」なんてことを言っていた人たちがいました。この偽善者たちと同じだったなあと。
そんなことを思い出しながら、気がつきました。

「自分は30節みたいな馬鹿なことは言わない」と思っているならば、
それはイエスに非難されていた人たちとどこが違うのか?と。

イエスを十字架にかけた人々を非難して、
自分はあんなことをしない、と言っている人々のことを、
「なんておろかなんだ」と言いながら、
「自分はそんなことをは言わない」なんて思っているならば、
やっぱり、同じ穴のムジナなんじゃないかと。

何て愚かなんでしょう。

救いようがないですね。
そんな者たちをも憐れんで救ってくださる主に目を向けて、
人のことをとやかく言うのではなくて、
主の憐れみによってやっと生かされている、受け入れられている、
そのことに目をとめて、感謝して歩んでいきたいです。

主よ、
自分は何て愚かなんだろうと思います。
気がつかせてくださってありがとうございます。
どうか、あなたの憐れみに、あなたの恵みに、目をとめて、
感謝しつつ歩む者としてください。

2010-03-15

大切なこと。

今日はまだまだ雨が時々降る、すっきりしない日でした。
そして、子供たちは休み、まだまだ電気がつかないところもあるみたいです。
水が出なかったり、ガスも出なかったり、ライフラインが全滅の地域もあるようです。




これはのんちの仕事場のあるショッピングセンターの駐車場。
一部、水没しています。
そして、よく見ると、左側の方に取り残された車があります。
手前のゴミのたまり方をみると、一番多かったときは今よりも数十センチ水位が高かったんだと思います。
話によると、土曜日、写真に写っていない左の方にあるテニスコートに来た人たちが、被害に遭ってしまったみたいです。
本当にすごい嵐だったんですね。
だんだん見えてきた被害の大きさです。


今日になって倒れたんじゃないか、という木が近所に何本もありました。
明日、サキは学校がありますが、ユキの高校はまだ停電中だそうで、
まだ明日あるか休みか決まっていないようです。


明日は天気は回復して、久しぶりに太陽が顔を出しそうです。


さて、久しぶりにPurpose Driven Lifeの話題ですが、
17日目。教会という家族が必要、という話です。


最初のポイントが大切だと思います。
「教会という家族は、あなたが自己中心的な孤立主義に陥るのを防ぐ」


教会は人の集まりですから、一人でいたら出会わないような、つらいことに出会うこともあります。もちろん、愛を感じたり、励まされたり、元気をもらったりするのですが、やはりそれだけではなくて、それと反対のこともあります。
教会に属していなかったら、経験しないですむような痛みを経験することがあります。
逃げ出したくなることもあります。投げ出したくなることもあります。


でも、それがまた私たちを整え、主を主とする信仰へと導いてくれるものなのです。


だから、そこで逃げてはいけない。
自分自身と向き合わないといけない。
人々の向き合わないといけない。


神様が与えてくださった家族だから。


さて、3月13日(土)の聖書。
土曜日はマタイ23:23−28。


「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」23節。

子供の時から教会にいた自分にとっては、
十分の一を主に捧げるのはは当たり前以前の当たり前。
パリサイ人の気持ちわかっちゃいます。

スパイスみたいな細かいものでも、
きっちり十分の一を主に捧げないと気持ちが悪い。

だから、イエス様のこの言葉が本当に他人事には思えません。
だって、「正義とあわれみと誠実」をおろそかにしていないかというと、
そんなことはありません、なんて決して言えない。

最初の「正義」という言葉一つとっても、
口語訳では「公平」と訳されている。
(このとき、なぜか、2−3日、「日々のみことば」が見つからなくて、口語訳で読んでいました)
公平は単にみんなと同じように接することとは思えない。
そんなことは公平ではない。
イエスも十二弟子を選ばれた。
ほかにもたくさん弟子がいたのに、
その中の一部の弟子だけを特別扱いした。

それは一人一人への使命、賜物を見極めた上での決断。
自分はそこまでちゃんと考えて「正義」「公平」を行っているだろうか?
言い訳のように、「単純にみんな同じように」ということに逃げていることはないだろうか?

あわれみはどうだろうか、
誠実はどうだろうか。

本当に大切なことを大切にしていくこと。
今、それが自分の人生の中で問われていると思います。

主よ、
本当に大切なことを大切にさせてください。
本当に大切なことを見極め、
それが、たとえ人々に不評であっても、
大切なことを大切にしていくことができますように。

2010-03-14

嵐が去って、ハジも去る。

いやあ、すごい嵐でした。
たぶん、15年あまりのNJでの生活の中で一番怖かったと思います。
大雪とか、大雨とかありましたが、
今回は雨と風。特に風が怖かったです。
昨日の夜は夕方一度家に帰ったのですが、
教会にやり残したことがいくつかあったので、
教会に戻っていました。
そしたら、6時頃に家から携帯電話で、
「停電だから、全部仕事を終わらせてから帰った方がいい」と言われて、
電気の生きていた教会で10時頃まで仕事をして、
帰る途中、ものはいろいろ飛んでくるし、
木は電線に引っかかってぶらぶらしているし、
道路はあちらこちら冠水しているし、で、
嵐の中外に出るのが好きなお天気オヤジも、
さすがに、昨日はびくびくしながら、帰ってきました。


そして、今日も6時頃まで停電だったようです。
まだ、このBergen Countyで80000世帯が停電しているといいますから、
ウチはまだいい方だったのかもしれません。


でも、電気がついてほっとしました。
いかにいつも電気に頼って生きているか、思わされますねえ。
それから、ネット。
iPhoneでどうにか、メールのチェック等できるし、
通話もできるのですが、
これがなかったら・・・と不安になるのも、
いかにネットに依存した生活をしているのか、
考えさせられてしまいました。


1週間あまりのハジの春休みの里帰りも、
あっという間に終わって、
あんまりかまってやることもなく、
また、両親の結婚50周年のためのビデオレターを撮ろうとしていたのに、
停電で、その計画も流れてしまって、
今日の午後アトランタに帰っていきました。


っていうか、今、10時前ですが、Virginia上空です。
9時半頃にAtlantaの空港に着く予定が、
11時を過ぎることになりそうです。


でも、昨日の夜は停電のおかげで、
ハジとサキでいろいろ盛り上がっていたみたいです。
停電でもないと、それぞれテレビを見たり、PCに向かったり、
(今、明日学校が臨時休校になったので、娘たちはまさにそんな感じなんですが・・・)
それぞれに時間を過ごすことが多いのですが、
停電で、TVもPCも使えず、
なんだか、団らんしていたみたいです。


さて、一昨日金曜日の聖書。
マタイ23:13−22。


「見えのために長い祈りをする」14節。

木曜日のところにも「見せるため」という言葉がありましたが、
祈りさえも「見え」のためになる可能性があると言います。

そうなってくるのは、やはり、「祈り」も「信心深さ」の一つの現れと思われることがあるからでしょうか?最近、私は祈りは「神様、私はちょっと疲れたかなあ、休んでもいいですか?」とか、「神様、あの人に電話したいですけど、何時頃がいいと思います?」みたいな、「主に相談する」「ちょっとこぼす」と感じることが多いので、「信心深い」みたいなお祈りはできないんですよね。人に聞かせるようなもんじゃない。

でも、時と場合によっては、教会を代表して祈ったり、人々のために祈ったりするときに、「見え」が入ってくる、そんな誘惑もあるかもしれませんね。

弱い人間です。

そんな見栄を張ってもしょうがない、とわかっているのに、見栄が入り込むことがあるんですよね。気をつけていたい、そんなことは全然意識しないですむような歩みをしたいなあと思わされます。

主よ、
祈りにさえ、見栄が入り込むことがある。
そうなんですよね。
本当に弱いなあと思います。
弱いというか、おろか、というか・・・。
主よ、守ってください。
あなたと、こうやって、ゆっくり語り合う、幸いをもっともっと経験して、見栄なんかとは無縁な生き方がしたいです。できますかね。神様。

電気復活!

24時間たった、6時すぎに復活したようです!
工事をしてくださった皆さんに感謝


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