2010-01-08

何を喜びとするか?

今朝の雪は予想通りの、
「大したことはないが降った」というパターンでした。
2センチくらい降りましたかね。
一日暖かくて2度くらいあったのですが、
今は夜の10時半で、-6.1度です。
どんどん下がってきています。


明日から明後日がこの寒気の底で、
来週後半はぐっと寒さが緩むみたいです。


さて、今日はここで早速「日々のみことば」から。
今日は「山上の説教」と呼ばれるところに入りました。
マタイ5:1-12。


「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」11-12節。

ああ、自分は何を喜びとしているだろうか。
「ありもしないこと」を言われて、
喜び踊ったりしているだろうか?

だいたい、ホメられたり、信頼されたり、
そういうときに、喜んでいて、
罵られたり、ありもしないことを言われたときには、
「どうして!?」とそれにとらわれて不安になったり、
怒りにとらわれたりしているのではないだろうか?

本当に主に信頼して、
主が受けた痛みを少しでも分かち合っていただけることを、
喜びとして生きていくことはできないのだろうか?

試練、戦い、悩み、すべて主は負われて、
私たちにその足跡を踏んで歩くようにと言われる。

主の恵みによって捉えられて、
主によって生かされて、
この働きを全うしたい。

その中で、罵られたり、ありもしないことを言われても、
主を信頼して、み苦しみを覚えて、歩んでいこう。

主よ、
あなたを信頼します。
あなたがすべてを支配しておられます。
それに信頼します。
どうか、私の心をいつもいつも守ってください。

2010-01-07

お天気の歌ここで聴けます!



昨日の沈没を挽回して余りある3回目の更新!

昨年のクリスマスに日本の柏で持たれた、Rainbow Music Japanのコンサートのビデオがアップロードされています。

そのビデオの中にあの「お天気の歌」が入っています。
かきごおり牧師も名前だけ登場します。あと潤さんが「見てますか〜」って昔のテレビ番組みたいな呼びかけもしていますが・・・。(笑)

約2時間のビデオですが、「お天気の歌」は1:05です。

お天気の歌については昨年秋のこの記事参照。
http://njotenki.blogspot.com/2008/09/blog-post_05.html

感謝します。
私の歩みの中にも晴れの日もあれば、雨の日もあります。
嵐の中も歩みました。

でも、たとえ見えていなくても、いつも太陽が輝いているように、
主が確かに私たちと共におられる。
感謝。

私たちの都合と主の語りかけ。

ただいま雪雲がペンシルベニア州を通過中。
でも、天気の面白いのは、
雪雲がそのまま東に動いてくるわけではないこと。


多くの場合、今ペンシルベニア州を通過している雲の原因になっている低気圧は衰弱して、新しくニュージャージーの南東海上に低気圧が発生します。地形の影響のようです。


そして海の方から入ってくる水分を含んだ空気と上空の不安定な状態とが、出会って、新しく雪雲が発達します。


ハッキリ言って、日本の天気よりも、このアメリカ東海岸の天気は予想するのが面白いです。意外なことがたくさん起こります。ですから、明日の朝起きたら、「全然雪なんか降らないじゃん」みたいなことも、「すげー雪だ!」みたいなこともあり得ます。


明日の朝を楽しみに眠りにつきましょう。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ4:12−25でした。


「彼らはすぐに網を捨てて従った。」19節。
「彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」22節。

私たちにはいろいろ自分の都合があります。
「私についてきなさい」とイエスが言われているのに、
いろいろ都合があります。
仕事がある時には、忙しいのが当たり前だったり、
忙しいのが仕事が出来る証みたいだったり、
そんな時代、そんな社会の中で、生きている私たちとって、
ちょっと自分の都合が許さない時があります。

でも、このペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブ、
みんな都合があったでしょう。

でも、イエスに声をかけられたときに、
彼らはイエスに従って行った。

もちろん、仕事を一生懸命することも、
主イエスに従う道です。

でも、「信仰によらないことは罪」と聖書にあります。

主からの使命感を持って仕事をしているならば、
それは幸いなことです。
でも、自分が不本意ながら仕事に振り回されているならば、
それが本当に神様に従っている道なのか、もう一度祈ってみるべきです。
そして、もしも、主に従っていないならば、
自分の都合よりも、主のCallingに従うことです。

私自身の課題です。
いつもいつも、自分の都合や、人々の期待ではなく、
主の語りかけに、聞いていくことができますように。

主よ、
あなたに聞いて歩みます。
あなたのCallingに従って歩ませてください。
自分の都合ではなくて、
あなたのCallingに従う者でありますように。

祈り。

今日は昨日までに比べるとぐっと寒さは緩んだけれども、
それでも、昼間もまだまだ寒い。
3度くらい。
夜の9時になってもまだプラスの0.8度「も」(!)あります。


今夜はこれから雪。
多分大した事はないと思いますが、
明日の朝はちょっと道が滑りやすいかもしれませんね。


昨日からハジはプリンストンの教会の先生や皆さんが主催されるリーダートレーニングに行っています。親のできることが限られているこの頃、このように他の信頼できるクリスチャンの方々が訓練を与えてくださることに、本当に感謝があふれます。幸せ者だと思います。


またクリスチャンとして出発した青年ももうロンドンに戻っています。


こちらも距離がありますから、ここに居るような形での牧会はできません。
だから、本当に祈らされます。
祈りの必要を感じさせられます。


主が若者たちの中にもっともっと豊かに働き、
多くの若者達が神様から力をもらって歩むことができますように。


さて、昨日、1月6日の聖書。
昨日はマタイによる福音書3:13-4:11。


「『人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」4章4節。

私は何によって生きているのだろうか?
本当に神の言葉によって生きているだろうか?

そして、私が語るときに神の言葉を伝え、その言葉によって一人ひとりが生かされているだろうか?

自分が「御言葉がなければ生きていけない」というところに本当に言葉だけではなくて、本当に生かされているだろうか?

その真剣さの中で、神の言葉を伝えているだろうか?

いろんなことを思わされた。
そして、メモ欄に一言。
「休みが必要」と書かれている。

主のもとにやすらぐこと。
主のもとで休みをいただいて、
力をいただいて立ち上がること、
イエスの足元に座って御言葉を聞いていた、
あのベタニヤのマリヤのように、
主のもとに休むことが今の自分には必要だと思わされた。

主よ、
あなたの御言葉によって生きること、
御言葉によって生かされること、
どういう事なのか、自分の経験として知ることができますように。
私自身が御言葉によって生きることによって、
周りの人々が御言葉によって生きることを知ることができますように。

2010-01-06

言い訳はしないけど、沈没はします。

はい、今年初沈没です。
日本訪問の予定を着々と進めています。
どうしてもこちら時間の夜に電話をすることが多くなるので、
どうしても、こちらのアップが難しくなります。

え、これって沈没の言い訳でしょうか?

確定したものから、順次お知らせしていきます。

教会のHPのトップ、
www.jccofnj.org
をご訪問ください。

では、また明日!

言い訳しない。

今日も寒いです。
夏に「あつい」って言いたくないけど暑い、っていう気持ちになることがありますが、それに近いものがあります。もう言いたくないですが、「寒い」です。
いえ、気温が低いというより、(朝が氷点下10度が珍しい訳ではないですから・・・)息をつく暇がないというか、「今日はあったかいよねえ」という日がなくて、ずっと寒い、そんな寒さに疲れ始めています。
でも、まだ、こんなもんでめげてはいけないんでしょうね。
金曜日からはまたぐっと冷え込みそうです。


金曜日の雪ですが、
降りそうですが、大したことはなさそうです。
今のところ・・・。
今、夜の12時で 3.6度。
最近の夜の中では、冷え込みの弱い方です。


さて、今日であった言葉の中で、心に残った言葉。
「言い訳はするな」。
言い訳、自己弁護、それって自分で言っていて「ああ、これは自己弁護だよな」とわかるし、言われている方もわかる。


アダムが罪を犯したときに、
神様に対して最初にしたのが、
責任転嫁であり、自己弁護だった。


そして、自己弁護は、自分がしているときに感じるよりも、
聞いている方からすると、ずっとずっと、すごい、醜い。
これによって自分の事情を相手がわかってくれるようにと自己弁護をするのだけれども、それによって「そうだったのかあ」と思われることよりも、「何を自己弁護をしているんだろうか?」と思われることの方が多い。


自己弁護はやめよう。自己弁護によって勝ち取れる信頼はない。ただ、忠実に歩んで行こう。誠実に歩んで行こう。


さて、今日の聖書。
今日はマタイによる福音書3:1-12。


「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところに出て行き、自分の罪を告白して・・・」5-6節。

ここで、神の言葉を語ったヨハネのところには、
人々が集まってきていた。
ヨハネは人々のところに入って行って、
なんとか自分のメッセージを聞いてもらおうと一生懸命に準備して、
語った訳ではなかった、

彼の厳しいメッセージを人々は聞きにきていた。

彼が人々におもねることはなく、
人々が彼のところに集まってきていたのだ。

伝道の何たるかについて考えさせられる。
ヨハネはストレートに神の言葉を語った。
それは「受け入れやすい」メッセージではない。
反対に頭にくるメッセージだった。
でも、その彼のところに人々が救いを求めてやってきていた。

私はどうだろうかと思わされた。
人におもねることをしていないだろうか?
ただ、ただ、神様の御言葉を語ることの集中しているだろうか?

主よ、
NJ日本語キリスト教会を祝福してください。
あなたを信頼して歩ませてください。
人々の耳に心地よい言葉ではなくて、
確かな神の言葉を語らせてください。
人々に聞くことよりも、
あなたに聞くことの方を、
大切にする者でありますように。



2010-01-04

ドラマ。

今日も寒かったです。
もう、今夜も11時で−7度くらいまで下がってきています。
でも、今週末からはもっと寒くなるみたいで、
「もう十分!」って気分です。


金曜日の雪はまたまた「わかりません」状態です。
今日がまだ月曜日ですからね。


今日は朝から、フィラデルフィアでもたれた
地区の日本語教会の牧師会。
片道2時間たっぷり。
フィラの先生方は、こちらの方で牧師会をするときには、
いつもこれだけの時間をかけて来られるのか、
と、ちょっと驚き。
いつも払ってくださっている犠牲に感謝。


ほんと、あちらの方の先生方はとても情熱的です。
その情熱にいつも励まされています。


さて、今日の聖書。
今日はマタイによる福音書2章13−23節でした。


「立って、幼子とその母とを連れ、エジプトに逃げなさい。」13節。

イエスはみ使いのヨセフへのお告げによって、
エジプトに逃げる事ができました。
でも、ヘロデ王はその地域の赤ん坊たちを皆殺しにしてしまいました。

聖書の本流の読み方ではないのでしょうが、
やはり、一人の人間として、他の赤ん坊たちには、
どうして神様は警告をしてくださらなかったんだろうか、
と思います。
他の赤ん坊たちは神様はどうして助けてくださらなかったんだろうか、と。

でも、そのような疑問は私たちの人生の中でたくさんありますよね。
どうして、私が? 
どうして、彼が?
どうして、私が生きていて、彼が亡くなったんだろうか?
そんな問い、私たちの人生の中で、何度訴えてきたでしょうか?

答えはありません。
わかりません。
ただ、主のみ思いの中にある事です。

でも、そんな中で、私たちが受け取るべき事は、
やはり、自分は自分に与えられた使命、
自分に与えられた課題、自分に与えられた人生、
それを生きて行くこと、
それが何よりも大切な事だということです。

自分のドラマを生きる。

そこに私たちは招かれているのだと思います。

でも、それとともに、やはりこれからも
同じ問いを問いながら生きて行くのだと思います。
他の人々のドラマにも寄り添う気持ちを持ちながら。

主よ、
私は私に与えられた使命を生きて行きます。
確かに、いつもいつも、自分はここで何をすべきか、どう応えるべきか、
それを第一に問うて歩んで行きます。


でも、主よ、
やはり他の人々の事に無関心である事はできません。
そこに寄り添う気持ちが生まれてきます。
私にはわからない事が多すぎます。
ですから、主よ、助けてください。
あなたが私の人生に寄り添ってくださったように、
私も歩む事ができますように。

2010-01-03

撒く者も、刈る者も共に喜ぶために。

今朝は寒かったです。
でも、−10度は行かなかったみたいですが。
今、夜の11時過ぎですが、−7度。


また寒い夜です。


ここ数日曇りがちの日が続きましたが、
今週は晴れるようです。


今週のWeather Eventは金曜日です。
南部の方でも雪の可能性があります。
問題はその雪がどこまで北にあがってくるか、
また今週もお天気から目が離せません!


今日の礼拝では洗礼式がありました。





元旦に信仰告白に導かれた兄弟です。
ご両親のおられるNJに帰省中で、
帰省されるたびに個人的にいろいろなお話をしてきました。


今回、本当に心を探られる経験をされて、
信仰へと導かれました。
ロンドンで信仰生活を送られるのですが、
これからの歩みのために祈らされます。


ちょうど、そんな喜びの中にある私のところに、
一人の姉妹からメールをいただきました。


10年前に私のところに私のところにお便りを下さった方だそうです。
申し訳ないのですが、名前にわずかに見覚えがある程度の記憶しかありません。
私がお返事を差し上げて、そして、その中で神様を求める歩みを続けられて、
10年経った、昨年のクリスマスに洗礼を受けられた、という内容でした。


本当にうれしいご連絡でした。


「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」ヨハネ4章36−38節。



この言葉を信じてきました。
信じる事っていうのは、本当にそのようなことが実現したと見えてこなくても、信じる事ですよね。だから、今回のメールをいただかなくても、「神様はこのように用いてくださる」と信じることは本当に大切だと思います。でも、今回、このメールをいただいて、本当にそういうことが起こっているんだ、という事実を見せていただいて、本当に励まされました。


今回の洗礼式のためにも、多くの「撒く者」がおられたこと思います。共に喜ばせていただけますように。そして、「他の人が苦労したものを刈り取らせていただいた」ことを忘れることがありませんように。


さて、今日の聖書。
今日はマタイによる福音書2章1-12節。


「そして、宝の箱を開けて・・・」11節。

博士たちの宝の箱の中には、
もちろん、宝物がはいっていました。
宝物は、博士たちにとって、とても大切なものだったでしょう。

私たちの心にも宝の箱があるのではないでしょうか?
そして、そこにはとても大切なものが、大切に大切に
しまわれているのです。

私もそうです。
大切なものがあります。
「こだわり」のようなもの。
自分の「使命」だと思っているもの。
家族、子供たち・・・。

でも、主の前に出るときに、
神様を礼拝するときに、
その宝の箱を開けて、そこにはいっているものを、
主のもとに持って行くのです。

そこには喜びがあります。
しかし、そこには痛みもあります。
だから、意味があるんでしょうね。
痛みがない、宝物ではないものを、
使い古しや、いらなくなったもの、
十分遊んで、飽きてしまったゲームみたいなもの、
そのようなものを主のもとに持って行って、
これが礼拝、ではないでしょう。

私の中の宝の箱には何が入っているのでしょう。
それを主の御手にゆだねる勇気と、喜びと、信仰が与えられますように。

主よ、
あなたのもとに何を持って行きましょうか。
あなたに何をおささげしましょうか。
私の宝の箱を開けます。
私の心の宝の箱を開けてあなたのもとにささげます。
主よ、どうか、私の人生全体を、
あなたの思いのままに導いてください。