2009-09-25

聖なる神の情熱。


今日は昨日までよりもずっと涼しくなりました。
夜には寒いくらいになっています。
今、夜の11時過ぎですが、12.3度。
明日の朝は一ケタに下がります。


明日はまた晴れるようですが、
夜には雨です。


昨日の朝と今日の夜は同じ内容だったのですが、
イザヤ書全体を1回で学ぶ、というチャレンジングな学び。


でも、その中で、
聖なる神様が、人間を遙かに超越して、
人間の罪をそのまま受け入れることができないきよい神様が、
熱い思いを持って、人間と共に歩むことを決意されている姿に
心震える思いがしました。


この神様の熱い思いを、
私も分けて欲しいと思いました。
その神様の熱さに動かされて、
私も熱く仕えていきたいです。


さて、昨日、9月24日(木)の聖書。
エレミヤ10:1-16。


「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」16節。

「こんなものではない」っていい響きですね。
わたしたちが神様から与えられるものはこんなものではない。

この方は、世界を造られた方。
ナイアガラフォールズも、
グランドキャニオンも、
ブライスキャニオンも、
イエローストーンも、
ヨセミテも、
富士山も、
チョモランマも、
モンブランも、
みんな造られた方。

いや、それらは、地球の大きさに比べると、
タマゴの殻の表面のざらざら程度だと言われる。
でも、その地球が太陽には100万個も入る。
その太陽も宇宙の中ではホントに小さな小さな一つの星に過ぎない。

その宇宙を造られた神様が、
私の必要をご存じで、
必要なものを与えてくださる。

だから、安心していこう。
主がいつもいつも必要なものを与えてくださるから。

主よ、
あなたが満たしてくださる方ですから、感謝します。
あなたを信頼して歩ませてください。
こんなものではない、主の豊かさを味わわせてください。

祈る喜び。

朝9時です。
今日の朝の祈りの一時は本当に幸いなときとなりました。
時間が来て、そこから立ち上がるのがもったいない、と思うようでした。


若い頃、「祈り抜いた!」と思って、立ち上がった、
幸いな祈りの時を経験したときとは全く違う喜びでした。
そう、たぶん、そのころは、「祈り抜いた自分」に焦点が当っていたんだと思います。
いわゆる「何かをやり遂げた充実感」みたいなものだったのでは。


でも、今朝は違いました。
主と時間を過ごす幸い、
いろんなことを相談して、主の考えを聞きたい、という思い。


それが単なる独り言や、自分の心の中だけで巡っている思い、
ではなくて、確かに主はここにいてくださって、
答えを与えてくださるんだ、という感覚。


決して今日初めてではないのだと思います。
以前にも同じようなことを書いていると思います。


でも、今日、またそこに連れて行ってもらいました。


教会の一人一人、私の周りの一人一人の方々のことを覚えて祈るときに、
仕事のこととか、家庭のこととか、健康のこととか、経済のこととか、
それらよりも、一人一人の霊的な状態というか、魂の状態というか、
神様との関係、神様にどんな思いで歩んでいるか、とか、
そちらの方に心が向いている自分がいました。


ああ、もっともっと神様と時間をシェアしたい。
もっともっと私の気持ちもシェアしたいし、
神様が一人一人のことをどのようにご覧になっているかを
シェアして頂きたい。


でも、教会の帰りの車の中でも、
決して、聖霊様を教会に置き去りにして帰ってきている感じはしませんでした。
聖霊様と一緒に車を運転して家に向かっているんだ、と思いました。


陳情団が一生懸命「そこを何とか・・・」とか言っている、
そんな祈りから、一つの書類を一緒に見ながら、
「これはどうなんでしょうねえ」なんて相談してるような、
そんな祈りに導かれているように感じます。


さて、おととい、9月23日(水)の聖書。
エレミヤ9:17-26でした。


「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」24節。

今朝も、Max Lucadoの"Fearless"の2章を読んでいたのですが、
何かを誇らなければいけない、ということは、
やはり、自分が不安なんだと思います。

自分が自分であることが不安。
自分が自分であることに自信が持てない。

自分もいばりんぼうですから、
本当によくわかります。
そんなもので自分を飾らないと、
自分の存在意義を保っていることができない。

でも、本当に神様に愛されていることを
何かをする前に、何かがなかったとしても、
神様に愛され、認められていることを本当に深く知っていくときに、
自分自身で、平安でいられるんだろうと思います。

ただ、神様を知っている、
もっと言うならば、神様のわたしたちに注がれている愛を知っている、
そのすばらしさ、その意味の深さをもっともっと自分の一部として、
経験していきたいと思わされました。

主よ、
あなたを知っている幸いを感謝します。
あなたがどんな方か、あなたがどんなに大きな愛をもって、
私の人生を導いてくださっているか、
教えてくださって感謝します。
もっともっと、そのことが私の身になりますように。
私の一部になりますように。
その喜びに生かしてくださいますように。
言われなくても、「私の誇りは主です」
「私の誇りは神様に愛されていることです」と、
高らかに宣言して、生きる者としてくださいますように。

日曜日だけではなく・・・

今日はホントに暑かったですね。
最高気温は29度。
でも、夜になって、昨日よりもずっと涼しくなっています。
今、12時前で17度。


明日の朝はちょっと肌寒いくらいになりそうです。
昼間も晴れますが、涼しいでしょう。


私が尊敬しているサンディエゴの牧師さんが、
いつの頃からか、というか、4月頃から、
日曜日の礼拝の内容を「テイクアウト」で、
お持ち帰り用の質問を準備されるようになりました。


それをまねして、私も8月から、テイクアウトQuestionを準備しています。
いいです。
やっぱり日曜日の礼拝説教に何度も何度も引き戻されて、
それで、やっと身になっていく。
そんな感じがします。
御言葉を日曜日教会においていかないで、
日々の歩みの中で反芻していく。生きていく。
その助けになれば・・・と思います。


20日の日曜日の礼拝説教の内容はこんなんです。







ルカ22:31-34
「わたしたちを支える主」

序)最後の晩餐・・・新しい時代の始まりを予告する。
  新しい秩序には新しい人々が必要。・・・弟子達。
  イエスはその弟子達のために祈られた

1)あなたのために祈られるイエス
サタンのたくらみ・・・用いられようとする者への攻撃
イエスの祈り・・・試練がなくなるより、そこで守られること。
←→ペテロは自分が祈られなければならない者であることを認めてもいなかった。「自分がイエスを守る!」

2)他の人々を励ます使命
クリスチャンの励まし・・・耳(聞くこと)・口(言葉、でも、単なる気休めではなく、神の支配と肯定へと目を向けさせる言葉、聖書の御言葉)・ひざ(祈り)
イエスの十字架による救いとゆるしを頂いて、それによって人を励ます者となる。

そして、最初のQuestionはこちら。

誰かがあなたのために「祈ります」と言ってくれるときに、「いえ、結構です」と思うときはないですか?それはどんな時ですか?

これは、私の場合はありますねえ。
自分の場合は何が問題かってやっぱり「プライド」。
本当に祈ってもらうって砕かれないとできないと思います。
この時のペテロの「私があなたを守るんです!」みたいな気持ち、
とってもよくわかります。

でも、以前も書きましたが、
今回の修養会で、本当に祈られる幸いを経験しました。
もっともっと祈って支えて頂きたいと思います。

今夜は近所の男の子二人の兄弟が、
夜、Back to School Nightのために、
お母さんがお出かけになるために、
遊びに来てくれました。

本当に楽しかったです。

もう、うちの子にしてしまいたいくらいでした。

いや、女の子が遊びに来てくれても嬉しいのですが、
なんだか、男の子が遊びに来てくれるのが、
とても新鮮で、一緒にゲームとかしてしまいました・・・。

女の子が遊びに来るときには、ちょっと遠慮があるかな?
「怪しいおじさんにならないように注意しよう・・・」ってね。
「『寒い』と思われたらどうしよう」とか・・・。
でも、男の子が遊びに来てくれるときには、
ずうずうしく、いろいろ話しかけたり、
冗談を言ったりできてしまいます。
「寒い」と思われても、全然大丈夫です。
相手が男の子だったら・・・。
でも、サキの友だち(女の子)とかに、
「サキちゃんのパパ、寒い・・・」とか、絶対思われたくないです。ハイ。

まあ、子供の頃、家の中に女は母だけでしたからねえ。
ちょっと女の子に対してはどうしていいのか、わからない、ってところありますね。

帰りに「もうウチの子になってしまいなさい」と冗談で話していたのですが、
告白しますが、心の底の方に、ちょっとだけマジが混ざっていました・・・。

次の目標は「女の子の前でも自然体でいよう」ですね。(笑)

さて、9月22日(火)の聖書。
エレミヤ9:3-16

「 これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。」9節。

神様は不義に対して、不信仰に対して、
それを罰せないではおられない方。
本当はそう。

徹底的にそう。
本当に神様は罪を罰せないではいられない方。

それが徹底的にわかるときに、
赦されない罪を持っていることがわかるときに、
それが他の誰かのことを言っているのではなくて、
まさに自分自身であることがわかる時に、
神様はその愛をわたしたちに与えてくださったことがわかる。

罪が深刻であればあるほど、十字架が輝く。
その救いはまさに聖書にあるんだと、知って欲しい。

神様はなあなあで罪を赦す方ではない。
厳しい方。罪を罰せないではおられない。

そのことがわかるときに、かみさまのめぐみがわかる。

主よ、
あなたが罪をいい加減にできない方であると、わかりました。
そのあなたがわたしたちに目を留め、招いていてくださることに感謝します。
続けて、あなたのことを証するチャンスを時間を与えてください。
そして、その時、(今だ!)という感覚がわかりますように。
あなたの御思いをわかる者とならせてください。


2009-09-24

恐れるな。



昨日は悪い方に外れましたが、
今日はこんどはいい方に外れました。
結構晴れて、本当に蒸し暑くなりました。
夜の12時になっても23.7度もあります。


今夜、雨がパラパラ降っていました。
また、雷雲も発生しています。


明日は・・・もうわかりません。
ただ、もう一日蒸し暑い日になりそうです。


今夜も10時半頃になったので、
昨日の夕方家を出てから、サキには会っていません。
ユキも会ったような会っていないような・・・。
よく、「子供に会うのは週末だけ・・・」というお父さんがいるという話を聞きますが、
これが毎日になって、慣れてしまうんでしょうね。


明日はキッズクラブもありますので、
2日ぶりに会えそうです。


今日の朝、Amazon.comから着たメールで、
こんな本はどう?という推薦に「Fearless」というMax Lucadoの本を見つけ、
8月に発行された本なのですが、かなりの評価。
私も「恐れ」の問題は人ごとではありません。
早速、初めてKindle for iPhoneをためすのを兼ねて、購入。
ハードコピーよりも割安で、思い立ったときに、すぐに買って読み始められる。
何よりもこれがうれしい。
Amazonは買ってから手元に来るまでが、問題。
特に英語の本は、その間に盛り上がった気持ちがしぼんでしまうこともあるので。


Kindleは持っていませんが、
iPhoneで読めるのはお手軽でいいです。
問題は辞書もiPhoneに入っているので、
わからない単語をすぐに引けない・・・
辞書を引くためには、Kindleを閉じなければいけない。


うーん、わからない単語をタッチすると日本語で意味が出てくる、
とか、そういう機能を入れて欲しい・・・。


でも、まだ1章しか、読んでいませんが、楽しみです。


1章で教えられたこと。
イエスの命令の中で一番多いのは
「愛しなさい」ではなくて、


「恐れるな」。


嵐の中で船の中で寝ていたイエスの平安。


ゆっくり、でも、着実に読んでいきたいです。


さて、9月21日(月)の聖書。
エレミヤ8:18-9:3。


「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。」9:1。

ここまで悲しむ。
ここまで愛する。
ここまで熱くなる。

そのような心が自分にあるか、
そこまでの思いがあるか?
そこまで人々を愛しているか、
いろいろ考えさせられます。

今、これを打っている最中、
テレビJAPANでは佐野元春と小田和正が対談しています。
この2人、私は結構好きですが、
特に「生まれくる子供たちのために」を出したときの話を、
小田さんが話しています。
日本が好きだと。

私も日本が好きです。
日本のためには泣きます。

でも、本当に次の世代のために、
わたしたちは、いや、私は神様から何を託されているでしょうか。
日本のために、そしてこの、アメリカのために。
今、目の前に与えられている教会の一人一人のために。

本気で使命果たさせて頂きたいです。

主よ、
あなたがいてくださるからありがとうございます。
あなたが私を生かしてくださっています。
あなたの私に与えてくださっている使命を果たさせてください。
愛と情熱を与えてください。

2009-09-23

Time Management...

今日もいい天気で暖かい、というのは外れましたね。
今日はどんよりで、気温も機能に比べるとやや低め。
明日も天気は余りよくないですが、
どちらかというと蒸し暑い日、になると思います。


今日は、1ヶ月前にNCに行ったときに、
ビデオに収めてきたお世話になったご夫妻のお証の
原稿おこし。
ビデオを見ながら、神様の不思議な御業をあがめていました。
ご本人の承諾が頂いて、10月号のニュースレターに掲載予定。


そして、4時半頃には家を出て、NYへ。
Citicorpビルの地下のホールの片隅で学びをしました。
そしたら、隣でも4人の女性が祈っています。
どうやら韓国の若いクリスチャンの姉妹方のようでした。


考えてみたらそうですよね。
NYで集る場所をみんなさがしている。
なかなか自由に使える場所がない中で、
みんなそのような学びができる場所を、
ただで借りられる場所を探しているんですよね。


そういう学びがあちらこちら、NY中にあふれますようにと、
祈らされました。


帰ってきたのは11時前。そして、明日は5時半には家を出て、
一日NYです。
ジャパニーズ・ビジネスマンみたいです。
私はスケジュールはしょっちゅうあるわけではないんですが、
皆さん大変な日々を送っておられるんですね。
守られますように。


これから週末にかけて注意深いTime Managementが必要です。
主から任された時間、日々を、正しく主に喜ばれるように用いさせてください。


さて、9月20日(日)の聖書。
エレミヤ8:4-17。


「見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。」9節。

主の言葉に聞くことこそ、知恵の始まり。
主を恐れて、主の言葉に従っていくことこそ、
知恵のはじめ。

なのに、わたしたちはその知恵の世界を
聖書の世界や、信仰の世界、神の支配される世界と
引き離そうとしてしまっている。

そう、神のない知恵は本当の知恵ではない。
知恵が神への信仰を失ってしまったら、
もうそれは知恵ではないのだ。

神の御言葉を信頼しよう。
そこに自分の人生をかけていこう。
そして、主がしてくださる御業を共に見ていこう。

本当の知恵を得て、主からの知恵を頂いて、
立ち上がっていこう。
恐れる必要はない、
ひるむ必要はない。
本当の知恵はこちらにこそあるのだから。

主よ、
今週のTime Managementのためにもどうか知恵をください。
そして、あなたの知恵に従って歩んでいくことができますように。
あなたを閉め出して、「こちらこそ本当の学問だ」と言っている者たちに、
それが間違っていることを示してくださいますように。
明日も支えてください。

2009-09-21

試練の中で守られますように。

今日は本当に暖かくなりました。
夕方ちょっと庭仕事をしたのですが、
あっという間に汗をかきました。


今は夜の11時ですが、16度あります。
今朝までは一ケタまで下がりましたが、
明日の朝は12度くらいでしょうか。


明日もまたいい天気で暖かくなりますように。


昨日の礼拝では、最後の晩餐の中で、
イエスが新しい時代のために、
「新しい契約」「新しい秩序」を宣言されたのに続いて、
弟子達を「新しい人々」として立てられたことを語らせて頂きました。


主がその新しい時代を担うわたしたちのために今も祈ってとりなしておられるのです。


サタン(悪魔)はこれから用いられようとしている人々、
用いられようとしている教会を攻撃してきます。


大体、メッセージを語った後には、
その内容について、自分自身が問われるものですが、
今日もそれを感じていました。


朝から心が騒ぐようなことがあり、
午後にも攻撃を感じました。
落ち込ませようとする攻撃を感じました。


その中で、ただただ、イエスが祈っていてくださること、
そのような試練の中でも守られるように祈ってくださること、
それが支えです。


今日は休日。
すっかり食欲も戻って、
順調にリバウンド中です。(笑)
週末、「今日は無理・・・」と、ずっとお預けになっていた
「ゲームをしよう・・・」というサキの誘いに
やっと答えて、今日はカードゲームをしました。
はい、もちろん手加減なしです。
これはハジの子供の頃からの、私の主義です。
「大人げない」と言われてもかまいません。
私が本気でも勝てない子供を育てようということで・・・。


17年前、日本を出てくる直前のこと、
主任牧師の7歳くらいのお嬢さん相手に、マジでやってしまって
泣かれてしまったときには、さすがに、ちょっとやりすぎたかな、と反省しましたが、
自分の子供だとそれは容赦はしません。


はい、今日ももちろん圧勝でした。v(^^)
問題は、負けてばかりで、本人のやる気が続くかどうかですが・・・。


ちなみに、ハジはウルトラ負けず嫌いな大人になってしまいました。
そして、ユキはこちらが誘っても、決して遊んでくれません。


・・・ん?これって、私の「子供相手でも本気でやる」という主義が間違っていた、ってこと?


さて、土曜日、9/19の聖書。
エレミヤ7:29-8:3。


「それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさらす。それらは集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。」2節。

私は、子供の頃から教会で育って、
日の出を拝むとか、大木や立派な滝や
そういうものに神が宿る、とか、そういう感覚は全くないのですが、
でも、そのようなものに畏れを感じると言う感覚はちょっとわかります。

ですから、大きな木にしめ縄がつけられていても、
立派な滝の前に神社があっても、
「そういう気持ちになるよなあ」というのは思います。

でも、この聖書の箇所は、そんな態度にもNOと言っています。
どうしてなんだろうなあと思います。

そのような人間を超えたモノ、それが自然界の中のものであっても、
神ではないものであって、見当違いであったとしても、
自分より大きな存在の中で、膝をかがめたくなる気持ちは、
神様は尊重してくださらないのかなあと。

でも、それほど、神以外のものを神とすることが、
深刻な罪なのだ、ということを聖書は語っているんですよね。
その見当違いがたいへんな結果を生み出してしまうのだ、ということなんだと思います。

自分よりも大きな存在がすべて神で、・・・つまり神々がたくさんいる、
というのではなくて、
本当にわたしたちが拝み、膝をかがめ、礼拝すべきなのは、
祈りを捧げるべきなのは、この天地を造られ支配されている主、
お一人なんだと、もう一度主の前にひざまずかせられました。

主よ、
あなたを、あなただけをあがめるものでありますように。
人や、能力や、力や、お金や他のものを拝むことがありませんように。
何よりも自分を主とすることがありませんように。

発想の転換中。


今朝の最低気温は8度。
でも昼間は24度まで上がりました。
あたたかな一日でした。


明日はもっと暖かくなるみたいです。
9月の下旬にこの陽気はありがたいですね。
あさって以降は朝の冷え込みも弱く、
今週いっぱいは暖かいようです。


しっかりエンジョイしておきましょう。


今日の礼拝も祝福されました。
久しぶりの方や初めての方も来られました。
そして、何よりも、
語りながら、自由を感じていました。
みことばが一人一人の内にとどまり、
一週間の歩みを通して、みことばが消化されますように。


今日は6時にはすべてが終わったので、
NYへの送りの車の奉仕があったのんちと
今日まで「大北海道展」なるものをやっていた、
ミツワのフードコートで食事ということで、待ち合わせ。
絶対、電話で打ち合わせをしたときには、
自分たちの方が早く着くだろうなあ、と思っていましたが、
なんと、駐車場でばったり会えるくらいのグッドタイミング。


家族で入ったとたんに「のんち(ホントはここは本名)さ~ん!」と呼ぶ声。
のんちの元同僚が「大北海道展」の売り子をしていて、もう完売間近の片づけ中。
「これでさいごだよ~」の元気なかけ声に、
勢いで買ってしまいました。コロッケ。
おいしゅうございました。


私自身は久しぶりの本格的な食事で、
ご飯は残したのですが、
ちょっと食べ過ぎたかな、って感じ。
でも、ここまで元気になって大感謝。


帰り道、車2台だったので、
私の運転の車は下の子のサキが乗ることに。
帰りの車の中で、試しに
「Yankeesの試合行きたい?」と聞いたら、
「行きたい!行きたい!途中で寝るかもしれないけど、行きたい!」
と、ビミョーな部分もありながら、とりあえず嬉しいお返事。
そこに続けて出てきた言葉。
「ジーターとマツイとポサダしか知らないけど・・・」
その瞬間、この子を野球のわかる女の子に育てようと決心したのでした・・・。
いや、ただ「わかる」だけじゃなくて、父親と野球の話で盛り上がる娘に育てようと・・・。


そう、発想の転換進行中。
「スポーツのことは男の子だよなあ(偏見ですか?)」→「自分が女の子に合わせて、会話を弾ませなければ・・・(結構難しい・・・ちょっとうっとうしいと思われているかも・・・)」→「スポーツのことがわかる女の子を育てればいい(これだ!)」
という段階まで進んでいます。


そして、調子に乗って、じゃあ、上の子は天気予報の話ができる女の子に育てようかなあ、とたくらんでいるオヤジなのでした。(嫌われるでしょうか・・・)


帰ってから、明日NCで手術を受けられる方にお電話。
神様が守ってくださいますように。
聖書学院で共に学んだこちらの先生も明日手術。
主が守ってくださるように祈っています。


さて、9月18日(金)の聖書。
金曜日はエレミヤ7:16-28。


「 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。」16節。

神様がこの言葉を語られた意図を考えたときに、
「今は、私に祈るのではなくて、彼らに語るべき時です」と言われているように感じました。
本当はエレミヤは預言者として、神のメッセージを語るべき時だったのに、
それを恐れたのかもしれません。
人々が神の裁きの言葉や、譴責に言葉に反発をすることを恐れたのかもしれません。
神にとりなしの祈りをしていました。

それを神は許されませんでした。
今は彼らに語るべき時です、とエレミヤに言われたのではないでしょうか?

民の罪の姿を指摘して、悔い改めを迫るべき時だと。

そんなことを思いながら、
自分の弱さを思い知らされています。

本当は罪を責めるべき時、
本当は問題を指摘すべき時、
その人の前では、ひるんでしまって、
主の前に、状況を述べてとりなしの祈りをする。

祈りが大切だから・・・ということで、
言うべきことも言わない。

自分が今までそうやって逃げてきた部分はないだろうか、
そのように思わされました。

主のしもべとして、主のメッセージを語る器として、
主に従っていきたい。
一人の人が悔い改めて主の許に帰ってくるための
働きをさせて頂きたい、そのように思い、祈らされました。

主よ、
私の使命を果たさせてください。
それ、「楽しいこと」ばかりではないという覚悟を忘れることがありませんように。
恐れを取り除いてください。恐れを乗り越えさせてください。
あなたのメッセージを語る者としてください。

2009-09-20

形に頼るな。

また12時を過ぎて日付が変わってしまいました。
あ、今日は野球じゃないですよ、
日曜日の準備が遅くまでかかってしまっています。


昨日もいい天気でした。
でも、夜になって冷えてきています。
今、夜の1時過ぎですが、10度まで下がってきています。
この後、朝の最低気温は10度を大きく下回って、
6度くらいまで下がると思います。


寒いくらいですね。


でも、明日もいい天気で暖かくなるでしょう。


さて、木曜日17日の聖書。
エレミヤ7:1-15でした。


「しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている』と言う。」9-10節。

神は形式だけに陥っていた人々に、
厳しい言葉を掛けられた。
自分はひどいことをしていたのに、
この神殿があるから大丈夫、
この神殿の中に神がいるから、
そこで祈ると聞かれるから、大丈夫、と、
そこに安住していた。
そこにあぐらをかいていた。

でも、神は、ご自身に従うことを求められている。

わたしたちも、「洗礼を受けているから大丈夫」
「教会に行っているから大丈夫」
「奉仕をしているから大丈夫」
「人のために尽くしているから大丈夫」
そんな形式主義に陥っていることはないだろうか?

本気で神に従う者、
本気で神を信じる者でありたい。

形だけに陥ってしまうことがありませんように。

主よ、
私が形でやっているかのように勘違いすることがありませんように、
ただ、ただ、あなたの導かれるところに従うことができますように。
あなたの「しなさい」ということに従って歩むことができますように。