2008-05-31

備える。

今日は蒸し暑い一日で雷雨が
昼頃と、夕方と、夜。
それぞれ大したことはありませんでしたが、
いいお湿りでした。

で、明日はさわやかに晴れそうです。

今日はいつもの教会ではなくて、
他のアメリカの教会でガレージセールがあって、
そこで私たちの教会でもブースを出して、
セールをしました。

で、途中で雨が降って来ちゃったんですよね。
あわててシートをかぶせたりもしましたが、
実は今日はテントをもってきていたのです。
それはそれは助かりました。
人生で何回目かの「準備しててよかったね。」という経験でした。
実は、あんまりないんですよね。そういう経験。
いつも行き当たりばったりの人生。
泥縄の美学を追究しています。(周りはいい迷惑?)

天気予報はあんだけ見ているクセに、
雨の日に傘も持っていかないって、どういうこと?
と、いつものんちに言われ続けている私です。
実を言うと雨のために持ってきていたのではありませんでした。
去年、暑かったので、日よけのために持ってきていたのでした。

でも、今日はつくづく、「念のために準備がしてあった」ってとても気持ちがいいことを発見しました。

その場その場で出会うことから色んなことを学んでいく、
ということは本当に大切だと思います。
でも、行き当たりばったりが通用しないこともある。
何とかならない時もある。
それでしょうがない、で済まされる時はいい。
でも、しょうがないじゃ済まされない時もある。

聖書の中に、ランプの準備をしていたのに、
予備の油を買っていなかった人たちの話が出てきます。
その人たち、予定が遅れて、待っている間に寝込んでしまった。
そして、「さあ、起きろ!」といわれた時には、
油が残り少なくなっていた。

その人たちは、ちゃんと準備をしていた人たちにお願いした、
「あなたの分を私にもちょっと分けて下さい」
それが通用する時もあっただろう。
それでいつの間にか甘えの心が生まれていたのかもしれない。
でも、その時にはそれは通用しなかった。

買いに出て、帰ってきた時には遅かった。
扉は閉じられた後だった。
「あけて下さい」と門をたたいた。
それが通用する時もあっただろう。
それでいつの間にか甘えの心が生まれていたのかもしれない。
でも、その時にはそれは通用しなかった。
そして、そこには例外も、情状酌量もなかった。

準備をしていこうと思いました。

でも、今日のためにいろいろご協力下さった皆さん、
心から感謝します!

さて、今日の聖書。
今日はサムエル記第一14:24-35でした。

「すると彼の目が輝いた。」27節。

戦いに出る時に、断食するなんてばかげている。
そんなんで戦えるはずがない。

でも、霊的な戦いの世界には私たちはどのようにしているだろうか?
「今日は忙しくて聖書を読む時間がなかった」
ということは「今日の戦いのためには魂の糧をいただく時間もなかった」ということですよね。それって、ヤバイ。でも、私たちはどれ程そういうことをしているだろうか?

「腹が減っては戦は出来ぬ」とはよく言ったものだ。

「みことば読まずに世に出て行くことは出来ぬ」
「みことばに取り扱われずに、伝道に出ていくことは出来ぬ」

と言うことなんだろうと思う。

ああ、明日また日曜日、
本当にみことばが一人一人の心に霊の糧になるように、
私自身の備えが整えられますように。

主よ、
みことばに養われなければ、私たちは立っていけません。
どうか、養ってください。
どうか、私に語ってください。
そして、明日の日曜日も、
この聖書のみことばの素晴らしさを証する者となれますように。

2008-05-30

接点。

今日は予想通りの暑い一日でした。
いや、予想よりも湿度が高くなくて、
過ごしやすかったですよね。

あいかわらず、半地下の勉強スペースは
足が冷えるんですがねえ。

水曜日に書いた、「未来創造堂」なんですが、
1本のテープに4回分入っているんでしょうかねえ。
1日1回分25分ずつ、見ているんですが、
この番組、一人、オタクっぽい人が出てきます。
昨日見たのには、高層ビルオタク、
今日は定番の鉄道オタク、でも女性で、
「鉄子」って自分のことを呼んでいましたね。

いろんな人が出てくるので、おもしろいのですが、
人によっては、本当にそのおもしろさが伝わってくる人もいる一方で、何がおもしろいんだろうなあ、と思ってしまう人もいます。

それは内容によっても違うと思うのですが、
もう一つ、その話し手によっても違うんだなと思いました。

自分の趣味はめちゃくちゃ深くもっている、
でも、そのことを話す時に相手との接点をもてる人、
相手が「あ、おもしろいかも、それ」と思わせるものをもっているか、
それとも、「なんだか、本人はおもしろそうに話すんだけどさ・・・」
と人に思わせてしまうものを持っているか、
その違いはあるなあと思いました。

そんなことを考えて自分を振り返ってみると、
自分のお天気きちがい、人との接点はあるだろうか、
少なくともそれを見つけようと努力したことはあるか?

また、聖書のメッセージだってそう。
そういう人との接点をもっているだろうかと。
本当にそのような接点を持つ人間になりたいと思いました。
自分の世界だけに閉じこもるのではなくて、
その世界を知らない人にどのように伝えるか、
大切な課題だと思いました。

さて、今日の聖書。
今日はサムエル記第一14章でした。

「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」6節

神さまがおられるから、大丈夫、との確信に立っていたヨナタン。
父サウルは人々が去っていく中で、心細くなって、
思わず、彼らを引き留めるために、してはならないことをしてしまった。
しかし、ヨナタンは人が少なくなっても、神さまにとってはそれは関係ない、と言い切った。

本当にそうだなあと思わされました。

そして、ヨナタンが勝利を得ていった時に、
敵側にいた人々も、
去っていった人々も、
戦いに戻ってきたことを読みました。

今、必要なのはヨナタンのような信仰者なんだと思います。
主がそこに招いておられることを感じました。

主よ、
あなたにあっては、人が多くいるとか、いないとかは問題ではなくて、
あなたが御業をなされる時には、人の力を超えたものが働くんですよね。
それを信頼しています。
あなたを信頼しています。
あなたのみこころをなしてください。

2008-05-29

Gift Cardを考える。

今日、ちょっと思い立って、
手許にあるギフトカードの残高を調べてみた。
そしたら、12-15ドルくらいの残高のものが4枚もある。

このギフトカード。
贈る時も、相手にとって本当に必要なものを買ってもらえるし、
まあ「現金」というのもなんだしね、と言う時に便利。
それに、クレジットカードなんかのポイントも、
結局ギフトカードに換えるのが一番割が良かったりする。

でも、使われていないのが何割もあるんだそうですね。

「いい商売」になっちゃうんでしょうね。
もちろん、それが目的じゃないでしょうが・・・。

でも、今日発見して、ああ、こういうこともあるのか、
と思ったのが、SHARPER IMAGEのケース。
いろいろ珍しい商品とかあって、
ショッピングモールでは、よく立ち寄っていました。

でも、3月頃に倒産したらしい、
Chapter 11で再建中・・・。
詳しいことはわからないのですが、
Chapter 7よりも自立性が高い手続きのようで、
再建のために債務者自身がかなりコントロールが出来るようです。

そうならば、「そりゃないだろう・・・」というのが、
このお店のGift Cardの扱い。
倒産直後は「Gift Cardは使えなくなる」つまりworthless、無価値。
ただのプラスチックの板、だったそうです。

でも、その後、余りの批判に何とかしようとしたのか、
額面の2倍以上の買い物をする時に使える、と変えたみたいです。

つまり、50ドルのギフトカードだったら、
100ドルのものを買う時に、使うことが出来る、
つまり、ギフトカードを50ドル、そして、財布から50ドル、で買い物が出来る、と言うことです。

なんだそれ?・・・ですよね。それじゃあ、ギフトカードじゃなくて、半額OFFのクーポン券じゃん。
変な話です。クリスマスの時に何百ドルのギフトカードを買った人もあったようです。
また、クリスマスの時にギフトでもらったんけど、ちょっとね、と思って、返品したら(アメリカではよくあるらしい・・・)、現金でもらえるわけじゃなくて、このお店のギフトカードだったりするわけですよね。それが「半額OFF」のクーポン券になっちゃう。悔しい思いをしている人もたくさんいるのでは・・・。

実は私の4枚の残高12ドルのカードの1枚はこのお店のカード。
24ドル相当のもので、12ドル以上の価値のあるものがあれば、
まあ買ってもいいかな、と言うことですよね。
「閉店」とかになって、本当になんの役にも立たなくなる前に、
ちょっと行ってみようかな、と思います。

いつでも大丈夫だと思って安心していたらいけないですね。
神さまとの関係でもそうですね。
いつでも、いつまでも待ってもらえると、
神さまをなめていないだろうかと。
聖書はいつか門が閉じられる時が来る、と言っています。
「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」(第2コリント6:2)

さて、今日の聖書。
今日はサムエル記の13章でした。

「それで民は彼から離れて散って行こうとした。」8節。

人々が去っていこうとした時に、
サウルは恐れた。
王としてたてられたサウル。
でも、人々が彼を去ろうとした時に、
彼は恐れて、何とか人々を自分に惹きつけておこうとした。

そして、祭司が捧げるべき捧げ物を、
自分で捧げてしまった。

彼は人を見ていた。
そして、神を見ていなかった。
人を見て、恐れて、失敗をした。

でも、わたしたちの歩みの中で、
どれだけ、同じ事をしているだろうかと思わされた。
神を見ているだろうか?
人々が去っていくのを見て、
それを恐れて、人々を引き留めるために出来ることに躍起になっていないだろうか?
神さまを見ているだろうか?

本当に神さまを見て、
神さまの御手を見て行く者でありたいと思いました。

主よ、
どうか、あなたの喜ばれること、
あなたの与えて下さっている使命にいつもいつも生きる者でありますように。
人を見て、それによって恐れて、それに振り回されて動くことがありませんように。
神さまの導きに従う者にして下さい。

目の輝き。

今日は昨日に比べるとぐっと暖かくなりました。
でも、湿度は低く、気持ちのいい晴れでしたね。

明日は南風が入ってきますので、
ちょっと暑く感じると思います。
最高予想は27度くらいででていますが、
家の庭の温度計は30度を超えると思います。

今日は下の娘の小学校のコンサート。
去年もとてもインスピレーションを与えられたので、
今年も是非行きたいと思っていましたが、
ちょうど集会のない日だったので、
時間を作って行ってきました。

去年も感じたのですが、1年生のクラスを見てくれる先生は
おじさんの先生なのですが、とっても子供を乗せるのが上手。
今日も「さすが!」と思いました。

でも、今年はそのほかの学年を見ている若い男の先生もずいぶんいい感じでした。
2-4年生、みんな元気でノリノリで歌っていました。

1年前から暖めているJOYJOYシンガーズの話、
時間の使い方の問題から、なかなか行動に移せないでいましたが、
いよいよ今年の秋から、やろうかなあ、なんて思っています。
子供たちが目を輝かせて歌を歌っているのを見ながら、
ああ、こういう経験を教会でもさせてあげたいと、
いや、教会だからこそ、させてあげたいと。

さて、昨日の聖書。
昨日はサムエル記第一12:19-25

「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」23節。

神がいるのに、神がいつも導き支えて下さったのに、
「わたしたちも周りの国々と同じように王が欲しい」と言った、その人々。
恩を仇で返すような人々。
その人々のためにサムエルは祈ることをやめなかった。
それだけではない、
そんなことで祈ることをやめるなんて、
それは罪だ。
そんな罪を自分は犯せない・・・。
そのように断言したサムエル。

愛だなあと思いました。
素晴らしい愛だなあと思いました。
もう見捨てて、「知らんぞ、勝手にしろ!」とするのではなくて、
自分に反旗を翻す民に対して、
祈り続ける愛。

私も愛に満たされたいと思いました。
私も祈り続ける者でありたいと思いました。

主よ、
サムエルをわたしたちの信仰の先輩として与えて下さってありがとうございます。
このサムエルの誠実さ、サムエルの人々への愛、
私も持ちたいと思いました。
どうか、私に愛することを教えて下さい。
祈り続けます。
祈ることをやめるという罪を犯すことがないように、
いつも語り続けて下さい。

2008-05-28

またまた・・・

またまた遅くなったので、
もう休みます。
明日には必ず追いつく!・・・と思います。

今日の集会、皆さんといろいろお話ができて良かったですが、
もっと遅くまでゆっくりできるようにやっぱりNYオフィスが、
欲しいですねえ。

おいのりしよっと。

ではまた明日。

愛するということ。

今日は昨日の30度を超える暑さにうってかわって、
朝は10度くらいで風が強く、
薄手のコートが欲しいくらいでした。

昼間は20度くらいにはなるようですが、
昨日の暑さを経験していると、
「ひんやり」ですね。

今夜はかな~り冷え込みそうです。

昨日は早く休んだので、今朝早く起きるのは何の苦もなく、風邪のひき初めは本当だったのか、はずれだったのかさえもわからず、とにかく元気です。

月曜日に古本屋に行ったのですが、 そこで、レンタル用のビデオの処分品が1本50セントで売っていました。 これはレンタルするより安い、ということで、 何本か買ったのですが、

一本は「未来創造堂」という番組の85回目。
その中の「コダワリのVTR」で取り上げられていた、
「永田農法」の話が心に残りました。

どんな方法なのかは
こちらのインタビューを見るとわかりやすいのですが、 肥料や水の量をぎりぎりまで落として、 植物が元々もっていた潜在的な力を目覚めさせるという方法のようです。

「美味しんぼ」愛読者の私はずいぶん前に それを知ったのですが、映像で見ると、またわかりやすいです。

それに、今回学んだのは、
ただ、水や肥料を減らすというと「放っておく」というイメージが強いですが、 そうではなく、ぎりぎりの量を見極めるためには、 いつ水をやり、いつ肥料をやらなければいけないかを知らなければいけないわけで、 他の誰よりも、作物の状態を心にかけ、 作物に深い愛情を注ぐ働きだということです。

これは神さまのわたしたちへの愛にも通じるところがあると思いました。 神さまはわたしたちに時々訓練を与えられる。 それによってわたしたちは根を張り、枝を張ることができる。 どこから栄養をもらったらいいのか、わかる。 でも、神さまは決してわたしたちに「自分の力で何とかしろよ」と放っておかれる方ではない。必要な時に、必要な助けを与えて下さる。そのために、わたしたち一人一人にいつも目を留めていて下さる。

その愛は、牧師として歩んでいくためにも 本当に大切なことだと思いました。 必要な時に必要な助けをさしのべられる働き人になりたいと思いました。

また、昨日の夜は日本から近所に引っ越してこられたクリスチャンの方を ご訪問して、ほんの少しですがお話をする時が与えられました。 神さまの導きを感謝しました。
引っ越してこられたばかりの方々は、皆さんいろいろなご不安があると思います。 少しでも助けになればと思います。

さて、昨日の聖書。
昨日はサムエル記第一12:1-18でした。

「もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。」14節。

王も、王に従う人々も、
神さまに従うことを求められている。

主を恐れること。
主に従うこと。
この大切さを思わされます。

王は「私は王だから、私に従え」と言うのではなく、
自ら主に従って歩んでいく。
そのような姿勢の大切さを思わされました。

新約聖書の「どんな者でも神さまに受け入れられる」ということが、
「何をしてもいいんだ」と勘違いされる危険もある中で、
本当に「従う」ということを回復することの大切さを思わされました。

主よ、
あなたに従う者としてください。
あなたに従う者に与えられる祝福を味わい、
証をする者としてください。
そしてあなたのもっている愛を私にも分けてください。
一人一人に心を注ぐ愛を与えてください。
どうか、教会の存在が、
NJに引っ越してこられる多くの方々にとって、
灯台になり、港になりますように。

2008-05-27

今日は・・・

いろいろ考えさせられることや、
うれしいこともあったのですが、
もしかしたら、風邪の引きかけかもしれないので、
今夜は早く休みます。
で、明日早く起きて、一日、夜までNYです。
更新はたぶん、明日の午前中にNYで。

ではでは。

2008-05-26

5年目の記念日。

今日は暑いくらいでしたね。
本当にいい天気になりました。
メモリアルデーらしい、いい天気でした。

明日はちょっと雷雨があるみたいですが、
その後はまたいい天気みたいです。

水曜日はちょっと気温が低め。
でも、今回はすぐに暖かくなります。
もう、夏もそこまで!ですね。

今日は5周年のマツイ記念日です。
詳しくは去年の5月31日にまとめたものがあります。

今年は昼過ぎまで、子供たちのリクエストで古本屋に行って、
そのままミツワに行って、ハナルンに行って、
Costcoも行こうと思ったら閉まっていて・・・。

そして、午後、ゆっくりテレビで野球観戦だったのですが、
まあ、今日も5年前と同じように、Yankeesはダメダメでしたね。
先発のピッチャーはがんばっていましたがね。

でも、5年前と大違いなのは今年のマツイ君の調子のいいこと。
今日もチーム5安打中3安打ですからねえ。
3割3分なんてイチローみたいじゃないですか。
これからもこの調子でがんばって欲しいですね。

で、我が家の王子が夜帰ってきました。
良かったみたいですよ。シカゴでの集まり。
夜の11時ですが、まだギターを弾きながら讃美歌を歌っています。

思い出してみると、自分も、中高生の頃、
同じ年代の人たちが全国から集まるキャンプ、楽しかったですからねえ。

味わった良い経験が、教会のみんなにもいい影響を与えてくれますように。

さて、今日の聖書。
今日はサムエル記第一11章。

「サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上がった。」6節。

神の霊が注がれた時に、
サウルは怒りに燃えた、というのです。
聖霊が注がれる時に、
怒りが燃える、神がバカにされたり、人々が傷ついていたり、
痛みを覚えていたりすることに対して怒りが燃える。

そういうことがあるんだ、と思いました。
そうですよね、怒るべき時に怒らないのは、
神さまの愛とは反対方向なんでしょうね。

わたしたちが怒るのはせいぜい、自分が無視された、
自分が軽んじられた、思い通りにことが進まない、
そんな程度のことなんでしょう。
でも、神の霊に満たされて怒る、というのは、
どんなのなんでしょうか。
自分ではない、他の誰かが傷つけられた時、
力のある者が不正義を推し進めようとする時、
「しょうがないよな」じゃなくて、
本当に怒りに燃えるような、神さまの力を頂きたいと思いました。

主よ、
あなたの霊に満たされると、
怒りが燃えることがあるんだ、と教えられました。
怒るべき時に怒らない、妥協的な気持ちや無力感、
そのようなものから、私を守ってください。

怒りは持ち続けるのにはエネルギーがいります。
どうか、正しい怒りに対しては、あなたがいつもいつもエネルギーを注いでください。
自分のための甘えた怒りに捕らわれている時には、どうか、そのことを教えてください。

どうか、あなたの霊を注いでください。

2008-05-25

JOYJOYキャンプ56名!

あ、今日の記事に書き忘れましたが、
JOYJOYキャンプの申し込みは56名でした。
定員を6名超えましたが、
スタッフもたくさん与えられそうなので、
「大丈夫!」と決断をして、皆さんをお迎えすることになりました!

神さまがこの子供たちをわたしたちに託してくださることに、
心から感謝!

Tooth Fairy問題再燃。

今日は本当にいい天気になりました。
本当に運動会日和。

我が家は午前中だけの参加でしたが、
強い日差しの中、あれくらいで十分だったなあ、
と楽しい一時を過ごしました。

サキはかけっこで1等賞を取って、
ご満悦。(親が・・・かな。)

いろいろ準備と運営をしてくださった皆さんに感謝。

もう一つのサキネタ。

今朝、「さあ、運動会だぞ!起きなよ!」と起したら、
枕の下をめくって、「あれ、Tooth Fairy来るかと思ってTryしたのに・・・」とがっかりした様子。そこには小さな歯が2本。ちょっと前に抜けていたのですが、友達に何か言われたのでしょう。やってみたんですね。でも親は何も知りませんでした。

私はTooth Fairyもサンタクロースもちょっと乗り気がしません。
見えないものを信じることは大切だと思うのですが、
そのために親が手を回すというのはおかしいと思います。
今まで我が家にはその種のものが来たことがありませんでした。
そこら辺のことについては今年の1月18日に書きました。

でも、なんだか末っ子って違うんですよね。
「何とかしてやろうかなあ」と思っちゃうんです。
自分の信念とかよりも、この子ががっかりしない方法を考えたくなってしまうんです。

ヤバイですね。

長男の時とか、その子の力を信じて、
はっきりと言ってきたのですが、
末っ子の場合は、その子の力を信じるより、
親ができることは何でもしてやりたくなっちゃうようです。

今夜「手紙書いたらいいの?」と聞いてきた娘に、
どのようにこたえたらいいのか、迷いました。

でも、今回、本当に勇気を出して、ホントのことを全部話しました。
Tooth Fairyは本当はお父さんやお母さんなんだということ、
そして、神さまだけを信じてほしいこと、
神さまに歯が抜けたことを「ありがとう」と言って欲しいこと、
それを話しました。
そして、これから、友達が「Tooth Fairyが来たんだよ」と言っても、
「ホントはね・・・」なんて言わないでいいこと。念のため。
そしてTooth Fairyからではなくて、
お父さんとお母さんからのお小遣いをあげました。

ちょっと心が痛みながら、でも、娘の力を信じて・・・。

さて、今日の聖書。
今日はサムエル記第一10:17-27

「 しかし、よこしまな者たちは、『この者がどうしてわれわれを救えよう』と言って軽蔑し・・・」27節。

先日、旅行先でお金がなくなったアメリカ人カップルが、
バーで出会った密売人に、麻薬の運び屋を頼まれた、と言う話(実話)を
テレビでやっていました。

かれらがその話に乗るかどうか、コインをトスして、
その結果に従う、と決めたそうです。
1回目。「乗らない」と出たそうです。
「やめよう」という彼女に、彼は「もう一回」と言います。
彼はもう一回トスをするのですが、
その結果も、「乗らない」。
「さあ、やっぱりダメよ」そういう彼女に、
彼は自分たちにどれだけお金が必要か、話をして、
結局その話に乗ってしまうのです。

「じゃあ、なんのためのコイントスだったの?」と思いますが、
彼はもう決めていたんですね。

ここで、サムエルはくじを引きます。
それは人間の考えが全く通用しない世界です。
そして、神さまの御心通り、サウルが選ばれます。

でも、そこにも、そのくじの結果に従うつもりのない人々がいました。

最初から、自分の思い通りにならなければ
従わないつもりだったのでしょう。

わたしたちはどうか、と思いました。
神さまの御心を、と求めながら、実際は自分の考えが通ることが大切で、
それが通らなければ、最初から決定には従わないと決めていることはないだろうかと。

くじを引いてみてもいいな、と思いました。
そこで自分がいかに自分の思いを通したいと思っているのか、
見えてくるんじゃないかな、と思います。

自分の考えと違った答えが出ても、
それに従うことができるだろうか、
それができる者となりたい、と思いました。

主よ、
今日も、あなたがわたしの心の中を探ってくださって、
ありがとうございます。
私はどこまであなたに従う準備ができているだろうかと思いました。
どうか、私の思いではなく、
あなたの御心に従って歩める者にしてください。
それが私の願いと違っていても、
従う経験をすることができますように。