2008-10-03

ひとりひとりの使命。

今日は冷えましたね。
66度F・・・19度C・・・で暖房が入るように設定しておいたら、
普通に暖房が回り始めました。


今、夜中の12時を回っているのですが、
もう7度まで下がってきています。
明日の朝は5度を切りそうです。


さて、今日の聖書。
今日はサムエル記第二の17章15-23節。


「 ヨナタンとアヒマアツはエン・ロゲルにとどまっていたが、ひとりの女奴隷が行って彼らに告げ、彼らがダビデ王に告げに行くようになっていた。」17節。

「日々の御言葉」でもそのことが強調されていましたが、
この女奴隷も、また井戸に二人を隠した人もその妻も、名前が出てきません。
でも、名前が出てくる人々も、無名の人々も、
その役割を一つ一つ果たしました。

それを読みながら、自分の今日の使命は何だろうかと思わされました。
使命を果たせさせてください、と祈りました。
与えられた使命に感謝しました。

一日が終わってみると、
本当に自分はその使命をしっかり果たしただろうかと思います。
主が助けてくださって、わたしの足りないところにも、
届いてくださいますように。

主よ、
今日の一日の一つ一つの出会いを感謝します。
足りない自分ばかり気になります。
どうか助けてください。
届かないところにあなたご自身が届いてくださいますように。

2008-10-02

礼拝をすること。

今日はぐんと涼しくなりましたね。
昼間も15度くらい。夜になって、冷えてきました。
今、夜の11時過ぎですが、10.8度まで下がってきました。
朝は8度くらいだと思います。


この冷え込みのピークは土曜日の夜あたり。
でも、今回は5度くらいと、この時期としては、
こんなもんかな、という感じです。


来週にはまた暖かい日が多くなりそうです。


去年の初パッチは26日。
今年はもうすでに足下が冷えてしょうがないですが、
もうちょっとがんばろうと思います。


さて、今日は弟子訓練のテキストで、
「礼拝」を学びました。


神さまのきょさの前にひれ伏す礼拝、
そのような礼拝を私たちはもっているだろうかと思わされました。
礼拝の目的が「神がほめたたえられること」になっているだろうかと。

他のところでも時々いわれるのですが、
今日は「礼拝が自分中心になっていないか」
振り返る時を持ちました。


「今日は恵まれた、先週はよくわからなかったけど」
「今日は好きな歌を歌えて良かった」
ということで、「良い礼拝」と言われたりします。


そのほとんどの場合は「説教がわかりやすかった」「説教が良かった」と言い換えることができるんでしょうね。でも、それって「神の前にひれ伏す」礼拝とは違うところに焦点が当っていると思います。


自分がどう感じるかが礼拝の善し悪しを(その善し悪しってのがあるのがおかしいかも)決めるというのはやはり違うと思います。


どこまでも、主がほめたたえられる礼拝。
神さまの前にひれ伏す礼拝が守られていくこと、
そこに私たちが喜びを見出していくこと、
それが大切なんだと思います。


たくさん集まる方々の中には、
「説教を聞きに来る」方もおられるでしょう。
みんなと一緒に賛美することを楽しみにしてこられる方もおられるでしょう。
それはそれでいいと思います。
特に初めての方々が、
「わたしは神を礼拝に来ました」ということはあまりないと思います。

でも、礼拝の意味を知った人たちの中に、
本当に「礼拝」を守ることを楽しみに来られるかたがたくさんいなくて、
どうして、礼拝に始めてきた方に、
「ああ、ここにはかみさまがおられる」と伝わるでしょうか?


今度の日曜日の礼拝、そのような思いで集う方々が多く与えられますように。


初めての方々、
久しぶりの方々にも、
「ああ、ここには何かある」と
伝わるものがありますように。


さて、今日の聖書。
今日はサムエル第二17:1-14


「アルキ人フシャイを呼び出し、彼の言うことも聞いてみよう。」5節。

みんなが「それで行こう」と思っていたのに、
いつもアヒトペルの言葉を信じて大丈夫だったのに、
ここでフシャイの言葉を聞いてみようと思ったというのが、
不思議に思いました。

でも、そのような不思議なことの中に神さまが働いておられたんだなあ、
と思わされます。

普段思いつかないようなことを思いついたり、
気がついたりすることは、
やっぱり神さまの導きなんだろうと思います。

不思議な方ですよね。

そして、アブサロムがそれに反応する。

信じている者たちには、「自分で考えなさいよ」とか、
「もっと敏感になりなさいよ」という方法で語られることが多いような気がします。
頑固な人、信仰の経験の少ない人には、もっと直接的に、
よくわかる方法で示されることが多いんだろうと思います。

だから、はっきりと見えないときには、
「昔はもっと神さまが近く感じられたのに、今はそうでもない、自分の信仰はバックスライドしちゃったんじゃないか」と思うのですが、本当は反対なんでしょうね。「幻を見た!」なんて聞くと、ああ、あの人の信仰はすごいな、自分は信仰がないから、見ないんだ」なんて思ってしまうんですが、それも違うんでしょうね。神さまは信頼しているから、私たちの信仰を信頼しておられるから、幻を使ったり、お告げを使ったりなさらない。聖書と良心と信仰の友の助けと、それらによって道を知りなさい、と言っておられるんだろうと思います。反対に、頑固になって自分の考えを変えようとしない人に対して、幻に表れたりなさるんでしょうね。その代表は信仰を持つ前のサウロ、のちのパウロであり、異邦人に伝道しないぞ、と偏狭になっていた時のペテロですよね。

主よ、
あなたの導きを教えてください。
それを知ることができますように。
わたしにふさわしい方法で、あなたの道を教えてください。
そして、それに従っていくことができますように。
それに従って歩んで行かせてください。



2008-10-01

右脳の筋トレ。

今日は2週間ぶりのクロッキー教室。
いつものクロッキー教室は心のマッサージなのですが、
今回は、「右脳の筋トレ」。
いやその前の「右脳のストレッチ」かな。


何でかというと、空想で絵を描く、ということだったから。
いつも使っていない筋肉をばきばきいわせながら、ほぐしていく感じでした。
モノを見ながらそれを描くのも、難しいですが、
あまり評価されないということであれば、
好きに描くことができます。


でも、空想で描くのは、いつも使っていない部分を使うんですね。
結構エネルギーも使いました。


でも、楽しかったです。


昨日の夜の雨も、
今日の明け方にはもう上がっていました。
そして、朝のうちは霧も出ていましたが、
昼間はどんよりと曇って、でも、気温はそこそこ上がったかな。


で、いよいよ涼しくなります。
明日の朝は10度。
その後、朝は7-8度、昼間は18度くらいの日が続くようです。


さて、今日の聖書。
今日はサムエル記第二16:15-23でした。


「こうしてアブシャロムのために屋上に天幕が張られ、アブシャロムは全イスラエルの目の前で、父のそばめたちのところに入った。」22節。

ルカの17章1節の、
「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。」というイエスの言葉を思い出しました。

神さまの預言だから、このことは起こる。
でも、それをもたらす者はわざわいだ。

神さまがもう預言されていたから、起こるべくして起こったこと。
でも、そこに直接かかわることになったアブサロムはなんておろかなんだろうか、
そして、それを進言した、アヒトペルはなんて愚かなんだろうか。

でも、わたしも同じことにならないようにと願います。
イエスは「世の終わりには人々の愛は冷える」と言われました。
だから、それは避けられない。
でも、自分がその愛が冷える者にならないようにと祈らされます。

主よ、
あなたの御言葉は必ず成就しますね。
喜ばしいことはもちろん、
痛ましいことも、悲しいことも、
あなたは私たちが悔い改めるときに、
また私たちが取りなすときに、
御心を変えられることもありますよね。


「世の終わりには人々の愛が冷える」
その預言が、成就するのは本当に怖いです。
でも、主よ、助けてください。
わたし自身、愛が冷えてしまうことがないように、
守ってください。
そして、そんな中におかれても、あなたを見上げて歩むことができますように。
今日も、「勇気」を与えてください。

2008-09-30

人のせいにしない。

昨日予告した、秋をもたらす雨は、
今夜遅くに降り出します。


そして、明日一日雨で、あさってからは涼しくなります。


昨日までいたAnn Arborは木曜日あたりには、
もう霜が降りるかもしれません。
いいときに寄らせて頂いたと思います。


今日、予定通りにケーブルTV、インターネット、
電話すべての契約が変わりました。
全部合わせて100ドル以下。
おまけにTV Japanがタダで付いてきています。


で、早速、ドラマとか見入ってしまいました。


その中で、何でも人のせいにしている主人公が、
周りの人から、次々と「人のせいにしてはいけない、本当は自分が問題なんじゃないか?」と言われるんですね。それにはさすがに腹を立てるのですが、最後はそれを受け止めて、方向を変えて歩み始める、という話でした。


うーん、だいたいそういう人は指摘されると逆ギレすることが多いので、
正直「こんなにうまくいくかなあ」と思ったのですが、
でも、この番組を見ていて、「そうだ、わたしも人や環境のせいにするのをやめよう」と思った人は多いはず。


そうですよね。環境はいろいろある。
文句をつけようと思えばいくらでもつけられる。
でも、最終的に自分の人生に責任があるのは自分。


「文句を言うな!」とよく言われる牧師さんもいますが、
本当にそうだなと思います。


さて、今日の聖書。
今日は9月の最後の日ですね。
サムエル記第二16:1-14でした。


「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(12節)

シメイの言葉は、侮辱でしたし、誤りでした。
ダビデは「それは違う」と言うこともできたと思いますし、
「そんな侮辱はあるだろうか」と言うこともできたでしょう。
でも、黙っていた。
それはやはり主を信頼していたから。
主の裁きを信じていたから。

人の言葉に振り回されない、
人の言葉に縛られない
ダビデの強さを感じました。

都落ちしても、人の信頼を失うことがあっても、
堅く立つところあったダビデの強さを思います。

どこまでも、どこまでも神の選びを信じて、
そこに自分の存在の土台をおいたダビデの信仰を見せられます。

わたしも神の与えてくださる使命だけに目を留めながら、
主に信頼して歩んでいこうと思います。

主よ、
今日はダビデの強さを思わされました。
わたしもダビデが見ていたあなたの御手を見続けることができますように。
他のものに振り回されて、
大切なことが抜けてしまうことがありませんように。


明日の一日も祝福してください。

2008-09-29

Courage。

今日は昼間はまた暖かかくなりましたね。
でも、これも今日だけ。
明日はまた雨です。(昨日も雨だったんでしたよね。NJ・・・)


ぐずついた天気は水曜日も続き、
そして、その後、秋になります。
(このフレーズこの秋何回目だろうか・・・)
朝は普通に10度を切りますし、
昼間も15度から20度止まり。
ミシガンはちょっと紅葉が始まっていましたが、
こちらもだんだん紅葉が始まっていくことでしょう。


今回の飛行機や空き時間のために、
買っていたのになかなか読めないでいた本を持っていきました。
今回は「Who You Are When No One's Looking」という
Bill Hybelsの本。87年だから、20年も前に書かれた本だけど、
30万部も売れているそうです。
どれだけ、多くの人々が、誰も見ていないときにも、
主に従いたい、きよくありたい、と願っているか、
また、それが困難で悩んでいるか、を表していると思います。
Promise Keepersなどもそのようなことが
大きなテーマの一つだったと思います。


互いに見張っている・・・ということをする人々もいるでしょう。
それも一つかもしれません。
祈り合う仲間は必要でしょう。
でも、いくらでも逃げ道はあるんですよね。


だから、内側から変えられたいと思います。
整えられたいと思います。


で、買っていたのですが、
なかなか読めないでいました。
帰りの飛行機の中で、ちょっと元気だったので
1章だけ。


Hybelsの最初のポイントは、


「courage」


です。


ホントの自分でいる勇気。
相手に問題を見たときにそれを愛を持って指摘する勇気。


そして、それを育てていくのは、
ぶつかっていくことだと。
勇気を必要とする場面に身を置いていくことだと。


それを繰り返していくこと。


一つ一つ学んでいきたいと思います。


さて、今日の聖書。
今日はサムエル第二15章24-37節。


「I am ready」26節(NIV)

日本語では、「もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」とありますが、その「もし~なら」に続く部分に、この「I am ready」とあります。

主がそのように思われるなら、そのような備えはできています。覚悟はできています。ということでしょうか。

やはり備えの必要性を思いました。
備えがなければ、備えをしなければ、
私たちは主の御心に従うことはできない。
放っておいても、急に言われても、
「はい、従います」と言えるわけではない。

そういう者なのだと思います。

だから、備えようと思います。
主が突然、私を違うところに導こうとされても、
突然、嵐の中に投げ込まれることがあったとしても、
I am readyと言える者となりたいと思います。

主よ、
私の願う道が閉ざされたときに、
本当の私の信仰が問われるのかもしれません。
描いていたビジョンが砕かれるときに、
本当の信仰が問われるのかもしれません。

そんなときにも、
I am readyと言える者でありますように。

帰宅。

無事、今日の昼過ぎにNJに戻りました。
「PCからの更新って、楽。」って思いますね。


でも、PCおいて出かけるのも楽。
2泊で、昨年お会いしてお世話になった方のところに泊めて頂いたので、
荷物も最低限で、本当にゆっくりさせて頂きました。感謝。


飛行機は行も帰りも超満席。
席を譲ってくれる人には100ドルのバウチャーなんてアナウンスがあるくらいでした。
帰りはともかくとして、行きはNY6時発ですよ。土曜日の朝に。
こんな飛行機乗る人は少ないだろうなあ、と空いていることを期待していたのですが、
びっくり。みんな早起きですねえ。


さて、昨日の聖書。
昨日はサムエル記第二15:13-23でした。


「この民がみな進んで行くとき、国中は大きな声をあげて泣いた。」23節。

民がみんな泣いていたのに、
謀反を起こす勢力の方が強かった。
それはどういうことだったのだろうかと思わされました。

武力でしょうか?
人々がダビデをサポートしていても、
アブサロムの方がうまく、要所要所をおさえたということでしょうか。

そう、私は結果を知っているので、
この当時のダビデの思いは本当のところわからないんですが、
どんなにアブサロムのやり方が優れていても、
どんなに姑息なことをして、権力を手に入れたとしても、
最終的に、神さまがダビデを選ばれて立てられたのだったら、
そのようになる。

反対に神さまがダビデを退けられるなら、
ダビデの王権回復のためのどんな人間的な作戦もうまくいかない。

主の御手を見ていくこと、
目先のことに振り回されないで、歩んでいくこと、
本当に大切なことだと思います。

主よ、
あなたがおられるから、
あなたが導いておられるから、
それをしっかりと見つめて歩むことができますように。


あなたを見上げて歩むことができますように。

2008-09-28

その生涯が証する神。そのニ。

昨日の結婚式の教会もそうでしたが、むだのない簡素な作りが、いい感じです。

いつもは10-20人だそうてすが、今日は、50人ぐらい集まりました。

そして、3年前に、天に召された一人の女性を偲んぶときとなりました。

この方は今もその信仰が語っていると思います。

ああ今日も睡魔が!
聖書はまた明日にします。

その生涯が証する神。

今日は、アナーバーの日本語の教会の礼拝での説教。

英語の教会の働きの一部だそうです。

これがその教会の礼拝堂。

策略と神の選び。再び

元気に目覚めました。

昨日結婚されたお二人、
それぞれ祈って来られた姿を見てきたので、とても嬉しく思いました。

続けてお祈りして行きたいと思います。

今日はアナーバーにもう一日残って3時から日本語教会の礼拝で説
教です。

さて、昨日の聖書。
昨日はサムエル第ニ15:1-12でした。

「人が彼に近づいて、あいさつをしようとすると、彼は手を差し伸べて、
その人を抱き、口づけをした。」5節

このアブサロムの行動は人々の心を掴むのに大切なことだっただろう。
賢い事だったと思う。
現代の「リーダー本」にも出てきそうですよね。

でも、そういうことを遥かに超えて神の選びがあることを思わされまし
た。

この出来事全体の鍵は15:25だと思うのです。

アブサロムにはそれが見えていなかった。

神の御心を求めていくことの大切さを思いました。

主よ、
下心なしに人を愛し、
あなたのみ心を求める者でありますように。