なんだか、今年は穏やかな11−12月です。
日本は大変な寒波みたいですが。
水曜日にちょっと天気が崩れそうですが、
それがホワイトクリスマスの最後のチャンスかな。
そして、去年と同じで、クリスマス明けに何かありそうですが・・・。
さて、昨日の夜ですが、「1260円の本がiPhoneアプリでは85円。16日までのセール!」という言葉に踊らされて、「社会人として大切なことはみんなディズニーランドで学んだ」のiPhoneアプリ版を99セントでダウンロード。
一気に読みました。
楽しかったです。
1260円出すかどうかは、「うーん」とちょっとうなりますが、
99セントだったり、85円だったら、いいですね。
で、印象に残っているのはトイレ掃除の話。
我が家の「べっぴんさんになる計画」は頓挫してしまって、今やトイレ掃除をしている娘たちを見ることはありませんが、トイレ掃除の大切さは、自分はどこで学んだかな。
小学校の時の家庭科の先生が、「私は家庭訪問をしたら、最初にトイレに入ります。そして、トイレで、その家のことがだいたいわかります。」と言われて、ちょっと震え上がるような思いで、「そうなんだ〜」と思った記憶がありますが、それで自分がトイレ掃除をするようになったわけではなかったです。「かあちゃん、先生の家庭訪問の時は、しっかりやってくれよ・・・」と思ったくらい。(笑)
大学に入った頃、牧師館が引っ越して、教会の隣に住むようになりました。
それまで歩くと20分、自転車でも10分くらいかかる隣の町に住んでいたので、便利になったのですが、元々下町の狭いところでなんとかやっていた教会です。子供たちのための教会学校の分級の部屋が足りなくて、また、一緒に食べる昼ご飯の場所が足りなくて、一部屋をのぞいて全部毎週日曜日に開放するということになったのです。
ま、自分はそんなに嫌じゃなくて、「どうぞどうぞ!」って感じだったのですが、日曜日の朝は、普通の日の朝よりも早く起きて、7時ごろには朝食を終えて、家中の掃除をして、8時半には皆さんをお迎えする、という生活をしていました。
その中で、誰かがトイレ掃除をしなければいけないわけで、「どうせやるなら、きれいにしよう!」と思うようになったわけです。ま、小学校の先生の一言も、ちょっと生きていたかな。
で、その本の話に戻ると、
トイレ掃除の研修の中で、自分が掃除をしている最中に、ゲストが入って来た時に「せっかくきれいにしたばかりのところじゃなくて、これから掃除するところを使ってくれればいいのに・・・」と思った、というんですね。でも、考えてみたら、「ゲストの方に気持ちよく使っていただくために自分は掃除している」わけで、「きれいなトイレを使っていただけて、よかった」と思うべきなんだ、ということが書かれいていました。
確かに、使う側としてはきれいなトイレを使いたい、というのはとっても自然なこと。自分も、掃除している方がそこにおられても、あまり迷わないで、きれいなところを使うでしょう。ちょっとだけ、「あ、せっかくきれいにしてくださったばかりだから、汚さないようにしないと・・・」と思うくらい。
でも、掃除する側はそんな気持ちも働くんですね。立場によって見えるものが変わってくる。当たり前のことだけど、時々、自分に言い聞かせて、「変えようと思わないで、わかろうと思おう」という鉄則を守って行こうと思わされました。
さて、久しぶりに「日々のみことば」から。
最近は「コロサイ人への手紙」を読んでいます。
昨日は3:12-4:1。
「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」(3:13)
ここを読むたびに思うのですが、
普通は、「責めるべきこと」は「責めるべき」なんです。
「責めるべき」だから、それは「責めるべきこと」なんです。
だから、「責めるべきことがあったら、赦しあう」って、矛盾ですよね。
でも、それを主は求めておられる。
そして、それは「主があなたがたを赦してくださったのだから」。
赦された自分を忘れないように、
見失ってしまうことがないように、
そこがずれると、いろいろ「赦せない!」となってしまうんでしょうね。
祈りました。
主よ、
自分が赦されたのだということを私が見失うことがありませんように。
2011-12-17
2011-12-15
クリスマスの集まり
クリスマスの集会のご案内です。
ぜひぜひ、お出かけ下さい。
あと、今日の木曜日はLeoniaのPresbyterian教会で
午後4時からJOYJOYキッズクラブがあります。
今年のクリスマス、
すばらしい出会いがありますように。
2011-12-14
NYCを愛される神様。
今日の午後は、ちょっと考え込んでしまいましたが、
そのあと、私も出ている教会のクロッキー教室の先生の、
NYCのギャラリーのExhibitionに行ってきました。
そこでは、お会いする約束はしていなかったし、
月曜日に「じゃ、しばしのお別れですね」と挨拶をした方にも
またお会いするというサプライズ付き。
神様の励ましを感じました。
で、絵を見ながら、神様のNYCへの愛も感じました。
自分を含めて、人間は人間の世界で勝手なことやっているかもしれないけど、
神様は、今も、この街を愛しておられることを感じました。
感謝。
そのあと、私も出ている教会のクロッキー教室の先生の、
NYCのギャラリーのExhibitionに行ってきました。
そこでは、お会いする約束はしていなかったし、
月曜日に「じゃ、しばしのお別れですね」と挨拶をした方にも
またお会いするというサプライズ付き。
神様の励ましを感じました。
で、絵を見ながら、神様のNYCへの愛も感じました。
自分を含めて、人間は人間の世界で勝手なことやっているかもしれないけど、
神様は、今も、この街を愛しておられることを感じました。
感謝。
「まことの光」
クリスマスまであと10日。
久しぶりにNYCに出てきました。
Thanksgiving後のクリスマス色一色のNYCに来たのは初めて。
いえ、月曜日も来たし、その他にも人を送ったりして来ているんだけど、
街を歩くのは初めて。
マンハッタンにはクリスマスの名所がいくつもあります。
その一つ、Macy'sの前を通り過ぎました。
ショーウィンドウの写真を撮っている人々、
買い物をしている家族。
クリスマスはすてきな季節です。
・・・でも。
やっぱり、考えないではいられません。
「神様はどうご覧になっているのかな」
「イエスの誕生を祝う、ということはこれでいいのかな」
・・・と。
そんな親父の小言みたいなことはこの際言いたくないのですが、
今日はちょっと考え込んでしまいました。
そう、どちらかと言うと、誰かに小言を言いたいのではなくて、
自分はどうすればいいのだろう?という自分への問いかけ。
ヨハネによる福音書1:9の言葉。
「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」
「まことの光」・・・イエスのことです。
まことの光である、イエスが来てくださった、それがクリスマスの意味だと言うのです。
よく、この「まことの光」という言葉は「まことではない光がある」ということを前提にしているといいます。
見せかけの光と言うか、光のように見えるもの・・・。
それは暗闇を照らすのではなくて、
暗闇をごまかすもの。
暗闇を暗闇でないかのように見せかけるもの。
大変失礼な言い方かもしれないのですが、
自分も商業主義に影響を受けていないわけではないのですが、
そして、家族で、このような名所を巡ったりすることもしてきたのですが、
このクリスマスの祝い方は、その「暗闇を暗闇ではないかのように見せかけける」ことをしていないか?と思わされたのです。
で、ここからがホントに自分に問われたことだったのですが、
「そんなこと言うなら、お前は何をしているんだ?」ということです。
街には「クリスマスにはイエス・キリストを!」とチラシを配っておられる方もいます。
でも、私はそれを見ながら、それに加わろうとはしませんでした。
たぶん、これからもみなさんが、NYCでチラシを配っている私を見ることはないと思います。
物乞いをしている人に話しかけることも、ホームレスのおじさんに寄り添ったりすることもしませんでした。
「もしも、お前が『まことの光』を持っている、知っている、というなら、お前はこのNYCで過ごす時をどのように送るつもりだ?」
今年のクリスマス。神様、あなたが与えてくださった「まことの光」を確かに誰かに届けることができますように。暗闇の中に歩んでいた人々に光が照った、ということが、このNYCの日本語を使う人々の誰かに起こりますように。私を遣わしてください。出会いを与えてください。ただ、待っているだけではなくて、出て行く者とならせてください。
久しぶりにNYCに出てきました。
Thanksgiving後のクリスマス色一色のNYCに来たのは初めて。
いえ、月曜日も来たし、その他にも人を送ったりして来ているんだけど、
街を歩くのは初めて。
マンハッタンにはクリスマスの名所がいくつもあります。
その一つ、Macy'sの前を通り過ぎました。
ショーウィンドウの写真を撮っている人々、
買い物をしている家族。
クリスマスはすてきな季節です。
・・・でも。
やっぱり、考えないではいられません。
「神様はどうご覧になっているのかな」
「イエスの誕生を祝う、ということはこれでいいのかな」
・・・と。
そんな親父の小言みたいなことはこの際言いたくないのですが、
今日はちょっと考え込んでしまいました。
そう、どちらかと言うと、誰かに小言を言いたいのではなくて、
自分はどうすればいいのだろう?という自分への問いかけ。
ヨハネによる福音書1:9の言葉。
「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」
「まことの光」・・・イエスのことです。
まことの光である、イエスが来てくださった、それがクリスマスの意味だと言うのです。
よく、この「まことの光」という言葉は「まことではない光がある」ということを前提にしているといいます。
見せかけの光と言うか、光のように見えるもの・・・。
それは暗闇を照らすのではなくて、
暗闇をごまかすもの。
暗闇を暗闇でないかのように見せかけるもの。
大変失礼な言い方かもしれないのですが、
自分も商業主義に影響を受けていないわけではないのですが、
そして、家族で、このような名所を巡ったりすることもしてきたのですが、
このクリスマスの祝い方は、その「暗闇を暗闇ではないかのように見せかけける」ことをしていないか?と思わされたのです。
で、ここからがホントに自分に問われたことだったのですが、
「そんなこと言うなら、お前は何をしているんだ?」ということです。
街には「クリスマスにはイエス・キリストを!」とチラシを配っておられる方もいます。
でも、私はそれを見ながら、それに加わろうとはしませんでした。
たぶん、これからもみなさんが、NYCでチラシを配っている私を見ることはないと思います。
物乞いをしている人に話しかけることも、ホームレスのおじさんに寄り添ったりすることもしませんでした。
「もしも、お前が『まことの光』を持っている、知っている、というなら、お前はこのNYCで過ごす時をどのように送るつもりだ?」
今年のクリスマス。神様、あなたが与えてくださった「まことの光」を確かに誰かに届けることができますように。暗闇の中に歩んでいた人々に光が照った、ということが、このNYCの日本語を使う人々の誰かに起こりますように。私を遣わしてください。出会いを与えてください。ただ、待っているだけではなくて、出て行く者とならせてください。
2011-12-12
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