2006-12-15

今日はまたお休み

今日は先ほどまで集会があったので、
もう休みます。
また明日の朝は、午前中までに日曜日の説教の仕上げをしなければいけないので、
たぶん、午後または夜の更新になります。

では、また明日。

2006-12-14

キリストのしもべ

今日も予告通り、暖かい日になりました。
明日も暖かいです。

このままずっといって欲しいと思いますが、
さすがに20日過ぎくらいから、ちゃんと冬になるみたいです。
先週のように-8度Cまで下がるかどうかは別として、
朝晩は氷点下くらいにはなるみたいですね。

今日のキッズクラブはまたたくさんの仲間が来てくれました。
楽しい一時を持ちました。
定着したメンバーも結構いて、いいですね。
「クラブ」って名前をつけたのにも、
そんな気持ちを表しました。
「いつもの仲間が集まる」みたいな。
もちろん、新しい仲間がどんどん増えるのを楽しみにしていますが、
いつものメンバーが「行っても行かなくてもいいや」じゃなくて、
「絶対毎月行く!」と思うような集会をやっていきたいと思っています。

サンタクロースのこと、ちょっと考えるところがあると昨日書きましたが、
Operation Santaに興味をもったのは、
長男が小さい時に、自分は、
「サンタさんはね。お父さんやお母さんがプレゼントを買えないお友達のところに来るんだよ。うちはお父さんやお母さんが買って上げられるから、来ないんだ」と話していたからです。

なんで、そんな説明をしていたかというと、
自分が子供の頃、サンタさんが来る、という経験がなかったので、
自分の子供に、自分が買ったプレゼントを「サンタさんからだよ」と言うことに、
なんかしっくり来ないものを感じていたからです。

子供がどのように受け取るか、想像が出来なかったので、
ちょっと恐れがあったというのが本当のところでしょう。

自分に、「懐かしい、暖かい思い出」として、サンタさんからのプレゼントを待ちわびた、
という経験があれば、「自分の子供にも味わって欲しいなあ」と思うでしょうし、
何歳くらいで、「もう、来なくなっちゃったね」と言ったらいいのか、見当がついたと思います。

でも、そんな経験はなかったので、
最初に書いたように説明して、「うちはお父さん、お母さんが買ってあげるからね」
と、お父さんお母さんからの・・・ということをはっきりさせてプレゼントをしていました。

まあ、問題は息子にいろいろ友達が出来て、
友達の家に遊びに行くようになって、
いろんなおもちゃをたくさん持っている友達から、
「サンタさんにこれもらったんだ!」という話を聞くようになって、
話のつじつまが合わなくなってしまったことでした・・・。

で、後からの言い訳になりますが、サンタクロースのモデルになった、
3-4世紀に今のトルコにいた聖ニコラスが貧しい子ども達に施しを与えた、
という逸話に照らし合わせても、自分の説明はあながち間違っていたわけでもないと思っています。

でも、現実の社会では、
やっぱり、私が息子に言ったこととは反対に、
「経済的に余裕のある家の方にサンタさんが来て、貧しい子には来ない」
という、とんでもない矛盾があるように思うんです。
そう、そうすると、私は「嘘つき」になってしまうのです。

だから、私も自分がサンタさんになれないかと思ったのです。
決して特別豊かではないけれども、
何にも子供に買ってあげられないなんてことはない、
そんな家庭を営んでいる者のひとりとして、
自分の子供のためにではなくて、
何かの事情があって、お父さん、お母さんからプレゼントを
受け取ることが出来ないような子ども達のために、サンタさんになれないかと思ったのです。

そして、おもちゃのあふれている今の子ども達にも知って欲しいのです。

「受けるよりも、与える方が幸いである」というイエスの言葉を。

さて、ちょっと長くなりましたが、ここら辺で今日の聖書。
今日はコリント人への第2の手紙の11章を読みました。

その中のパウロの熱い言葉が心に留りました。
「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」29節。

これはまたすごい言葉だと思いました。
パウロは「自分はキリストのしもべだ」と言い切って、
その中で、「自分はこんなことを経験してきた」と書く中で、
このように語っています。

キリストのしもべは、イエスさまが感じられたように、
人々の痛みを、自分の痛みとする、
人がつまずく時に、自分自身が痛みを覚える、
誰かが信仰的に弱くなった時に、
自分自身の内に弱さを感じないではいられない。

自分はキリストのしもべだろうかと思いました。
愛の足りない者だと思いました。
自分はこのパウロのように、

「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。」23節

と言えるだろうか?
その様に思いました。

主よ、
パウロの言葉に圧倒されました。
私もあなたのしもべです。
人の痛みを感じる敏感さを与えて下さい。
人が弱さを覚えておられる時に、
そのことを聞かなくても、感じ取れるほどの感性を与えて下さい。
その様な人に対する愛を与えて下さい。

2006-12-13

神の標準

なんだか、笑ってしまうほど暖かいですね。
今日は雨でしたが、なんか暖かな雨でした。
明日も、気温が何度かなんてどうでもいいほどの、
「あたたかい」日でしょう。

今夜も「暖かい」夜です。
単に温度計見に行くのが面倒なだけなのですが・・・
それほど投げやりになるほど、暖かいです。

皆さんのお祈りに感謝します。
無事、英語→日本語の通訳の仕事を終えて、
かえってきました。

守られました。
ちょっと聞き逃した言葉があって、よくわからなかったセンテンスが3つほどありましたが、
あとは、大丈夫でした、というか、とても、わかりやすい英語でした。
シンプルなメッセージでした。

ちょっと紹介すると、

聖霊はいろんなものにたとえられるけれども、
一つは水、一つは油、そして、何よりも火。

そして、その中で火のイメージが一番大切だといわれました。

1.火は表面に触れるだけではなく、その中に働いて造りかえてしまう。
たとえばピアノに水をかけても「濡れたピアノ」
油を注いでも、「あぶらまみれのピアノ」
で、内容的な変化はありません。
でも、ピアノに火をつけたら、ピアノがピアノでなくなってしまう。木の表面ではなくて、
内側をも変えていく。
聖霊様は私たちの内側をも変えていく

2.火は私たちの行く道を導く
暗闇の中で、火があれば、どのように進んでいったらいいか分かる。
それと同じように、火は、私たちを導く。
あなたは何かを決断する時に、神様の導きを求めているだろうか?

3. 火は燃え広がっていく
聖霊の働きはあなたから始まって、周りに広がっていく

そんなお話でした。
心燃やされる夜でした。

今日はNYDayだったのですが、
夕方ちょっと時間が出来たので、
以前からちょっと興味があった、
マンハッタンの中央郵便局のOperation Santa
のところに立ち寄りました。
でも、ちょうど4時半まで。
タッチの差で閉まってしまったところでした。
残念。

このプログラム、貧しい子ども達からのサンタさんへのお願いを、
かなえてあげようというプログラム。
テレビのニュースとかで見て、いつか参加したいなあ、と思ってきました。

「サンタ」のあり方、
子ども達にどのように伝えるか、についてはちょっと思うところもあり、
またいろんなことを考えていきたいと思っています。
また、ここでもそんなこと分ち合っていきたいと思っています。

でも、今日は、その郵便局に立ち寄れる唯一のチャンスだったかも・・・。

HPを見ると、
「近所の郵便局でも取り扱っているかもしれないから、聞いてみて」ということですので、
ちょっと聞いてみようかな。

で、今日の聖書。
今日はコリント第2の手紙10章を読みました。

今日は英語で紹介。

「 I beg you that when I come I may not have to be as bold as I expect to be toward some people who think that we live by the standards of this world.」2節の言葉です。

直訳すると、
「私は請います。私があなたがたのところに行く時に、私が今考えているほどの強さで接しなくても済むようにと。私たちが世間のスタンダードによって生きていると思っている人々に対して」
ということになります。

どういうことかというと、
「私たちが世間のスタンダードに従って歩んでいると勘違いしている人々に対して、こっちが強く出なければならないかと思うと気が重いなあ」ということですよね。

「世間のスタンダードに従って」という言葉が心に留ったのです。

パウロはもちろん、「私は世間のスタンダードに従って生きてはいないよ」と言っているわけです。

では何に従っていたかというと、やっぱり神の基準であり、神の導きに従っていたわけです。
自分の生きている基準はなんだろうかと思わされました。
自分は何を基準に歩んでいるだろうかと。

世間のスタンダード。
それに縛られていると、しんどいです。
傍若無人に生きようということではありません。

神様が与えて下さっているスタンダード。
それは世間のスタンダードよりも魅力的で、
世間のスタンダードよりも私たちを生かしてくれるもので、
世間のスタンダードよりも周りを生かしていくれるものです。

神様の基準、そして、神様の私への個人的な導き、
見せて頂きたいと思わされます。

主よ、
私は何を基準に生きているでしょうか?
世間のスタンダードは、ある時には楽に見えます。
でも、あなたのスタンダードを知りたいです。
そして、あなたが私のために特別に持っておられる計画を知りたいです。
どうか、あなたの喜ばれる道を歩む者としてください。
聖霊様、
あなたが私を燃やしてくださり、
教会を燃やしてください。

2006-12-12

与えられる

今朝は0度どころか、温度が上がって、5度もありました。
昼間もまあまあ、といったところでしょうか?
暖かくて助かります。
今夜は冷え込みませんが、雨が降り出すみたいです。

大した雨ではないようですが、
明日はNYに行く日なので、ちょっとイヤですねえ。

そう、今月から第2週と第4週の水曜日はNYです。
今月の第4週は休暇なので、今月は1回だけですが・・・。

今晩は久しぶりにBrooklyn Tabernacleの祈り会に行ってきました。
30分遅れて着いたので、ちょっと気持ち的に入り切れませんでしたが、
それでも、ほんとうに「祈ろう」と思わされます。

「私の家は祈りの家と唱えられるべきである」

ほんとうに教会が教会となるために、必要なのはそれだと思いました。

最近読んでいる本に、
「自分が整えられるために、自分の時間の50パーセントを用いなさい」ということが書かれていました。
自分はそれが出来ていないと思います。
もっと人の話を聞かなければ、もっと人のところに出ていかなければ、という気持ちに振り回されて、自分が整えられるために十分な時間を取っていないなあ、と思います。

でも整えられないで出ていっても、
出会った人に何をお渡しできるかと言ったら、何もないですよね。
逆に悪い影響を与えてしまうことだってあるでしょう。
だから、ほんとうに自分が整えられて、備えられていくこと、
大切なことだと思います。
それが一番時間を有効に使うことなんだろうと思えてきました。
ですから、今日、時を作って祈り会に行けたことはほんとうによかったなあと思います。

明日はその教会のJim Symbara牧師が、NJ初代教会という韓国教会でメッセージをされます。
英語から韓国語への通訳の方は講壇に上がって、先生の横で通訳されるようですが、
私が英語から日本語への通訳をすることになりました。
2階のブースに入って、ラジオでヘッドフォンをしている人に飛ばすヤツです。

お祈り下さり、応援して下さい。
横にいて、困った時に助けてくれる人も欲しいのですが・・・。
息子に聞いたら、「明日はバスケの試合を見に行く日だ」と振られてしまいました。
お祈り下さい。

今日の聖書。
今日はコリント人への第2の手紙9章を読みました。

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。」10-11節。

今日のところも献金のところ。
献金のことで恐れを覚えるとすると、
やはり「大丈夫なんだろうか」「食べていけるのだろうか」という心配でしょう。

きつきつでやっているのに、
ささげたら、やっていけない・・・
そう思うことがどれほどあるでしょうか?

でも、与えて下さる方、備えて下さる方、
その方がおられる、それを信頼したら、こわくなくなるのです。

大丈夫。
神様はひとりひとりに与えられたものの90パーセントで生活できるように、
与えて下さっているのです。
いや、実際のところ、もっと豊かに与えて下さっているのでしょう。

神様が必要なものは必ず与えて下さる、
と信じたら、楽になるものです。

今日の集会のテキストにありました。
「信頼と冒険は支え合って前に進んでいく」と。

「一歩信頼したら、一歩冒険できるようになる。
一歩冒険したら、もう一歩信頼できるようになる」

やっぱり冒険しないと分からないことありますよね。
主を信頼して、もう一歩冒険してみたいと思いました。

明日の通訳も「冒険」です。(^^;)

主よ、
あなたがすべての必要を満たして下さる方であることを信頼しています。
どうか、わたしがあなたをまた一歩信頼して、また一歩冒険できますように。
あなたと共に歩ませて下さい。
「必要を満たして下さらないじゃないか・・・」という思いに囚われておられる方がおられたら、
どうか、あなたが語ってくださいますように。触れてくださいますように。
感謝します。
明日、あなたが助けてください。

2006-12-11

参加する

今朝の最低気温!
-0.5度でした。やったね。「0度か-1度」と予想したのが、
ぴったり中間で当たるなんて。
でも、とにかく暖かく感じました。
一度寒いのを経験してしまうと、ほんと、0度くらい、何てことないです。

昼間も14度まで上がって、何だかいいですね。
今夜も今は10時半で3.7度。
明日の朝も0度くらいでしょう。
でも、昼間は今日ほど上がらないと思います。
「東風が入る」というパターンです。

今日はこの地区の日本語牧師のミーティングがありました。
場所は、家から30分の韓国教会。
そこで日本語での働きもしておられます。

その教会に行ったのは2回目ですが、すごい。
立派な建物です。
そして、機能的な建物です。
10年がかりのプロジェクトだったそうですが、
今度はいつか、ここまで来るのにどんな経緯があったのか、
どんな問題を乗り越えてきたのか、
どんな祝福を神様が与えて下さったのか、
教えて頂く時があればいいなあと思わされました。

さて、今日もあっさりと、聖書の話に行きます。

で、今日はコリント人への第2の手紙の8章を読みました。
献金のことについて書かれているところです。

「彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。」3-4節。

特に、この「聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたい」という言葉、
すごくいい言葉だと思いました。
義務ではなくて、そこに参加する恵みを知っていること、
オプションなんだけど、絶対参加した方が得!ってことを知っていること、
すばらしいことだと思います。

私自身、そんな経験をいくつかしてきましたが、
ほんとうは結構まだまだ、そんなチャンスがたくさんあって、
何回もその恵みにあずかることをみすみす逃しているのではないかと思いました。

主の許で休むこと、
主の許で癒されること、
それが私たちの原点なんだと思います。
それが一番大切なことなんだと思います。
だから、それをスキップして、
「神様のためにこれをした、これも犠牲にした」と思うのは、
危険だと思います。
自分の手柄だと思ってしまうから。

でも、ほんとうに主によって赦され、癒された感謝で、
この「支える交わりの恵みにあずかる」ことは、
とっても幸いなことだと思います。
もっともっと、その様な経験をしていきたいと思います。
神様のご計画に参加することが出来るなんて、なんてすばらしいことかと思います。

主よ、
あなたの与えて下さった大きな大きな愛に感謝します。
私もあなたのご計画に参加させて下さい。
大きな大きなご計画の一部に入れて下さい。
それがきついことかもしれません。
でも、それを喜んで負っていく者とならせてください。


2006-12-10

悔い改めに至る悲しみ

今朝は1度くらい。
一度-8度を経験してしまうと、0度前後は「冷え込み」ではなくなりますね。
昼間も12度まで上がりました。
穏やかな一日でした。

今夜は今、夜の10過ぎで3.2度。まあ、0度か-1度に下がるでしょう。

車のフロントガラスに霜が降りるでしょうから、
6時に家を出て教会の早朝祈祷会に来られる方は、
外に出してある車には、ご注意。

今日は「JOYJOYクリスマス」・・・たくさんのお友達が来て下さいました。
ベビーは除いて、小学生以下の子ども達が60名余り。
中高生や大人、ベビーを加えると、うーんと、130人から150人くらいはおられたでしょうか?
いや、もっとかな、大盛況でした。

それで、今年は、何といっても、中高生の劇がすごくよかったです。
息子が脚本・監督で、娘も出演していたので、
ちょっと親バカの部分もあるんですが、
「これは、子ども達にも、大人にもいい」
「伝えたいメッセージ、これなんだよなあ」
「出演している中高生が心からそう思って演技しているからいい」
っていろんなことを感じていました。

特にその中心メッセージ、
「神様が私たちのために最高のクリスマスプレゼント・・・イエスさまを与えて下さった」
「それがうれしいから、私たちも愛を伝えていこう」
には深く共感しました。

もちろん、まだまだこれから成長していく余地のあるもの。
もっともっといいものを作っていって欲しいと思いました。

そこで、今日の聖書。
今日はコリント人への第2の手紙7章。

「あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。」8-9節。

これはパウロが前の手紙で、かなりきついことを書いたことに関して、
その反応を見て、彼がまた語っていることです。

パウロも、一時的には「あんなことを書いて、まずかったかなあ」と思ったということに、
ちょっと慰めを感じます。
私もそういう相手の反応で「まずかったかな」と思ってしまうことが多いからです。

でも、その後、コリントの人々は、「悔い改め」に導かれました。
その御業をも信頼することの大切さを思わされました。

このことを指摘しても関係が悪くなるだけで、
逆効果だろうなあ、と勝手に決めてしまって、
そのうち解決するだろうと、そのままにしてしまうこともあります。
でも、ほんとうにそれでよかったのだろうか?と思うこともあります。

でも、ほんとうにその方を信頼して、愛して、指摘する時も必要なのだろうと思います。
「神様の御心に沿うた悲しみ」を信頼していくことの大切さを感じます。
そのための愛と勇気を与えて欲しいと思います。
「愛と勇気」・・・アンパンマンの歌みたいですね。
でも、ほんとうにそれが必要だと思います。

主よ、
今日のJOYJOYクリスマスを守り、祝福してくださったことに感謝します。
どうか、子ども達、お父さん、お母さん達の心に、あなたの御言葉が留まりますように。
続けて教会に来る子ども達をもっともっと起してください。
私に「愛と勇気」を与えて下さい。
本気で教会を愛し、教会に集う方々を愛する者としてください。