2010-01-23

おとなしく。

土曜日の夜です。
明日に備えておとなしく沈没します。

一言だけインフォメーション。

今日、H1N1インフルエンザの予防注射に行ってきました。
我が家では、医療関係者、若年層、子供、とみんな優先接種の対象だったのですが、
私だけは当てはまらず、最後まで受けていませんでした。

でも、もう、今は誰でも受けられるようです。
今日も予約なしで、ガラガラでした。

来週の火曜日の夕方にもあるみたいですので、
ここらへんにお住まいの方で、まだの方はご検討ください。
免許証も何も提示を要求されませんでした。
http://www.paramuspost.com/article.php/20100110072504647

まあ、今はもうアチラコチラで有料で受けられるようですが、
ここは無料です。お持ち帰りのプレゼントで手帳まで貰ってしまいました。

さて、礼拝の祝福を祈りつつ。

2010-01-22

平安をもたらす者になる。

今日も穏やかな日でした。
もっとどんよりするか、もっと北風が吹くか、と思っていたのですが、
全然たいしたことはありませんでした。


でも、夜になってまた冷えてきました。
-1.7度。


明日の朝はまた-5度くらいになりそうです。
そして、明日もう一日晴れた後は、ちょっと雨が続きそうです。
先週の日曜日も雨でしたが、
今度の日曜日もまた雨だと思います。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ10:1−15。


「その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし・・・」12−13節。


この遣わされた弟子たちは、「平安を運ぶ者」だった。
平安がその家に留まるようにと、祈る者たちだった。

そして、その使命は私たちにも与えられている。
私たちは神の平安を運ぶ僕。

その使命がわかっているだろうか?
「祝福の基」ともつながっていくことだ。
主の与えてくださる祝福、
主の与えてくださる平安、
それによって満たされて、出て行く者とされているのだ。

さあ、その使命を果たさせていただこう。
出会う一人ひとりに、神様からの平安を祈り、
その平安によって満たされる方々が起こされるように、
祈っていこう。

日本まで、あと中3日。


主よ、
一つ一つの予定があなたによって守られますように。
連絡の取れないでいる方々に道が開かれますように。
私があなたの平安を持ち運ぶ器として、
平安を祈り、与える器として、
用いられますように。

2010-01-21

信じること。

今日は穏やかな日でした。
朝はやっぱり寒くて-5度くらいまで下がりましたが、
昼間は穏やかに晴れました。確認していませんが、5度くらいあったのでは。


そして、今は夜12時前ですが、-1.4度。
明日の朝はまた霜をゴシゴシしなければならないと思います。


今朝、よく晴れていたので、星が綺麗でした。
ゆっくり見るのには気温が低すぎましたが、
風もなく、穏やかで、きりっと冷えて、
天体観測にぴったりの朝だったと思います。


でも、明日は雲も出て、北風も吹いて、ちょっと肌寒いのでは・・・。


結局今年も雪の少ない冬になっていますね。
楽ちんですが、ちょっと物足りない・・・かな。
でも、本当に助かります。


来週前半までは気温は高めの日が多いようです。
でも、来週後半から再来週前半、ちょうど私が日本に出発した後の一週間、
ちょっと寒い日が続きそうです。


あと中4日で日本に出発です。
またこれも例年のことなのですが、
日本出発間際になって、いろいろ、皆さんと連絡を取っています。


こちら時間の朝は6時でももう、日本は夜の8時。
あまり連絡が出来る時間がありません。
それで、どうしてもこちらの夜の時間帯に連絡をとることが多くなります。


会社のお仕事で、日本との連絡が多い方々はどんなに大変だろうかなあと思います。


12時、1時に連絡をとったり、
電話会議があったり・・・。


そんな連絡の中で、いろんな方々と安否が問えるのも特別な時です。
私がご訪問することによってご負担になる方もおられるだろうなあと思うのですが、
それでも、「あなたがたは祝福の基となる」という聖書の言葉を単純に信じて、
信頼して、神様の祝福を持ち運ぶ使節として伺わせていただければ、と思います。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ9:27−38。


「わたしにそんなことができると信じるのか」28節。
「あなたがたの信仰のとおりになれ」29節。

私たちが信じるように、神様は答えてくださる。
私たちが信じないならば、神様は御業をなされない。
そう言っていいのだろうか?
そういうことなんだろうと思う。

信じたようになる。

自分の信仰がいかにちっぽけで、
常識にとらわれて、
神様のみ力の大きさを信頼していないか、
その愛の大きさ、気前の良さを信頼していないか、
そんなことを思わされています。

今日の朝の集会も、午後のキッズクラブも、
神様は多くの方々を送ってくださいました。

自分はどれだけ、神様を信頼して祈っていただろうか?
神様が祝福してくださると信じていただろうか?

もっともっと信頼して、
もっともっと素晴らしい主の奇跡を経験させていただけますように。

信じます。
不信仰なわたしをおゆるしください。

主よ、
あなたの御業を信頼します。
どうか、あなたが豊かに祝福してくださいますように。
日本訪問も祝福してくださいますように。
信じます。
不信仰なわたしをおゆるしください。

2010-01-20

目が開かれる。

昨日寝るときには3度くらいあった気温、
今日の朝には−3度まで下がっていました。
びっちり霜が降りていました。


明日も晴れですが、今日よりもワンランク寒いかな。


わが目を開きて、さやに見せたまえ。
今まで知らざりし、みふみの真実を。


これは子供の頃からよく耳にしていた讃美歌の一節です。
こうやって改めて書くと、すごい文語体の歌ですよね。
NJ育ちの若い子たちには意味が分からない・・・と思う。


今朝起きて、教会に行こうと思ったら、携帯電話が見当たりません。目覚まし代わりに使っていますので、さっき手に取ったのですが、それを着替えるためにどこかにおいたのですが、どこに置いたのかわからないのです。最近、そういうことがどんどん増えてきて困ります。


子供の頃から、そんな時には、神さまに祈ります。「神様、今、私は○○を探しています。どうか、今、私の目を開いて、見えるようにしてください。どこに置いたか、思い出せるようにしてください。もしも、見つからなかったら、『今は必要なかったんだ』と受け取ります。」と。


そうすると、不思議と、「ああ、あそこに置いたんじゃないか」と記憶がよみがえって、じきに見つかることも多いのです。(今月のJOYJOYキッズクラブではそんな話をしています。)


今朝も、そう祈りながら、自然と口をついて出ていたのが、最初に紹介した讃美歌です。「さあ、神様、お願いします。わたしの目を開いて、携帯電話がどこにあるか見せてください」と。でも、この歌を歌いながら、わたしはハッとしました。ちょうど、昨日、「15年前は携帯電話がなくても普通に生活できていたよね」と、話をしていたのです。「わたしが今、本当に必要としているのは携帯電話なんだろうか、いや、もっと必要なのは心の目が開かれて、神様の見せようとしていることが見えることなんじゃないか。心の耳が開かれて、神様の語ろうとしていることが聞こえるようになることなんじゃないか。人々の必要に目が開かれ、耳が開かれることなんじゃないか。」と。


祈りました。「神様、そうですね。わたしに必要なのは携帯電話が見つかること以上に、わたしの心の目が開かれることなんですね。教えてくださってありがとうございます。」と。


聖書の中でイエスはこういっています。


「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
(ヨハネによる福音書941節)


またパウロも言いました。
「もし人が、自分は何かを知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」 (コリント人への手紙83節)


神様に心の目を開いていただいて、神様がわたしたちに見て欲しいこと、ホントに大切なことを見える者となりたいですね。


そして、夜の集会でそんなことを分かち合いながら、感じました。何よりも、神様の恵みに目が開かれますように。どんなに神様が私を愛してくださっているのか、それに目が開かれますように。


さて、今日の聖書。
今日はマタイによる福音書9:14−26


「新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」17節。


新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたら、
古い皮袋は張り裂けてしまう。
それくらい、新しいぶどう酒にはエネルギーがある。
力がある。


イエスの福音にはそういう力がある。
イエスの救いにはそういう力がある。
それを、自分はカチカチの枠の中に閉じ込めようとしていることはないだろうか?


聖霊様に自由に働いていただきたい。
ご自由に動いていただきたい。
そして、その聖霊様の力を経験させていただきたい。
皮袋を張り裂くような力を経験させていただきたい。


主よ、
イエスの福音の力をもっともっと経験させてください。
イエスの福音の力によって生かしてください。
そして、聖霊様の自由な働きを邪魔することがありませんように。
あなたの力を一杯に経験することができますように。

2010-01-19

イエスの魅力。

今日は一日どんより。
時々小雨がふる天気。
ちょっと肌寒いんだけれども、
朝から晩まで3度くらい。


ちょっと気が重くなるような空模様でした。


明日は晴れそうです。


昨日までのように暖かくはならないとしても、
この先、1月前半のような寒さが続くことはないようで、
ずいぶん助かります。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ9:1−13。


「イエスが家で食事の席についておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。」10節。

イエスのところには多くの人々が集まっていた、
このマタイによる福音書を書いたマタイ自身、
この聖書箇所で、イエスに声をかけてもらった取税人。
その彼の紹介だっただろう、たくさんの取税人や罪人が集まってきた。

イエスのもとにはそのような人々が集まってきていた。
イエスはそのような魅力のある人だった。

自分はどうだろうかと思った。
この世で行き詰まっている人々や、
この世で軽んじられている人々が、
集まってきているだろうか?

魅力のあるイエスという宝を与えらえれていながら、
その魅力の輝きの邪魔をしていないだろうか?

どのようにしたらいいでしょうか?
イエス様の周りに人々が集まってくるように、
イエスの弟子である私たちのもとに人々をひきつけるためには、
何が必要なんでしょうか?

主よ、
イエス様の周りにはいろんな人々が集まっていたのに、
キリストの体である教会には、どんな人が集まっているでしょうか?
人々がイエスのもとに来ようとするのを邪魔している部分はないでしょうか?
イエスという宝の輝きがそのままこの世に輝きわたるような
器とならせてください。

2010-01-18

与えられたからだ。与えられた使命。

ことの始まりは、去年の10月28日。
1週間の日本でのセミナーから帰ってきて翌日、
NYで過ごしている時でした。
歩いている時に、左胸の痛みを感じたのです。
なんというのでしょうか、締め付けられるような・・・。


早足で歩いている速さを緩めると、ちょっと楽になり、
その痛みは腕に移っていって、楽になっていきました。


そんなことがそれから何回か起こったので、
12月の初めにうけたチェックアップの時に、
お医者さんにその話をしました。


「じゃあ、念のために、心臓のお医者さんを紹介してあげよう」と、
ちょうど同じ建物の廊下を挟んで向かいにあったドクターを紹介されました。
そして、そこに行ったのが、12月の22日。
そこで、血液検査の結果を見たり、いろいろ話をしたりしたのですが、
話が終わって、ドクターが(このドクター、とても頭脳明晰で説明がわかり易い)、
「君には心臓を病むrisk factorはない。高血圧でもないし、コレステロール値は低いし、喫煙もしない、糖尿病もない。しかし、君の話はとてもscary(こわい)だ。だから、検査をしよう。」となって、看護師を一人呼んで、「彼の心臓の検査をASAPで。」というじゃありませんか。「ASAP」とは、as soon as possibleの略で、こちらではよく聞く表現です。


早速、その場でまず心臓の超音波検査をしました。


その時、心臓から血が送り出される音も聞こえてきました。
ジョワー、ジョワーッて感じで。
聞きながら、ああ、ほぼ半世紀、よく頑張ってくれたね。ありがとう。
そんな気持ちになりました。


そして、その日はそれで終わり、事務の方が、一生懸命保険会社と交渉していましたが、「じゃあ、明日、4時間かかるんだけど、9時頃に来てね。」というじゃありませんか。
「いや、明日はダメなんだ、仕事なんだ、NYに行くんだよ」と言ったのですが、
「DoctorはASAPって言ってたでしょう。とにかく明日来なさい」と諭されてしまいました。


予定をいくつか急にキャンセルして、翌日、オフィスに行くと、
まずは放射性同位元素をちょっと注射。
そして、ランニングマシンで、早足歩きをさせられます。
なかなか異常が出てこなかったので、「もうちょっと早くしてみようか「もうちょっと早くするよ」とどんどんマシンの速さが早くなります。もう、どうにも早足では大変になって、ちょっとジョギングっぽく、走り始めたら、「ああ、だめだめ、歩いてい歩いて・・・」


いやあ、もうほんとにそれはそれはしんどかったです。


そして、しばらく待って、落ち着いたところで、
ドーナツ型の機械に入れられて画像をとられました。
心臓の3D写真をとったんでしょうねえ。


間をあけて、もう一回写真を撮って終わり。


「なにかあったらすぐ連絡するから」と言われて家に帰りました。


1月号のニュースレター(リンクはPDF)に書いたことはその時のことでした。


その後、何も連絡がなかったので、何もなかったんだなあ、と思っていましたが、
今日、ドクターに行って、本当に何も問題がなかったことを確認させていただきました。


「何が痛みの原因かわからないけど、とにかく心臓は大丈夫。」
まあ、多分「気のせい」ってやつでしょうね。
はい、元気です。


クリスマスから新年にかけて、無理のない動きをしていましたが、
丁寧に隅々まで検査していただいて、問題ない、と太鼓判を押されて、
安心して、日本で動くことが出来そうです。


でも、この1ヶ月で学ばされたこと、
本当に大きなことでした。
主が与えてくださっている使命に忠実に歩む者でありますように。

さて、今日の聖書。
今日はマタイによる福音書8:23−34。


「神の子よ、いったい私たちに何をしようというのです。」29節。
「そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」34節。

イエスが来られることを嫌がる人々がいる。
イエスに何かをされるのを恐れる人がいる。

どうしてなんだろうと思いながら、
まてよ、でも、自分の中にはそんな部分はひとつもないか?
ということを思わされた。

自分の心の部屋の中には、
イエス様に来られることから逃げようとしている部分はないか、
あなたはすべてのすべての部分で、イエスを歓迎しているか?
そんなことを問われた。

心のなかにある全てを主の前に持ちだそうと思った。
すべてを主の光に照らしていただこうと思った。

主よ、
あなたの前に私の全てを持ちだします。
あなたを迎えます。
あなたが私の生活のすべての側面を支配してくださいますように。

2010-01-17

新しい道。

日本の予定、教会のHPのトップに入れておきました。
お問い合わせは、プロフィールのページからEmailで。


夜の11時になりました。
今日2回目の更新。


外は小雨。
と書いたところで、
屋根に当たる雨の音が聞こえてきた。
レーダーにもあまりハッキリ映っていないんだけど、
雨が本降りになってきたようです。


今日の聖書。
今日はマタイ8:14−22。


「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」17節。

今日はちょっと恐れを感じながら、
自分でメモしたことをそのまま書きます。

「私に今まで大きな病、家族に大きな病が与えられなくて、健康が与えられてきたのには、主の意図があった。主のお考えがあったからなのだ。私にとって病の方々と向きあうということはどういう事なんだろうか?どういう使命が与えられているのだろうか?」

この背景には、自分が牧師として、
そのような病の問題を自分の問題として、経験したことがあまりに少ないことが、ハンディのように感じることがあるからです。
人は、いろんな経験の中で、
特に痛みの経験の中で訓練され、整えられ、
また人の痛みのわかる存在になっていく、
そのように思わされてきました。

だから、自分が健康であることを、
素直に受け入れられないでいた部分があったのです。

ですから、今朝、「そこには神の意図があった」と気がつかされたことは、
自分の今までの歩みを肯定的に受け取ることができたことは、
とても良かったと思います。

そして、今日の礼拝後の交わりの中で、
ある方が言われていたことがまた、心に留まりました。

「自分が周りの人に相談したときに、多くの人は、自分の経験を土台にして、いろいろアドバイスしてくれる。もっと過酷な経験をしている人は『そんなのたいしたことじゃないよ』と言ってくれたりする。でも、牧師は、自分の経験でアドバイスをしない、経験を超えた、ちがった基準、聖書という基準によってアドバイスをする。そういう存在が自分には必要なんだ」そんな意味のことを(含自分の解釈)言われました。

「新しい道」が開かれたように感じました。

牧師の歩みの中で当たり前の事なのかもしれません。

でも、自分はあまりに自分の人間としての経験の貧しさに、こだわっていて、その当たり前のことが見えなくなっていたのだと思います。

「あなたの弱いところに私の力が現れる」と言われた主のみ言葉をも信頼して、「自分の経験の貧しさ」にも神様の力が注がれる、と信頼して、主の与えてくださった使命を果たさせていただきたい、そのように思わされました。

主よ、
今日の御言葉に感謝します。
どうか、あなたのことを指し示す器にならせてください。
私のうちにおられる宝物である、あなたの輝きが、
あなたの慰めが、私のうちから輝きますように、
私のうちから、溢れ流れますように。

生かされているということ。

今日は午後から雨でした。
礼拝中は音を立ててふるほどでしたが、
今はずいぶん収まっているようです。


気温も6時頃に帰宅してから、
ずっと3度前後で変わらないですし、
雪になることはないかもしれませんね。


17日は阪神大震災の15周年。
そして、礼拝のメッセージでも、
ハイチの地震でも、
そして個人的な出来事の中でも、
生かされていることの意味を考えさせられる週末でした。


天災や、戦争、テロ、事故、そして病。
亡くなる方々もたくさんおられる中で、
自分は、今日もまた当たり前のように目が覚めて、
生かされて、守られて、夜を迎えようとしている。


そこには、やはり意味があるんだろうと思います。


自分が此処におかれている、神様の意図が。


それを求めながら、探りながら、一つ一つの出会いに感謝しながら、
歩みたいと思わされました。


さて、昨日、1月16日土曜日の聖書。
昨日はマタイ8:1−13でした。


「ただ、おことばをいただかせてください」8節。

このことば、パワフルですよね。
私たちは、結構実感が欲しい。
実感信仰みたいなものもあります。
「聖霊の働きを感じた」という言葉は、
最近、よく耳にします。

そして、そういうことを感じないとダメなんじゃないかと、
思う方々もおられるように感じます。

それがないから、自分の信仰は情熱がないんだなんて・・・。

でも、このイエスをして驚かせた信仰は、
イエスに「こんな信仰を見たことはない」と言わせた信仰は、
「ただ、お言葉をください。それで大丈夫です」という信仰でした。

そう、主が語られる言葉、
いや、もうすでに語られて、聖書に記された言葉、
それだけでも、もう大丈夫なのではないのでしょうか?

それをバカのように、単純に信頼して歩んで行くのでいいのではないでしょうか?自分がどう感じようと、その「実感」を頼るのではなくて、客観的な、聖書の言葉を頼って、それを単純に信じていけばいいのではないでしょうか?

イエスは「見ないで信じる者は幸いである」と言われました。

現代的に言うと、「感じないでも信じる者は幸いである」ということでしょうか?

単純に、聖書の言葉を信頼して、これからも歩んで行こうと思いました。

主よ、
あなたの平安に感謝します。
あなたの与えてくださった平安に感謝します。
どうか、あなたの平安のうちに歩ませてください。
御言葉を信頼します。
それでいいんですね。感謝します。