2011-05-14

自分の心の動きに・・・。

今日は夕方から時々ぽつぽつと。
これで花粉が終わってくれるといいのですが。
明日は雨の予報です。
この地域の日本語学校、運動会の季節ですが、
明日、運動会の皆さんは延期は残念かもしれません。


うちの子は29日です。
本人は一日出たいと言っていますが、
「パパも他の先生にメッセージ頼んで教会休めばいい」
とまで言われましたが、「何を言っているんだ」と即答で拒否りました。


でも、一生に一回くらいそんなことをしてみてもいいかな、
とまで思うようになりました。
休暇をいただいて、どこかの教会の朝早い礼拝に出て、
運動会を一緒に過ごす。


神さま、そういうの「けしからん!」とか言われるのかなあ。
神様を第一にして、運動会をたのしむ、というのはないのかなあ?


甘いのかな。


ちょっと、スッキリとした答えを出そうと、
考え始めると寝る時間がなくなりそうなので、
もうちょっと時間の取れる時に・・・。


さて、今日の聖書。
今日は民数記の22章1-20節。


「主がわたしに何か他のことをお告げになるかどうかを確かめましょう」19節。

これはいかにも信仰的な言葉のように感じるけれども、
そうではなかった。

神様の答えはもう決まっていた。
もう聞いていた。
でも、バラムの心は揺れていた。
お金をたくさん積まれて、
いい待遇を受ける約束をもらって、
地位のより高い人の訪問を受けて、

「じゃあ、もう一回神様に聞いてみようか」と、
心が動いたのだ。

自分もこういうことがないだろうかと思う。

ホントに弱い人間だ。

神様の答えをしっかり握って、
そこに立っていく者でありたいと思う。

自分に都合のいいことに心動かされるのではなく、
ただ、主に従う者でありたいと思う。

かみさま、


あなたの言葉を信頼して、
そこに生きていく者でありますように。
明日の礼拝を祝福してください。
主の前に出ることの意味を、
共に経験することができますように。

2011-05-13

神の前の畏れ。

1週間以上ずっといい天気で花粉が飛びまくってきましたが、
今日はどんよりしていました。
そして、明日からはしばらく、1週間以上でしょうか、ずっとぐずつく日が続きそうです。
これで、ちょっと花粉が落ち着いてくれるといいのでしょうか?
今日も朝方と、夕方に外に出る用事があったので、
今頃、かなりきついです。


のんちは、木曜日に、一つの小学校を訪問しました。
この小学校は津波で水につかってしまったので、
隣の小学校を間借りしておられます。
その間借りしている学校に先生方をご訪問しました。


本当にお忙しい中の先生方に時間を取っていただいて、
暖かく受け入れていただいたようです。
子どもたちも礼儀正しく、明るくて、人なつっこくて、
幸いなひとときだったようです。


こちらのサキの行っている小学校との関係が築ければ、と思いますが、
やはり、世界各地からそのような申し出があるようで、
その対応だけでも大変のようです。
私達は顔の見える働きをしたい、関係を作りたい、と感じます。
でも、本当にそう思うなら、現地の皆さんの思いをちゃんと受け止めることの大切さを思わされます。


十字架の聖書の箇所からは、
一緒に十字架に付けられた強盗が感じた「おそれ」を思わされました。

復活の聖書箇所からは、
トマスがイエスにお会いした時に感じた、「おそれ」を思わされました。

そして、今度の日曜日のために、
復活されたイエスがガリラヤ湖でペテロに出会われた時に、
ペテロの感じた「おそれ」を思わされています。

私自身がその十字架と復活のイエスの前に立つおそれを知り、
礼拝で、みなさんを、十字架と復活のイエスにもとにお招きできますように、
そのように今から祈らされています。

日曜日の礼拝を楽しみにしています。

主よ、
あなたの前に立つ者のおそれがどんなものか、
私をそこに導き、経験させてください。
そして、私自身も礼拝において、皆さんをあなたの許にお招きできますように。

2011-05-10

立ち上がるために。

間もなく、あの地震から2ヶ月。
本当に世界が変わりました。
私自身もこのような思いで過ごしているとか、
このような生活をしているとか、
想像もできませんでした。


直接の被害に遭われた方々、
生活が変わってしまった方々、
大切な方々がいなくなってしまった方々、
もっとそうだと思います。


10年前に9/11の時に、更なるテロの不安と、ナショナリズムの高揚という二つの空気の中で、私は「早く元の生活に戻ってほしい」「元の、自分が知っていたアメリカはどこへ行ってしまったんだろうか」「元のアメリカに戻ってほしい」と思っていました。


でも、2ヶ月くらい経ったある日に出席したセミナーで、「私達はもうあの9/11より前には帰れません」ということばを聞いた時に、「ああ、そうなんだ」「もう自分たちは戻れないんだ」と気がついて、そのことを受け入れることができました。それは、立ち上がるために、前に進むためにとても大切な気づきでした。


2ヶ月間はずっとこの話は発信しないでおこうと思っていました。
そして、2ヶ月がたとうとしているこのとき、分かち合いたいと思いました。


日本も、世界も、3/11以前には戻りません。
あなたの生活も、私の生活も。
元のところには戻らない、新しい歩みをしているのです。


「宝のあるところに心もある」ということで、
すっかり山元町ファンになったので、
心に残った山元町の方からのメッセージを一つご紹介。


被災地 山元町から 被災者として思うこと


現地の皆さんのために心から祈っています。
アメリカから来ていた風変わりな中年看護師さん、
気がついたら、声をかけてやってください。
あと1週間くらい滞在するみたいです。


あ、今日はもう一つの話題。
和製ゴスペルヘヴィメタバンドのご一行様が、
無事NJにとうちゃく。
今日は「食事作りますから」と、
ちょうどあった食材で、ぱぱっと食事を作ってくださいました。
おまけに片付けも、バッチリ、最後まで丁寧にやってくださっています。


「旅人をもてなしなさい」と聖書にはありますが、
「旅人にもてなされて」しまいました。


感謝。



Music Player web

JCCNJでのご奉仕はありませんが、
英語の教会等でもご奉仕されるようです。
日曜日も朝から英語の教会に行かれるとのことで、
教会の皆さんにご紹介できないのは残念です。


こちらのためにも祈りつつ。


さて、今日の聖書。
今日は民数記20:1-13。


「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。」12節。

モーセとアロンは「水がない」という人々に対し、「岩に命じて水を出させなさい」と神様からの命令を受けます。しかし、モーセは怒りに任せて、「どうして、私達があなた方のために水を出さなければいけないのだ!!」と岩を打ってしまうのです。

水は出るのですが、神さまは、この言葉をモーセに語られます。

神様の聖なることを表さなかった。

モーセは指導者として、人々にそのことを教える責任があった、その使命があった。

わたしも牧師として、同じ使命をいただいていると思います。
人々に神様の聖なることを示す。
もちろん、神様の愛を示す。

その責任を果たしているだろうか?

とわれていると思いました。

本当にそのことを表す者でありたいと思います。
その責任を果たさせていただきたいと思います。

主よ、
あなたの栄光を表す者とならせてください。
あなたの聖なることをはっきりと示す者とならせてください。
そのためにわたし自身が神様のきよさに触れることができますように。

2011-05-09

言葉で伝えるのが難しいもの。

ここ数日、とってもいい天気です。
これ、花粉さえなければ、本当に気持ちのいい日々ですよね。
私もなんだか、出口が見えてきたのかなあと思います。
今日はずいぶん調子が良かったです。

そして、この後もしばらく、木曜日くらいまではこの天気が続きそうです。

さて、今日はひき肉を買ったので(高くなりましたねえ、びっくり)、
いつか作っておいしかった別冊Esse夕食ばんざい肉のおかず(1993年版!)にある「韓国風肉みそ」作りました。
2倍量作ったのですが・・・ちょっと多かったですねえ。
その材料の中に「木の芽」ってのがあります。
お、それうちの「ほったらかし畑」に生えている、と取ってきたんですね。
ちょうど、新芽が出ているところです。
それを摘んできたんですが、


これ、すごい、いい香り。
なんというか、言葉では表せないものです。
よく、料理番組や旅番組でおいしいものを食べて、
一生懸命、どんなにおいしいかを言葉で説明しなければならない姿に苦笑することがあります。無理なんですよね。この木の芽の鮮烈な香りを言葉で表すのは・・・。タケノコが生える庭が欲しい・・・。

でも、やっぱり言葉にする努力、って大切ですね。
私も言葉に関わる働きをしているわけですから、
もっともっと言葉を大切にして、
もっともっと心にあることを言葉にする努力をすべきことを思います。

のんちが日本に行っていて、
日本で経験していること、見ていること、感じていることを、
夫として、もっともっと発信すべき立場にいるんだと思うのですが、
でも、言葉にしようと思えば思うほどおそれが湧いてくる。
一つは、自分の経験ではないことを、
私という地球の反対側にいる者が言葉にする時に、その闘いのただ中にいる方々を傷つけてしまう危険性があるということ。
もう一つは、このような場所で発信する時に、言葉が思いを離れて一人歩きしてしまうことがあること。
そう、ネットというのは、礼拝や集会でお話しすることとはレベルの違う「怖さ」があります。自分の言葉が自分という人間を離れて伝わって行くかもしれない、という怖さです。

ですから、本当に慎重になります。

でも、そのような危険を超えて情報を発信しておられる方々がおられて、そのおかげで伝わって行く事実もあるんですよね。それで、人の目が集まり、差し出される手がある。

情報発信の大切さを思わされています。
恐れないで、でも、本当に心を配りながら、発信することの大切さを思わされます。

のんちは、教会のない山元町にお仕事で行かれている方と、
月曜日に会って、共に祈ることができたと連絡がありました。
きっかけは、twitterです。
これがなかったらつながらなかったでしょう。

あと、先の週末、Facebookで、大学以来の友人や数年前から連絡が取れなくなっていた元JCCNJの方とつながりました。これはまたすごい。

一つ一つのつながりが生かされていきますように。

2011-05-08

方針変更。

今日は礼拝後、役員会があって、子どもたちだけ先に家に帰ってもらっていました。
ある方にお願いして、帰りに送っていただいたのですが、
ちょうど着いたかなあ?と思った頃(そして、役員会の始まったころ)、私の携帯が鳴りました。見たら、「自宅」から。自分のそのときの反応は「あ、鍵渡すの忘れた!」でしたが、なんだか、そうじゃなかったみたいで、考えてみたら、鍵がなかったら、「自宅」からは電話かけられませんよね。渡してはいないのですが、持っていたようで、ま、入れたんでしょうね。で、内容は「アリがすごい!」でした。

まあ、悲鳴を上げる下の娘に、「しょうがないじゃん、自分でやっつけなさい」と言い聞かせて、「だってすごいんだよ、たくさんいるんだよ」「殺虫をかけてちゃんとお皿を洗って・・・」

そうです。のんちが日本に行ってからというもの、「明日でもいいことは明日する」主義の私は何でも後回し。洗いモノも、次の料理をする必要に迫られて、やっている調子でした。

それで、アリだらけになっちゃったんですね。
特にレンジ周りとレンジの上に起きっぱなしになっていた昨日使って洗っていなかったナベにアリがたかっていたようで・・・。

さすがにこれには私も反省。

また、三日坊主だし、すぐ忘れてしまう決断ですが、

今日できることは今日する」主義に方針転換!!!

今夜はシンクがバッチリきれいな夜です。
レンジ周りもピカピカ・・・まではいかなくても、バッチリきれいです。

「日々のみことば」は明日にでも・・・と思いましたが、
やはりここでしっかり「今日できることは今日する!」、ということで、今日の聖書から。


今日は民数記18:21-32でした。
「それぞれ最上の部分で・・・」29節。

最高のものを主にささげる。
それが大切ですよね。
余り物ではなく、
新しいのを自分のために買ったから、古いヤツをではなく、
最高のものを主の許に持ってくる。

でも、人間はいつも自分を最初に持って来たくなる。
1/10を主の許に・・・と言っても、
「余裕がない」となってしまう。
自分のためが第一で神様は余裕があったら・・・だ。

神様は私達が捧げものをしなければ困ってしまうわけではない。
ただ、私達の心の問題だ。それを気持ちだけにしておくのではなくて、
具体的に表して行くことだ。

私もいつも最高のものを主の許に持って行こう。
時間も、ものも、才能も、情熱も。

主よ、
あなたの許に最高のものを持って行かせてください。
そのために、あなたが示す必要なことがあったら、お示しください。
そして、それに従うことができますように。


あ、のんちは日曜日、ちゃんと教会に行けたみたいです。
仙台まで出て、帰りは物資とともに送っていただいたそうです。

感謝。