2020-02-28

2020レント集会第1回「変貌の山での祈り」ルカによる福音書9:28-36


今年は「イエスの苦難の中での祈り」というテーマで学びの時を持ちますが、まず、この聖書の箇所がどうしてイエスの苦しみと関係あるのか、と思われる方もおられるかもしれません。

ルカによる福音書は24章までありますが、ここはまだ9章です。また、「イエスの苦しみ」というと、「受難週」つまり、エルサレムで過ごされた最後の週、を思い浮かべる方もおられるでしょう。その最初の日、イエスがロバに乗ってエルサレムに入られたのは、ルカによる福音書では19章に出てきます。ですから、ここはまだまだ、そこまでいかないのでは、と思われるかもしれません。

しかし、イエスの生涯の中で、転換期になった出来事はじつは9章のこの記事の直前の出来事でした。イエスは弟子たちに「私のことを誰というか?」と尋ねられました。その時、ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えたのです。その時から、イエスはご自分が苦しみに遭われること、十字架にかけられること、そして、3日目によみがえることを弟子たちに話し始められました(22節)。ですから、イエスの生涯は最初から十字架に向かって歩んでいたとも言えるのですが、明確に、このペテロの信仰告白を境にして、イエスは十字架への道を歩み始めたと言っていいと思います。

その直後に出てくるのがこの変貌の山の出来事です。

1)栄光に輝くイエスの祈りの姿
イエスがペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人を連れて山に登られて祈っている時に、イエスの姿が変わって、真っ白に輝いていたというのです。これは、イエスの本来の姿、神の御子としての栄光の姿です。ペテロは、その第2の手紙11618節にこの時のことを書いています。

16わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。 17イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 18わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

イエスの姿は本来このような姿だったのです。しかし、イエスは人となられて、この地上を歩まれる時に、その栄光の姿を隠して、低くなってくださったのです。

そして、イエスは祈りを大切にしました。父なる神との交わりです。イエスご自身が神であられるのに、父なる神との交わりを大切にされたのはどうしてでしょうか?それは、それがイエスの喜びであり、力の源だったからです。三位一体の神は、永遠の交わりをもっておられる神です。父と子と聖霊は永遠の昔から、交わりをもっておられました。そして、それを喜んでおられました。子なる神が人となってくださったときにも、その交わりは続きました。この地上に来られたイエスにとって、この交わりがどれほど大切なものだっただろうかと思います。

その交わりに私たちは招かれています。

「それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」(第一ヨハネ1:3

私たちも、イエスが父なる神とともに歩まれたように、三位一体の神の交わりの中に招き入れられているのです。「神との一対一の祈り」という言葉が使われることがあります。それは間違いではありません。しかし、私たちの祈りは、三位一体の神と共に過ごすひとときなのです。

2)イエスが語り合っていたこと。
その栄光に輝くイエスと共にいたのがモーセとエリヤでした。モーセは旧約聖書の中で、律法を神から受けて、民に与えた人です。そして、エリヤは預言者でした。旧約聖書の2つの大きな要素、「律法」と「預言書」、その代表としての2人がここで現れて、イエスと話をしていたことは、イエスの働きが旧約聖書と連続的につながっているのだということを表しています。イエスの働きは旧約聖書の否定ではなく、旧約聖書の成就であり、完成なのだということを表しているのです。
そして、その話をしている内容は「エルサレムで遂げようとしている最後」のことでした。これは原語を見ると、「エクソドン」・・・「でること」つまり聖書の文脈では「出エジプト」を意味する言葉が使われています。イエスが十字架にかかられることを新しい「出エジプト」として表し、それによって、私たちが罪から解放されるのだ、ということがここで表されています。

そして、祈りについて考えるならば、イエスがモーセやエリヤと語り合っていたことも祈りの一部でした。イエスは最初は一人で祈っていたのでしょう。そこにモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていたのです。ここでモーセやエリヤは苦しみへの道を歩んでいくイエスと語り合い、神の前に共に出て、イエスのことを支えていたのではないでしょうか?私たちにも共に祈る仲間が与えられています。困難の中で、神は私達に共に祈る仲間を与えてくださっています。一人で祈ることも大切です。でも、イエスもモーセやエリヤと共に祈られました。私たちも周りの誰かに「私のために祈ってください」と出るべきです。

3)天からの声
輝くイエスの姿、またモーセとエリヤの姿を見て、ペテロは「ここに小屋を建てましょう」と言います。ずっとここにいたい、山を降りるのはもったいない、このままいましょう、というのです。それに対して、天から声がします。「これはわたしの子、わたしが選んだ者である。これに聞け。」自分からいろんな事を言いたいのが私たちです。でも、神は私たちに「イエスに聞け」と言われます。

祈りの中で、大切なことは聞くことです。神の語りかけを、聞くことです。神が心に触れてくださることを、聖霊様が触れてくださることを待ち望むことです。静まりましょう。今、心が乱れていないでしょうか?騒いでいないでしょうか?心を静めて、主を待ち望みましょう。