2010-11-06

神との関係に生きる。

今朝はギリギリ霜が降りるか降りないかという冷え込み。
車の窓の半分は凍って半分は大丈夫でした。


でも、明日の朝はバリバリに凍りそうです。


今は夜の10時半ですが、5.3度C。
明日の朝は0度くらいに下がりそうです。


それに今夜は一年で一回の、1時間長い夜。
明日の朝、ちょっとゆっくり休めるかと思うとホッとします。


そう、今朝はどういうわけか、目覚ましに使っているiPhoneのアラームが1時間早くなりました。朝の4時40分。「え〜!?」ともう一度寝ようかと思いましたが、予定の5時40分に鳴らなかったら、どうしようか、と気になって、もう眠れません。


そして、その運命の5時40分。


鳴りませんでした・・・。


これはコワイですね。


ヨーロッパとアメリカとでの夏時間の終わるタイミングが違うがゆえにプログラムミスでこうなってしまったのだとは思いますが、もしも、間違えて1日早く夏時間が終る設定だったら、1時間遅く鳴ってくれるはずだったのですが(これも困るが・・・)、どういうわけか、1時間早く鳴ったわけだ。多分、シロウトのわかるレベルのバグではないのだろう。
それに、午後3時前のアラームはバッチリ時間通り鳴っていた。


なんだか、訳がわからない。


ま、とりあえず、しばらく他の目覚ましで起きることにして、様子見だ。


さて、今日は、「日々のみことば」の方ではなくて、朝の祈祷会で開いた民数記の20章1−13節から。


「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから・・・」12節。

この部分、かなりナゾだ。
だって、モーセは人々に「水がない」と責められて、
神さまから「岩に命じなさい、そうすれば水が出るから」と言われて、
でも、もうイライラしていたのかもしれない。
「なんで、自分たちがこんなことをしなければいけないんだ!」と
岩を2回、バンバンと叩いたのだった。

それで、神さまからこのような叱責を受ける。
おそらく、「自分たちが・・・」という軽率な言葉と
命じなさい、と言われたのに、叩いたことが問題なんだと思う。

でも、それはちょっと厳しすぎるのでは・・・という声もあった。

ですよね。厳しいです。

でも、注意深く読んでいると、
6節では、不平を言うこの民の前を去って、
神の前に行ってひれ伏している。

この態度は正しい態度だと思う。

人々から責められて、でも、すぐに彼らは神に向かって、神からの解決を受けようとする。

ところが、彼らは形の上では神の前に行ったけれども、心のなかには人々に対する怒りや自分がこんなにやっているのに・・・という気持ちなどいろんな思いが渦を巻いていたのだと思う。

だから、「なんで自分たちがこんなことを・・・」という言葉が飛び出してきたのだと思う。

だから「命じなさい」と言われたのに「2度叩く」という行為になってしまったのだ思う。

それを神は責められた。
ホントは神が彼らをリーダーとして立てられたのに、
いつの間にか、民との関係だけでモノを見るようになっていた。

そこに落とし穴があった。

結局、この民とモーセとの関係には、
神さまが出てこない。
直に要求と答えがぶつかっている。

振り返って、自分の心を覗いてみた。
ほんとうに自分の話だと思った。

自分も「みんなが言うから」とか、
「皆さんがそう思うなら」とか、
そういうことに心が向いていることがある。

違うのだ。

神さまが命じられることに従うのだ。
神さまが立たせて下さり、
神さまが使命を与えてくださるからでていくのだ。

責任転嫁をしてはいけない。

神さまが与えようとしている使命をしっかりと見据えて、
人のせいにしないで、信仰者として決断して進んでいく。
その大切さを思わされた。

主よ、
どうか、私が、いつもあなたとの関係で答えをいただいて、
あなたの与えられた使命に立って、
歩んでいくことができますように。


平安を与えてください。

2010-11-05

すげえな、神さま。

今日は一日どんよりでしたね。
夕方ちょっと日が差してきました。


でも、それと同時に冷たい空気がどんどん入っているんでしょうね。
今、夜の11時前ですが、5.3度Cです。
明日の朝は1度か2度。


今日はアトランタ郊外のNorcrossやStone MountainでもSleet(雨氷?いや凍雨の方)が降ったと、@BradNitzWSB(ch. 2の天気予報のおじさん)がtweetしていましたが、明日はこちらでもsnow showerあるかもですね。


さて、ここ数日の聖書から。
昨日は詩篇95篇でした。


「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」4−5節。

地の深み、山々の頂き、とは、当時の人々にとって、一番遠いところであり、一番神秘なところだったのでしょう。ですから、今日で言えば、宇宙の果て・・・ということになるのでしょうか?先日も書いたように、ほんとうに、宇宙の大きさってすごいと思います。またこの宇宙の歴史もものすごく長いです。その広さや長さを日々明らかにしてくれている科学者の方々に対して、今まで自分がどこまでちゃんと敬意を払ってきただろうかと、最近本当にそのことを反省させられます。

だから、本当にその世界を造った神さまに目が向くのです。

なんてすごいんだろうかって。

そして、毎日同じこと感じていますが、その神さまが私を覚えていてくださっていることが、なんという幸いだろうかと。

あのマリヤの讃歌も思い出します。

「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。力あるかたが、わたしに大きなことをしてくださった。」(ルカ1:48-49)

主よ、
最近教えてくださっている
この世界の大きさ、人間が作られるまでにあなたがかけられた時間、
それにほんとうに心が圧倒されます。
そう、あなたにとって、こんな大きな宇宙を作る必要はなかったかもしれないし、
人間を造るときにもチョチョイのチョイで造ることもできたはず。


でも、あなたは時間と空間を使われた。


あなたの大きさを示すため。


そのあなたが私に目を留めてくださっていることに、
心から感謝。

2010-11-04

休暇中。

今日は一日雨でしたね。
冷たい雨でした。


明日はだんだん回復に向かいますが、
北西の風が強く、また寒いみたいです。


実は、今日明日私はお休みをいただきまして、
今日は2ヶ月半ぶりに、家族の休日が全員そろったので、
昨日の夜からちょっと遠出をしていました。


明日はのんちが仕事があるのと、
サキの補習校の宿題があるので、
私は在宅休暇です。


また、明日にでもまとめて・・・かな。

2010-11-02

大きな神さま



BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop今朝はこの秋初めての氷点下。
最低気温は-0.2度Cでした。
キーンと冷えた朝、祈りを終えて6:50頃に外に出ると、
薄暮(「薄明」ですよね、今気がついた[11/3 7:16am])の中、1/3くらいになった月が中空に輝いていました。


月から地球に届く光は1秒くらいで届いていると思いましたが、


先日は130億年かけて届いた小宇宙の光(というか電波というか)の記事を読みました。UDFy-38135539という小宇宙ですが、これは、今は、銀河系からどんどん離れているので、300億光年近く離れているそうです。まあ、本当に想像ができません。このとんでもない宇宙を造られた神が、私という小さな存在に目を留めていてくださることに畏れを感じます。


そして、聖書が言うように、この空の星も、すべて私達のために造られたとするならば、神の目的はどんなものだろうかと思います。130億年もの時間と、何百億光年もの広さを持つ宇宙を、この私達のために造られた。それは、なんのためだったのでしょうか?今日、思わされたのは、それは神の大きさを私達に示すためだったのではないだろうかと。少しでもだとすると、科学者は、神の大きさを少しでも明らかにしていく、という尊い働きを任されているんですね。彼らの努力なしには、ハッブルのような高性能の望遠鏡がなければ、私たちはこの神様の大きさを知ることができなかった・・・。


本当に畏れを感じます。
また科学者の真摯な努力に敬意を表します。


明日の朝も同じくらい冷えそうです。
今は夜の10時前ですが、3.3度C。


明日ももう一日晴れそうです。


あさっては雨みたいですね。


さて、今日の聖書。
今日の聖書は詩篇の93篇。


「大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。」4節。

そう、神の大きさを思うときに、
また自分の小ささを思わされる。
この大きな宇宙の中で、その小さな小さなひとつの星に過ぎない地球。
でも、その海の波にも飲み込まれる小さな自分。

でも、その小さな自分に主が目を留めておられることに、
本当に大きな感謝を感じる。
今日も覚えられていることに感謝を覚える。

このことにただ感謝しつつ歩んでいこう。

主よ、
あなたの大きさの前にひれ伏します。
そして、あなたが私を覚えていてくださることに感謝します。
あなたの大きさを、あなたの愛をもっともっと知ることができますように。

2010-11-01

納得いかない繁栄。

今朝、0度まで下がるかと思っていたのですが、意外と冷え込まず、2度止まり。でも、今夜は行きますよ。この秋始めての氷点下。今は夜の11時半ですが、すでに3度まで下がってきています。


明日も晴れ。寒い一日でしょう。


次の雨の可能性は木曜日。
ああ、子供たちも学校が休みで、私もお休みを頂いている日なのですが・・・。


さて、今日はおとなしく「日々のみことば」から。
この「日々のみことば」、11月号から、聖書箇所が読みやすくなりました。助かります。

その記念すべき最初の日。
ずっと列王記でユダ・イスラエル南北王国の歴史を読んできたのですが、今日から突然、詩篇です。

その詩篇92篇。
「悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと・・・」7節。

誰かのことを「悪者」と決め付けること自体気をつけなければいけませんが、どう見ても、「なんであの人が栄えるんだ」と思うようなケースがあります。

いや、妬みでそう思う時もあるでしょうが、
そうじゃなくて、「どうして?」と思うような場面もあるでしょう。

人を踏みつけてのさばっている人などがいるとやりきれない思いになります。

でも、そんな場合にも、私たちはそれに振り回されたり、囚われたり、する必要はないのです。神様はすべてご存知なのですから、神様はすべてを支配しておられるのですから。

そんなことにエネルギーを吸い取られてはいけないのです。

私たちはそんな中でも、主を見上げるところに招かれています。
主を見上げて、自分のなすべきことをしていくのです。

主よ、
あなたに従わないで、人を踏みつけて栄えている人を見ると、辛くなります。あなたが許しておられること自体に疑問を感じることさえあります。どうか助けてください。それに囚われないで、振り回されないで、ただ、あなたを信頼して、自分の使命を果たさせてください。


悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。
主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。

詩篇37:1−8

2010-10-31

歴史を見る目。

今日は寒いです。
まあ、もう10月も今日で終わりですから、
寒くて当然といえば当然なのですが、
今は夜の10時で6.1度。
明日の朝は0度くらい、という予想が出ています。
Freeze Warning発令中です。


明日も晴れで寒いでしょう。


先週の後半、「日々のみことば」で列王記第一のアハブ王の時代を読みました。
そこで、ちょっと調べ物をしたくて、Wikipediaで「アハブ王」を調べると、先週末現在の記述で(これはいろいろ編集がされるので、またあとで読むと、違うことがまた書いてあるかもしれませんので、リンクは貼りません)、「旧約聖書に基づく事績」と「史実に基づく事績」という2つの項目が出てきます。そして、そこでは、まるで旧約聖書の記述と「史実」がまるで食い違っているかのような記述がされています。ものすごい違和感を感じました。


余り議論を巻き起こすことをこういうところで書くのは好きではないのですが、あまりに偏っていると思うので、思わされたことを書きますが、そういうのが嫌な方は読み飛ばしてください。


いったい、この項目を記述した方は歴史をどんなものだと理解しているんだろうか?
まるで一つの歴史観や世界観をもたない客観的な「史実」というものが存在して、それに対して、聖書は偏った歴史観で書かれているので、「史実」とは対立するかのような書き方だ。


しかし、そんな「史実」を私たちはどこにも見ることはできない。過去に起こった出来事が記述されるときに、それは必ず何らかの歴史観、世界観の中で書かれている。それがない「歴史」というものはこの世に存在するわけはない。確かに聖書は一つの独特の世界観を持って書かれている。アハブ王が神に従わないで、偶像礼拝を他国から導入したということに批判的な立場から書かれている。もちろん、それは「為政者にとって、どんな経済的な利益や軍事的な利益よりも神に従うことの方が大切である」という立場である。そういう視点で聖書は歴史を見ている。私もそうだ。それに対して、この編集者が「史実」だと言っている立場は「国の軍事的、経済的な発展」こそが為政者を評価する基準だという立場である。その2つの立場がぶつかっているだけなのに、その片方をあたかも客観的な事実であるかのような「史実」と呼ぶのはあまりに無邪気であるし、また不公平でもある。


ちなみに、聖書も、アハブ王が多くの功績を上げたことは決して無視はしていない。それを認めている。「アハブのそのほかの事績と、彼がしたすべての事と、その建てた象牙の家と、その建てたすべての町は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。」列王記第一22章39節。


でも、それは聖書にとっては大したことではない。ちょうど、この編集者が「イゼベルの祖国の宗教を持ち込んだ」ことを大したことではないかのように書いているのと何の違いもない。


歴史を見るときに、どんな視点で見るか、それは本当に大切な事である。


そして、それに負けないくらい大切なのは、自分がどのような視点で見ているかを忘れないことである。間違っても、自分の視点こそが「史実」を見る唯一の視点であるかのような勘違いをしないことである。そして、自分の視点では見逃してしまうことがあるのだ、ということをいつも忘れないでいたい。


もしかしたら、これは「歴史」だけじゃなくて、「人間関係」「政治」「科学」すべてを見るときに、いつも大切な事なのかもしれない。


ふう、疲れた。こういう文章を書くのは難しい・・・。


さて、いつものペースで「日々のみことば」から。
今日は列王記第一の22:41−53でした。


「彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。」46節。

この「神殿男娼」ってのはいったい・・・という感じがしますが、
聖書はそういう恥ずべき歴史も覆い隠さず書いているんですね。

でも、なかなか、一度生まれたものは取り除くことができない。

どんなにそれが神に喜ばれないものだと分かっていても、
そこに需要があり、そこに自分の身を売るものがいるときに、
そして、何よりも、甘い汁を吸う者がいるときに、
なかなか、それを一掃するのは大変なんだろうと思う。

アサ王はそれができなかった。

でも、アサ王の次のヨシャパテ王はそれを敢行した。

敢行する勇気と、それを達成させてくださる神。

私の心のなかも、取り除くことができないものはない。

主に求めよう。
主に期待しよう。

主が全てを取り除き、一つ一つのものをきよめてくださいますように。

主よ、
どうか、ヨシャパテ王の決意と勇気を与えてください。
そして、あなたが全てをきよめてください。