2011-06-09

人ではなくて神を見る。

今日も暑い1日でした。
車の温度計は105度Fを表示していました。
ウチの庭の最高気温も38.6度C。
つまり101.5度F。


でも、夕方から空が暗くなって、雷鳴が轟き、
一瞬停電になって、だんだん気温が下がってきて、
お、雷雨かな、と思ったのですが、
まあ、我が家のあたりは大したことはなくて、
ちょっと雨が降って、涼しくなってよかったという感じ。


そして、今は夜の12時前ですが、
21度Cくらいまで下がってきています。


明日は30度止まり。
今日までの暑さを考えると、ちょっと過ごしやすくなるでしょう。


今日のシニアセンターでののんちの報告は、
とてもよかったです。(「長くならないように」「ポイントを絞れ」「聞く人のことを考えろ」など、いろいろうるさく言いましたから・・・)
それでも、昨日準備している時は「写真は一枚2秒でいいかな?」なんて、「フラッシュカードかい?」というようなことを言っていたのが、実際は1枚10秒くらいかけて話していて、巻きを入れなければいけないほど。でも、それでちょうど良かったかな、という感じでした。


本人も、「伝える使命」ということを感じているので、
ちょっとこの先、教会内外、あちらこちらでそのような機会が与えられるようにと願っています。


明日以降も、週末にかけて、
牧師館と、プリンストンの教会と、自分たちの教会、の3回の報告会があります。
疲れすぎてしまわないように、お祈りください。


さて、今日の聖書。
今日は第1テサロニケ2章1−12節。


「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」4節。

やはり、自分はどうだろうかと問われました。
神様をしっかり見ているだろうか?
見上げているだろうか?

人を恐れないで、神を畏れる、
そして、神の願われること、
神が語りなさいと言われることを、
語らせていただこうと、改めて思わされました。

今日のシニアセンターもそうですが、
明日は、またおばあちゃんを訪問します。

その心からの叫びにしっかりと耳を傾けるとともに、
そのここまで歩んでこられた人生の重さをしっかりと受け止めるとともに、
神様のメッセージをしっかりと伝えることができますように。

主よ、
私がいつもいつもあなたの声に耳を傾け、
あなたに聞いて行くことができますように。
あなたの願われる道に歩むことができますように。

聖霊さまを待ち望む。

テサロニケ人への手紙に入って、毎日更新しようと思いつつ、早速つまずいています。ベッドの中でiPhoneで更新中。

明日…日付が変わったので今日ですね、シニアの集まりでのんちがお話をすることになり、500枚くらいある写真から、60枚くらいを選ぶのに12時を回ってしまいました。帰米後、最初の報告の機会です。お祈り下さい。

昨日は暑かったですね。うちの庭の最高気温は37.1度Cでした。今日は、もう少し上がりそうです。

さて、今日の聖書、テサロニケ人への第一の手紙の1章。






「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。」5節。

本当に伝道しようとするときに、自分の弱さ、足りなさを感じさせられる。

だからこそ、聖霊さまの御業が必要なのだ。自分の力ではない、人の力を超えた、神様の働きが必要。

今日も、そのことを思わされていた。

神様の招きを感じる。

主よ、
聖霊さまを私のうちに満たしてください。
そして、人々があなたを信じる、という奇跡を見せて下さい。 BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop

2011-06-07

民数記を読み終えて。

今日は暑くなってきました。
33度くらいまで行ったでしょうか?
明日からは酷暑です。36-7度の予報が出ています。
でも、今は、夜10時で25.7度C。
これが助かります。
東京のように夜まで暑いと大変ですが、
ここでは熱帯夜も年に2-3日、特別多い年でも10日以内です。


この熱波、2日くらいで、週末はぐっと暑さも和らぐようです。


来週は日本の梅雨のような天気になる・・・かな。
やめてほしいですが・・・。


さて、このところしばらく民数記を読んできましたが、
今日で最後。
一つ一つの言葉よりも、
自分の来し方を思い出す、そんな思いで最後の日を迎えました。

民数記は荒野の40年の記録。
その一番最後のところから旅を振り返って書いたのだろう。

自分も記憶を辿ってさかのぼると4歳くらいまでは思い出す。
だから、45年くらいの記憶があるわけだ。
その一歩一歩が失敗だらけの、傲慢な思いのいっぱい詰まった歩みだったと思う。
自分の責任から逃げたことも何回もあった、
自分のしたことをごまかそうとしたこともあった。
そんなことばかり思い出す。

だから、民数記の民の失敗の歩みは、
まるで自分の歩みを見ているようだった。

だから、人の失敗と神の憐れみの歴史。
その中にちらほら見える、信仰の勝利。

神様の憐れみの中に生かされていることを、思わされる。

主よ、あなたの憐れみの中に生かしてくださってありがとうございます。
責任から逃げたり、傲慢になったり、ごまかそうとする思いから、
守ってください。
聖霊様、私をあなたの思いで満たし、
あなたが持っておられるへりくだりと、
人々への愛を、私のうちに与えてください。

2011-06-06

赦されるはずのない者が。

今日も割合涼しかったですね。
27度くらいまでは行きましたが。


でも、明日からは熱波です。
明日はまあ32度くらい。
そして、水曜日と木曜日は36度くらいまで上がる予報が出ています。


かなり体に堪えそうです。
お気をつけて。


さて、昨日の「野外礼拝」にはたくさんの方々が来られました。
楽しかったですね〜。
いや、楽しかった、の前に、耳を澄ますと鳥たちの声が聞こえるような中で、
礼拝を守るっていいですね。自然の賛美に心を合わせる、という感じです。
で、そのあとは、BBQとゲームとソフトと、スイカ割り。思いっきり遊びました。


写真は例によって、教会のHP(http://jccofnj.org)から「イベントフォト」へ行っていただくと、出てきます。


返す返すも、何年ぶりかのスイカ割りで、外してしまったことはとても悔しかったです。


でも、この野外礼拝、今までも、これをきっかけに教会に来るようになった、という方々がおられます。今年もそういう方々が起こされますように。


さて、ここしばらくずっと「日々のみことば」についてはあまり触れないで来ましたが、ずっと民数記の最後の方を読んでいました。その中から。

民数記35章「逃れの町」について。

「逃れの町」は、「故意ではなく過失で人を死なせてしまった」場合に復讐しようとする者の手から守るために作れた町。でも、「故意」で殺人を犯した者は「逃れの町」も守ることはありませんでした。

イエスは「人を憎んだり、あざけった者は人を殺したのと同じ罪を犯している」と言われた。「過失」ではない。言い訳はできない。「故意」に人を殺したのと同じ罪を犯している。だから、本当は自分は赦されるべき者ではなかった。

その罪の深刻さがわかっているのだろうか。

「罪」それも「故意の罪」は赦されるものではなかった。
イエスはそのわたしたちを赦すために十字架にかかられた。
本当はそれは赦されるはずがなかった、ということを知る時に、
そのことを心の深くで知る時に、
神様の愛が見えてくる。
神様の情熱が見えてくる。

本来赦されるはずがない者が赦されている。

なんと言う幸いなんだろうか?

神様、
あなたの愛に感謝します。
私を救ってくださる、赦してくださる愛に感謝します。
私がそのことを軽く考えることがないように、
守ってください。