2020-03-27

2020レントの学び第5回 「ゲッセマネの祈り」 マタイ26:36-46


今年は「イエスの苦難の中での祈り」というテーマで学びの時を持っています。今日は、5回目で、「ゲッセマネの祈り」について学んでいきます。

 第1回目と2回目は「イエスの父なる神との交わり」に焦点をあてました。そして、3回目と4回目は、イエスの私たちの対するとりなし、に目を留めました。今回、この「ゲッセマネの祈り」、十字架への道を歩まれたイエス様の祈りについての学びの中では、一番中心的な学びになると思います。「イエスが十字架への道の中で祈られた」という時に、誰もが思い浮かぶのがこの「ゲッセマネの祈り」だと思います。ですから、今日は、この聖書の箇所をじっくり味わいたいと思います。
 そして、この箇所は、イエス様の一番深いところにある父なる神への叫びと願いについて書かれていると共に、そこに私たちも招かれているのだ、ということを語っていると思うのです。

1)イエスの悲しみ
 37-38節にはこのように書かれています。
 
 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。

 この文章はかなり衝撃的です。イエス様は十字架への道をまっすぐに歩んでおられました。また、十字架の後、3日目によみがえられることもご自分で予告をしておられました(マタイ20:17-19 )。ですから、イエスは十字架を前にして、動じられることなく、歩まれた、と私達は思っていたいのです。動じない、強いイエス様の姿を期待します。しかし、イエスは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」とまで言われるのです。どうして、イエスはこのように言われたのでしょうか?どうして、イエスは十字架を前にして、このような悲しみを経験されたのでしょうか?どうして、このような、弱音を吐いておられるのでしょうか?
 それは、イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかられる、ということを間近に感じられたからではないでしょうか?もちろん、十字架の肉体的な苦しみを前にした恐れもあったと思います。また、人々に捨てられて、それも、この弟子たちにも捨てられて、罵られて、十字架を耐えるのだという精神的な苦しみもあったと思います。しかし、それ以上に、私たちの罪を背負って、罪の塊となって、父なる神に捨てられる、今まで読んできたように、永遠の三位一体の神の親しい交わりの中におられたイエス様です。そのイエス様にとって、罪を背負って、父なる神に捨てられる、ということは、どうしても耐えられない、本当に恐ろしいことだったのではないでしょうか?それが、3日目にはよみがえるのだ、ということがわかっていても、どうにもならないような悲しみだったのではないでしょうか?
 それは本当は私たちが負うべき苦しみであり、私たちが受けるべき苦しみでした。それをイエスは私たちの代わりに負ってくださったのです。

2)みこころのままにという祈り
 イエスはまず、このゲッセマネの祈りの中で、「この杯を私から取り除いてください」と祈られました。それは、イエスの心からの思いでした。しかし、イエスは、またご自分が私たち人間を救うために来られたことを、知っておられました。ですから、どこまでも、私たちの救いの道を開くことを求めておられたのです。ですから、「みこころのままになさってください」と祈られたのです。しかし、それは一回祈って、OK、もう大丈夫、というものではありませんでした。イエスにとっても、どんなに、それが最初からわかっていたことであったとしても、「みこころのままに」と簡単に立ち上がる事ができるものではありませんでした。2回目にも「もしもこの他に道がないのでしたら、みこころのままになさってください」と祈られたとあります。それは「他に方法はないのでしょうか?」という問いでもあったことでしょう。そして、3回目にも同じ言葉で祈られたとあります。
 イエスは決して、簡単に「みこころのままに」と祈られたのではありませんでした。本当に何度も何度も逡巡しながら、「この苦しみに遭わないですむようにしてください」と「みこころのままになさってください」との間を行ったり来たりしながら、祈られたのです。
 そして、最後は、私たちのための救いの道はこれしかないのだと、私たちが救われることを、私たちが神とともに歩むことを心から願って、その父なる神のみ心に自分の思いを委ねられたのです。そして、立ち上がられました。祈り抜かれたのです。

3)イエスと弟子たち
 イエスは、弟子たちに「一緒に祈ってほしい」と求められました。特に、ペテロとヨハネとヤコブには一緒に行くようにと求められて、「目を覚まして祈っていなさい」と言われました。イエスは、先週学んだように、弟子たちがイエスを捨てて行ってしまうことをご存知でした。ここにいるペテロが自分のことを知らない、と3回言うことも知っておられました。でも、それでも、イエスは彼らに「一緒に祈ってほしい」と言われたのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と、自分の思いを伝え、彼らの聞こえるところで叫ぶようにお祈りをされたのです。
 イエスは、自分の祈りを弟子たちに分かち合われました。それも、一番父なる神様に対して、インティメイトな、心の深いところまで全部吐き出すような、格闘するような祈りを弟子たちと共に祈られようとしました。弟子たちはそこまでなかなか受け取れませんでした。でも、その言葉を聞いていました。そして、私たちのために書き残したのです。私たちは、このゲッセマネの祈りを私たちの祈りとして祈るようにと招かれています。もちろん、イエス様の思いは100%はわからないでしょう。でも、私たちが自分が苦しみに遭って、「どうか、この杯を取り除いてください」と祈らないでいられない時に、このイエスの祈りを思い出して、私たちも同じように祈るようにと招かれているのです。
 神様は、いつも、私たちにその心のなかにあることを知ってほしいと願っておられます。私達の思いと神様の思いとは違う、とイザヤ書の55章にはあります。私たちにはわからないことがたくさんあります。でも、神様は諦めておられない。どうせあなた方人間にはわからないのだ、と諦めておられない。その心をしてほしい、分かち合いたいと願っておられる。だから、イザヤ書55章にはこのように書かれているのです。

8わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。
9天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
10天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
種まく者に種を与え、
食べる者にかてを与える。
11このように、わが口から出る言葉も、
むなしくわたしに帰らない。
わたしの喜ぶところのことをなし、
わたしが命じ送った事を果す。

御言葉が、神様から私たちに語られて、私たちのうちに実を結ぶのです。

また、ヘブル人への手紙の12章では、私たちの出会う苦しみのことをこのように言っています。

10肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 11すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

神様は私たちにそのきよさをシェアしてくださる。「きよさ」って神様の本質に関わる部分です。その部分を私たちに分かち合いたい、と思っておられる。私たちも、それを知ってほしい、それを味わってほしい、自分のものにしてほしい、そのように願っておられるのです。苦しみの中で、困難の中で、神様のいちばん大切な部分を知ってほしい、そのように願っておられるのです。

このゲッセマネの祈りに私たちは招かれています。これは単にイエスがこのように祈られた、というだけではなくて、私たちもこの祈りを共に祈るようにと招かれています。私たちに対するイエス様のみ思いに心を向けましょう。そして、私たちも簡単に「みこころをなしてください」ではなく、本当に神様の前に葛藤するようにでて、取っ組み合いをするように出て、その中で、神様のみ思いの前に自分自身をささげる祈りへと導いていただきましょう。