2011-04-23

弱さ。

今日はGood FridayとResurrection Sundayとの間の一日。
なんだか、昨日「イースターよりもResurrection Sundayの方がいいかも」という話をしてから、今まであまり意識していなかった、イースターという言葉があまり意味がない元々異教的なことばであり、そのまま「イエスの復活の日曜日」、と言った方がずっといいこと、思わされています。ま、とりあえず、明日はハッピー・イースター!で行きますが。

さて、今日は早速「日々のみことば」。
今日はマルコの15:33-47。
「そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言った。」36節。


「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫ばれた時に、ある人が「あ、エリヤを呼んでいるんだよ」と叫んだ。たぶん、彼は聖書をよく知っていた。ちょっと他の人たちよりもよく知っていた。でも、イエスの叫びは「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」だった。それがわからなかった。イエスはホントに孤独だったんだと思う。

私も、ちょっとわかったつもりになったりする。
でも、何にもわかっていないんだなと思う。
イエスの十字架。

昨日の夜の集会の準備をしている時に、
悔い改めた方の強盗の言葉「おまえは、同じ刑を受けているのに、神を恐れないのか」という言葉を思いめぐらしていた。彼が感じた「おそれ」。私は少しでもわかっているだろうか?そんなことを思いめぐらしている時に、頭の中に浮かんだ風景があった、人によってはこういうのを幻、というのか、と思ったけれども、なかなかない経験だった。どんよりとした雲の中に光が差し込もうとしているそんな風景だった。

そこには光があった、そこには希望があった。

闇は光には勝てない。

雲がどんなに分厚く覆っていても、
そこに少しでも日が差し込もうとしているならば、
そこは闇ではない。希望に満ちた場所。

イエスの十字架に、それを見たような気がした。

私達は鈍感で、わからなくても、
神様の方は、私達とともにいてくださる。
どこまでも、共にいてくださる。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
そう叫ばれたイエスのことを、私達は全然わかっていなかったけれども、
イエスは、実はそこで、究極的に私達に寄り添ってくださっていたのだ。

そこにあるのは圧倒的な恵みなんだな、そう思う。

主よ、
あなたのことがなんてわかっていないんだろうと思います。
でも、あなたはどこまでも私達とともにいようとしてくださっていた。
その恵みの中に生かされていることに、感謝。


のんちは、私が育った、木場深川教会での礼拝。
今週一週間は東京にいるんじゃないかと。
この先の歩みのために、主の導きをお祈りください。

2011-04-21

ゲッセマネの祈りの夜。

今日はよく晴れた。
ほったらかし花壇にチューリップが咲いた。
10年近く前にここに植えた球根が毎年花を咲かせる。
たくましい。






今夜もよく晴れている。
晴れた夜は、冷えることが多い。
今夜は氷点下に下がる予報が出ている。


Freeze Warningだそうだ。


そして、明日から、しばらく雨模様。


花粉症を考えると、
晴れる日が待ち遠しいような、そうでないような。


明日はGood Friday。
イエスの十字架にかかった
今夜は最後の晩餐〜ゲッセマネの祈りの夜。


ゲッセマネの祈りのイエスに心を向ける。
どうして、十字架に向かってまっすぐに歩んでいたイエスが、ここに至って、こんなに取り乱すのか?「私は悲しみのあまり死ぬほどだ」まで言う。
「これを負わなくてよければ、取り去ってください」とまで祈る。
血の汗を流して祈る。


わかっていても、目の前にした時に、イエスはたじろいだ。


だから、思う。
イエスが十字架の上で負ったのは「罪」だけだったのだろうか?罪を犯した者、犯し続ける者、止めたくても止められない者の、罪責感、絶望感、敗北感、孤独感、すべて一緒に負われたのか?一人分でも負いきれないのに、全世界の分を負ったのか。


いのっていのって祈り抜いて、御父の思いに従ったイエス。


聖霊によって、そのイエスのみ思いがわかる者となりますように。

2011-04-20

愛されていること。

今日は雷雨の予報が出ていたのですが、
来ませんでしたねえ。


日曜日にはfloodだったので、よかったです。


午後には暖かくなりましたが、
明日の夜にはまた0度近くまで下がるそうです。
ふう。


今夜はある方と話していて、
どうしても、自分の罪に目が開かれた時の話をしないではいられなかった。
自分の罪を知ることは、また、イエスの十字架による救いへの道。
その喜びの話もさせていただいた。


どのように伝わったかはわからないけれども、
それは神様の御手にゆだねて、私達はありのままを語る。


明日はシニアセンターに行く日。
やはり、そのことを分かち合いたいと思った。


神様が助けてくださいますように。


のんちの方は、木曜日、石巻から東京に一度戻るそうだ。
今電話したら、森郷に着いた・・・というところ。
今日中に東京へ。そして、また次の働きを探ることになりそう。
お祈りに感謝しつつ。


さて、今日の聖書。
今日はマルコ14:53-72です。


「わたしは、それです」62節。


昨日に続いて、イエスの思い。
イエスのまっすぐな態度。
ぶれない。うごかない。

このイエスの思いを、私達も与えられる。
聖霊様によって、私達は、
イエスが父なる神に対して持っておられた
信頼を自分のものとして与えられる。

それを私のうちに現実としてくださいますように。

主よ、
あなたの信頼を、
あなたの平安を、
私にも与えてください。
あなたの強さを、私のうちに与えてください。

2011-04-19

イエスの思い。

今日は肌寒かったです。
石巻は雪も降ったようです。
こっちはそこまでは行かなかったですが、
でも、10度以下でずっとどんより、時々小雨。
明日は雨は続きそうですが、気温はちょっと上がるみたいです。
でも、また木曜日の夜は2度くらいまで下がるそうで。
いつになったら春らしい日が続くようになるのでしょうか?
おかげでアスパラの初収穫ももう少しお預け。


さて、月曜日、火曜日ののんちですが、
支援物資の仕分けはあり、
お風呂の排水のための溝堀りという土方みたいな仕事もあり、
2日とも寒くて、特に火曜日はかなり激しく雨も降るし、
お疲れのようです。


火曜日の夜の段階では、水曜日には石巻に来る知り合いに合流して、
そのあと、一度東京の方に戻ることになりそうです。
ちょっと休養して、態勢を立て直し・・・必要だと思います。


よく言われていることですが、
やはり心のケアのために祈りと支えが必要なようです。
避難所の方も「援助に来るといって、写真だけ撮って行く人もいる・・・」と痛みを覚え、自宅で生活しておられる方々も「こっちもたいへんだ」と痛みを覚えている。
そうですよね。一人一人は痛みが違う。
比べることのできない痛みがある。


こちらから、膝をついて話をすると、いろいろな声が出てくるのに、
市役所にある「相談室」に自分から出かける人はいない。


入って行く者たちが、本当に膝をつくこと、どれだけ大切かと思います。
構えだけじゃなくて、形だけじゃなくて、心から膝をつくこと。


でも、これも特別なことがあったから、そうしようじゃなくて、
いつもいつも、自分の姿勢として、自分の方から膝をつく、
それが大切なんでしょうね。自戒。


今日の聖書。
今日はマルコ14:43-52。


「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです」49節。

先週ある集会で、ガラテヤ4:6の「神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送ってくださったのである。」という言葉を読んでから、イエスの父なる神にたする信頼と同じものを、私達も与えられるのだ、ということを思わされている。

聖霊様は、イエスの父なる神に対する思いを私達の内側に与えてくださる、ということはものすごいことですよね。

この十字架を前にしたイエスの心も、父なる神への従順な思いに支配されていた。

この父なる神へのイエスの思いを、私の思いにしてくださるって、ホントに、それはすごいことですよね。

それを求め、祈って行こうと思いました。

神様、
あなたへの御子イエスの思い、私にも与えられると言う話、
それはすごいことです。
それを求めます。祈ります。
どうか、私の心を聖霊様で満たしてください。

2011-04-18

畑の春。


うちのほったらかし畑にニラが生えて来ました。もう2回頂いています。
そして、いよいよ、かきごおりほったらかし畑、春の風物詩、アスパラガスの収穫です。
アレルギーの季節も始まりました。今夜は、早く休むことにします。

ではでは。

2011-04-17

石巻/湊小学校だって。

石巻で活動中ののんちは、月曜日から湊小学校だそうです。
校庭に大きなお風呂ができたようで。
前から家族風呂はあったようですが、
大きなのができたそうで、
こんなの。


http://www.jim-net.net/news/info/2011/04/post-48.php


そこのサポートに入ったようです。


さっき、昼間(日本時間)から「電話くれ」メールが入って、
なんだろ、こんな時間から・・・と思ったら、
ボランティアいたら、担当の方に連絡して〜でした。


石巻→ニュージャージー→関東・・・というリレーで情報を回しています。


この間、のんちが歩いた「門脇小学校」は後ろに山が迫っていて、
津波がそこまで押し寄せて、車がぶつかって、火が上がって燃えてしまったようですが、
湊小学校はGoogle Mapで見ても、周りに車や瓦礫が広がっているところ。
でも、避難所になっているようで、検索すると、避難所の様子が少し分かります。
小学校は間もなく始まる・・・避難所は整理を迫られていると聞きます。
このあと、どんな働きをまかされるのかはわかりませんが、
一つ一つのことが守られ、主のしもべとして仕えることができますように。


日曜日は礼拝を守ることができたそうです。
兄弟団の石巻教会
駅前にある教会に行ったら、津波の被害で閉鎖されていて、
教会の方のお宅で礼拝を守っておられると書かれていた、
で、連絡を取ったら、お迎えに来ていただいたそうです。
ほんとに、お世話になります。
でも、のんちにとって、日曜日の礼拝は、
看護師時代から、必死で守ってきた命綱。
喜んでいました。夫の私からも石巻教会の皆さんへ、感謝。


昨日の夜はものすごい雨で、
今朝はすかっと晴れていたのですが、
あちこちの川があふれていました。
3/11の朝もそうだったなあ、と思い出しました。


今夜は夜の12時で8.7度Cとそこそこ冷えています。


明日の朝は冷えますが、昼間は晴れて暖かくなりそうです。
庭掃除だな。


さて、今日の聖書。
今日はマルコ14:22-31。


「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」30節。

いやあ、自分は言うだろうなあ。
「私は大丈夫です」
「私はこのペテロみたいなしょうもないこと言いません」
「私はこのパリサイ派の人のように偽善者じゃないことを感謝します」
「教条主義者はダメ。私は違う」
「ペテロみたいな無邪気なのはダメだよねえ、もっと思慮深くないと」
「他の人のことをこんな風に言うペテロはダメ。僕はそんなことは言わない」

そうやって、同じことを言っているんでしょうね。
「たとい他の人がみんなつまずいても、私はつまずきません」ってね。

ペテロとおんなじ。

いや、同じことを認めることが出発点なんだろうな。
そして、急いで正しい姿勢に立とうとしないこと。
ホントに、自分がパリサイ派だな、自分はペテロだな、そう気づいて、
そこで、神に問いながら、神の前に自分をさらけ出して行く。

それでいいんだろうな。

かみさま、
私を哀れんでください。
どこまでも傲慢な、私を哀れんでください。
あなたの恵みの中に生きる者とならせてください。