2011-04-16

またまた宝のあるところに心もあるから。

昨日の夜はのんちの滞在している石巻のことを考えて、祈って、夜が遅くなりました。
それで、今朝は6時の教会での祈りの時間を寝過ごしてしまいました。
目覚ましは鳴ったのですが、次に気がついたら6時半。
ここ数ヶ月ずっと一人で守ってきた祈りの時間ですが、
もしも、今朝、来られた方がおられたら、この場でお詫びします。

日常をちゃんと守っていないといけないですね。

金曜日、のんちは、日和山のそばでお風呂に来る方の血圧を測ったり、
お話を聞いたり、という一日だったそうです。

お風呂の準備ができて、まだ人々が来る前、
日和山から下に降りて、門脇小学校のあたりを歩いて、
自衛隊の方とお話をしたり、
瓦礫の中で探し物をしている人たちと話をしたり、
共に祈ったりしたそうです。
そろそろ、日本も土曜日が終わる頃ですね。
神様が出会いを導いてくださいますように。

日曜日は教会に行けないかも・・・と言っていました。
多くのクリスチャンの方々が教会やクリスチャンの団体で奉仕をされていますが、のんちは今のところ、一般のNPOに導かれています。生命線が守られますように、その場で主のしもべとして用いられますようにお祈りください。

はちこさんのブログから

はちこさんのところで私のツイートを取り上げていただいたので、
そこにコメントを・・・と思ったら長ーくなってしまったので、
自分のブログの方に載せます・・・誘導みたいでもありますが・・・(笑)

はちこさんの4月15日の記事


自分の場合は、人の期待に応えることに喜びを感じていたんだと思います。あまりよくない意味で・・・。そして、ある時にはそれに反発して真逆の決断をしたことも。でも、それもまたある意味、人の期待に振り回されていたんだと思います。
毎年レントの期間の毎週金曜日の夜に学び会を持っているのですが、今年のテーマを考えているときに、「イエスは十字架にまっすぐ進んで行った、その時にいろんな人々、いろんな考え、当時の常識、人々の期待、そんなものと対決していった」ということに気づかされたのです。その一つの大きなテーマとして、はちこさんの触れている、「軍事的政治的な意味でユダヤ人の王となってほしい」という期待もありました。それらのものと対決して、十字架への道を歩んで行った、その愛の大きさ、深さ、強さに目が留ったのです。そして、それを味わってきました。そして見えてきたのは、それが福音の土台である、ということが一番大切でありながら、わたしたちも、そのような生き方に招かれている、ということです。

ほんとうに愛のある人、ほんとうに優しい人は、みんなそうだと思うのですが、単に人々の期待に応えて生きている人ではないですよね。人の顔色を見て生きている人ではないですよね。そこには芯があると思うんですよ。それがクリスチャンであるならば、神様との関係による芯なのかな、と。

「完全な愛は恐れをとり除く」というヨハネ第一の手紙の4章の言葉を、ここでも思い出します。

人の期待に応える時に、自分の中にあるのは、私の場合は「愛」じゃなくて、「恐れ」だったんじゃないかと。

だから、そういう私のような人間が、気がついて、「そうだ、人の期待じゃないんだ、神様が何を望んでいるかなんだ」と思って歩み始める時に、それが独りよがりにならないで、人々への「愛」になるのにはまたいろいろな課題を感じます。生き方として「愛する」ことに慣れていないので、気持ちとして「愛」があっても、それをどのように伝えたらいいのか、どのような行動が愛なのかが、数十年の歩みの中で、身に付いてこないでしまったので・・・。

「愛することを教えてください」っていうのが祈りです、と天に召された梶日出男先生が書いておられましたが、私もいつも祈らされています。

2011-04-14

今、必要なもの。

昨日までの2日間のぐずついた天気が今日はすっきりと晴れて、
気持ちのいい一日となりました。


子どもたち、一週間で外に連れ出すのが、
火曜日の映画だけだったし、
昨日はちゃんとふたりで留守番した、ということで、
今日はお休みをいただいて、Bronxに行ってきました。


はい、Bronx といえば・・・


はい、家のお嬢たちは動物大好きですから、


はい、ハジに会ってきました!
3人で、「あ、ハジだ、ハジ〜!!」と
はしゃいできました。



のんちがいなくて、ちょっとなんか足りない、という3人の生活ですが、
ハジと会えて、なんだか元気が出てきました。


あ、なんで、彼がハジかというのが不思議に思う方もおられるでしょうね。
ハジは、上手なんですよ、彼らのまねが。
それで、教会の子どもたちの間では、
「ああ、ハジ、早く帰ってきて、ゴリラのまねやってくれないかなあ」という声が上がっています。




Bronxといえば・・・夜の部もあり、
5ドルのチケットも売っていたのですが、
今年はちょっと寒いと思ったので(そうでもないようですが)、
ま、もう少し夜が暖かくなったら、ということで、
今夜はテレビ観戦です。




のんちは、木曜日の夕方に無事に石巻に着きました。
今頃は初日の働きに出ていると思います。
初日はまず、入浴の支援だそうです。
介護系の働きでしょうか。


石巻まで連れてきてくださったのが、石巻在住の方。
20メートル級の水と瓦礫の壁に襲われた、石巻では、
その方が個人的に知っている方の間だけでも、
本当に本当に、過酷な、とてもとても悲しい話があって、
それを、運転しながら、してくださったそうです。
私もちょっと聞きましたが、
とてもとてもここに書けるようなものではありません。


そこには、神学校で勉強するような神義論(神が全能の愛の神ならば、どうしてこの世にこんなに悲惨なことがあるんだろうか、という問いに聖書から答える議論)やキリスト教弁証論(キリスト教が科学的に、論理的にどれだけplausibleかを主張する議論)が、どうしようもない全く安っぽいものに見えてしまう現実があります。そんなのはコリント人への第一の手紙の13章の最初にある「やかましいどらや、うるさいシンバル」以外の何物でもありません。


ただただ、どれくらいの時間がかかるか、わかりません、でも、その中で、一人一人の心に「立ち上がろう」という思いが与えられるという奇跡を祈るのみです。


そして、ただ黙ってその痛みに寄り添う人たちがどれほど必要かと思います。


のんちが新しい働きの地で、主のしもべとして用いられるように祈ります。


「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」ヨハネ第一の手紙4章12節。


議論の中には神はいません。
愛する実践の中におられるのです。




さて、今日の聖書。
マルコ13:28-37。


「だから、目をさましていなさい。」35節。

ん〜、眠っていたかな、自分。
ホントにいつ何が起こっても動じないような、
いつ、世の終わりが来ても、大丈夫なような思いだったかな、というと、
やっぱり、そこまで準備はできていなかったように思う。

でも、やはり今回の震災で、心の備えの大切さを思わされた。
また日常の中での働きの大切さも思い出させられた。

また、原発のことも、考えの甘さを思い知らされた。
権力者を無批判的に信頼することの愚かさ、
無関心であることが罪であることも。
自分の考えをしっかり持って行くことの大切さも。
そして、必要以上に便利、快適な生活を追い求める貪欲さを悔い改めるべきことも。

目を覚まそう。

主よ、
目を覚まさせてくださってありがとうございます。
二度と眠りこけてしまうことがないように守ってください。
しっかり見るべきものを見ることができますように。
言うべきことを言うことができますように。

2011-04-13

導きに感謝。

今日はまた寒かったですねえ。
2日前には30度Cまで上がったのに、
今朝は5度Cくらいでした。
そして、一日どんより。


明日は晴れて暖かくなるようです。


去年の今頃の休みには、夜、野球見に行ったんですよね。
今年は想像できませ〜ん。
早く本格的な春になってほしいものです。


と思って、去年の記録を見たら、
やっぱりそれなりに寒くて、
17日には東京でも雪が降ったんですね。
忘れていました。


さっき、日本ののんちと電話でゆっくり話をしました。
今、荷物をまとめているそうですが、
塩釜での病院を拠点として、多賀城の避難所での働きを、
ひとまず終えて、木曜日の夕方から石巻に入ることになりました。
4月2日からの足掛け13日間の滞在。


考えてみたら、2週間あまり前に日本に行く時には、
まだ派遣団体も決まっていませんでした。


でも、日本に着いて2日目に連絡が入って、
その2日後には、その派遣団体のバスで塩釜に入って、
そして、それから病院の中ですが2週間の宿泊場所も確保されて、
一つの避難所の看護師のリーダーもまかされて、
石巻までの足もそちらで心配してもらって、
本当に一つ一つのことが導かれてきたことを感じます。
最初は「どこの馬の骨かわからない・・・」身で単身飛び込んで行った場所ではあるのですが、2週間ですっかり有名人になって、「アメリカで牧師をしているかきごおりさんの奥さん」になったみたいです。(笑)


神様のCallingに応えて、主を信頼して勇気を持って踏み出した時に、
主が祝福してくださることを見せていただいて感謝します。


今日も「塩釜でどんなことがあったか、話してくれる?」と聞いたら、
もう話が止まらない・・・という感じでした。


まずはたくさんの出会い。
烏骨鶏のおばちゃんとおじちゃんは最後には「ああ、うにを食べさせてあげたい、アメリカにはないでしょう、おいしいんだよ〜」という感じだったそうで。
あと、靴の中がぐじゅぐじゅで、足を洗ってあげて、靴を支援物資の中から探してきてあげて、大喜びだった4歳の女の子。
のんちに抱きついて、10分くらい泣き続けた男の子。その子のお母さんはブラジルから来て、ご主人は仕事を失って、一家は家を失い、サッカーの上手なお姉ちゃんは靴を全部なくして・・・。
一緒に祈った人たち。慰問に訪れたクリスチャンの皆さん。抱き合って励まし合った。
そして、豚汁の炊き出しをしてくれたお寺のお坊さん。このお坊さんには「次の炊き出しは何がいいと思う?牛肉?鶏肉?」と聞かれて、「歯の悪い人も多いから、柔らかい肉がいい」と言っておいたそうだ。(笑)


あ、炊き出しはホントにありがたいみたいです。
おにぎりと具のないみそ汁がメインの避難所生活。
時々、訪れる炊き出しチームにはいつもは「歩けない」人も、
みんな外に出て、大喜びだそうです。
もちろん、担当者との打ち合わせとか、いろいろ準備が必要なのでしょうが。


そして、避難所の衛生状態。
感染症はもちろんですが、ぜんそく持ちののんちにとって、空気の状態の改善は大きなテーマだったみたいです。
まず古い残り物だけどきれいなタオルを雑巾にして、みんなに自分で床をきれいにしてもらって、コードレスの掃除機を買ってもらって、とにかくほこりやペットの毛が飛ばないようにと注意したら、空気の状態はすごく良くなったみたいです。


祈りの課題としては、
やはり精神的なケアの問題だそうです。
やはり、皆さん大きな痛みを抱えている、これからの生活に不安がある。
そして、避難所での共同生活にはそれなりのストレスもある。
そんな中で、話を聞いてくれる人が必要だったり、ふれあうことのできる人が必要だったりします。
ある男の子はボランティアの方にヘアカットをしてもらって、ぐっと心が明るくなったと言っていました。
いろんな働きが必要です。


石巻での働きのためにも、出会いと導きをお祈りください。


さて、今日の聖書。
今日はマルコ13:14-27。


「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わせようとして、しるしや不思議なことをして見せます。」22節。

不思議なことを見せられたら、惑わされちゃうかもしれませんね。
だから、このことをイエス様がはっきり言ってくださったのはよかった。

惑わされないようにしよう。
不思議なことがあるかないかではなくて、
神様に従っているのか、
御言葉に従っているのかを、
判断の基準にしよう。

主よ、
あなたが語ってくださったことに感謝します。
私も「不思議なこと」に弱いと思います。
惑わされやすいと思います。
どうか、あなたの御言葉に従って歩む者でありますように。

2011-04-12

「うこっけい」って何?

いつだったか、のんちが電話でいきなり、「ねえ、『うこっけい』ってしってる?」と聞いてきた。




何を隠そう、知っている。
烏骨鶏・・・カラスの色、つまり真っ黒な肌や骨をした鶏だ。ウィキペディア「烏骨鶏」




「へええ、どうして、どこで知ったの?」


・・・何を隠そう、「美味しんぼ」だ。
もちろん、見たこともなければ、食べたこともない。
「美味しんぼ」のおかげで、見たことはない、味わったこともないけど知っている、わかったつもりになっている、おいしいんだって勝手に思い込んでいる、という、それが聖書の話、神様の話だったら、「そんなのダメですよ!」と声を上げてしまうだろう、というそういうものがたくさんある。フォアグラやトリュフ、カラスミ、などなど。この烏骨鶏もその一つだ。


なんでのんちが聞いてきたのかと言うと、
避難所で仲良くなったおばちゃんが「烏骨鶏の卵食べて」と持ってこられたそうだ。


さすがに、援助で行っている身なのに、避難所生活をするほどの大変な思いをしている方から、そんな貴重なものをいただくわけにはいかない。丁重に辞退したが、どうしても・・・とおばちゃんは言う。それで、リーダーのドクターが「じゃあ、感謝していただきましょう」と言ってくださって、いただいたそうだが、(のんちの口に入ったかどうかは知らないが)、調べてみたら、「産地直送、激安価格」で1個170円!あるサイトでは10個5000円!


まだ値段の話はのんちにしてないけど。


ひえええ、おばちゃん、よっぽどうれしかったんだね。


火曜日はのんちがずっと奉仕してきた避難所、とりあえず最終日(もしかしたら、あと2回くらい行くかも・・・らしいけど)。忙しくて、ほとんど人と話す時間はなかったらしいけど、その烏骨鶏のおばちゃんがやってきて、「あんたのこと忘れないからね」と言ってくれたらしい。夫の私からもありがと。そんなに喜んでもらえてよかった。でもね、のんちのことは忘れてもいいから、イエス様のこと、もっともっと知ってほしいな。おばちゃんのいちばんの力になってくださる方だから。


のんちはとりあえず、塩釜での働きは火曜日までで、水曜日はそのまま病院の中で休養日。
木曜日からどうするかはまだ最後の調整をしているようですが、
とにかく石巻にいくことになりそうだということです。


一度仙台に出てから路線バスで行くのか、
塩釜から行く人の車に乗せてもらうのか、
いろいろな可能性があるみたいで、
なんだか、最近毎日「今日中に明日のことを決める」という日々が続いています。


みなさんのお祈りに心から感謝して。


さて、今日の聖書。
今日はマルコ13:1-13。


「それは彼らに対してあかしをするためです。」9節。

これはまさに、昨日書いた世の終わりについてイエスが話をされているところです。
そこに起こることは、「偽キリスト」「戦争」「地震」「飢饉」そして、「迫害」、「対立」。

どれも、驚くな、慌てるな、そういうことは起こるから。起こるんだから。
そして、すぐ終わりが来るなんて思うな、とも言われました。

その中で、イエスは特に「迫害」について、どう対応するか、詳しく語られました。

それは「証をするチャンスだ」「恐れるな」「聖霊があなたに何を語るか、教えてくださるから、それを頼りにして行け」と。

なんという励ましでしょうか?
わたしたちは「迫害がない」ことをどこかで求めています。
でも、必要なのはそうなんじゃないんでしょうね。
迫害の中でも、聖霊様の守りによって、導きによって歩んで行けること、それが大切なんだと思います。

困難、嵐、闘い、それがないことよりも、
その中で、イエスが持っておられたシャローム(平安)を、
わたしたちも持たせていただきたいと思います。

主よ、
どうか、嵐を恐れるのではなく、
困難から逃げるのではなく、
嵐の中で、困難の中で平安が与えられますように。
力が与えられますように。

2011-04-11

最悪を想定しても恐れない。

今日はホントに暑かったです。
我が家の庭の最高気温は30.6度C。
今も25度くらいあります。
でも、もう雨が降ってきました。
今夜、にわか雨、時々雷雨で、
明日は最高が12度くらいになるようです。
「現実に引き戻される」って感じですね。


最近、「想定外」という言葉がしょっちゅう使われます。
津波対策の問題でも、東電の原発の問題でも、「ここまで大きな地震が、こんなに大きな津波が」想定外だったということでしょう。
各地域の津波対策の問題よりも、原発の問題でその言葉が使われるときに、「言い訳」感を本当に強く感じます。「これは天災なんだ、どうにもならなかったんだ」と。
対策をとっておられた方々の努力に対しては敬意を表します。でも、「想定外」は、言い訳の言葉にすべきではなくて、「想定できなかった己を恥じる」べきなのではないかと思います。
また、今朝、NHKで柳田邦男さんがおっしゃっていましたが、「M9レベルの地震、内陸数キロまで入ってくる津波は平安時代に記録がある。今回の地震も、歴史的な記録や科学的可能性を超えているのではない。ただ、それを想定して設計するとものすごいコストがかかる。だから、現実、そこまでは対策ができない。コスト対効果の問題だ」と。


1000年に1回あるかどうか、ということのために対策をしていたら、電気代がべらぼうに高くなってしまう、ということだと。


やっぱり意識的に、意図的に「想定外」ということにしていたんですね。


ちなみに、私の昨年のクリスマスのキャンドルサービスのメッセージが「想定外のクリスマス」。またその後にも年末のカルフォルニアでのご奉仕に遅れてしまったことも「想定外の猛吹雪」でした。


人間の計画の限界と、それを超えた神様の前に謙虚になることだと。


想定を超えることが起こるのだと、それを覚悟して行くことも大切だと思います。


政府やマスコミの対応を見ていると、「大丈夫、大丈夫」からだんだん「ヤバいかも・・・」、「逃げてください」と。
原発の事故も最初は「チェルノブイリとは全然違うから」でしたが、最近は「チェルノブイリの例でも、それほどのガンの発症率は上がっていないから」になっています。


人々を不安にさせないように・・・なのでしょうが、重い病気の方に告知をしないで「大丈夫だから」「え、ほんとはどうなの?」と疑心暗鬼になってしまうのと同じかんじがします。


そして、この原発の問題、今日もボヤがあったそうですが(この「ボヤ」という発表も「火事」と言って問題になるのを避けているのでは・・・と疑心暗鬼になってしまいます)、やはり重い病気で苦しんでいる時に、「今度の検査結果はいいものでありますように・・・」と思っているのに、また悪い結果が出た時の気持ちに似たものを感じます。


私も決して人々の不安感をあおったり、どこかの新興宗教のように「世の終わりだ!」と叫ぶつもりはないのですが、でも、そういうことがあっても「想定外だ!」と言わなくてもすむように、心の奥底にある「たましい」の準備をしておくことの大切さを感じています。


聖書にこんな言葉があります。


「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない」詩篇112:7


この言葉に出会ったのは、今から10年くらい前、
ある大きな病を負いながら歩んでいた一人の牧師のメッセージの中だった。


彼はある夜、この言葉が与えられた。心に響いてきた。
彼は翌日、検査の結果を聞くことになっていた。
直感的に、「ああ、明日の結果は良くないな」と思った。


その夜、妻とふたりで祈った。
よくない結果を聞くのだろう、でも、この聖書の言葉のように、「ゆるがない」心を与えてください、と。


そして、その通り、悪い結果だった。
そして、その御言葉の通り、彼の心は揺るがなかった。
そして、前の夜にこの言葉が与えられていたことに感謝した。


聖書は、わたしたちの命には限りがあることをはっきり語っています。
それはわたしたちの経験とも一致するので、疑う人はいません。
でも、「自分の命に限りがある」ということはなかなか実感が湧きません。


「あなたがたは、明日もわからぬ身なのだ」とヤコブの手紙の4:14にあります。


わかっています。でも、本当にそうだな、あそこで命を落としていたのは私であっても、ちっともおかしくない、と思うのは阪神の時だったり、9-11の時だったり、今回の震災の時だったりします。


もう一つ、
聖書は、この世にも最後が来ることをはっきりと語っています。
でも、それは誰も経験したことがないので、
というか、今まで何千年もこの世界は一度も終わりを経験していないので、「そんなことあるのかな」と思います。逆にときどき「世の終わりが来るぞ!」といい加減な日程を言い出して(もちろん、当人は至極真剣です)、人々の不安をあおる人が現れてはそれが外れると、「そんなバカなことを信じる人がいるなんて・・・」と思います。


いつの間にか、「世の終わりなんてものはないんだ、そんなことを言うヤツは狂信的なヤツなんだ」という気持ちになってしまうのです。


でも、そんな想定外のことに出会ったら、あなたも「想定外で・・・」と言い訳しますか?
勝手に自分で線を引いて「想定外」にしてしまっているだけなのでは?


聖書は世の終わりについて明言しているとともに、そのための「たましい」の準備についてもはっきりと言っています。もっというならば、「何年何月何日に終わりが来る」と言うようなヤツのことを信じるな、そうじゃなくて、いつそれが来たとしても、大丈夫なように準備しておけ!と言うのです。


「想定外のことが起こっても、最悪の想定のことが起こっても、大丈夫な備え、恐れない強さ」持たせていただきましょう。


超長くなりましたが、とても大切なことだと思うので。


のんちは、月曜日はホントに忙しかったようです。
日本時間で夜1時頃にやっと電話で話せた、というところ。
災害援助もやはり人が集まってやっていること。
急性期をすぎて、それなりに人の間に立つことの難しさもあるようです。
一つ喜んでいたのは、避難所には家族同然のペットを連れてきている人もいれば、アレルギーの人もいる。一応ペットがいられるのはこの範囲、という規則はあるけど、なかなか徹底できない。そんな中で「電気が使えない避難所でも使える充電式掃除機」と「粘着テープ式掃除用具」が、昨日のリクエストで今日与えられた、ということ。迅速な対応に感謝していました。何をするにも時間のかかる日本の「話し合い/調整」文化。こんな時は少しでも迅速な対応が求められます。


火曜ももう一日塩釜延長。
その先は調整中だそうです。


さて、今日の聖書。
今日はマルコによる福音書12:35-44


「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました」43節。

人は金額を見るよね。
ホントに。悲しいくらい。
でも、主が見ておられるのは献身。

私たちにとって、
すべてはかみさまのもの。
教会や、慈善事業に献金するものだけじゃなくて、
すべてが神様のもの。

自分で稼いでいるんだから自分で自由にしていい、というのも、
十分献金しているから、あとは自分で自由にしていいというのもちがう。

自分のために使うのも含めて主が任せてくださったもの。

あ、時間もそう。
すべてが神様のもの。
そう、時間の方が、お金よりも大切だよね。
大切だから、もっともっとその面で神様を第一にするんだよね。

神様、
私の人生はあなたのもの。
神様のご自由に用いてください。
あなたの導きに従順であることができますように。

2011-04-10

1ヶ月。

今日はまだまだひんやりしていますが、
明日は暖かくなる・・・でも今イチすきっとしない、天気のようです。


でも楽しみにしています。


間もなく、あと、数時間であれから1ヶ月。
今も痛みの中にいる方々のために、
行く先が見えないでいる方々のために、
今日も祈ります。


日曜日には休みをもらったのんちですが、
夜も本当にひさしぶりにゆっくりと休めたそうです。感謝。
でも、先日の余震で、月曜日は忙しい一日になりそうです。
火曜日からはどうするか、いろいろ連絡をとってみると言っていました。
お祈りに感謝。


そして、先週は教会に2つの新しい命が与えられました。
彼らに、今日の週報で歓迎メッセージ。



新人君たちへ
ニュージャージー日本語キリスト教会へようこそ!
ぼくたちは、君たちが来てくれるのを君たちの家族がどれほど楽しみに待っていたかをずっと見てきました。生活のリズムもスタイルも、君たちに合わせてちょっと変えたりもしたんだと思います。お母さんたちはそれなりに大変だったけど、ニコニコしながら、話をしてくれました。君たちにはまだ想像できないかもしれないけど、君たちの存在はお父さん、お母さんにとって、かけがえのない、とても大切な存在なんだ。そして、おねえちゃん、お兄ちゃんたちは複雑な思いもちょっとあったかも知れないけど、ほんとに楽しみにしてたんだよ。これからけんかをしたり、かわいさのあまり、「そこまでしないで・・・」ということをするかもしれないけど、それがきょうだいというものだ、君たちも学んでいくと思う。
そして、教会のぼくたちも、楽しみに待っていたんだよ。教会って、神様が一つにしてくれた「家族」なんだ。イエス様を中心とした家族。そこに生まれることができたってのは、本当に君たちは幸せだと思う。最初はやさしいおじさん、おばさん、が、あるときには(13年くらいたってからかな?)うるさいおじさん、おばさん、に見えてしまうこともあるかもしれない。でもね、それも家族なんだってことの一部かな。大人の僕たちも逃げないで、君たちのことを全身で受け止めたいな、と思う。
君たちがやってきた、この世界。そこには、つらいことや悲しいこともあったりする。気持ちがいき違ったり、さびしい思いをすることもある。何もかもいやになってしまったり、逃げ出したくなることだってある。でもね、この世界は神様が大切な大切な一人子を犠牲にしてもおしくないと思われるほどに愛してくださった世界なんだよ。大丈夫。君も神様に愛されているから。これから、たのしいこと、うれしいこと、エキサイティングなこと、たくさん一緒に経験していこう!よろしく!



そう、つらいことも悲しいことも、逃げ出したくなったり、傷ついたりすることだってある。でも、そんな中でも、力をもらって歩むことができるようになる。それが神様の力かな、と思う。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、先にこの世界に生きることを許された僕たちは、その力を経験した者として、君たちにそのことを知ってほしいと思う。


僕たちも先輩たちに受け取ったこのメッセージを、次の時代を支える君たちちゃんと、伝えて行こうと思う。