2012-07-20

「手を入れてきれいにする」

昨日は、本当に暑くて、我が家の庭の温度計で(デッキのある壁に貼ってあるので、照り返しで高くなるのかもしれませんが)、41.7度Cまで上がりました。でも、その後、雷雨で20度台に下がり、今日は一日20度台の涼しいくらいの一日でした。ホッ。


明日は雨で肌寒いくらいかもしれません。22度くらい、の予報が出ています。


ちょっと前後しますが、6月の初めに、庭の木を一本切りました。
息子がいるうちに・・・と思って。



はしごに乗っているのが息子で、私はこのロープを持って、木があらぬ方向に倒れてしまうことがないように引っ張っています。(そして、写真も撮っています)

去年の10月に大雪が降った時に、大きなダメージを受けた木です。
元々、この家に引っ越してきた時にはそんなに大きくありませんでした。
でも、最近はどんどん大きくなってきて、隣から苦情が出るくらい。

なので、切ることにしました。3本あったのですが、少しでも自分ができることは自分で、と、その中で一番低い木は自分たちで切ろうと。

でも大変でした。のこぎりで、すごい時間かけて切りました。あと、切った丸太の重いのなんのって。

でも、それを観念して買ったチェンソーで玉切りにしてみると、


年輪が10年分くらいしかありません。
ホントにこの10年くらいの間にどんどん伸びてしまったということ。
こんなに大きくなる前に、ちゃんと手を打っておけば・・・ですね。

あとの2本は業者の方に頼んで切っていただきました。
大きなクレーンが来て、大の男が5人掛かりで、
1時間かけて切っていきました。

これが切る前。


そして、これが切った後。


本当にすっきり、きれいになりました。

イエスさまが「ブドウの木」のたとえ話をされた時に、
こんなことを言われました。

「実を結ぶ枝は、父が手入れをしてきれいにしてくださる」と。

ブドウの木はこんな勢いで太くならないけど、本当にいずれにせよ、ほっとくのはよくない。

それは痛いかもしれないし、悲しいかもしれない、避けたいかもしれない、でも、伸びっぱなしでは、実を結ばない、それだけではない、我が家の庭の木のように、切らなければいけなくなってしまうかもしれない。神様の手入れを、神様の剪定を、痛くても、辛くても、受け止めることができますように。

ちなみに、切った丸太はキノコを植えてみます。夏じゃなくて、春や秋に切った木で作るみたいですが、どうかな。

昨日の「日々のみことば」から。
昨日は第一コリント10:1-13を読みました。

「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」12節

私はこの言葉、本当に大切だと思うんですよね。
「自分は大丈夫」と思っている人がほんとうは一番危ない。
・・・そう思って、教会の皆さんに、話をします。
「自分は大丈夫、と思っている人が一番問題なんです」と。

でも今日もそんなことを考えながら、
「いや、自分こそ、だれよりも『自分は大丈夫』と思っていないか」と思わされました。

本当に主に信頼して、主に頼って、倒れないように歩ませていただきたいです。

主よ、
あなたの支えによっていかされていることを、忘れないように、守ってください。
いつもあなたの御許に歩むことができますように。

2012-07-17

めげないで出て行くこと。

今日は暑かったです。
38度以上に上がりました。
湿度はそれほど高くなかったんですが、日差しが強くて、車の中が高温になるので、外に出るのがちょっとおっくうになるくらい。


今夜から明日にかけて蒸し暑くなり、
明日は午後から雷雨の予報です。


今日は最初から「日々のみことば」の話。


今日、6時頃に起きて読んだのが、コリント第一の手紙9:19-27。
その中で目に留まったのが、24−25節。


「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」


伝道する者の真剣さ、情熱を感じました。
で、朝からこんな箇所を読んだら、昨日3週間ぶりに再開したジョギング、ちょっと筋肉痛かな、ということで休んでなんていられなくなりました。
で、走りましたが、本当に何度も何度も、「もういいや」というポイントを通って、とりあえず目標の30分。昨日よりもちょっとペースは遅かったようですが、走りきりました。


明日の朝はものすごい蒸し暑い予報が出ているので、自重して、今度は金曜日の朝くらい、と考えていますが、本当に自分との戦い、という部分もありますね。


でも、私たちが主の働きのために立ち上がる時に、その働きは主と共になす働きだということ。主が力を与えてくださるからできる。いや、本当に私たちの弱さに主の力を表してくださるから、恐れないで働ける、そう思います。


さて、先月の半ば、もう1ヶ月前になりますが、岩手から来られた先生ご夫妻、個人的にお話を伺ったり、集会でお話をうかがったりしている中で、本当に大切なことを教えられたように思います。7−8月号のニュースレターで、分かち合わせていただきましたが、リンクだと切れてしまう可能性があるので、その文章をここに転載します。






6月の中旬に、昨年の東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市から、宮古コミュニティーチャーチ牧師の岩塚和男先生ご夫妻をお迎えして、お話を伺う時をもちました。本当に遠く離れたところにいる私たちには少しずつ過去のものになりつつあるように感じてしまうあの大きな震災が、現地に歩む方々にとっては決して過去のものではなく、今も、皆さんが、たくさんの戦いや、大きな不安の中に歩んでおられることをもう一度、認識する時となりました。 その中で、先生方がお話をしておられたことの中で、一番印象に残っているのは、震災直後のことでした。 教会堂は津波があと50メートルのところまで来たものの、無傷ですんだので、大きな紙に「避難所に使ってください」と書いて窓に貼っておいた。すぐに電気が回復したので「携帯の充電できます」と書いて窓に貼っておいた。でも、誰も来なかった。待っていても誰も来なかったというのです。そこで、先生は避難所を回って行った。「教会の牧師です」と言っても、「宗教活動はお断りです」と相手にされなかった。お寺の住職には話をしてもらっているのに・・・。別に先生は伝道しようと思っていたわけではなかった。ただ、本当に多くの人々が痛みを覚えている中で、人々に仕えたいと思っておられた。そして、本当に膝をついて、体を使って、人々に仕えて行った。教会に届けられる世界中からの支援物資を周りの人々に配り、人々からの善意の支援物資が避難所や倉庫に山積みになったままになっていたのを見て、その仕分けと配布を自ら買って出て、それを空っぽにしていった。少しずつ、少しずつ、人々の信頼を得るようになっていった。家を失った人々が避難所から仮設住宅に移っていった後も、丁寧に丁寧に仮設のリーダーと連絡を取り、信頼を勝ち取っていった。一軒一軒人々の安否を問いながら、訪問を続けた。「来るな」と言われた家でも、家から出られなくなった人々、昼間からお酒をあおっているような、とっても放っておけない人々は、何度も何度も訪問を続けた。そして、今は訪問を待っている人々、訪問を待っている仮設のコミュニティーがいくつもあるという。 どんなにすばらしい施設を持っていても、どんなにすばらしいメッセージを持っていても、どんなにすばらしいサービスを提供できても、いつまでも待っているだけだったならば、先生方は人々と出会うことはできなかったでしょう。どんなにか出て行くことが大切なのか、ということを思わされます。 イエスは言われました。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)と。私たちがもっともっとこの地域のコミュニティーに出て行って、人々に仕えることができますように。


私たちが出て行くべきところ、それを問いながら、でも、いつまでも考えているばかりではなくて、具体的に形にしていければと思います。

2012-07-16

休むこと。

ちょっとここのところ、しっかり「休む」ことをして来なかったのですが、今日はしっかり休みました。メールのやり取りも一日、自分の好きなことや家族のことをしながら時間を過ごしました。


で、その休みつながりでもあるのですが、6月の2週目は岩手の宮古から、被災地支援を1年以上にわたって続けておられる牧師夫妻においでいただいて、お話を伺うとともに、休養も・・・と思い、教会としてお招きしまた。


そして、お伺いしたお話も改めてご紹介したいですが、今日は休む話。


どこまでお休みになれたかわかりませんが、本当に、どんな働きでも、ちゃんと休むことって大切ですよね。よりよい働きをするために・・・ということもあるけど、その人が本当にその人として生きるために、ちゃんと休むことが大切だと思います。つまり、走り回っていないと何か悪いことをしているかのような、自分の価値が見いだせないような、そんな状態になってしまいやすい私たちが、ちゃんとゆっくり休んで、神様とゆっくり時間を過ごしていく中に、「ああ、自分は自分でいいんだ」と感じることって本当に大切だと思うのです。何かをすることにではなく、ただここに生かされていることに意味を感じる、そういうひと時。


で、火曜日に到着された先生方は雨の一日だった火曜日には十分睡眠を取っていただいて、水曜日から、ペンシルベニア州のランカスター地方にご案内しました。


今も、電気や車を使うことを拒否し、馬車で生活しているアーミッシュの方々が多く住む地域です。






こんな馬車がひっきりなしに通ります。


ゆっくりと時間が流れるところで、ゆっくりと過ごしていただきました。


そして、ご夫妻の雰囲気がちょっと伝わる一枚を。




写真を撮る夫をじっと暖かく見つめる妻・・・って感じ。
こうやってずっと働きを続けておられるんだなあと思います。


今回の1週間の滞在がこれからの働きのために、少しでも力になれば・・・と思わされます。


久しぶりに「今日のみことば」から。
先週読んだ言葉ですが、コリント第一の手紙1章17節。


「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。」


本当にそうだと思いました。
いつの間にか、洗礼を受けた人の数が、その教会の祝福をはかったり、牧師の働きを評価したりするような基準になっているように思う。少なくとも自分の気持ちの中にはそういうものがあったと思う。


でも、私の使命は、「福音を宣べ伝える」ことにあったんだと、もう一度思わされました。


神様、
いつもいつも忠実にあなたのメッセージを語る者でありますように。
あなたがいつも語るべきことを教えてくださいますように。

「虹」神の栄光と、神の決意。

5月の末からの続き。
カルフォルニアから帰ってきて、1週間後。
6月6日の夕方に郵便局が閉まる前に郵便を出そうと思って、通りに出たら、なんだか車がゆっくり走っている。「もう、急いでいるのに!」と思って、曲がり角を曲がったら、そこには見事な虹が。多分、人生で一番はっきりくっきりの虹でした。

で、結局、「消えないでくれ〜」とあわてて家に帰ってカメラで撮ったのがこの写真。

外側にもうすーく、写っていますが、実際はもっとはっきりと見えたダブルレインボウでした。


で、くっきり写っている内側の虹を望遠で撮ると・・・


赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と見えますね。無理やり言っている感もあるけど。
でも、その内側に黄色と緑もあるように見えます。

本当にそれほど、鮮やかな虹でした。

虹って、英語ではrainbowで「弓」なんですが、実は旧約聖書が書かれたヘブル語でもそうなんですね。「雲の中に弓が現れた」と。新約聖書も含めて、聖書の中には4回出てきます。

ヨハネの黙示録の4章で、神の栄光の姿として、10章では天使の姿として、虹が輝いている姿が描かれています。

またエゼキエル書の1章にも、神の栄光を表す様子として使われています。
「そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった」1:28。

その「弓」としての力の象徴か、それともその鮮やかな色ゆえか、神の栄光を表すものとして虹は理解されてきたようです。本当にそうですよね。私もこの虹を見た時に、「かみさま、すばらしい!まさにアーティスト!」と思いました。

そして、もう1つが創世記の9章のノアの記事です。

神は虹を契約として与えられたとあります。
「もう、私は洪水によって人を滅ぼすことはしない」と。
この虹はその契約のしるしだ、と。

この「洪水」と訳されている言葉はノアの洪水にしか使われない言葉で、「地のすべてを滅ぼし尽くしてしまう大洪水」を指しています。ですから、神様は「地のすべての人々を滅ぼし尽くすような洪水はもう起こさない」と言われたわけです。

ということは、私たちはこの神様の決意がなければ、地上からぬぐい去られてしまっても、滅ぼされてしまってもおかしくなかった、それほど、人の罪は深いのだということを聖書は語っているのだと思います。

そして、神はもっと大きな決意をしてくださいました。それは私たちが信じる時に救われる道を開く、そして、そのために、私たちの罪が赦されるためにひとり子を与える決意をしてくださったのです。

次にこんな虹を見る時にはそんなことを思いながら見上げようと思います。

今も、大雨の中におられる方々のために守りを祈りつつ。