2010-12-14

期待して祈ること。

今日は本当に寒い一日でした。
最高気温が-4.7度C。
風が強くて、体感気温はもっと低かったです。


今夜は-10度Cくらいまで下がって、
明日ももう一日氷点下のようです。


またWeekend Stormの可能性が出てきています。
今週末はクリスマス礼拝とJOYJOYクリスマスですから、
おもいっきり外れて欲しいです。


「祈り」について、いろいろ考えさせられ、
実際に祈らされている中で、
なんども読み直す本がありますが、
その中でも、Jim Symbaraの"Fresh Wind, Fresh Fire"、加藤常昭の「祈りへの道」、そして、最近ではBill Hybelsの「祈れないほど忙しい?」の3冊は自分を支えてくれる本です。


三者三様ですよね。
日本の神学者、説教者で、本当に深い心の動きを明かしながら、一緒に祈りへの道を歩んでいこう、と招く加藤先生と、とにかく共に祈って神さまの奇跡を見よう、とブルックリンの貧しい地域(今はずいぶん周りがキレイになってきましたが)で伝道をしてきたシンバラ先生と、時代の先端を走る人々にどのように福音を伝えるかを考えながら挑戦をしてきて、ミドルクラスのアメリカ人の心を掴んできたハイベルス先生、みんな違うんですが、祈りの大切さを伝える思いは共通しています。


先週から、今週にかけて、「祈れないほど忙しい?」と「祈りへの道」を読んでていて、その両方に出てきた聖書箇所に心が留まりました。
それはルカ18章1−8節のイエスの譬え話です。

また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。


実は最近ある「聖書を読む会」で学んだところでもあります。


どの注解書でも出てくるのですが、
「神さまがこの裁判官みたいな方であると勘違いしてはならない」んですよね。「まして神は・・・」なんだから。


そんな訳はない、わたしはそんな勘違いするわけがないと思いながら、でも、いつの間にか、神さまをなかなか祈りを聞いてくださらない、いじわるな方だ、とか、そこまで行かなくても、「自分の祈りの熱心さは足りないから、聞いてくれないだろうな」とか、「他の人の祈りは聞いてくれるけど、わたしのは半端な祈りだからダメだよなあ」とか、「もっと何回も祈らなきゃ、長い時間祈らなきゃ、聞いてくれないよな」思っていることないだろうか、と思わされたんですよね。


ビル・ハイベルス先生は、若い時代に、お父さんからクレジットカードを一枚渡されて、世界中を旅するようにと言われたそうですが、その感覚が神さまとの関係にも生きているんでしょうか。ほんとに大胆に主に求め、期待する先生ですよね。自分はどうしても、育った環境から「どうしても必要なもの以上は求めてはいけない」って思いがあるんですよねえ。間違っているわけではないんでしょうが、「神さまのために冒険する」とか「神さまは豊かだから、大きく求めなさい」とか、御言葉からそうなんだ、と思うのですが、まだまだ「自分自身の感覚」になっていないんだと思います。


インドネシアに行っておられた先生も言っておられました。「日本人はどうしても神さまを小さく考えすぎる。この世界を造り、世界を支配しておられる大きな神さまを信じなさい」と。


そうですよね。お天気牧師として、いつも思わされる、この自然の大きさ、そして、最近は夜空見上げオヤジでもっと思い知らされるこの宇宙の大きさ。この宇宙を造られた神さまを信じているんだから、祈るときにも、その神さまの大きさを忘れないで祈りたいと思います。


その神さまが、私たちのことを心に留めてくださっていることを信頼しながら。


さて、昨日の聖書。
昨日はヘブル人への手紙5:11−6:8でした。


「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たち」5:14。

一昨日の夜、役員会で遅くなって帰ってきて、
さすがにすぐには眠れなかったので、
翌朝、さすがに早く起きるのはきつかったですが、
いつものように6時に教会に行って聖書を読んでいました。
そこで目に留まったのがこの言葉。

この言葉を思い巡らせながら、
前の晩もたれたミーティングのことを思わされたときに、
本当にこのような「感覚」を持っておられる方々が、
そこには導かれ、集められていたなあと思わされたのです。

その時、主がこのような同労者を与えてくださっていることに、
心から感謝が湧いてきました。
教会への愛をもって、そして、訓練されて、何が神に喜ばれることなのか、何を私たちは神さまから託されているのか、という感覚を与えられている人たち。
感謝の祈りに導かれました。
そうしたら、いつの間にか、疲れが癒されているんですね。
正確に言うと疲れを忘れさせられた、というか。

幸せな牧師だと思いました。

立派な会堂でもなく、メンバーの人数でもなく、
このような同労者に支えられていることに幸いを感じました。

主よ、
あなたの与えてくださっている訓練によって、
教会のひとりひとりも整えられていることに感謝します。
ものごとを見分けることができる「感覚」を持っておられる方々が与えられていることに感謝します。
あなたが私たちの感性をもっともっと整え、
私たちが、あなたの御思いを知っていくことができますように。

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