2006-01-14

罪のための犠牲

今日はあっという間に出かける時間になって、
更新する時間がありませんでした。
今夕方の5時23分です。
朝、起きた時は13度Cくらいありました。
朝ですよ、朝。
そして、1年に1回出るかでないかの「竜巻注意報」です。
1月に!?
普通は春とか夏に出るものなのですが、
大体南部とか中西部に多くて、
(ちなみにアトランタに住んでいた頃は、
「竜巻警報」、つまり、今竜巻が起っているから逃げろ、という
警報が出たことがあります。)
北東部ではなかなか聞きません。
そして、一日暖かい雨。
でも、今、まさに今、温度がぐんぐん下がっています。
1時間くらい前には11度あった気温が、今は8.5度C。
この文章を書き終わる頃にはまたぐんと下がっているでしょう。

で、今日の聖書はレビ記の1-5章。
レビ記というのはイスラエルの人々に与えられた、
祭儀についての定めです。
神様を礼拝する時は、このようにしなさい、という決まりが書かれています。
その中で心を惹いたのは、
4章に出てきた、「罪を犯した時はこのようにしなさい」という戒め。
罪を犯した時には、その人は牛を連れて行って、
そこで自分で手を下さなければいけなかった。
残酷なことだった。
自分の罪ゆえに、一頭の罪のない牛が殺されなければいけなかった。
今、私たちは虫一匹殺すのにも勇気がいる。
動物なんかその様な仕事をされている人以外、
私たちにはそんなこと恐ろしくてできない。
そんなに大切な「いのち」が、自分の罪ゆえに断たれなければならなかったらどうだろう。

私たちは甘えていると思う。
「イエス様が私たちのために十字架に死んでくださったから」
ということに甘えていると思う。
それがどれほど、恐ろしいことだったか、
ほんとうにわかっているだろうか?
ほんとうにもだえているだろうか?
罪がそれほど深刻なものだと、
ほんとうにわかっているのだろうか?

主よ、イエス様の恵みに感謝します。
その大きさ、その真剣さ、深刻さ、重さ、
忘れないようにしてください。
わたしの歩みの中で、それを軽んじるような思いに
支配されてしまうことがありませんように。

明日の日曜日、もう一度主よ、あなたの恵みを思う時としてください。
あなたの十字架の重さを感じる時としてくださいますように。

2006-01-13

心動かされて・・・

今日の最低気温は-0.9度C。
思っていたよりも冷え込みました。
でも、今日はまた暖かくなるようです。
天気は今は曇り。下り坂で、今晩から明日は雨です。
そして、明日の夜は雪になるかも…です。
大雪ではありませんが、
ちょっとはつもるかもしれませんね。
低気圧が北東に抜けた後、
その後ろに冷たい空気が入ってくるようです。
それで、日曜日は寒くなりそうです。
でもまた来週は暖かいようで、
天気予報好きには、ちょっと気が抜ける天気です。

では、今日の聖書。
今日は出エジプト記35-40章を読みました。

心に留ったのは、イスラエルの人々の中で、
「心動かされた者」が捧げ物をしたり、
奉仕をしたり、したことです。
義務でしたのではなく、
押しつけられたのでもなく、
主にささげよう、
主に仕えよう、
その様な思いで、捧げ物をしたのです。奉仕をしたのです。

そのためには「心を動かされる」という経験が必要です。
その「心を動かしてくださる」のは神様です。
ですから、今日はほんとうにその神様の奇跡を祈りたいと思いました。
世の中には「やる気にさせる方法」を書いた本がたくさんあります。
でも、そういうテクニックでやる気にさせるのは教会ではありません。
主が私たちの心を動かしてくださる、
その愛で動かしてくださる、
そこに生まれるのが、私たちの奉仕であり、
私たちのささげものです。
だから、その奇跡を待ち望んで祈りたいと思います。

主よ、私の心を動かしてください。
あなたのためにもっと生きたい、
もっとあなたのためにささげたい、
いや人生全体があなたと共に歩む人生なんだと、
あなたのために歩む人生なんだと、
そういう思いに満たしてください。
そして、教会の一人一人の心を動かしてください。
喜びにあふれて捧げ、
喜びにあふれて仕える者たちを満たしてください。

今日の午前中の聖書を読む会、
そして夜の深夜祈祷会をあなたが祝福してください。

2006-01-12

民と向き合うモーセ

天気は晴れ。
昨日は午後から雨で、
霧も濃かったけれども、
今日はすっきり晴れた。
外は4.1度C。どんどん下がっている途中。
でも、昼間はまた15度Cくらいまで上がるみたいです。
うーん、春だ。
でも、去年の今頃も、もっと暖かい日があったそうです。
そして、直後にぐっと冷え込んだそうで、
でも、今年はこの先まだしばらく暖かいようですが、
まあ、天気のことですから、何があるかわかりません。

今日の聖書はぐっと短くて出エジプト記32-34章。
モーセが神と語っていた40日間。
それはどれほど豊かな日々であっただろうか。
どれほど楽しい日々であっただろうか。
でも、その時、民は罪を犯していた。
モーセは民のためにとりなしをした。
自分の永遠の命さえかけて…。
でもモーセはそれだけでは終わらなかった。
モーセは民に罪を語り、
民を導いた。

わたしは思う。
神と共に歩む日々はどんなに楽しいことだろうかと。
モーセはそのまま山で主と共に歩んだら、
どんなに楽しかっただろうかと。
でも、モーセには使命があった。
それを彼は引き受けた。
そして、民と共に歩んだ。

仙人になるのは簡単だ。
神と共に歩み、
その喜びと力とを持って、
人々と歩んでいく、
その使命をわたしもいただいていると思う。

主よ、どうかわたしに語ってください。
モーセに語ったように、
わたしもあなたと共に歩ませてください。
わたしの顔を輝かせてください。
そして、その輝きを持って人々共に歩む者としてください。
今日のキッズクラブを豊かに祝福してください。

2006-01-11

とりなす者

今日は寝坊をしてしまいました。
起きたら、7時前。
目覚ましも無意識で止めていたようです。
ですから、更新も子供達を送り出した後の、
9時になってしまいました。

最低気温は0度C。
今日は午後から夜にかけて雨だそうです。
それも「雷雨もあるかも…」という予報。
読み返してみても、
今年に入ってからの氷点下は3回?
ほんとうなら毎日昼間でも0度まで行くかなあ、
という時期なのですが…。
まあ、助かります。

今日の聖書は出エジプト記22-31章。
モーセに与えられた戒めです。
その中で今日心に留ったのは、祭司の使命。
民を代表して、民のとりなしをするのが、その祭司の使命だった。
新約の時代の私たちにとっては、
祭司はイエス・キリスト。
このお方が、十字架の苦しみを通して、
自分の血をもって、
私たちのためにとりなしをして下さっている。
感謝。
けれども、聖書はそれでは終わらない。
それと共に、私たちも祭司の「とりなし」の使命をもらっているのだ。

自分はその使命をほんとうに果たしているだろうか。
人を評価することの方がずっと簡単だ。
とりなしの使命を果たさせて頂きたいと思った。
いや、その責任があると思った。

主よ、今日の語りかけに感謝します。
あなたの前に立って、
一人一人のことをとりなし、祈ります。
どうか、あなたが一人一人の痛み、悲しみ、怒り…
それらを癒し、
あなたの恵みの中で立ち上がる力を与えて下さいますように。
今日の出会いを祝福し、
祈りの中で、あなた自身との出会いを与えて下さいますように。

2006-01-10

神が戦われる

今、外は1.8度C。
晴れているみたいです。
昨日は何と13.6度Cまで上がりました。
今日はそこまでは行かないようです。
でも10度Cくらい。
ざっと見ると、土曜日までは10度Cをこえる日が続きそうです。
いやあ、うれしいですね。

今日の聖書箇所は出エジプト記16-21章。
荒野の旅が始まり、十戒を受け取ったところです。
アマレクとの戦いが17章に出てきますが、
今までモーセが手を上げていたこと、
そして、それを支える人がいたこと、
そこに注目して読むことが多かったように思います。
でも、今日はその後の「主がアマレクと戦われる」
という言葉が心に留りました。

主が戦われる。

昨日も地区牧師会があって、
今年の9月の合同ファミリーキャンプのために
話し合いがなされましたが、
ほんとうに「主が戦われる」
そのことを覚えるようにと今日、また改めて語られました。
教会もそうです。
教会でなそうとしていること、
牧師としてなそうとしていること、
「主が戦われる」
主が導いてくださること、
それを見せて頂きたいと思います。

主よ、
いつの間にか肩に力が入ってしまいます。
どうか、いつもいつも、
あなたがなされることを拝見していくことができますように。
あなたの大きな御手を見ていくことができますように。
私をあなたの御許で休ませてください。
今日の午後の集会をも祝福してください。

2006-01-09

恐れるな、落ち着け!

外は1.6度C。
また穏やかな朝です。
曇りなのでまだ真っ暗です。
今日もまたこれから晴れてきて、
何と最高気温の予想が12度C!
もう春みたいですね。
庭掃除しよう、っと。


今日の聖書は出エジプト記11-15章。

まさに「出エジプト」のところでした。
今新共同訳で読んでいるのですが、
前には紅海が広がっている、後ろからはファラオの軍勢が追いかけてくる、
そんなときにモーセがイスラエルの民に語った言葉に目が留りました。
「おそれるな、落ち着いて・・・」
神様がおられるから、恐れるな、そして、落ち着いて、主の救いを見なさい、
というめっせーじ。
なんだろうなあ、あまり説明出来ない、ほんとうに「語られた」という感覚で受け取りました。
自分はすぐ恐れる方だと思う。
恐れに捕まってしまう方だと思う。
そして、あわててしまう人間だ。
その時に、変なことを言ったりしたりして、
あとで、恥ずかしい思いをすることもある。
変に攻撃的になって人を傷つけてしまうこともある。

だから、このような言葉はいつもいつも聞いていかなければいけないと思った。

でも、ほんとうに焦っただろうなあ。こんな状況で、「恐れるな」なんて言われても、
ほんとうに恐れないではいられなかっただろうなあ。
だから、信仰って、ほんとうに嵐の中で問われてくるんだろうと思う。
でも、私たちの信仰じゃなくて、主が語ってくださることが力なんだよな。

主よ、あなたの語りかけに感謝します。
私が嵐の中に放り込まれた時、
パニックを起こしている時、もう一度、この言葉を語ってください。
あなたがその時に、もう一度この言葉を語ってください。

今日は周辺の日系教会の牧師の集まり・・・また楽しみ楽しみ。

2006-01-08

神がわたしたちを用いようとされる時

今朝起きた時は小雪が舞っていました。
温度は0.8度C。夜中に少し零下に下がったようですが、今はプラスですね。
今日はこれから天気も回復して、晴れてくるようです。
温度も7度Cくらいまでは上がるようです。
過ごしやすいですね。

今日の聖書は出エジプト記の1-10章。
モーセの誕生から、神に出会い、そして、人々の解放のために立ち上がっていくところです。
今日はその中で、モーセが神様に「私はダメです、口べたですから」と言った時に、
神様に「だれが話せる力を与えると思っているのだ、さあ、行きなさい」としかられたところが心に留りました。
使命感に燃えて、地位も、学問も、才能も、カリスマ性もあった40歳くらいの時には失敗をして、
一介の羊飼いの老人になった頃になって、「さあ、人々を解放しなさい」と言われたモーセ。
過去のトラウマもあったと思う。
ほんとうに口べただったら、恐れる気持ちがあったと思う。
私もそうだった。
口べただった。
話しをするのが下手だった。(今も?)
そんなモーセを主は用いようとされた。
「私が言葉を与えるから」と言われた。
自分の力ではない。神の力をモーセは知っていた。
自分自身、もう一度そこに帰っていくことが大切だと語られた。
神様の力を頂きたい。
ほんとうに今年教会で掲げていく御言葉のように、
自分は土の器に過ぎない。
でも、私のうちにはすばらしい宝がある。
私がこの働きのために召された時に、
そのことがはっきりと示されたことを思い出す。
私は弱い。
でも、主がそこに御力を表してくださるなら、
それを見せて頂きたい。
そう願って、立ち上がった。
それをいつの間にか忘れてしまって、
自分ががんばって、いろいろやって、という気持ちが心を支配していないだろうか?

主よ、今日も、あなたの御業を見せてください。
私の弱さの中に働く、あなたの御力を拝させてください。
今日の礼拝を祝福してください。
そして、礼拝後の役員会をも祝福してください。
教会があなたの導きに従って進んでいくことができますように。