2011-12-08

聞くこと。

今朝は雪降りませんでしたね。
予想以上に雨が北東に進んで行くスピードが早く、
冷たい空気が入ってくる前に、雨が上がっていました。


でも、昨日の夜の雨はすごくて、
NYCにちょっと行く用事があったのですが、
道がfloodで、エンコしている車もあるくらい。


でも、今朝はきれいに晴れて、気持ちがよかったです。
今は夜の10時過ぎですが、外は1.2度C。
もう12月なんで当たり前なんですが、
それなりの冷え込みが続きそうです。


で、今日は午前中はシニアセンターでのあつまり、
我が家では、のんちが小さな子供たちを持つお母さんたちの集まり、
そして、夕方にはJOYJOYキッズクラブ。
8月に来られたばかりの方、2週間前に来られたという方、
たくさんの子供たちが集まりました。


いろんな世代の方々のいろんなニーズ。
もしも、自分が何か求められたり、
わかろうとしようと思ったら、
いっぱいいっぱいになってしまうと言うか、
キャパを超えてしまいますよね。


でも、牧師の強みは、
自分で背負い込まないこと。
自分でわかろうと思わないこと、
自分でわかった気にならないこと、
自分でアドバイスをしようと思わないこと、


神様がおられる、神様が助けてくださる、
神様がわかってくださる、
そこに最後の砦を持っていること、かな。


特に最近、無意識のうちに「アドバイスモード」「お説教モード」に入りやすい自分がいるな、と思います。(年を取ってきたということか・・・)


ほんとに、人のことばを聞ける者となれますように。
そして、それを主の元に持って行ける者でありますように。



2011-12-06

「だんしゃり」も大切だけど。

昨日の朝はとんでもなく深い霧で、
途中で車で走るのが危ないと判断して、
教会に行くのは断念。

ですから、今朝、気持ちよく起きて、
外は雨が降っていて、暖かくて、
そして霧が出ていなかったこと、
とてもうれしかったです。

注目はあさっての朝。
明日の夕方からまた雨ですが、
夜遅くから、明け方にかけて、
雪が混じったり、雪に変わったりします。

ちょっと注目です。

さて、もう10年以上前になりますが、
あるご一家が帰国される時に、
パン焼き機というか、ホームベーカリーというか、
そういう機械を「使えると思うけど・・・」というノリで、
無償で置いて行ってくださいました。(日本のメーカー)
感謝!だったのですが・・・。

でも、取扱説明書もないし、
どうやって作ったらいいかわからないし、
まあ、ものぐさな性格が災いして、
そのまま、ランドリールームの片隅に置いてありました。

で、時代は進んで、今年の5月頃。
この「断捨離」ブームの中で、
3年使わなかったものはもう捨てよう、というスローガンのもと、
処分しようかとも思ったのですが、
考えてみたら、今どき、ほとんどのマニュアルはインターネットで探せる、
ということを思い出して、見つけ出して、
10年間のホコリを払って、試しに作ってみたら、
ちゃんと作れるじゃないですか、
そして、これがまたすごくおいしい。


・・・ということで、10年の眠りから目覚めて、
ほぼ毎日、活躍してくれています。
おかげで、おいしいパンをいつも頂いています。

・・・改めて感謝。

でも、こういうことがあると、なかなか、またモノを捨てるのが難しくなりますね。(笑)

さて、今日の「ひびみこ」から。
今日はエゼキエル書21:1−17

「剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。・・・」9節。

今日の聖書箇所はあまりに恐ろしい、
厳しい裁きのところです。

こういうところを読むたびに思います。
「ここで何を自分は学べばいいんだろうか?」
「主はここから私に何を語ろうとしているんだろうか?」

そして、牧師としての私は、「教会の人たちはここからどんなことを感じるんだろうか?」と。

今朝もそう思いました。
でも、すぐに思わされました。
この怒りは、イエスの上に注がれたんだと。
この厳しい裁きは、十字架のイエスの上に下されたのだと。

私はすぐに十字架の深刻さ、
罪の恐ろしさを、軽く考えてしまいます。
本当はどんなに大きなことなのか、どんなに大きなことなのか。

本当ならば、私が受けなければいけない裁きが、
このイエスの上に下されたことを、忘れることがありませんように。

主よ、
罪の恐ろしさを忘れてしまいやすい、
軽く考えてしまいやすい私です。
どうか、いつもいつもそのことを思い出させてください。

2011-12-05

第二のモーセとして来られた方。

今年のアドベントの礼拝説教は固いかもしれません。
ちょっと反省しつつ、
でも、主が与えられたメッセージはしっかり語る使命を思わされて。

何をお話ししているかと言うと、

第二のアダムとして
第二のモーセとして
第二のダビデとして

来られたイエス。

昨日は第二のモーセとしてのイエス。

先週の第二のアダムは「アダムの失敗を帳消しにする」イエスだった。
でも、昨日の第二のモーセは、それとは違って、「モーセの再来であり、モーセを遥かに超える」イエス。

今週のアドベント聖書日課はこちら。

http://www.jccofnj.org/main/advent2011/2011adventwk2.pdf

ぜひ、読んでください。
一日少しずつ、一緒に読んでいきましょう。

モーセの生涯の中から、
3つの側面を取り上げました。

預言者
解放者
執りなし手

世界各地から、とりなしの祈りのリクエストがいくつも届く中で、
主が今、その働きに招いておられることを感じています。

今も、父なる神の右でわたしたちのために執りなしてくださるイエスを信頼しながら。