今日も、日本のために、地震で大切な人を失った方々のために、
今も救出を待っておられる方のために(8日目に見つかった方もいた!)、
あの福島の原発で尽力されている方々のために、
祈らされた。
そういえば、「10時半に寝て、5時半に起きる」生活を目指して、
早く寝て、でも、やっぱり5時間で目が覚めて、4時にニュースを知ったんだな、と思い出していました。
あまりのことに信じられない思いで現実感のない所から始まった。
たくさんの方々が命を落としたことを知り、その一つ一つのいのちが、自分と同じいのちで、自分の家族のいのちと同じいのち、なのに、自分がここで生きていることの違和感を感じたり、だから、生かされていることの意味を考えたり。
原発のことがどうなるのか、祈りながら、過ごした一週間。
こちらで、何ができるか、自分を見失わないように、
また牧師として堅く立って行くようにと思いながら、
でも、その気持ちが強すぎて、こわれそうになった日もありました。
でも、その弱さを受け入れたときに、また内側から、神様から力が与えられて、今があります。
この間にいろんなことがありました。
その朝、予報通りのFlood。
近くの川はあふれていました。
でも、その後はいい天気が続いていて、
今日は25度まで上がりました。
そして、一週間の中では、
毎年恒例、玄関脇のクロッカスが花を咲かせたり(年々花が少なくなる?)、
裏に植えたふきに「ふきのとう」が出てきたのに、
リスに食い散らかされたり。
季節は確かに春に向かって動いています。
あさってからはアメリカの暦の上でも、「春」です。
でも、ここまで暖かいのも今日まで。
明日からは平年よりちょっと低め。
昼間の気温が12度くらいになりそうです。
さて、久しぶりに「日々のみことば」から。
おととい、水曜日の読んだところ。
民数記9:15-23。
「 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。」22-23節。
すぐに動きたいこともあっただろう。
いつまでもとどまっていたい時もあっただろう。
でも、彼らは、ただ雲の動きを通して、神が示されたときに動いた。
とどまれと言われたらとどまり、
行けと言われたら行く。
そこに祝福があり、平安がある。
従うことはつらいことではない。
勇気はいるかもしれない。
でも、そこには平安と喜びがある。
神様、
あなたの導きを信頼します。
あなたが動かしたいように導いてください。
従う中で与えられる喜びを経験させてください。