2016-05-09

神による勇気。

先週一週間はずっと肌寒い雨。
本当に土曜日の夕方まで、太陽を見ませんでした。
そして、昨日は眩しいほどの青空。

日曜日だったので、写真撮る余裕もありませんでしたが・・・。

今週は木曜日までは大丈夫みたいです。

先週末、私の人生に本当に大きな意味を持った一言を言ってくださった方が、天に召されていきました。

多分、その方ご本人は、ご自分の言葉が、その若者にどれほど大きなインパクトがあったのか、ご存じなかったのでは、と思います。直接、そのお話をさせていただいたことはないのでは・・・と思います。

もう何年も前にシリーズで書いたのですが、その時の原稿を、ちょっと長いですが、心からの感謝を込めて、まとめてここに紹介。

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20歳になりました。
いろいろ悩みながらではありましたが、
まあ、真面目に神様を信じて生きていました。

そしていつの間にか、自分の信仰の姿勢に誇りを持つようになっていました。
それが「傲慢」になっていったのです。

聖書も(ほぼ)毎日読んでいました。
お祈りもしていました。
教会も休みませんでした。
友達も誘いました。
献金も思いっきりささげていました。

そんな自分のクリスチャンとしての歩みが自慢でした。
そして、そうできない友人を見下げていました。

高校時代は桶に入っていた、ん?オケに入っていたのですが、
合宿とかが日曜日に重なると悩んでいましたねえ。
オケと合唱で合わせて音楽部(オペラとかやっていましたからねえ)だったのですが、
一回は合宿に行って、日曜日にその場で、人を集めて「日曜礼拝」までやっていましたねえ。
結構集まりましたよ。60人くらいのうち、20人か30人か・・・。

また大学受験の時は
意地でも日曜日にある模擬試験は受けませんでした。
今考えるとなんて嫌なヤツなんだろうと思うのですが、
日曜日に模擬試験に行っていた教会の友人には、
「そこまでして大学行きたいか?」とか毒づいていました。

20歳になった夏、そんな自分の傲慢な気持ちが打ち砕かれるときがやってきました。

私にとっての大きなターニングポイントです。

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それで、20歳の時。
夏でした。
私は時々伊豆大島にあるホーリネス教団のキャンプ場に
ワーカーとして奉仕に行っていました。
大島泉の家
私はここで育てられました。
船に乗っていかなければ行けないというところがまたいいんですよね。
一度行ったらもう終わるまで帰れないし、
他に周りに何もない、真っ暗なところ、
停電したときなんかなーんにも見えませんでした。
それから星がきれい、
海がきれい、
クワガタがたくさんいる・・・

まあいろいろあったのですが、
何よりも良かったのは、そこで持たれたキャンプが、毎回毎回良かった。
教会の規模は今のJCCNJと同じくらいなんですが、
中高生はうちの兄弟とちょこちょこ・・・。
で、このキャンプ場に来て、50人とか、100人とかの仲間の中に入って、
中高生向けのメッセージを聞いて、
共に歌って、共に祈って、
悔い改めに導かれたり、
友達のために祈ったり、
新しくされて帰ってきたものでした。

行き帰りの船の中では前の方に集まって、
みんなで賛美をしました。

そのキャンプ場で大学生になってからは
時々ワーカーをしていたわけです。

ワーカーをしているときには、
一生懸命陰の奉仕をします。
朝は5時半とか5時とかから朝ご飯の準備、
みんなが海に遊びに行っているときにはキャンプファイアーの準備とか、
夕食の準備とか、
汗だくになりながら、泥だらけになりながら、奉仕をしていました。

そんな陰の奉仕に気がついて、
声をかけて下さる方々もおられました。
「君のような人がいるからキャンプができるんだよ、ありがとう」

そして、キャンプが終わって家に帰ったとき、
自分が一人でいるときに、キャンプの裏方で奉仕をしていたときの自分と
まるで違う、心の中に醜いものがたくさん渦巻いている自分に気がついたのです。


その時、私は自分が「偽善者」だということに気がついてしまったのです・・・

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自分が偽善者だと気がついたとき、
ほんとうに落ち込みました。
自分をののしり、「おまえは偽善者だ!」と日記に書き殴りました。

子供の時から聖書を読んでいる中で、
こういうタイプの人間にはなりたくないと思っている種類の人々がいました。
それは「律法学者」であり、「パリサイ人」でした。
規則を細かく守りながら、
でも心の中は醜いものでいっぱい、
傲慢で、人を見下げている人々。
イエスも「おまえ達は白く塗った墓だ」と彼らを厳しく非難しました。

「ほんとうに嫌な連中だ!」と私は聖書を読むたびに思っていました。
でも、気がついたら自分がその偽善者になっていた。

すべてがバカらしくなりました。
聖書を読むことも、
お祈りをすることも、
奉仕をすること、
教会に行くこと、
伝道をすること
すべてがバカらしくなりました。
子供の頃から一生懸命やってきて、
それで自分が一番なりたくないような種類の人間になっていたわけですから。

そして、最後は生きていることさえもバカらしくなりました。
この後どうして生きていったらいいか?
「人間なんてみんな偽善者だ」と割り切って生きていくか、
このまま偽善を通して生きるか?

いろんな人に相談しました。
あまり相手にして頂けませんでした。
「若いっていいね」「そんなこと気にしていてはダメだよ」「君は立派だよ」

最後の期待を持って、
あの大島のキャンプ場で、自分の父親くらいの先生に話しました。
先生は私の話をしっかり聞いてくださいました。
そして、言われました。「君はほんとうに傲慢な人間だね」

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「君はほんとうに傲慢な人間だね」と言われて、
どういう意味か分りませんでした。
自分のような、自分の愚かさ、醜さ、偽善性に落ち込んでいる人間は
「傲慢」なんかじゃない、砕かれているんだ、
と思いました。

でも、そんな気持ちを知っておられたのかどうか分りませんが、
先生は続けました。
「君はまだ自分に期待しているのかね。君はもう、あのキリストの十字架に共につけられているんだよ」と。

その時に、私は初めて分りました。
自分が一生懸命がんばっても、
せいぜい偽善者止まり。
外側を繕うことくらいしかできないからこそ、
そんな人間だからこそ、
イエスは十字架にかからなければならなかった。

自分でがんばって立派な人間になれるなら、
イエスは十字架にかからなくてもよかった。

自分がそんな立派な人間ではないから、
イエスは自分を投げ出されたのだ。

そして、その時に、子供の頃から耳にたこができるくらい何度も何度も聞いていた、
「神の愛」「十字架の愛」が自分に注がれていることが頭ではなく心で分りました。
こんな偽善者にしかなれないような人間のために、
命を投げ出して下さった方がいる。
そこまでして下さった方がいた。
その事実に、ほんとうに愛されている喜びを感じました。

大げさではなくて、
今もその愛が自分を生かしている。自分を動かしている。
そう感じます。

それまでは、人がどう思うかが私を動かしていました。
人の期待に応えるのが自分にとって一番大切なことでした。
こう期待されているから、こうしたい、(逆に、したくない、と意固地になったこともありました)
そのように生きてきました。
でも、この時からは、「ありがたい」「私には何ができるだろうか」という思いが、
私を動かすようになりました。


ここから、「伝道」が楽しくなりました。

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証しはここまで。

今、自分がその時のその方の年齢に近づいてきています。
私が、今、20歳の若者に、同じような相談を受けたら、「君は本当に傲慢だね」なんて、そんなこと言えるだろうか?それが言えるほどの、神様との生きた関係に生きているだろうかと思わされています。

心からの感謝を込めて。


2016-04-26

神の大きさ。

昨日ひさしぶりにアップするまで、しばらく更新していませんでしたが、
その間にあったこといくつか、ご紹介。


3月の初めに、NJの南の方の海岸での祈りのリトリートに行ってきました。
ただ、ただ、祈り、讃美歌を歌い、聖書を開き、を繰り返す3日間。

2日目の朝、大西洋に面する海岸に行ってきました。
少しずつ明るくなる空。

水平線の上に浮かんでいる雲の中から、高いところにある雲から明るくなっていきます。


そして、しばらく経つと、低い雲の一部が輝いていきます。


そしたら、突然、水平線の上に輝く線が現れました。


そして、丸くなっていって、


きのこみたいになる。


そしてこんな感じに朝になる。


雲が少しずつ明るくなるのも感動しながら見てきましたが、
3枚目の写真の時に、水平線に一本の輝く線が現れた時には本当に感動しました。

考えてみたら、水平線から昇る太陽、あんまり見たことなかったんでしょうね。

そして、これが、自分が気が付かない時もいつもいつも起こっていたと思うと、不思議な感じがします。

神様のなさることもそうです。

私が気が付かない時も、神様は御業をすすめておられるんですね。

さて、今日の聖書。
今日はルカによる福音書20:41-47。

「このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」44節。

人々は救い主キリストを「ダビデの子」と呼んでいました。
それは、ダビデのような王というイメージにイエスを閉じ込める危険がありました。
それで、イエスはご自身がダビデの子である以上に、ダビデの主であることを明らかにされたのです。

私たちは神様を、自分のイメージの中に閉じ込めていないか、そう思わされました。
神様は私達の考えを超えた方、私達の想像を超えた方です。
神様がなさることを自分の考え、自分の頭のなかに閉じ込めないようにしたいと思います。

神様、
あなたは私の考え、私の想像を超えた方です。
あなたのなさることの大きさを見ることができますように。
私があなたのなさることをリミットしないようにしてください。

2016-04-25

春満開。

春になりました。
結構、長い間肌寒かったので、うれしいです。
まだ朝はちょっと冷えますが。

今日は2年半前に頂いた胡蝶蘭、2年ぶりに花をつけたので、開花の様子をビデオに。



昨日、3番目の花が咲いて、まだ幾つか蕾があるから、
もっと光の加減とか調節して、タイマーでシャッターが切れるカメラで、再挑戦してみようかな。

2016-02-05

単純に信頼する。

昨日、予想していた雪。
昨日の午後の段階では、1−2センチだった予報が、夜には5−15センチになっていました。
わたしの予報をアメリカの海洋大気圏局が真似してきた感じです。

今回はバッチリあたってよく降りました。


今回はニンジャマンが計測してくれました。


湿った雪だったので、顔が埋もれてしまいました。
そして、ものさしもはっきり見えません。

近くに寄ってみましょう。


なかなかはっきり見えないのですが、
よく見ると、数字が上の方が小さくて、下の方が大きいです。

ダメじゃん。上下逆さまじゃん。

ということで、5-10センチくらいかな。(笑)



湿った雪は、ビショビショになるので、外に出るのはちょっと嫌ですが、
枝が白くなるので、中から見るのにはきれいです。

午後には随分融けてきていますが、ボストン方面は随分降っているみたいです。

次の雪の可能性は月曜日から火曜日。
これは予報が難しそうで、日曜日にならないと、はっきりしないみたいです。

さて、今日の聖書。
今日はルカ7:24−35

「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」28節。

これは、どんな意味なのか、とてもむずかしい言葉ですが、
「神の国」を「神の愛の支配」と言い換えると、
偉大な人物であるバプテスマのヨハネの人間としての立派さも、
神の愛の中に生きる者の祝福の前には、小さなことなんだということかと思います。

それほど、素晴らしいものをあなたがたは受けているのだよ、ということです。

この後には、人々に対して、単純にその神の恵みを受け取りなさい、と語っている文章が続きます。

神様から差し出されている愛の支配。
それを単純に信頼して、そこに飛び込むこと、それが祝福なんだな。

神様、
あんまり難しいことを考えないで、
単純に、本当に単純に、あなたの差し出してくださっている恵みを「ありがとうございます」と受け取ることができますように。


2016-02-04

つまずかない・・・。


さて、昨日は、今日の昼頃まで雨がすっかりはやまない、と申し上げたのですが、
見事に外れて、昼前にはすっかり上がっています。

これは今朝10時前の教会の裏の通りを東向きに坂道を下るように見たところ。



朝6時頃はまだ小雨が降っていて、「お、当たるか!?」と思ったのですが、すっかり上がりましたね。

今日は朝から10度C以上。本当に穏やかな日です。

でも、この後、夜遅くなってから雪。
明日の明け方まで、1−2センチ、と言われていますが、私は大胆に5-10センチを予想。


雨雲は一度東に抜けたのですが、この後西側に膨らみながら北に上がってきます。
西からは冷たい空気が入ってきますので、雨から雪に変わるというわけです。

さて、今日の聖書。
今日はルカ7:18-23

「わたしにつまずかない者は、さいわいである」23節


これは、イエスが救い主だと知っていたはずのバプテスマのヨハネが、
本当にイエスは救い主なのだろうかと、弟子たちを遣わして、イエスに聞かせた時に、イエスが言われたことば。

ヨハネはなんで不安になったのだろう?

イエスはなんでこんなことを言ったのだろう?

それは、やはり、イエスが人々が想像していた救い主とはかけ離れていたからだろう。

わたしも、神に対して、「あなたはこういう方ですよね」と自分の期待する姿を押し付けることがあるのではと思いました。

つまずくというのは、自分の考えている地面の状態と、違ったからですよね。
こうに違いない、という強い思い込みこそが、つまずきのもと。

そして、神様の思いがわたしの考えと違っても、単純に従っていく、そのようなやわらかさを持たせていただきたいと思いました。

かみさま、
わたしはつまずきます。よくつまずきます。思い込みが強いんですよね。
ですから、あなたに対して、もっとオープンな思いで、歩んでいくことができますように。

2016-02-03

勘違いしてないか。

水曜日の午後ですが、
今日は一日雨模様。
気温も高めで、12度Cくらいあります。

大雪の後、どちらかと言うと穏やかな日が続いて、
雪もほとんど融けて、残っているのは雪かきで積み上げたところ。



今日はこの後も雨が続きそうです。
今も、本降りですが、この後、雨が強くなりそうです。


これからレーダーで黄色くなっている発達した雨雲が、こちらに進んできます。

そして、この雨、しぶとく続きそうで、すっきり上がるのは明日の昼頃。
でも、その後、冷たい空気が入ってきて、明日の夜にはまた雪がふるかもしれません。

そして、注目は、来週の火曜日です。1週間先なので、日々予報は変わりますが、10−20センチの雪になるかもです。

さて、今日の聖書。
今日はルカによる福音書の7:11-17。

「主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、『泣かないでいなさい』と言われた。」13節。

深い同情を寄せられた。
これは「『はらわた』する」という意味の言葉。
人の痛みを自分の痛みとして感じる、という意味。
イエスはこの婦人の痛みをご覧になって、ご自分の痛みとされた。
居ても立ってもいられない思いだった。

イエスの存在自体が、神のみ思いを表している。
神は高いところから見下ろして、私達の闘いや痛みを「大変だなあ」と思っておられるのではない。ご自分の痛みとされている。飛び込んできて、私達と共に歩んでおられる。

「私のことをなんとも思わないのですか?」
こんなに苦しんでいるのに、なんとも思わないのですか?」
「私がどうなっても構わないのですか?」

弟子たちも、イエスの周りにいる人々も、何度も、イエスに訴えている。
嵐の中で、水が舟の中に入ってくる、パニック状態だった弟子たちも、自分一人が頑張って、妹は何もしないことに腹を立てた姉も、イエスに言った。なんとも思わないのですか?

とんでもない。イエスは人となって共に歩んでおられる。

イエス様、
私の痛みも、闘いもご存知でいてくださるからありがとうございます。
今日は、あなたが、遠いところから、私を批判的に見ておられるような錯覚を感じていました。あなたの語りかけに感謝します。あなたのことを誤解することがないように、守ってください。

2016-01-27

あなたの手を伸ばしなさい。

今日はNYに来ています。
気温も高めで、綺麗な青空です。



でも、NYでは、どうしてこの大きな空を、こんなに小さく切り取っちゃうんでしょうかね?でも、私達からどう見えても、この向こう側には大きな青い空が広がっている。それだけでいいね。

さて、今日の聖書。
今日はルカ6:6-11を読みました。

「その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。」10節。

一週間前にこの箇所のための「日々のみことば」を準備していた時に、イエス様が私達の存在を大切にしてくださり、命を与えてくださるのだということを、安息日はそのようなことのために与えられているのだということを味わって、興奮しながら、感謝していた。

そして、今日読んだ時に、また違うことが語られた。
いや、読んだ時というよりも、読んだあと、家を出て、NYCを歩いている時だった。

「ただ歩くだけではなくて、歩いている間に神様のみ声を聞くことができますように」と祈りながら歩いた。

そこで思わされたのが、今朝読んだルカ6:10のことば。
まてよ、この「手を伸ばしなさい」って言われた人は、手が不自由だったんだ。その人に、イエスは「手を伸ばしなさい」と言われた。そして、その人は伸ばしてみた、伸ばせないのに。そしたら、出来たんだ。
自分はどうだろうかと思った。イエスは、今も、私に「手を伸ばしなさい」と言われている。私のできないこと、無理なこと、ありえないことを指差して、「さあ、その手を伸ばしなさい」と言われている。

神様には何でもできないことはないことを忘れないでいよう。
そして、その方が、私ができない、と思うことをも、させてくださる方だということも。

私もイエスの招きに従って、その手を伸ばそう。

神様、
あなたが手を伸ばしなさい、と言われるときに、
その力をも、与えてくださる方であることに感謝します。
あなたに従っていく、勇気をもって信じ従って行く者とならせてください。

2016-01-25

2016年1月23日大雪。

しばらく更新を休んでいましたが、先週土曜日は本当に多くの雪が降りました。

我が家のあたりでは40センチくらい。
そして、NYCでは60センチ以上、JFK空港周辺では70センチ以上だったそうです。




日々、みことばを読んでいますが、
今年は1回に読む箇所を短くして、ゆっくり味わうようにしています。

さて、更新を休んでいる間の聖書の言葉。

19日の聖書の言葉
「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」(ルカ4:36)

イエスの言葉には権威があった。
イエスの権威を頂いて、働かせていただいていることの重みを思わされる。

イエスの権威を経験させていただいて、
その権威を委ねられた者として、仕えていこう。

主よ、
あなたの権威を味わわせてください。
そして、あなたの権威を頂いたものとして、
あなたに仕えていくことができますように。
人々に仕えていくことができますように。


2016-01-08

神との作戦会議。

今朝は-6度Cで快晴でした。
少しずつ冷え込みが緩んでいます。

今朝、きれいに晴れたので、さらに細くなった月が見えました。


何ででしょうかね。
細い月を見るのが難しいからでしょうか。
ポテチのような薄い月が見れるととても嬉しくなります。

明日は新月。

来週は月が夕方の西の空に移動します。

夕方の方がなかなか月を見ることできないですよね。

今日の聖書はルカ2:1-7。
クリスマスのところです。

「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」7節。

自分の心の中に、イエス様の居場所はあるだろうか。
本当にそのことを深く探られた。
今日の一日、イエス様をいつも心の中に持っていよう、と思わされた。

そして、今朝の祈りの時は楽しかった。
今までも、何度も「祈り抜いた」という時はあったし、神様と共に過ごす時間は楽しいものだった。
でも、今朝は神様と共に「祈りの課題リスト」を一つ一つ見ながら、作戦会議をしているかのような時間だった。「この方のために、私は何をしましょうか?あなたはどんなことをしてくださいますか?これについては私は何もできないですから、あなたにお任せしますね。」というような。
恥ずかしながら、今まで、「神様はあなたに必要なことは何でもご存知だからくどくど祈るな」という意味が今ひとつ分かっていなかったように思う。「神は全てわかっているなら、祈る必要はないんじゃない?」という質問にうまく答えることはできなかった。
でも、人間同士だって、お互いに共有している情報について、語り合う。神様とだって、お互いに知っていることについて、語り合うのは楽しい時だ。

感謝。

神様、
あなたと共に過ごす時間、感謝します。
どうか、イエス様を私の心の中にいつもいていただくことができますように。

2016-01-07

心に光を受け入れる。

今朝は思ったよりも冷え込んで-8度C。
ちょっと雲もありましたが、明け方、月と金星の競演を見ることができました。


そして、風の弱い朝だったので、7時過ぎに娘をスクールバスのバス停に送りに車を出そうとしていたら、こんな感じ。


今夜は今9時半で、-1.6度C。今夜も風がないので、霜が降りそうです。

さて、今日の聖書はルカ1:67-80。

「また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう。」78-79節。

私の心にもイエスの光を受け入れようと思った。
今日の1日の歩み一歩一歩において、イエスの光を受けて歩みたいと思った。
そのためには、自分の心を開いて、痛いところも、照らしてほしくないところも照らしていただかなければいけない。

本当に一瞬一瞬イエスの光に照らされて歩む、喜び、そこに与えられる平安を経験させていただきたいと思う。

神様、
あなたの光で私の心を照らしてください。
一瞬一瞬あなたの光の中で、自分を見つめる厳しさに歩ませてください。
そして、あなたの光の中で、喜びに満ちて歩ませてください。

2016-01-06

風と霜

今朝もグッと冷えました。
-12度C。そして、昨日の朝はなかったのですが、今朝は霜が降りました。



霜の結晶が、きれいに見えます。
車に降りた霜なんですが、立っている結晶もありました。

昨日の朝は-13度Cで霜が降りずに、今朝は-12度Cで霜が降りた。
その違いはなんだったかというと、「風」なんですね。
風があると霜は降りません。昨日の朝は冷たい風が吹いていたんですが、今朝はすっかり風がおさまって、静かになっていました。それで霜が降りたわけです。

今夜は今朝ほど冷えないで、今はもう夜10時を過ぎていますが、-4.5度C。
風はないので、また霜がびっちり降りていることでしょう。

今日の聖書はルカ1:57-66でした。

『八日目になったので、幼な子に割礼をするために人々がきて、父の名にちなんでザカリヤという名にしようとした。ところが、母親は、「いいえ、ヨハネという名にしなくてはいけません」と言った。人々は、「あなたの親族の中には、そういう名のついた者は、ひとりもいません」と彼女に言った。』59-61節。

「人々」が出てくる。
人々は、赤ん坊に名前をつけようとする。
エリサベツは「ヨハネ」と名前をつけようとするけれども、
人々は「そんな名前は親戚にはいない」と言う。
人々は「常識」を振り回す。

でも、エリサベツも、ザカリヤも、人々の声に屈しない。

そのような強さを、いや、そのような強さを与えるような神との関係を持っていきたい。

神様、
人の期待やプレッシャーがあります。
「常識」がすべてを支配しようとします。
そんな中でも、あなたの導きを、信頼できるように、貫くことができるように、あなたとの深い関係、強い関係を与えてください。


2016-01-05

冬が来た。

今年も三日坊主になるかなあ、と思いつつ更新していましたが、やっぱり4日目はお休みとなりました。

今年の冬は本当に穏やかで、暖かくて、雨もよく降って、これは昨年の年末の時の写真なんですが、


これはもう、間違いなくナメコでしょう。連日の雨で、ナメコのぬめりもいい感じでした。
2年か3年前にこの隣の切り株にナメコの菌を植えたのですが、なぜか、ここに生えてきています。この株は大晦日の夜に収穫して、年越し蕎麦の「なめこおろし蕎麦」の材料になりました。ちょっとだけでしたけどね。

そんな暖かい冬も2015年と共に過ぎ去り、今朝の最低気温は-13度Cでした。痛い寒さです。

今夜もまた冷えそうです。
今は夕方6時半ですが、-5.5度C。
冬本番です。

昨日、1/4の聖書はルカ1:39-45でした。
マリヤが親戚で、同じような奇跡を経験していたエリサベツを訪問した時の、エリサベツの言葉。

「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。」45節。

主の語られることは必ず成就する。
自分はそれをどこまで本気で信じているのか。
このマリヤと同じようにそのように言われる者とならせていただきたい。

主よ、
あなたの約束を信じます。
それがすぐに実現しなくても、あなたの約束を信頼して歩んでいきます。
どうか、語ってください。

2016-01-03

神のしもべとして生きる

今日も氷点下の朝。
でも、日中はそこそこ暖かくなるそうです。

ニュースは今日の夜から。


月曜日、火曜日と一日中氷点下。
そして、次に氷点下脱出は水曜日の予定です。

いよいよ冬本番です。

さて、今日読んだのはルカによる福音書1:26-38
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」38節。

このことばをゆっくり味わいました。
私は本気で神さまのしもべとして生きようとしているだろうか?
自分の心の奥底まで探られました。

そして、神様は奇蹟をなしてくださると本気で信じているだろうか?
それも問われました。

神様のみ力を本気で信じて、最善をなしてくださる神様を本気で信頼して、
神さまのしもべとして、歩ませていただきたいと思いました。

かみさま、
わたしはあなたのしもべです。
あなたのみこころが、私の人生を通して、表されますように。