今日もスカッと晴れて、
気持ちのいい一日でした。
でも、夜になって冷えてきて、
今、夜の11時前ですが、10度くらいまで下がってきています。
明日の朝は5度くらい。この秋一番の冷え込みになりそうです。
そんな気持ちのいい天気の中で、
下の娘の学年(4年生)では1台5ドルで洗車をして、
ファンドレイジングをする日でした。
まあ、いつもろくに家の手伝いもしないような子供たちが
車を洗ってくれるわけですから、5ドルでも十分すぎるくらいのようですが、まあ、そこら辺はご愛嬌なんでしょうね。目的は子供たちのためのファンドレイジング。
でも、のんちが気になったのは、
「宣伝が地味すぎる。あれじゃ誰も気がつかない!」
ということだったそうで・・・。
(ちなみに、土曜日ですから、私は礼拝の準備中・・・)
倉庫部屋をごそごそ、
しばらくて、持ってきたのは、
何年か前のハローウィーンのために作った、
ハム太郎の着ぐるみ。
これは頭の部分をサキがかぶっている写真ですが、実際はカラダの部分もあります。
まさか・・・
そのまさかでした。
これを着て、客の呼びこみをするというじゃあありませんか・・・。
1時間後、大ウケだったと喜んで帰ってきました。
イエスは、「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」と言われましたが、「自分の十字架を負って」いるかどうかは、わかりませんが、少なくとも「自分を捨てて」はいますね。この方。ほんと、脱帽です。
ちなみに、この他に、「リボンちゃん」(ハム太郎の友達)「たぬきの親子」「ET」など、いろいろあります。お入用の方は、ご遠慮なくお申しつけください。
さて、昨日の聖書。
昨日は列王記第一13:20−34でした。
「あなたは主のことばにそむき・・・」21節。
そんなこと言ったって、騙したのはあなたでしょう、
と突っ込みたくなりますよね。
そして、その結果、この預言者が死んでしまったときに、
悲しみを覚えて、自分も一緒のところに葬ってほしい、なんて、
矛盾してません?と思ったりもしますが。
でも、この預言者の立場からすると、
やはり、従わなかったのは自分なんですよね。
あの人が悪い、あの人が騙したから・・・なんて言っても、しょうがない。
自分が神様に従うかどうかが、問われている。
他の誰のせいにもしてはいけない。
自分の責任。
自分が神様から聞いていることに、
忠実に従うこと、
決して人のせいにしないで、
自分が神様から語られたことに、
忠実に従うこと、
それが大切なんだと思います。
主よ、
人のせいにはしません。
あなたに従っていくことができますように。
あなたが語られることに、忠実に聞いていくことができますように。
2010-10-09
2010-10-08
またまたギフト。
今日の午前中は洗礼準備会。
本当に神様のなさることに感謝。
励まされ、また、これからの働きについて、
神様が新しい展開へと、
神様が招いてくださっていることを感じる。
もっともっと祈って、
もっともっと神様のなさることを見せていただきたい。
PCがふさがっているのて、
「日々のみことば」はまた明日。
こういう時は、bluetooth keyboard が欲しい・・・。
本当に神様のなさることに感謝。
励まされ、また、これからの働きについて、
神様が新しい展開へと、
神様が招いてくださっていることを感じる。
もっともっと祈って、
もっともっと神様のなさることを見せていただきたい。
PCがふさがっているのて、
「日々のみことば」はまた明日。
こういう時は、bluetooth keyboard が欲しい・・・。
2010-10-07
ギフト。
今日は神様からの幾つものギフト。
朝、教会で祈って外に出ると、
こんなに見事な朝焼け。
神様って芸術家。
しょっちゅう驚かせてくださる。
良いカメラも欲しくなるが、
まあ、いいとしよう。
そんなことを本気では考えなくなっている自分が、
ちょっと楽かな。
今週はこのあと、ずっと晴れ!
神様からのプレゼント。
そして、今日の家庭集会にも
たくさんの新しい出会いを与えてくださって、
感謝。
神様からの大きなギフト。
でも、そんな中でも、
今、一番の神様からのギフトは、
神様が私と時間を共有してくださることを、
喜んでおられるのだと、自然に思えることかな。
さて、今日の聖書。
今日は列王記第一13:11−19。
「そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。」19節。
昨日、清々しいほど、キッパリと、
ヤロブアム王の申し出を断ったこの預言者。
しかし、今日は、あっさりと、
この老預言者の言葉に引っかかってしまう。
自分の使命にどこまで立てるか?ということなんでしょうか。
他の預言者の言葉をどこまで聞くか、ということなんでしょうか。
でも、いくら預言者とはいえ、
見ず知らずの預言者の言葉に振り回されるのは間違いだろう。
自分の為にいつも祈ってくれている人が何と言うか、
それが大切なのではないだろうか?
祈られていることに感謝。
そして、祈ってくれている人の言葉を聞こう。
そして、私も一人ひとりのことを覚えてもっともっと真剣に祈っていこう。
主よ、
祈ってくれている人々のゆえに感謝します。
私も、一人ひとりを覚えて祈る者でありますように。
もっともっと祈ることを教えてください。
祈る喜びを満たしてください。
朝、教会で祈って外に出ると、
こんなに見事な朝焼け。
神様って芸術家。
しょっちゅう驚かせてくださる。
良いカメラも欲しくなるが、
まあ、いいとしよう。
そんなことを本気では考えなくなっている自分が、
ちょっと楽かな。
今週はこのあと、ずっと晴れ!
神様からのプレゼント。
そして、今日の家庭集会にも
たくさんの新しい出会いを与えてくださって、
感謝。
神様からの大きなギフト。
でも、そんな中でも、
今、一番の神様からのギフトは、
神様が私と時間を共有してくださることを、
喜んでおられるのだと、自然に思えることかな。
さて、今日の聖書。
今日は列王記第一13:11−19。
「そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。」19節。
昨日、清々しいほど、キッパリと、
ヤロブアム王の申し出を断ったこの預言者。
しかし、今日は、あっさりと、
この老預言者の言葉に引っかかってしまう。
自分の使命にどこまで立てるか?ということなんでしょうか。
他の預言者の言葉をどこまで聞くか、ということなんでしょうか。
でも、いくら預言者とはいえ、
見ず知らずの預言者の言葉に振り回されるのは間違いだろう。
自分の為にいつも祈ってくれている人が何と言うか、
それが大切なのではないだろうか?
祈られていることに感謝。
そして、祈ってくれている人の言葉を聞こう。
そして、私も一人ひとりのことを覚えてもっともっと真剣に祈っていこう。
主よ、
祈ってくれている人々のゆえに感謝します。
私も、一人ひとりを覚えて祈る者でありますように。
もっともっと祈ることを教えてください。
祈る喜びを満たしてください。
2010-10-06
自分がしてほしいことを、自分もしなさい。
今日は、ほんとに予報よりも良くなりましたね。
朝から青空が広がって、暖かくなりました。
2日どんよりが続くと、
青空が待ち遠しくなります。
明日も、晴れて暖かくなる予報が出ているのですが、
ほんとにそうなって欲しいところです。
今朝は、起きたときにはそれほど感じなかったのですが、
時間が経つにつれて、だんだん筋肉痛が出てきて、
どうしようかと思ったのですが、
さすがに、1日でギブアップはまずいだろうと、
今日は200Mほど長く、スピードもちょっとだけ上げて。
おかげで、体重も久しぶりに大台を割り込み、
BMIも肥満ラインの25.0まで下がってきました。
でも、走りながら、「高校生の頃は9kmを40分台前半で走っただろう」と思ったのですが、考えてみれば、それは、今の年齢の1/3の頃なんですね。体重も15-20キロくらい少なかった。やっぱり、自分の中で、高校時代なんてホンのさっき、って感じがしているんですが、自分はもうその後、それまでの2倍生きているんですね。無理がきかないわけです。ハイ。
ぼちぼちやろうと思います。
なんて言いながら、
今日もまた一つ、iPhoneアプリに出会ってしまいました。
Fit for Rhythm。
筋肉痛と闘いながら、一通りプログラムをやると、
自分がいかにバランス感覚がないか、が分かります。
これでしょうね。自分の運痴な理由。
50歳での運痴脱出を目指して、ちょっと頑張ってみようっと。
今日の2つの集会で、分かち合ったこと。
「自分がしてほしいことを、人にしなさい」というイエスの言葉。
自分がしてほしいことはなんだろうなあ、と思ったら、
「わかってほしい」「理解してほしい」「共感してほしい」かな。
だったら、自分もそうしなさい、というのがイエスの言葉。
人を理解し、共感することを求められているのだろう。
「人を変えようと思わないで、分かろうとしなさい」
これはイエスの言葉ではありませんが、
時々、自分で自分を戒める言葉です。
自分が自分ではない者になることを要求されるのは辛いものです。
牧師の働きをしながら、「あの先生のようになってください」と言われるのは悲しいことです。そして、そのようなことを言われたあとには、しばらく、自分がどのようにしたらいいのか、混乱してしまいます。
でも、自分はどうなのか、
やはり、人を「変えようとしている」ことが多いのではないだろうか?
「自分がしてほしいことを、人にもしなさい。」
今まで、余り心に留めていなかった言葉だけれども、
今、本当に重みを持って、心に迫ってきている。
明日も我が家で集会がある。
新しい方々が何人も来られる。
人を分かろうとすること、
それを実践することができますように。
さて、今日の聖書の言葉。
列王記第一13章1−10節。
「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。」8節。
神の人に癒してもらって、
神の人をもてなしたいと思ったヤロブアム王。
でも、神の人はそれをキッパリ断った。
それは神の命令があったから。
神が「何も食べたり飲んだりしてはならない」と言われていたから。
王に対して失礼と思われる言葉と行動。
でも、神の人はそれを貫いた。(ここまでは・・・)
神が言われたことだから。
自分はどうだろうか。
主よ、
あなたに従います。
あなたの導きに単純に従うものとならせてください。
恐れにとらわれることがありませんように。
そして、明日の集会でも、
あなたの祝福を満たしてください。
あなたの素晴らしさを大胆に語ることができますように。
あなたが命じられたように、
自分が理解して欲しいように、
自分も人を理解できるものとなれますように。
朝から青空が広がって、暖かくなりました。
2日どんよりが続くと、
青空が待ち遠しくなります。
明日も、晴れて暖かくなる予報が出ているのですが、
ほんとにそうなって欲しいところです。
今朝は、起きたときにはそれほど感じなかったのですが、
時間が経つにつれて、だんだん筋肉痛が出てきて、
どうしようかと思ったのですが、
さすがに、1日でギブアップはまずいだろうと、
今日は200Mほど長く、スピードもちょっとだけ上げて。
おかげで、体重も久しぶりに大台を割り込み、
BMIも肥満ラインの25.0まで下がってきました。
でも、走りながら、「高校生の頃は9kmを40分台前半で走っただろう」と思ったのですが、考えてみれば、それは、今の年齢の1/3の頃なんですね。体重も15-20キロくらい少なかった。やっぱり、自分の中で、高校時代なんてホンのさっき、って感じがしているんですが、自分はもうその後、それまでの2倍生きているんですね。無理がきかないわけです。ハイ。
ぼちぼちやろうと思います。
なんて言いながら、
今日もまた一つ、iPhoneアプリに出会ってしまいました。
Fit for Rhythm。
筋肉痛と闘いながら、一通りプログラムをやると、
自分がいかにバランス感覚がないか、が分かります。
これでしょうね。自分の運痴な理由。
50歳での運痴脱出を目指して、ちょっと頑張ってみようっと。
今日の2つの集会で、分かち合ったこと。
「自分がしてほしいことを、人にしなさい」というイエスの言葉。
自分がしてほしいことはなんだろうなあ、と思ったら、
「わかってほしい」「理解してほしい」「共感してほしい」かな。
だったら、自分もそうしなさい、というのがイエスの言葉。
人を理解し、共感することを求められているのだろう。
「人を変えようと思わないで、分かろうとしなさい」
これはイエスの言葉ではありませんが、
時々、自分で自分を戒める言葉です。
自分が自分ではない者になることを要求されるのは辛いものです。
牧師の働きをしながら、「あの先生のようになってください」と言われるのは悲しいことです。そして、そのようなことを言われたあとには、しばらく、自分がどのようにしたらいいのか、混乱してしまいます。
でも、自分はどうなのか、
やはり、人を「変えようとしている」ことが多いのではないだろうか?
「自分がしてほしいことを、人にもしなさい。」
今まで、余り心に留めていなかった言葉だけれども、
今、本当に重みを持って、心に迫ってきている。
明日も我が家で集会がある。
新しい方々が何人も来られる。
人を分かろうとすること、
それを実践することができますように。
さて、今日の聖書の言葉。
列王記第一13章1−10節。
「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。」8節。
神の人に癒してもらって、
神の人をもてなしたいと思ったヤロブアム王。
でも、神の人はそれをキッパリ断った。
それは神の命令があったから。
神が「何も食べたり飲んだりしてはならない」と言われていたから。
王に対して失礼と思われる言葉と行動。
でも、神の人はそれを貫いた。(ここまでは・・・)
神が言われたことだから。
自分はどうだろうか。
主よ、
あなたに従います。
あなたの導きに単純に従うものとならせてください。
恐れにとらわれることがありませんように。
そして、明日の集会でも、
あなたの祝福を満たしてください。
あなたの素晴らしさを大胆に語ることができますように。
あなたが命じられたように、
自分が理解して欲しいように、
自分も人を理解できるものとなれますように。
2010-10-05
神様からの力。
ここのところ、ほんとに雨の日が多い。
今朝もどんより。
一日どんより。で、時々霧雨。
予想より良くなって、明日には、少しずつ、回復始めるようです。
こんな日は気分もどんよりしてくるのですが、
今日は弟子訓練のグループもあり、
気持ちが前に向かっていたのでしょうか、
元気に一日を始めることができました。
何よりも「あしたからマン」にならないで、
今朝からちょっとジョギング。
Jogboyという無料アプリの助けをいただきながら。
15分、2kmでしたけどね。クールダウンのウォーキングを含めて150kcalでしたけどね。
コーラ缶一本分ですけどね。
ま、初日ということで。
三日坊主、という言葉もありますし。
でも、今日の弟子訓練でもほんとに思ったのですが、
自分の力の源はどこにあるんだろうかと。
今日はイエスの十字架がテーマだったのですが、
本当にその十字架の愛に撃たれた喜び、もう一度そこに立ち返る思いがしました。
今からもう27年も前、神の愛が「わかった」その時のあふれた喜びが、
ずっと、自分を生かしてきたのです。
でも、去年1年間、洗礼を受ける方がおられないという痛みの中で、
そして、今年、受洗者が何人か与えられている喜びの中で、
それは本当に嬉しいことなのですし、
決して間違いではないのですが、
いつの間にか、その「神に愛されている喜び」よりも、
「人が救われる喜び」の方に自分の目が移ってきているように感じました。
いや、ほんとに、一人の人が悔い改めて、
イエスを信じる者とされることはとても嬉しいことであり、
それを喜びとすることは何も間違っていないと思います。
でも、それがいつの間にか、わたしの力の源であるはずの、
「神様と共に生きる喜び」「神がわたしのためにひとり子イエスを与えてくださった喜び」よりも、注目されたり、間違っても、「牧師としての成功」みたいなものにすりかわったりしてはいけないのです。
「この水を飲む者はまた渇く」
そう、イエスの与える水以外のもので心を満たそうと思っても、
それはやがてまた渇くのです。
やはり、どこまでいっても、このイエスの十字架のあがない、イエスの十字架の救いに力をいただいて、それを愚直に語っていく者でありたいです。
さて、今日の聖書。
今日は列王記第一12:25−33。
「ヤロブアムは心に言った。『今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。」26−28節。
ヤロブアムが神に背いたきっかけは、「恐れ」だった。
人々が自分から去っていくのではないかという恐れ。
エルサレムに巡礼に行く民が、
いつの間にか、ダビデ王朝についてしまうのではないか、
それを阻むためには、エルサレムに行かなくても礼拝ができる場所を作ることが大切だ、
そのようにヤロブアムは思った、という。
11章28節にはこのような約束がヤロブアムに与えられている。
「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。」
しかし、ヤロブアムはそれに従えなかった。
人々が自分から離れていくのを恐れたから。
自分はどうだろうか?
神に従っているだろうか?
人々の顔色を恐れていないだろうか?
主よ、
あなたを信頼します。
あなたの御言葉を信じます。
どうか、わたしの中から恐れを追い出して、
あなたの愛で満たしてください。
あなたがわたしを愛してくださったように、
私も周りの人々を愛することができますように。
今朝もどんより。
一日どんより。で、時々霧雨。
予想より良くなって、明日には、少しずつ、回復始めるようです。
こんな日は気分もどんよりしてくるのですが、
今日は弟子訓練のグループもあり、
気持ちが前に向かっていたのでしょうか、
元気に一日を始めることができました。
何よりも「あしたからマン」にならないで、
今朝からちょっとジョギング。
Jogboyという無料アプリの助けをいただきながら。
15分、2kmでしたけどね。クールダウンのウォーキングを含めて150kcalでしたけどね。
コーラ缶一本分ですけどね。
ま、初日ということで。
三日坊主、という言葉もありますし。
でも、今日の弟子訓練でもほんとに思ったのですが、
自分の力の源はどこにあるんだろうかと。
今日はイエスの十字架がテーマだったのですが、
本当にその十字架の愛に撃たれた喜び、もう一度そこに立ち返る思いがしました。
今からもう27年も前、神の愛が「わかった」その時のあふれた喜びが、
ずっと、自分を生かしてきたのです。
でも、去年1年間、洗礼を受ける方がおられないという痛みの中で、
そして、今年、受洗者が何人か与えられている喜びの中で、
それは本当に嬉しいことなのですし、
決して間違いではないのですが、
いつの間にか、その「神に愛されている喜び」よりも、
「人が救われる喜び」の方に自分の目が移ってきているように感じました。
いや、ほんとに、一人の人が悔い改めて、
イエスを信じる者とされることはとても嬉しいことであり、
それを喜びとすることは何も間違っていないと思います。
でも、それがいつの間にか、わたしの力の源であるはずの、
「神様と共に生きる喜び」「神がわたしのためにひとり子イエスを与えてくださった喜び」よりも、注目されたり、間違っても、「牧師としての成功」みたいなものにすりかわったりしてはいけないのです。
「この水を飲む者はまた渇く」
そう、イエスの与える水以外のもので心を満たそうと思っても、
それはやがてまた渇くのです。
やはり、どこまでいっても、このイエスの十字架のあがない、イエスの十字架の救いに力をいただいて、それを愚直に語っていく者でありたいです。
さて、今日の聖書。
今日は列王記第一12:25−33。
「ヤロブアムは心に言った。『今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。」26−28節。
ヤロブアムが神に背いたきっかけは、「恐れ」だった。
人々が自分から去っていくのではないかという恐れ。
エルサレムに巡礼に行く民が、
いつの間にか、ダビデ王朝についてしまうのではないか、
それを阻むためには、エルサレムに行かなくても礼拝ができる場所を作ることが大切だ、
そのようにヤロブアムは思った、という。
11章28節にはこのような約束がヤロブアムに与えられている。
「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。」
しかし、ヤロブアムはそれに従えなかった。
人々が自分から離れていくのを恐れたから。
自分はどうだろうか?
神に従っているだろうか?
人々の顔色を恐れていないだろうか?
主よ、
あなたを信頼します。
あなたの御言葉を信じます。
どうか、わたしの中から恐れを追い出して、
あなたの愛で満たしてください。
あなたがわたしを愛してくださったように、
私も周りの人々を愛することができますように。
2010-10-04
スポーツの秋?
今日は、朝から冷たい雨が降ったり止んだり。
肌寒い一日でした。
先週、血液センターから、またお願いできますか?と、電話があって、お安い御用で、と行って来ました。
献血前の問診に、「この薬は飲んでいませんか?」「この病気にかかったことはありませんが?」という項目がいくつもあるのですが、それに答えながら、改めて、献血ができるのは、特権なんだなあ、と思いました。
でも、最近、ズボンがきつくて仕方がありません。この運動不足をなんとかしようと、いつも思っているのですが、春は花粉症、夏は暑い、冬は寒い、といろいろ言い訳をしてばかり。
だから、この秋こそが、運動不足解消、体型奪還のチャンス。
まずは、一人でもできるようにと、昨夜は、iPhoneアプリで、ジョギングの励ましになるヤツを物色して、さあ、と思ったら、朝から雨だし、献血後は24時間激しい運動はダメだし。しっかり「あしたからマン」になってしまっています。明日も天気がねえ・・・。
そう、木曜日くらいまで、曇りがちで、雨が降ったりやんだり。
肌寒い日が続きそうです。
さて、今日の「日々のみことば」から。
列王記第一12:12-24。
「わたしがこのようにしむけたのだから。」24節。
先週からずっと思っているのですが、
神様が、敵対する者を起こしておられる、
その事を、神様が、そうされるのなら、いいだろう、と思える自分がいます。
辛くでも、痛くても、悲しくても、
それによって、自分の目が覚まされ、
神様の願われるようになっていくなら、
それでいいだろう、と思える。
そう思えることがまた恵みだなあ、
と感じていました。
それは、やはり、神様のなさることは、
自分のちっぽけな頭では納得できなかったとしても、私の気がつかないところまでご存じの神様がなさっていることだったら、絶対大丈夫、も思えるからです。
信頼しちゃっているみたいです。
そんな思いにさせられていることに感謝。
でも、いざ今まで経験したことのない様な試練がやって来たら、自分の神様に対する信頼なんで、ぶっ飛んでしまうのかもしれませんか、そんな時も、
「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」(マルコ9:24)と言うことができます様に。
主よ、
あなたを信頼します。
あなたの最善を信頼します。
いつもあなたに従って行けますように。
肌寒い一日でした。
先週、血液センターから、またお願いできますか?と、電話があって、お安い御用で、と行って来ました。
献血前の問診に、「この薬は飲んでいませんか?」「この病気にかかったことはありませんが?」という項目がいくつもあるのですが、それに答えながら、改めて、献血ができるのは、特権なんだなあ、と思いました。
でも、最近、ズボンがきつくて仕方がありません。この運動不足をなんとかしようと、いつも思っているのですが、春は花粉症、夏は暑い、冬は寒い、といろいろ言い訳をしてばかり。
だから、この秋こそが、運動不足解消、体型奪還のチャンス。
まずは、一人でもできるようにと、昨夜は、iPhoneアプリで、ジョギングの励ましになるヤツを物色して、さあ、と思ったら、朝から雨だし、献血後は24時間激しい運動はダメだし。しっかり「あしたからマン」になってしまっています。明日も天気がねえ・・・。
そう、木曜日くらいまで、曇りがちで、雨が降ったりやんだり。
肌寒い日が続きそうです。
さて、今日の「日々のみことば」から。
列王記第一12:12-24。
「わたしがこのようにしむけたのだから。」24節。
先週からずっと思っているのですが、
神様が、敵対する者を起こしておられる、
その事を、神様が、そうされるのなら、いいだろう、と思える自分がいます。
辛くでも、痛くても、悲しくても、
それによって、自分の目が覚まされ、
神様の願われるようになっていくなら、
それでいいだろう、と思える。
そう思えることがまた恵みだなあ、
と感じていました。
それは、やはり、神様のなさることは、
自分のちっぽけな頭では納得できなかったとしても、私の気がつかないところまでご存じの神様がなさっていることだったら、絶対大丈夫、も思えるからです。
信頼しちゃっているみたいです。
そんな思いにさせられていることに感謝。
でも、いざ今まで経験したことのない様な試練がやって来たら、自分の神様に対する信頼なんで、ぶっ飛んでしまうのかもしれませんか、そんな時も、
「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」(マルコ9:24)と言うことができます様に。
主よ、
あなたを信頼します。
あなたの最善を信頼します。
いつもあなたに従って行けますように。
2010-10-03
雨上がりの朝顔。
またまた日付が変わってしまいましたが、
10月2日分。
最近、夜早く休むと、朝、やたら早く目が覚めます。
昨日の朝は3日ぶりの晴れた朝で、
この朝を待っていたかのように、
朝顔が一斉に花を咲かせていました。
多分、今までで一番沢山の花が咲いていた朝。
7月にサキが町のプログラムでもらってきたもの。
9月になってから花が咲き始め、
暖かい9月だったので、ここまでもちました。
今は朝の4時前ですが、もう10度を切っています。
今日一日晴れ。
月曜日からまた数日ぐずつくみたいです。
あ、「日々のみことば」もアップしようと思ったのですが、
せっかく眠くなってきたので、朝までちょっと一眠りできるか、と思い、行ってきます。
と、ちょっとひと眠りして、教会に行って、
お祈りして戻ってきたら、
今朝は昨日よりもたくさん、15輪くらいの朝顔が咲いていました。
寒くなってきたので、まもなく枯れていくでしょうが、
楽しませていただいています。
この株から取れた種を、来年はもっと早く蒔いて、
大輪を咲かせたい・・・。
さて、昨日の「日々のみことば」から。
昨日は列王記第一11:26−43。
「わたしがあなたを召したなら・・・」37節。
私の人生の主権は主にある。
礼拝の準備をしながら、
神様が私たちの人生の王である、ということを、
語られながら、
自分の人生の主権を本当に主に差し出しているだろうかと、
思わされる。
言葉で言うだけではなく、
本当に自分の人生の王として、主を迎えているだろうか?
そして、もう一つ・・・
主が導かれる道を、どのように見極めていくのだろうか?
自分の勝手な思いを「神様が召してくださいました」と、
振り回すことはないだろうか?
いつもいつも謙遜でありたいと思う。
いや、謙虚でありたい。
主の導きさえ見誤ることもある者であることを、
正直に告白しながら、
自分の願いを、神様の思いにしてほしい、とさえ思ってしまう、
自分の弱さを認めながら、
でも、主を信頼しながら歩んでいきたいと思う。
主よ、
あなたを心の王座にもう一度お迎えします。
どうか、私の人生を導いてください。
あなたを利用するのではなく、
あなたに仕えることの意味を教えてください。
また、わたしが自分のわがままを、あなたのみ思いだと思いたい、
そういう弱さを持っていることも認めます。
どうか、あなたのみ思いを見極める鋭さを与えてください。
そして、あなたの召しを信じたときに、
勇気を持って前進する決断力も与えてください。
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