2006-04-28

神が隠される

今朝はそれほど冷えなかったですね。
7度くらい。でも、午前中は風が冷たかったです。
昼間は19度まで上がりました。
そして、今、夜の11時にもう9度まで下がっています。
今夜は霜が降りるかも、と言っていましたね。
まあ、そうかもなあと思います。
風が止んで、天気がよくて、
湿度もそこそこ低い。霜もあり得るでしょう。
キュウリ、ナス、ピーマンなど寒さに弱いものは夜は家の中です。
でも、来週には朝の冷え込みも終わって、
また春らしい日が続くみたいです。

どんどん暖かくなって、早く、花粉が終わって欲しいものです。
今、車の窓が黄色になるくらい、花粉が降っています。
うん、花粉が飛んでるのではなくて、「降っている」という感じです。

今日は午前中集会があって、午後はたまっていたいろんな仕事をやっていました。
その中に、5月のニュースレターの原稿ってのがあって、
今度の日曜日に出るんですが、
いろいろ考えさせられました。
教会ってなんだろうって。
いや、牧師が、改めて考えていること自体が、
日頃のプロ意識が足りない、ということなんでしょうが、
ホント、日々のプログラムに追われて、
大切なことが見えなくなってしまっていないかって、思うことがよくあります。
いつもいつも「教会が教会であるように」ってことを考えて歩んでいきたいと思います。

で、聖書。
今日はエレミヤ書の33-38章を読みました。
その中で目が留った言葉が、
36:26の、「しかし、主は二人を隠された」という言葉。
神の言葉をストレートに語るエレミヤ。
彼は王様にも「負けます」「滅びます」と語るから、
とても嫌がられる。
タダ嫌がられるだけではなく、
時にはいのちをねらわれる。
これはそんな時のこと、
神様は彼ともう一人の彼と共に歩んでいた者を守られた。
王様の権力も、軍事力も、
届かないところ、それが神の守りの中。
神様が「渡さない」と決められたら、
大丈夫なんだ。

だから、何度も出てきているテーマだけど、
すべては神の御手の中。
どんなことも、神のみ許しなしには、起こりえない。
だから、じたばたしなくていい。
私たちが気が付かないだけで、神様のなさることは最善なんだから。

主よ、
すべてはあなたの御手の中にあります。
いろんなことに振り回されることもあります。
でも、それもあなたの許されていることの範囲の中。
恐れないで、歩んでいくことができますように。
明日の土曜日も、
その次の日曜日も一つ一つのこと、
お守り下さい。

2006-04-27

主の力の及ばないところはない!

今日も遅くなってしまいました。
でも、今日も更新出来ます。感謝。

昨日の夜は遅くまでNYにいました。
空いた時間には日曜日の準備をしたり、
また、人と会って共に祈り合ったり、
幸いな一日でした。
16000歩、歩きました。
やっぱり健康のためにはそれくらい必要でしょうね。
それも感謝。

今朝は3度まで冷え込みました。
昼間は25度くらいまで上がりました。
花粉、満開です。
でも、今年は例年より楽かな。
今晩も霜が降りるくらい冷え込むと言っていましたが、どうでしょうか?
今はまだ14度あります。
天気は来週初めまでは晴れ!
一気に花粉が終わって欲しいです。

今朝、アスパラ5本収穫。太いのも2本ありました。
甘かったです。累計19本。(^_^)
まあまあですね。
ホントは一遍に10本くらい収穫出来るといいのでしょうが・・・。

それから、ピーマンとなすの種がやっと発芽。
うーん、やっぱり温度管理が難しいですね。
ホントは5月には苗にしておきたかったのですが・・・。
そして、ものによっては、先になすの種をまいていたところに、
「ダメだこりゃ」と思って、ピーマンの種を蒔いたので、
どっちが生えてきたのかわからない!
双葉じゃわかりません。
トマトは蒔いていないけど(好きなんですが、アレルギーが・・・)、
トマトも同じですよね。
本葉が出てきたらわかるでしょう。ゆっくり待ちます。

今日の午前中は祈り会。
午後はキッズクラブでした。
Leoniaです。
新しい方々も来られ、常連も定着して、
いい感じです。15人くらいだったかな。

で、今日の聖書。
エレミヤ書の24-32章を読みました。
32章の27節の言葉が心に留りました。
「私の力の及ばないところが、一つでもあるだろうか」
ノックアウトですね。参りました。
じたばたしなくていい。
恐れなくていい。
八方手を尽くして走り回らなくていい。
すべては主の御手の中にあるのです。
祈りましょう。
ゆだねましょう。
そして、本気で主を信頼しましょう。
言葉だけではなく、
本気で信頼しましょう。

主よ、
今日も、もう休みます。
あなたを信頼します。
あなたがすべてを御手の中に収めておられることを、
本気で信頼します。
お休みなさい。また明日、新しい力に満たして、用いてください。






2006-04-26

「休む」ということについて思い知らされたこと。

昨日のところで(書いたのは今日だけれども・・・)
「仕事をしたい」と思うほどリフレッシュされるのがいい休暇・・・という話を紹介した。

でも、今、日曜日の礼拝の準備をしていて、思った。
やはり今でも自分の中に、
「休暇」に対する後ろめたい思いみたいなのがあって、
「牧師としての働きのために役に立つんだから許して・・・」
みたいな気持ちが働いているのか、と思い知らされた。
「牧師は365日、24時間です」みたいな先輩の言葉がある。
確かに、そうだと思う。いつでも、連絡があったら動く。
いつでも心にかかる人がいたら動く。
でも、それは牧師だけではないだろう。
どんな人でも、「今とても大変なことが起ったんだ、すぐ来てくれ」と言われたら、
昼も夜もない。
心にかかる人がいたら、休みの日でも動く。いや、仕事が休みの日にこそ動く。
だから、それはどんな仕事をしていても、勉強をしている学生でも、主婦でも、親でも、
みんな365日、24時間態勢なんだと思う。

でも、思わされたのは、
やっぱり人間、「自分はこんなにやっています、認めてください」みたいな世界に生きている。
そして、やっていないように見られるのは怖い。
あの牧師暇なんじゃない?と思われるのは怖い。
スケジュールが詰まっていることが、自分の存在価値を支えているような。

でも、それって聖書のメッセージの真逆じゃないのか!
ある本で読んだ。本当にそう思った。
安息の日、それは
「仕事をしている時だけではなくて、
何もしていない自分にも価値があることをエンジョイする時」なんだと。
一週間の初めの日に、その「恵み」から出発するんだと。
今や休暇も「もっといい仕事ができるためにリフレッシュする時」になっている。
それはやっぱり仕事中心主義。

「何かをする」ことによって生きている日常から離れて、
「聞く」こと、「与えられる」ことによって生きていく、
そのような時なんだと思う。

しっかり休ませて頂きました。(^_^)v

神様、
あなたが語ってくださってありがとうございます。
気が付かせてくださってありがとうございます。
あなたに「そのままで、存在自体」受け入れられていること、感謝します。
神様、あなたの「恵み」を語る者としてください。

御言葉が語られて

今日は朝からNYの日です。
いやあ、4月の初めに朝が1時間早くなったはずなんですが、
6時過ぎで、もう明るい明るい。
いいですねえ。
もう1時間早くしたらどうかなあ、と思います。
朝はちょっと涼しかったです。
3度くらい。
でも、寒いとは思いませんでした。
パッチ履いてたけどね。

基本的にNYみたいなコンクリートに囲まれたところ、
いいみたいです。
子供の頃、下町に住んでいたからでしょうか?
全然OK。
花粉が少なくて助かります。

でも、初めてお昼のアポイントがなくて、
自分で「どこで食べよかな」と思って、
1時頃出てみたら、まあ、すごい人。
さすがに、「やーめた。2時か3時頃にしよ。」と思いました。
皆さんどうしているんでしょうか?お弁当?
あ、お弁当を売りに来るという話も聞きましたね。

話は変わって、今朝歩きながら思ったんですが、
野菜とか育てていると、
水をいっぱいやりたいですよね。
さるかに合戦のカニのように、まだ芽が出ないかなあって。
でも、種類によってはやってはいけないのもある。
そして、いずれにしろ、やりすぎないことによって、
水を求めて根が張るようになる。
そして上も立派になると、聞いたことがあります。

自分はどうかな、と。
昨日読んだ「生ける水の源」という言葉と一緒に思いめぐらしていました。
自分は深く深く、御言葉から味わっているだろうかと。
自分で神様の前に御言葉を求めて、頂いているだろうかと。
ともすると、手っ取り早い説明書や、他の方の証し、他の方の説教を頼っていないかと。
自分で御言葉をいただいて、語られて立ち上がる、そのような歩みをしたいと思いました。
渇きを覚える、そのような中で、もっともっと深く取り扱われるような経験が必要だと思います。
手っ取り早いのは、根をダメにしてしまうんだなあ、と思いました。

そして、今日は目が疲れていたので、
バスの中では聖書を読まないで、
図書館に来てから読みました。
エレミヤ書の18-23章を読みました。
そこにもありました。
「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。」
20章9節の言葉です。
ああ、私はこのように御言葉を語られて、
「黙っていられない」という思いで、
毎週講壇に立っているだろうか?
そう問われる思いがしました。
やはり御言葉を味わうこと、本当に深く深く根を張る木のように、
主の恵みの中に生かして頂いて、
時には「水が断たれているんだろうか」と思うほどに渇きを覚える経験をする中で、
主に深く深く触れて頂きたい、深く深く恵みを味わわせて頂きたい、
そのように思いました。

神様、
あなたを求めます。
あなたが語ってください。
あなたの御言葉を与えてください。
心の深みまで、私を取り扱ってください。
そして、恵みの深みまで私を連れて行ってください。
いのちを与えてください。


2006-04-25

生ける水の源

今日は休暇をいただいた2日目。
今日の午後と夜とそれぞれ出かけて、
ゆっくり過ごさせて頂きました。
聖書も読んだのですが、
今日はもう休みます。
明日また朝早く出てNYの早朝祈祷会です。

NYで時間があれば図書館からアップデートします。

ではでは。

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ということで、ここから、MidtownのNew York Public Libraryから。

某牧師のブログにあったのですが、
その先生にとって休暇がいい休暇だったかどうかの指標は、
そのバケーションの終わりが近づくにつれてどれだけ
「仕事に戻りたい」という気持ちが高まってきているか、ということだそうです。
なるほど、と思います。

そういう風に考えると、ホンの2日でしたが、
いい休暇だったんですねこれが・・・。

というのは昨日の午後、念願の「お風呂」に行ってきました。
裸でみんなと風呂に入るのが嫌なお年頃の息子と、
病み上がりの長女と
年齢制限で入れない次女の3人を置いて、
カミさんと2人で行きました。
何もせっかく子供が学校休みの時に行かなくても・・・と思いつつ、
行きましたよ。

女風呂は混んでいて大変だったようですが、
平日の日中と言うことで、男風呂はがらがら。
めちゃめちゃリフレッシュしました。
まさに「非日常」空間でしたよ。
旅行したってなかなか味わえないですね。
肩までつかって足をのばすなんて、
3年前の伊豆大島の温泉以来かな。

これは、是非とも「非日常」のまま取っておきたいと思いました。
それでいいんだと思います。それがいいんだと思います。
だから、しばらくは行くまい、と思いました。マジで。

そして、夜は男2人と女3人で分れてお出かけ。
そして、それぞれ楽しかったです。Let's Go Nets!

そして聖書。
25日はエレミヤ書の17章。
13節の「生ける水の源」という言葉が心に留りました。
実は25日の朝は「神様、今日も助けてください」との祈りで目が覚めました。
やはり、私もこの方にしっかりつながっていないと自分の中が涸れてきてしまうんだ、
と思います。
そして、それはバケーションをとることによって解決するものではないと思わされました。
もちろん、多くの場合、バケーションの中で、ただ、一人の人間として、
神の前に出て、祈らされて、そして、立ち上がる、そういう時が与えられる、
だから、本当に必要な時だと思います。
でも、いくら時間があっても、自分が神様の前に出なければ、
神様の前に出て、生ける水の源である方からいのちをいただかなければ、
やっぱり時間は無為に過ぎていく。
だから、忙しくても、時間がたっぷりあっても、
この方につながって、この方からいのちの泉をいただいて、
歩んでいきたいと思いました。
感謝。

神様、
2日間の時をありがとうございます。
これからの歩みの中でこの2日間が生かされていきますように。
その分内容の濃い週の後半となりますように。

2006-04-24

神の言葉を伝える者

やっぱり家におります。大事をとって。
娘に至っては先週の水曜日から6日連続家の中で過ごしています。
だいぶいいんですけど、まだまだ咳が止らず、ハスキーボイスです。
でもゆっくり過ごさせて頂いております。
明日ももう一日お休み。
感謝、感謝。

今日は午前中は雨、
午後は雨も上がり少し日も出ました。
暖かくなりました。
17度まで上がりました。
明日は反対に午前中がいいみたいです。
午後はまた雨。

そして、その後は天気がいいのですが、朝晩は5度くらいまで下がりそうです。
キュウリの芽が出て苗になりかけているのですが、
寒さにあまり強くないということで、
朝晩が冷えると中に取り込む、という日が続きそうです。

今朝は3日ぶりのアスパラガス1本。(全部で14本)
2年目の収穫は2週間、ということですので、あと1週間くらいです。
3年目からはどんどん穫っていいということです。
早く来年にならないかなってか。

で、今日はさっそく聖書。
エレミヤ書の12-16章を読みました。
15章の19節が心に留りました。
特にその真ん中へん、
「もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、
わたしはあなたを、私の口とする。」
という言葉です。
神の言葉を語る者とされている、そのことの畏れおおさ、
その大切な働きを託されていることの深刻さを思わされました。
熟慮して語る。そのような者になりたいと思わされました。

主よ、
あなたの御言葉を語る者としてくださったその恵みに感謝します。
その恵みにふさわしく、熟慮して語る者としてください。
おやすみなさい、神様。


2006-04-23

主を知ることを誇る

今日も雨でした。
特に教会に行く時間帯、めちゃくちゃ降っていましたね。

でも、感謝なことに、たくさんの方々が来られました。
いつもはイースターの次の日曜日は100人から50人に半減するのですが、
今回は80人から65人とちょっと減。
イースターは教会で守って、
イースターが終わってから旅行に行く、出張に行く、という方が多いのでそうなるんですが、
今日はたくさんの方々と共に礼拝を守れました。
聖書でも、イースターの日にイエスさまに会えなかったトマスは
イースターの次の日曜日にイエスさまに会えました。
来週はまた休暇明けで帰ってこられる方々もおられるでしょう。楽しみです。

明日もまだ雷雨だそうです。

で、月火と休暇で出かけられるかな、と思っていたのですが、
娘が体調を崩して、やっとよくなってきたかな、と言うところなので、
難しいでしょう。
11歳なんですが、とってもハスキーないい声になってしまいました。
ということで家でゆっくり休暇を取ります。
天気も不安定みたいだし・・・。
でも、その日になって「行くか」みたいなことをいつもしているので、
明日更新がなければ、「行ったんだなあ」と思ってください。

今日は私たちがお借りしているアメリカの教会の会堂が建って50周年。
記念集会でした。
立派なパイプオルガンがあって、
そして、すごいオルガニストが来て、
すごかったです。
長かったです(3時間以上)が、すごかったです。
よかったです。
そして改めて、貸して頂いていることのありがたさを感じました。
集会の後のお茶の時間に、50年前のことを知っておられる方と話しました。
お金を貯めて、建てた時の苦労、もちろん、その方もそのころまだ大学生で、
あまりわからなかったかもしれませんが、でも、一生懸命ささげたことをお話ししてくださいました。
そのささげ物によって、私たちの教会も存在していることを忘れないようにと思います。

今日の聖書。
今日はエレミヤ書の7-11章を読みました。
9章の23節が心に留りました。
知恵や力や富を誇るのではなく、
神を知ることを誇れ、という言葉です。
神を知ること、
それは自分の小ささを知ることでもあり、
自分の弱さを知ることでもあり、
自分の愚かさを知ることでもあると思います。
なぜなら、神の前に立つ時に、神だけが見えるのではなくて、
自分も見えてくるからです。
イザヤという預言者が神の栄光を見た時に、
ああ、私は滅びるばかりだと言いました。
神様がわかると、自分がわかる、
そう思います。
でも、その神様が私たちを赦し、受け入れてくださることがわかる時に、
イエスの十字架によって赦されることが本当に心の底でわかった時に、
今度は自分のことはどうでもよくなり、神様のすばらしさ、
神様の愛の大きさに目が留るようになります。
これは私自身の経験でもありました。
神様に愛されていることに気が付くと、
今度は自分の弱さ、愚かさ、小ささ、そういうものばかり見る必要はなくなるのです。
神様の愛のありがたさ、かたじけなさ、
そればかりに目が留るようになりました。
だから、その神様の愛のゆえに、私は神を誇ります。
神を知っていることを、神の愛を知っていることを誇りに思います。
そして、語っていきたいと思います。
どう受け取られるかは二の次の問題です。

主よ、
あなたに愛されていることを、
それを知らされていることを、
心から感謝します。
あなたの愛を伝える者としてください。
あなたの愛を誇りとして、
語る者としてください。