2009-01-09

また雪来ます。寒さも来ます!

明日はまた雪。
どかんと来ることはないけれども、
なんだか降りますね。


今回も15センチから20センチくらいの予想。
昼過ぎから降り始めるようです。


今日も本当に寒い一日でした。
朝は-5度で、昼間ちょっと氷点下を脱しましたが、
午後3時過ぎにはまた氷点下。
そして、今、夜の11時過ぎですが、氷点下4.7度です。


明日の朝はもうちょっと冷えそうですが、
それよりも、何よりも来週の寒さ。
木曜日くらいが底のようですが、
昼間の気温が-7度くらいだそうで。
もう、たまりません!


さて、2,3日前に日本国際飢餓対策機構(www.jifh.org)からのニュースレターが来ました。
一昨年ハジがウガンダに行った時にお世話になった団体でもあり、
教会でサポートしている団体でもあります。


エチオピアで働きをされていた森田さんという方の文章ですが、
「自立」ということについて書いておられます。


20年以上にわたるエチオピアでの国際協力の歴史の中で、
貧富の差は縮まるどころか広がっていること、
昨秋の段階で640万人の人々が緊急の食料援助を必要としているが、
元々、援助が入る前は「誇り高き」人々であったその国の人々が、
今は、多くの人々が、自分たちは貧しいからしょうがないのだと思っていること、
そして、JIFHの働きが、そこに住む人々に、お金を出すよりも、
自分たちで立ち上がることをサポートしていくものになっていること、
互いに自分の大切なものを手放し、愛をもって仕え合う、共に生きる関係を
築いていくものになっていることを書いておられました。


3年前にこの団体の辻本先生に来て頂いてからわかってきたことですが、
改めて、一つのことにも経験と正しい知識と慎重さが大切なことを思わされました。


そして、それと共に、自分たちの今の立場について考えさせられています。


「集会場所を提供される」という「援助」をアメリカの教会から受け、
そして、20年間の年月の中で、それがいつの間にか当たり前になり、
そして、今は「私たちの今の経済状態ではそれもしょうがない」と思っている。
そのままあてはまるのではないかと思いました。


このエチオピアの一つの村の人々が立ち上がることが「並大抵のことではなかった」とありますが、
私たちにとっても、そうだろうと思います。
祈りと愛と忍耐とねばり強さの必要性を感じています。


さて、今日の聖書。
今日はヨハネによる福音書3:22-36でした。


「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」27節。

ヨハネの弟子たちは平気ではいられなかった。
自分たちの先生のところに人が集まっていたのに、
今や向こうのイエスの方が人々を集め始めている。

だから、自分の先生であったヨハネに一言言わないではおられなかった。
でも、ヨハネは神さまの働きを見ていた。
彼は「言」を運ぶ「声」に徹していた。
言葉は声に乗って人の心に届く。
そこで声は消えていくが、
言葉はその相手の心にとどまって残っていく。

彼にとっては神が証しされれば、
光である救い主が証しされれば、
それで十分だった。

それが自分の使命であることを知って、そこに生きていた。

わたしもそこに堅く立って歩んでいきたいと思いました。
心の中に、このヨハネの弟子たちのような声が聞こえてきた時に、
このヨハネのようにはっきりと、少しの迷いもなく、
言うことのできる者でありたいと思います。

主よ、
あなたが私たちに任せてくださった、
多くの人々の故に感謝します。
その出会いの故に感謝します。
あなたの与えられる使命を受け止めて、
歩む者としてください。

2009-01-08

キリストがわたしの内にあって生きている。

今日も寒い一日でした。
そして、時々にわか雪が「さー」っと降ってくる、
そんな日でした。


でも底冷えです。
からだの芯から冷えそうな感じです。
明日の朝はー5度くらいまで下がるでしょう。


土曜日ですが、本格的な雪になりそうな感じです。
3-6インチ=7.5-15センチ。
まだ不確定な部分もありますが、
なんだか、降りそうですよ。
それも最初から最後まで雨にかわらない、きれいな「雪」。


降り始めは土曜日の昼過ぎ、
日曜日の午前中くらいまで降りそうです。
JOYJOYシンガーズや日曜日の礼拝に影響がないといいのですが・・・。


さて、今日はシャワーを浴びながら、
「キリストがわたしの内にあって生きておられる」ってこんな感じなのかな、
と思わされました。
自分の中にはとうていない思いが湧いてくる中で、
「ああ、これはイエスさまの思いだ、わたしの思いではなくて・・・」
と感じたのです。

なんだか、ちゃんと説明していないので、
何のこと?って感じかもしれませんが、
自然の自分が考えないようなことを考えている自分に、
「これはきっとイエスさまがわたしのうちにそんな思いを与えてくださっているんだ、
それがわたしの中にキリストが生きておられる、というこのパウロの気持ちだったんだろう」と思ったのです。


とでもうれしかったです。
そのように感じたのは初めてだったんじゃないかと思います。


感謝。


さて、今日の聖書。
今日はヨハネによる福音書3章16-21節です。


「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」16節。

聖書のメッセージを集約したような、
聖書のことば。

神がどこまで私たちを愛してくださったか、
わたしを愛してくださったか、
思わされました。

「ひとりごをお与えになったほどに」
それくらい、愛された。
私たちの救いは神にとってそれくらいの価値ということがわかる。

それくらい大切にしてくださっている、
それくらい投資してくださっている。

その愛の大きさを感謝しました。

あり得ない愛。
自分の永遠の命を差し出して、救いの道を開く愛。

そして、その愛を私たちの内側にも与えてくださる方はなんとすばらしいことでしょう。

神さま、
あなたがひとりごをお与えくださったこと、
イエスさま、
あなたが私たちの底辺に来てくださって、
私たちのためにご自身を与えてくださったことに感謝します。


どうか、その愛をわたしの内に注ぎ、
わたし自身もまた、あなたが歩まれたように歩むことができますように。

2009-01-07

もう一つの神のことば。

今朝、起きたら気温はもう0度を超えていましたが、
まだ、地面はつるつるでしたね。
昼間の最高気温は2.5度。
冷たい雨の一日でした。


明日はまた晴れてきますが、
寒い日になりそうです。


そして、土曜日にはまた雪。
そして、来週1週間はぐんと寒くなるでしょう。
-15度も夢ではありません。


Purpose Driven Churchが見つからない間に、
昨日、訳者から贈って頂いた
「ゲノムと聖書」 を読み始めました。


PDLが見つからないのは「これを読め」という神さまからのメッセージなのかな、と。


まだ1章を読んだだけで、これから一歩一歩なのですが、
「はじめに」のところで、すでに一発殴られたような感じ。


原書は「The Language of God」なので、
聖書が神の言葉であるけれども、
自然もまた、神の言葉、神の啓示なのだ、
ということなのだと思うのですが、


ヒトゲノムの解読はそこに書き込まれた神の言葉を読むことなのだということ、
そして、それを解読することは、神の前に驚嘆と畏敬の念を感じるのだと。


私はどちらかというと、「解読できないことを認めることが神への畏敬の念」「あえて解読しないことが神への畏敬の念」なのだと思ってきました。

たとえば、天気予報はなかなか当りません。
その難しさを思う時に、感じる思いは、
神さまが造ったこの世界の天気を予想するなんて、
そんなの簡単にできてたまるか!って感じですね。
そして、一つの気象現象が起っている時も、
そのメカニズムがそんなに簡単に説明できるわけはないだろう、
だって、神さまの造られたこの世界はちっぽけな私たちの頭の理解を超えているんだから、と。

でも、この本のコリンズさんの言葉を天気に当てはめると、
その気象現象が起っているメカニズムを解明する時に、
神への畏れと尊敬の念を感じるということなんでしょう。
たとえ自然現象がもっともっと科学的に解明されていっても、
それによって神さまの偉大さはちっとも損なわれなくて、
反対に、もっともっと畏敬の念を覚えるのだと。


たぶん、自分は逃げてきたのだと思います。
「自分は科学者ではないからわからない」と。
そして、何でも「わからない」と言ってきた。


でも、それは彼が宗教的な意味で不可知論者であったように、
私は自然科学についての不可知論者になっていたのかもしれません。
「科学者だって、いろいろ仮説は立てるけれども、結局はホントのことはわからないのさ」と。


でも、それがあまりにも無責任な態度だったと、思わされました。
ゆっくり読んでいきたいと思いますが、
神さまはこれからどんなことを教えてくださるのでしょうか・・・。
楽しみです。


さて、今日の聖書。
今日はヨハネ2章23節から3章15節。


「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」2章24-25節。

ここで、人々にご自身のことを任されなかったイエスが、
今、私たちにご自身のことを任せてくださっていることに、
私たちを通して、ご自身を表そうとしている、
神がどんな方かを表そうとされていることに
心から感謝を覚えました。

そのように期待してくださっていること、
そのように用いようとしてくださっていることは
何とうれしいことでしょうか?

用いられる喜び、
信頼される喜びを感じました。

神さま、
今も、私たちをあなたが信頼して、
ご自身のことを私たちに任せてくださっていることに、
あなたが私たちを用いて、ご自身の愛を伝えようとされていることに、
心から感謝します。
私たちの内に働いて、
あなたの愛を表す者として、
用いてください。

2009-01-06

神さまが目をふさがれる。

今日は本当に底冷えする一日でした。
どんよりとした中で、最高気温は2度くらい。
そして、今、夜の11時前ですが、
-1度で雨が降っています。
そうです。Freezing Rainです。
雪はほとんど降らないで、
雨になりました。


塩をまいていないところは、
もうすでにスケートリンク状態です。
でも、雨はこれから本番。


気温の上昇はゆっくりだそうですので、
かなりひどい凍結になるかもしれません。


先週金曜日の牧師会の時に、
「じゃあ来週あたり40日間のやつ読み始めようかな」と思っていた
Purpose Driven Lifeですが、
じゃ、読もうかな、と思って探し始めたのですが、
本がありません。


何度探しても見つからないのです。


時々あります。
「あの本があればいいのに」と探していてもなかなか見つからないこと。
そして、しばらくしてから、その用事が終わった後に、あれ、あるじゃん、と気がつくこと。
そんな時に、まあ、自分の注意力や整理力のなさにがっくりするのですが、
それと共に、「ああ、神さまが今のおまえには必要ないよ、その本を見て安直な答えを出すのはやめなさいと言われているんだろうな」と思うのです。
特に、メッセージの中の例話に使おうと思っているようなことには、そんなことがあります。


そう、あえて神さまが私の目を閉ざして、そのところにその探している本がないかのように見せられること、あるんだろうなと。


だから、PDLの40日間もちょっとお預けなんでしょうね。
「違うことをしなさい」と言われているように感じました。


もちろん、探すのをやめてしまうわけではないのですし、
明日見つかったら、明日スタートすることになるかもしれませんが、
また、神さまが目を開いてくださる時まで、
焦らないで、ゆっくり探していきたいと思います。


さて、今日の聖書。
今日はヨハネによる福音書2章12-22節。



「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」19節。

これはイエスが自分のからだをさして言われたこと、
イエスが十字架にかかって、でも、3日目によみがえったことが、
私たちに与えられているしるしなんだということです。

イエスの復活こそが、イエスが主であることのしるしなのだと、
イエスは言われたんですね。

でも、それと共に、今朝は、今年の教会に与えられているみことば、
「あなたがたはキリストのからだである」ということにつながっていると感じました。
主はキリストのからだなる教会が破壊されても、
それをまた建て直される。
そんなメッセージを感じました。
解釈学的に、それが赦されるかどうかわかりません。
でも、主が「あなたじゃない、私が建て直すから」と言われたように思わされたのです。

そうですね、その主に信頼して祈っていこうと思います。

主よ、
あなたのみからだである教会を守り、支えてください。
あなたはご自分の3日目によみがえってくださいました。
そのよみがえりの力が私たちのうちに注がれていることに感謝します。
今日の語りかけに感謝します。
あなたのことを信頼していきますから、
祈りに答えて、あなたの御業をなしてください。


2009-01-05

補い合う。・・・そして補ってくださる神さま。

今日はいい天気でした。
でも、明日の午後からは雪のようです。
で、夜にはみぞれから雨に変わる予報が出ています。
その前に5-10センチつもるとのこと。
10センチ積もってしまうと、
雨が洗い流してくれる、ということもないでしょうから、
雪かきの雪が重くなるだけ、という怖さがあります。


気持ちの良く子供たちが遊べるような最初から最後まで
ばっちり雪、というのはなかなかないですね。


昨日の夜はちょっといろいろ考えて、
なかなか眠れなかったのですが、
いけませんねえ、おかげで、朝、目が覚めたら7時でした。
目覚ましに気がつかなかったようです。
朝の祈りの時にはこの半年くらいどなたも来られないのに、
今朝、たまたま、「祈ろう!」と6時に教会に来られた方がいたら、
大変申し訳ないのですが、まあ、終わってしまったことはしょうがありません。


で、今日になって思わされたのですが、
教会って、いろいろ欠けがある、それでいいんだと。
たぶん、教会の組織について、完璧なシステムってなくて、
だから、「この組織のこういうところが問題!」って騒ぐんじゃなくて、
では、自分はこの問題を補うために、何ができるんだろうか、
この問題を何とかするのには時間がかかるだろうから、
それまでの間、私は何をすべきなんだろうか、
そんな気持ちになる方々が育っていくことの方が、
「問題だ!問題だ!」と騒いでいた方々が、
私はこの問題を補うために何ができるんだろうかと考えるようになっていくことの方が、
ずっとずっと大切なことなんではないかと思ったのです。


コリント第1の手紙の12章25節には
「各部分が互いにいたわり合うためです。」とあります。


単純な聖書の言葉に単純に従っていくことの大切さを思わされました。


さて、今日の聖書。
今日はヨハネ2:1-11。
カナという町の結婚式でイエスがされた奇跡です。


「ぶどう酒がありません」3節。

ああ、こういうの大変ですよねえ。
結婚式なのに、ワインが足りなくなっちゃった。
誰の責任?ああ、大失態。
自分だったらあたふたするだろうなあ、
ばたばたするだろうなあ、何とか届けてもらえるように、
一生懸命手を尽くすだろうなあ。
そして、無理を言って、何とかできたら、「ああ、よかった」と。

ちょっとコワイくらい、どきどきしてしまいました。

昨日の聖餐式も礼拝前にこれくらいでいいですよね、と数を聞かれて、
そうですね・・・と答えたのですが、
感謝なことにたくさんの方々が来られて、
足りなくなってしまうかも・・・と思いました。

でも、不思議なことに、準備した数と、来られた方々の数がぴったり同じ。
よかったです。

自分がばたばたしなくても、
神さまが心配してくださっている。

このカナの結婚式でも、
誰も知らなかった。
給仕役も、花婿も知らなかった、
ただ、水をくんでいた僕だけが知っていた。

でも、僕たちもただ、イエスさまが命じられたことに
ただ従っていただけ。

ホントの意味では誰も知らなかった。

それでいい、ただ、単純に主に従っていくだけでいい、
そのように思いました。
主がしてくださること、それを見せて頂きたいと思いました。

主よ、
あなたを信頼して歩みます。
すべてはあなたの御手の中にあることを信頼します。
ただ、あなたに従うことができますように。
そして、あなたのみ業を見ていくことができますように。

もっと聞きたい。

またまた日付が変わってしまいましたが、
余り眠れそうな感じもしないので、
とりあえず更新中。

今日も多くの皆さんと一緒に礼拝がもてて感謝。
また役員の皆さんの就任式が教会全体でもてて感謝。
役員の皆さん、遅くまでお疲れさま。


いつも教会のことを一生懸命考えて、
一人一人のことを本当に愛して、
どうしても迷うことや時間がかかってしまうことがあって、
長くなってしまいます。


でも、さすがにこれが続くのは無理ですから、
そして、おそらく完璧な会議とか、結論とか、ないですから、
なんとか、来月からは半分くらいの時間ですむようにと祈ります。

今日もたくさんの方々が来られて、
大学生とか、もう来週には大学に戻っていたり、
また久しぶりにお会いしたり、
もっともっと皆さんのお話に耳を傾けたい、
祈って送り出したいと思いました。

日曜日にお話しできなかった皆さんと、
何とか、お話しができる一週間を過ごせますように。


さて、今日(1月4日日曜日)の聖書。
今日はヨハネによる福音書1:35-51


「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」50節。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」51節。


不思議なことを聞くよりも、
奇跡のようなことを見るよりも、
もっともっと大きなこと。

もっともっとすばらしいこと。
それが神と共に歩むこと。
神がいつも共にいてくださることを信じて歩むこと。

主よ、
今日も、また明日も、この一週間、
ずっとずっと、私と共にいてくださるからありがとうございます。
どうか、私の目を開いてそのことを見せてください。
そうです、教会に連なる一人一人の目を開いてください。
あなたがいつもいつも共にいてくださることを、
見せてください。感じさせてください。
もしも、それが見えなくても、感じなくても、
信じることができますように。