2006-11-04

悔い改めに導く慈愛

今朝は-0.8度C。
この秋最低を更新。
昼間も寒かったですね。
8度くらいでした。
でも、今日くらいの日が「今日は暖かいねえ」と言う日が来るんですよね。
冬がコワイ待ち遠しいです。

今朝は6時半から朝の祈り会。
共に祈りました。
教会のために、教会が一つになって歩んでいくことができるように。
またわたしたちが信仰をもって踏み出すことができるように。

昨日から、あのペテロが水の上を歩いてイエスのところに行くところの箇所が心に留っています。
マタイによる福音書14章22-33節のところです。
ペテロはイエスに「水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言いました。

それは、「絶対にしなければならないこと」ではありませんでした。
そして、他の弟子たちは舟の中に残っていました。

ペテロは少し歩けました。
でも、風を見て恐くなりました。
そして沈みかけました。
ペテロは叫びました。「イエスさま、助けてください」と。
イエスさまは手を伸ばして、ペテロを助けました。
そして言われました。「なぜ疑ったのか、信仰の薄い者よ」と。

かっこ悪いです。

そんなことしないで他の弟子たちのように、
舟の中にいるオプションもあったのです。

でも、ペテロは水の上に踏み出しました。
イエスも「おいでなさい」と言われました。

そして、水の上を歩くことも、
風を見て恐れを感じたら、おぼれるんだということも、
またおぼれそうな者をも主はしっかり捕まえて下さるんだということも、
体験できたのはペテロだけでした。

他の弟子たちの経験できなかったことを経験できました。
イエスさまを見つめながら歩くとはどういうことか、
イエスさまを信頼して歩くとはどういうことかを経験できたのは、
ペテロだけでした。

私はペテロのように経験したい、と思いました。

さて、今日の聖書です。
今日はローマ人への手紙の2章です。
「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」(4節)

神の怒りではなく、
神の裁きではなく、
神の愛がわたしたちを悔い改めに導くのです。

そうだなあ、と思います。
神様の愛が分かれば分かるほど、
自分の罪深さが分かります。
自分の弱さ、小ささが分かります。
そして、「悔い改めよう」という思いにされます。

神様の愛はなんて大きいのかと思います。

神様、
あなたの大きな愛に感謝します。
あなたの愛のゆえに悔い改めることができることも感謝します。
どうか、あなたの愛を持ち運ぶ器として用いて下さい。

明日の日曜日の一日を祝福して下さい。
1人1人を励まして教会に送り、
明日、ここで神様を信じてスタートする方々が起こされますように。

2006-11-03

神の力

今朝は、それほど冷えなくて、
最低は1.5度C。
でも今夜はマイナス2度くらいと言う予想が出ています。
今、夜の12時で2.4度。

今日の朝の集まりで、
「わたしたちの負うべき十字架は何だろうか」と語り合いました。
マタイの16章にはこんな言葉があります。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」

悪魔はイエスに「十字架にかかるなんて止めてしまえ」と誘惑し続けました。

そして、今もわたしたちに「十字架を負うなんて止めてしまえ」とささやき続けています。

そのワナにまんまとはまっていることがどれほど多いことでしょうか?

つらい道、苦しい道、損をするように見える道。
それを避けようとする気持ちがどれほど強いか。

自分の十字架って何だろうか?
ちょっと宿題をもらったような気がしています。

今日の聖書はローマ人への手紙1章です。
このローマ人への手紙は、
パウロがまだ見ぬローマの教会の人々に書いた手紙です。

個人的な連絡よりも、自分の信じている教え、
福音のメッセージを記している手紙です。

その最初。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
16節の言葉です。

この福音の力。

その力を知らされていることの幸いを覚えました。
人が造りかえられていく、
造りかえられてしまう、
その力のすごさを感謝しました。

もっともっとその様な御業を見せて頂きたいと思いました。

神様、
福音の力を感謝します。
私も造りかえられました。
どうか、さらに多くの人々があなたによって変えられていくのを、
これからも見せてください。
その様なあなたの御業を見せてください。
人が救われる喜びをもっともっと味わわせてください。

2006-11-02

神様の方法

冷えてきましたね。
今夜は0度Cくらいまで下がるようです。
夜12時で2度くらいです。

今朝は教会の方のお見舞いに急遽行くことになり、
教会の集会はのんち(カミさんの実名)と皆さんに任せて、
NYに行ってきました。
そのお見舞いした方が守られたことも感謝しましたが、
それと共に、私が留守の間の集まりが、
とてもよかったみたいで、それも大感謝でした。

1ヶ月に1回の集まりで、
祈って準備してこられた方々には、
申し訳ないなあ、と思っていたのですが、
その時にはその時の神様の祝福があるんですね。
いや、神様がその様に導いて下さったのかもしれません。
集会が終わって、一緒にお昼ご飯、という頃に着いたのですが、
たくさんの方々が集まっておられました。

そんな中で、今日は道が激混みだったので、
長い時間、渋滞の中で、祈り考える時が与えられました。
自分の優先順位を考えさせられる時となりました。
いろんなプロジェクトも、特別な集会も大切なんですが、
そんな中でも、いつもいつも人と共に歩むことの大切さを思わされました。

そして今日の聖書。
今日は使徒の働きの最後、28章を読みました。
そして、ローマに着いてからのパウロの姿に心が留りました。

「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(30-31節)

ローマ行きを熱望していたパウロ。
その彼に神は「囚人」としての立場でそこに送り込まれた。
でも、彼はまたそこで、何の妨げもなく、
大胆に福音を語ることができたという。

何だか、不思議な話。
でも、神様にはそれがおできになる。
22章だったか、ヤコブが「これこれこうすれば、ユダヤ人から反発を買わない」とアドバイスをしていたのに、それに従ってもやはり捕まってしまう。
それは神様が彼をローマに送り込む方法だったのだ。

神様の方法。
自分らの考えを超えているのだろうと思う。

「 わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。??主の御告げ。?? 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55章8-9節)

わたしたちのちっぽけな頭で考えるよりも数段大きな神様の考え、
わたしたちが想像できないようなことを神様は準備しておられるのだと思う。

そこを信頼して歩んでいきたい。

神様、
あなたの御業をなして下さい。
あなたの方法でなして下さい。
わたしたちのちっぽけな考えの中にあなたを閉じこめることがありませんように。
大胆に、大きくあなたに期待できますように。


2006-11-01

この人達をあなたに与える

今日も暖かい一日でした。
今まだ10度以上あります。
でも、これも今日で終わり。
今夜これから雨が降って、
明日からはまた寒くなるようです。

今日の朝のフジテレビ系のニュースの中で、
日本人のオペラ歌手の方が、
メトでデビューされることをやっていました。
何とモーツアルトの「魔笛」の夜の女王だって。
びっくり。
すごーい!

高校の時に、ウィーンの国立歌劇場だったかな、
多分そうだと思うけど、日本にきた時に、
「魔笛」やったと思うんだよね。確か。

その時、夜の女王がとっても特徴のある人で、
最高音のFを出す時に、右側に吐き捨てるように音を出していたのが
おもしろかったのを思い出しました。

Fって普通の歌に出てくる一番高い音の1オクターブ上のFですからねえ。
すごいことです。

これからもがんばって頂きたいです。

今日、1人の子が涙ながらにお祈りをして、
イエスさまを信じました。
感謝しました。
イエスさまが子ども達をどれくらい愛したか、
そのことを思い出しました。
今もどれくらい愛しているか。
そのことを思います。

そして、その子ども達のほとんどは大人になります。
子供のままで神様のところに召されていく子もいます。
どちらも、子供の時に神様の愛を知っているって、どんなにすばらしいことかと思いました。

一人の方の手術のために
教会のみんなで祈りました。
教会が一つの体であることを感じました。

さて、今日の聖書。
今日は使徒の働きの27章でした。

24節の
「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。
そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。」
が心に留りました。

嵐の中でも、
危機の中でも、
神様が守って下さる、
あなたには使命がある、
この船のみんな、あなたに与えているよ、
と語って下さった。
その確信がどれほど彼を支えただろうかと思いました。

囚人でありながら、
いつの間にかリーダーになっていたパウロ。

本当に主がリーダーとしてお立てになる時に、
もう肩書きなんかいらないんだなあ、と思いました。

神様の約束、
神様のみことばが欲しい、
そう思います。

今度の日曜日の説教題。
「ただ、お言葉を下さい」です。

神様、ただ、お言葉を下さい。

神様、
あなたのみことばを待ち望みます。
あなたのお言葉を与えて下さい。

どうか、あなたのお言葉を信じる信仰を与えて下さい。
嵐の中でも、暴風雨の中でも、
あなたが共にいて下さるという平安を私に下さい。

主よ、明日の集会を祝福し、
新しい出会いをも与えて下さい。
また心が触れ合うような一時を与えて下さい。


2006-10-31

私のようになって欲しい

今夜はとても穏やかな、とてもとても穏やかなHalloweenです。
大きなお兄ちゃん達が、ちょこっと変装して、枕カバーを持って、
「おかしくれー」みたいな感じで来るのには、結構閉口しますが、
まあ、ほほえましいです。

今朝は3度くらいまで下がりましたが、
今夜はかなり暖かいようです。

行事をこなしたり、
プロジェクトに取り組んだり、

ということと、

人と共に歩むこと、
それも、弱さや痛みを持った人と共に歩むこと、

これが両立するんだろうかと、
昨日から考え、祈らされています。

いろんな動きにわくわくする中で、
静まること、祈ること、忘れないでいよう、と思います。

「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」
(イザヤ書30章15節)

祈りの中で、神様が語ってくださること、
それを聞いていきたいと思います。

頭はキリスト。神様。
手と足が話し合って決めるのではなくて、
手も足も頭からの指令を頂いて、共に働いていくんですよね。

主よ、導いてください。
いつも教会が教会であり続けることができますように。

今日は使徒の働きの26章を読みました。

「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」

29節のパウロの言葉です。
囚人となって「申し開き」を命じられた時にも、
彼は「証し」をしました。
そして、大胆にも、王様や総督に「私のようになって欲しい」と言いました。

私も心の中ではその様に思っています。
本当にそうだと思います。
だから、大胆に証をしていこうと思いました。
毎日毎日、誰かにこの神様の愛を伝えよう、
とにかくそのことを神様に求めていこう、と思いました。

「今日、信仰をもって歩み出す方が起こされますように」と
祈って毎日を始めようと思いました。

神様、
私を今日も、あなたの証し人としてください。
あなたの証をする者とならせてください。
「私のようになって欲しい」と言える者とならせてください。
大胆さを与えて下さい。
「よかったらどうぞ」じゃなくて、
「これは本当にすばらしいんだから、あなたにもそうなって欲しい」と
心の底から思っていることを、ちゃんと伝えることができますように。
人に聞くよりも、あなたに聞くことができますように。

2006-10-30

人間の大きさ

今朝は3度くらい。
でも、昼間は本当に暖かい日になりました。
17度くらい。

明日はもっと暖かくなるみたいです。
今は夜の12時頃ですが、5度くらい。
結構寒いですが、明日は20度を超えるそうです。

今日の夜ちょっと外に出てきましたが、
今夜はハローウィンの前の晩、Cabbage Nightと言って、
悪ガキどもが、いろいろいたずらをする夜です。
まあ、家の近所はかわいいもんですが、
よくあるのはトイレットペーパーを電線や木の枝に引っかける、
というヤツです。
とてもきたない。

西海岸や南部ではハローウィンはあんまり盛んではありませんでした。
特にクリスチャンの間では、「そんなの・・・」って感じでした。
教会によっては、ハローウィンに行かなくてもいいように、
教会で「コスチュームパーティー」をしていました。

というのはその意味。
Halloweenというのは元々カトリックの祝日であるAll Hallows Dayつまり「聖人の日」の前の夜に、
明日になったら「聖人の日」で、自由にいろんなことができない、という悪い霊が、その日が来ないうちに、好き勝手なことができる、という、「うーん」と考えてしまうお祭りなんですね。

ちょうど、Lentの断食の前にバカ騒ぎができるカーニバルと同じように、
大切な日の前に悪ふざけをしておこうということなのでしょう。

だから、NJへ来てびっくりです。

子ども達はかわいいからいいですけどね、
グロテスクなのはゴメンです。

前の家に住んでいた時は、卵を家にぶつけられて、掃除が大変でした。
せめて、もっともっとちゃんと取り締まりをして、健康的なお祭りになったらいいのに、と思います。

ちなみに5歳の娘はプリンセスに変身します。Sleeping Beautyです。
黒髪のSleeping Beautyです。
本人はとっても楽しみにしています。

ん、いや変身ではなく、隠された真の姿を現す、かな?

さて、聖書の言葉。
今日は使徒の働きの25章を読みました。

「ユダヤ人の歓心を買おうとしたフェスト」(9)
「アグリッパ王とベルニケが、フェストに敬意を表するためにカイザリヤに来た」(13)
「アグリッパとベルニケは、大いに威儀を整えて」(23)

これらの言葉を読んでいるととても滑稽に感じます。
フェストはユダヤの人々の歓心を買おうと思いました。
ユダヤの王であったアグリッパはフェストに敬意を表しました。
アグリッパは「大いに威儀を整えて」現われました。

でも、ここで一番自分をしっかり持って語っているのは、
パウロです。
囚人であったパウロです。

どんな状況の中にあっても、
手足に鎖が繋がれていたとしても、
この中で一番強いのはパウロです。
一番偉大なのはパウロです。

彼はいつもいつも、人々ではなくて、
神を見上げていました。

私もそのような者でありたいと思いました。
人々にこびへつらうのではなく、
神様にいつも聞いていく、
その姿勢をいつもいつも持っていたいと思いました。

人が自分のことをどう見ているかではなく、
神様が私に何をして欲しいと願っておられるかを求めていくこと、
そのことの大切さを思います。

主よ、
このパウロの強さを私に与えて下さい。
いつもいつもあなたを見上げていけますように。
人を見るのではなく、
あなたを見ることができますように。
あなたに聞くことができますように。

2006-10-29

神の時

今日は本当に風の強い一日でした。
でも、幸いここら辺は停電もなく守られました。
ロングアイランドの方が一番被害が大きかったようです。

今夜は冷え込みますが、
明日から3日間は暖かい日が続きそうです。

明日は庭掃除をがんばらなければならないでしょう。

今日の礼拝、
初めての方はおられませんでしたし、
いつもより少し少なめでしたが、
旅行で寄られた方々もおられて、
幸いでした。

礼拝後、
また教会の将来について語り合い、祈り合う時が与えられました。

わたしたちのグループは5人という小さなグループだったのですが、
とてもよい語り合いの時でした。
話の方向は、「どんな教会を目指していくか」「教会はこれから何ができるか」
という前向きな話で、とてもわくわくする内容でした。

20年後を見据えて、
子ども達に対してできること、
またシニア世代の方々のためにできること、
自分たちの会堂を持ったら、どんなことができるだろうか、
そんなことを語り合いました。
11月号の月報にも書きましたが、「地の塩」の使命を果たすためにどんなことができるかと。

将来のための投資なんでしょうね。
自分たちの目先のことばかり考えないことが大切なんだと思います。

どちらかというとアメリカの教会の方がその傾向が強いのでしょうか、
大きな教会も小さな教会を必要以上に「助けない」ようです。
わたしたちが会堂をお借りしているルーテル教団(ミズーリ派)も
本来、新しくスタートする教会を立ち上げる時に、3-5年での自立を励ましているそうです。
そうしないと、体質として「援助を期待する」教会になってしまうからです。
だから、それは日本的に言うと「冷たい」と思うかもしれませんが、
本当はものすごい神様を信頼した上での、「愛」なんでしょうね。

それと共に、昨日から考えさせられていること。
教会は「キリストのからだ」で、頭はキリスト。
だから、わたしたちが語り合うことも大切ですが、
1人1人が神様から聞いていく、
手も足も口も耳も、頭であるお方からの導きを待ち望んでいく、
その姿勢の大切さを思わされます。

ちょっとわくわくしすぎでしょうか?
いいですよね。
わくわくしてて。

わくわくついでに
今日の礼拝のメッセージで
「みことばは従うことが大切」
と語りながら、
神様からの大きなチャレンジを感じました。

行わないならば、忘れてしまう・・・まさに私の姿です。

みことばに従うこと、
それは神様からの訓練を受けること。

神様を土台とすること。

わたし自身の土台としているものは何なのか?
健康?安定した収入?才能?家族?

私の家族の土台としているものは何なのか?
やっぱり健康?安定した収入?

わたしたちの教会が土台としているものは何なのか?
???

本当に神様を土台としているだろうか?
本気で土台にしているだろうか?

みことばを行う人になろうと思いました。

そこで、今日の聖書。
今日は使徒の働き24章を読みました。

今日は最後の「2年経った後」という言葉が心に留りました。

昨日の聖書箇所では、「あなたはローマでも私の証をする」と言われたのに、
今日のところでは2年間も牢の中で放っておかれたのです。
「ここから出されて、ローマに送られるのは、主が私をローマに遣わしてくださるのはいつだろうか」
とずっと待っていたことでしょう。
その中で、この2年間は本当に長かったと思います。

でも、神様には神様の時がある。
だから、わたしたちには忍耐も必要。
そう思わされました。
神様の視点で見たらどうなんだろうか、
そのことをいつも思いながら歩みたいと思いました。

もちろん、わたしたちは神様の視点を持つことはできないし、
できたと思った瞬間に、傲慢になっているんでしょうね。

でも、自分の視点だけでものを決めないこと、
神様がどのように見ておられるか、思うこと、
そして何よりも、神様の時を信頼して待つことでしょう。

「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」(ヘブル10:36)

主よ、
私が2年待たされたらどう思うでしょうか?
私はそんなに待てるでしょうか?
あなたが約束してくださったこと、
どうして実現しないのだろうかと、
あなたが私の使命として与えて下さっていること、
どうして発揮できないのかと、イライラしたり、
焦ったり。
でも、あなたの時があるんですよね。
その時を信頼します。
あなたのお考えを信頼します。