今日の2回目の更新。
今日はまたJOYJOYシンガーズの練習。
いつもいつもやりたいと思ってきたことがありました。
それは子供たちに神様の愛をつたえること。
JOYJOYシンガーズはただ、歌のグループではありません。
神様の愛を歌う、神様の素晴らしさを歌うグループです。
ですから、子供たちが神様の愛を知って、心からあふれるものを歌って欲しいのです。
歌を歌う楽しさとか、みんなで一つのものを造り上げる喜びとかもあるでしょう。
でも、それがJOYJOYシンガーズの中心的な喜びになって欲しくないのです。
何よりも、神様の愛されている喜びで満たされて、歌って欲しいですし、
神様の素晴らしさを歌う喜びを経験して欲しいのです。
それで、今日はイエスの十字架の紙芝居を子供たちの前でやりました。
一生懸命、子供たちは聞いてくれました。
そして、人々がイエスを葬るところで終わっていたので、
復活の話は次にしようと「この続きはまた今度・・・」と言ったら、
「えー!」と声が挙がりました。
本当に神様の愛に子供たちが感動して、歌うことができますように。
皆さんも是非、祈ってください。
さて、昨日、16日(金)の聖書。
昨日はエレミヤ20:7-18。
「私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」9節。
この御言葉が心の中で燃える、という感覚わかります。
「語らせてください~!!!」という感じ。
それは自己顕示欲ではなくて、
ただただ、主の素晴らしさ、主の力、主の主権を語りたくて、
主の愛、主の憐れみ、主に従う者の祝福を語りたくて、
しょうがない、という感覚です。
神様があがめられてくだされば、それが一番幸せです。
それが一番の喜びです。
「ハレルヤ」「主は素晴らしい」この言葉を聞くのが喜びです。
でも、そのためには自分が恵まれなければ、
自分が恵みを受けなければなりません。
まず、御言葉を語っていただきたいと思いました。
主よ、
まず、あなたの御言葉による喜びを与えてください。
他のものではなく御言葉による喜びを与えてください。
それを大胆に語っていく者とならせてください。
もう一度、このエレミヤと同じ経験を与えてください。
明日の礼拝の時も、その経験を与えてください。
2009-10-17
あさってから日本。
昨日は無断で沈没してしまいましたが、
元気でしております。
でも、昨日は夜集会があって、
そのまま前後不覚になってしまいました。
そして、今日も一日あっという間。
肌寒い日が続いています。
でも、これも明日まで。
月曜日から天気もよくなり、暖かくなりそうです。
でも、その月曜日から、
もっと暖かいところに行きます。
そう、火曜日に到着して、その次の火曜日の朝まで日本です。
でも、今回は主な目的がセミナーへの参加。
いつものように皆さんとお会いする時間はちょっと持てそうにありません。
川崎の教会の信徒の方のところに滞在するようですが、
セミナー中は外出も、外部からの訪問も許されていません。
ちゃんとセミナーに集中しなさい!だそうです。
セミナーが終わった日曜日の午後と、
月曜日の午後ちょっと時間があるかなあという感じです。
さて、10月15日(木)の聖書。
エレミヤ19:14-20:6。
「パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。」2節。
人々はエレミヤを足かせでつなぐことはできた。
鎖で縛っておくことはできた。
でも、彼の言葉をつないでおくことはできなかった。
「神の言葉はつながれていない」
これは、投獄されていたパウロの語った言葉。
そこにわたしたちの希望がある。
そこにわたしたちの力がある。
そこにわたしたちの強さがある。
物理的に縛られていても、
わたしたちは自由。
神の言葉はつながれていない。
神に愛され、生かされているその喜びは、
いつもいつも変わらない。
そして、主の言葉自身の力。
主ご自身の力が表れていきますように。
このような物理的には何も制約がないかのような時代にあって、
迫害は何もないような時代にあって、
主の御言葉が隠されてしまうことがありませんように。
主よ、
わたしたちを縛ろうとするものから、守ってください。
物理的な自由が与えられている今こそ、
霊的に不自由になることの危険を感じます。
どうか、あなたの御言葉の光が、わたしたちの生き方を通して輝いていきますように。
元気でしております。
でも、昨日は夜集会があって、
そのまま前後不覚になってしまいました。
そして、今日も一日あっという間。
肌寒い日が続いています。
でも、これも明日まで。
月曜日から天気もよくなり、暖かくなりそうです。
でも、その月曜日から、
もっと暖かいところに行きます。
そう、火曜日に到着して、その次の火曜日の朝まで日本です。
でも、今回は主な目的がセミナーへの参加。
いつものように皆さんとお会いする時間はちょっと持てそうにありません。
川崎の教会の信徒の方のところに滞在するようですが、
セミナー中は外出も、外部からの訪問も許されていません。
ちゃんとセミナーに集中しなさい!だそうです。
セミナーが終わった日曜日の午後と、
月曜日の午後ちょっと時間があるかなあという感じです。
さて、10月15日(木)の聖書。
エレミヤ19:14-20:6。
「パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。」2節。
人々はエレミヤを足かせでつなぐことはできた。
鎖で縛っておくことはできた。
でも、彼の言葉をつないでおくことはできなかった。
「神の言葉はつながれていない」
これは、投獄されていたパウロの語った言葉。
そこにわたしたちの希望がある。
そこにわたしたちの力がある。
そこにわたしたちの強さがある。
物理的に縛られていても、
わたしたちは自由。
神の言葉はつながれていない。
神に愛され、生かされているその喜びは、
いつもいつも変わらない。
そして、主の言葉自身の力。
主ご自身の力が表れていきますように。
このような物理的には何も制約がないかのような時代にあって、
迫害は何もないような時代にあって、
主の御言葉が隠されてしまうことがありませんように。
主よ、
わたしたちを縛ろうとするものから、守ってください。
物理的な自由が与えられている今こそ、
霊的に不自由になることの危険を感じます。
どうか、あなたの御言葉の光が、わたしたちの生き方を通して輝いていきますように。
2009-10-16
みぞれ降ったぞ。
今朝は初霜はなかったですね。
全然冷え込みませんでした。
でも、その後どんどん気温は下がって、
昼頃の気温は4度くらい。
その後も下がって、雨が降りだして、
夕方から8時頃はみぞれ混じりでした。
今は10時半。3.4度です。
------------------この後いろいろ作業をしていた、あっという間に夜の1時。日付も変わりました。
ここ数日、教会の経済的必要を覚えて、大胆な祈りを捧げていました。
そして、実際その祈りをなんとか「自分の手」で実現するために一生懸命になっている自分がいました。そして、一生懸命計算して「いやあ無理だ」と思う一方で、「その不可能を可能にされる主にお願いしよう」とほとんど脅迫のように神様に祈っていました。
でも、水曜日に祈っている時に、
「神の国と神の義とをまず求めなさい。そうすればそれらのものはすべて与えられる」との御言葉が与えられました。何度も何度も開いて、覚えているはずなのですが、わたしたちはすぐに神様のみ思いから離れてしまいますね。そして、御言葉を語られて、目が覚まされる・・・。
そう、自分の使命は神様の愛の中に生き、それを素晴らしさを伝えること。
そのほかのことはおまけで付いてくる。
それでいい。
一生懸命伝道と弟子作りをしたいと思わされています。
さて、10月14日(水)の聖書。
エレミヤ19:1-13。
「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。」11節。
焼いた陶器は砕かれたらもう直らない。
焼く前の陶器が、何度も何度もこね直されるのに対して、
一度焼いてしまった陶器はもう、砕かれたら、直らない。
いつかそういう日が来る。
何度でもやり直せる。
それが希望になる人がいる一方で、
甘えになる人もいる。
自分はどうだろうか?
何度も何度も悔い改めて、
同じ失敗をして、
でも、悔い改めて、
でも、それがまた甘えになって、
いつまでもいつまでも、勝利出来ないでいることはないだろうか?
焼かれた陶器はもう砕かれたら、直らない。
その峻厳さを忘れないようにしたい。
主よ、わたしを守ってください。
いつまでもいつまでも時間があると勘違いしないようにしてください。
真実な悔い改めに生きる者としてください。
全然冷え込みませんでした。
でも、その後どんどん気温は下がって、
昼頃の気温は4度くらい。
その後も下がって、雨が降りだして、
夕方から8時頃はみぞれ混じりでした。
今は10時半。3.4度です。
------------------この後いろいろ作業をしていた、あっという間に夜の1時。日付も変わりました。
ここ数日、教会の経済的必要を覚えて、大胆な祈りを捧げていました。
そして、実際その祈りをなんとか「自分の手」で実現するために一生懸命になっている自分がいました。そして、一生懸命計算して「いやあ無理だ」と思う一方で、「その不可能を可能にされる主にお願いしよう」とほとんど脅迫のように神様に祈っていました。
でも、水曜日に祈っている時に、
「神の国と神の義とをまず求めなさい。そうすればそれらのものはすべて与えられる」との御言葉が与えられました。何度も何度も開いて、覚えているはずなのですが、わたしたちはすぐに神様のみ思いから離れてしまいますね。そして、御言葉を語られて、目が覚まされる・・・。
そう、自分の使命は神様の愛の中に生き、それを素晴らしさを伝えること。
そのほかのことはおまけで付いてくる。
それでいい。
一生懸命伝道と弟子作りをしたいと思わされています。
さて、10月14日(水)の聖書。
エレミヤ19:1-13。
「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。」11節。
焼いた陶器は砕かれたらもう直らない。
焼く前の陶器が、何度も何度もこね直されるのに対して、
一度焼いてしまった陶器はもう、砕かれたら、直らない。
いつかそういう日が来る。
何度でもやり直せる。
それが希望になる人がいる一方で、
甘えになる人もいる。
自分はどうだろうか?
何度も何度も悔い改めて、
同じ失敗をして、
でも、悔い改めて、
でも、それがまた甘えになって、
いつまでもいつまでも、勝利出来ないでいることはないだろうか?
焼かれた陶器はもう砕かれたら、直らない。
その峻厳さを忘れないようにしたい。
主よ、わたしを守ってください。
いつまでもいつまでも時間があると勘違いしないようにしてください。
真実な悔い改めに生きる者としてください。
2009-10-14
沈没・・・。
今朝の最低は2.2度でした。
家を出る時は3.1度だったので、その後、1度近く下がったんですね。
もしかしたら、今朝初霜だったかもしれません。
でも、明日はきっとホントに確実に初霜だと思います。
今11時過ぎで7度。
今夜は風も弱く、天気もいいので、
はい、きっと初霜。
今日はちょっと疲れがたまっておりまして、
また、明日も朝から集会ですので、
早く休みます。
ではまた明日。
家を出る時は3.1度だったので、その後、1度近く下がったんですね。
もしかしたら、今朝初霜だったかもしれません。
でも、明日はきっとホントに確実に初霜だと思います。
今11時過ぎで7度。
今夜は風も弱く、天気もいいので、
はい、きっと初霜。
今日はちょっと疲れがたまっておりまして、
また、明日も朝から集会ですので、
早く休みます。
ではまた明日。
2009-10-13
主が聞いてくださる。
今日は前の更新でかなりエネルギーを使ってしまったので、
今回はあっさりと。
今日の聖書。
今日はエレミヤ18:13-23。
「主よ。私に耳を傾け・・・」19節。
人々はエレミヤの言葉に耳をふさいだ。
彼はどんなに孤独だっただろうか。
エレミヤが神様から召された時に、
神様の言葉を語るんだから、
人々が聞くのは当然だと思っていたかもしれない。
やがて聞いてくれるようになる、と思っていたかもしれない。
でも、彼の同時代人は彼の言葉に耳を傾けようとしなかった。
そんな中で、彼にとって、「神が聞いてくださる」ということは、
命綱だったのではないだろうか?
わたしたちは、普通の生活の中で、
多くの人々が自分の声に耳を傾けてくれる、
多くの人々が聞いてくれる。
でも、その反面、神様に聞いてもらう、ということを忘れてはないだろうか?
人が聞いてくれている中でも、
神様に聞いてもらう。
神様ご自身から答えをもらう。
慰めをもらう、それがどんなに大切なことだろうかと思う。
主よ、
人の慰め、人の支えもありがたいです。
でも、それに頼ってしまって、あなたに聞いていただく、
あなたの慰めと平安を頂くことを忘れてしまうことがありませんように。
あなたの平安によって生きることを見失ってしまうことがありませんように。
主よ、聞いてください。
今回はあっさりと。
今日の聖書。
今日はエレミヤ18:13-23。
「主よ。私に耳を傾け・・・」19節。
人々はエレミヤの言葉に耳をふさいだ。
彼はどんなに孤独だっただろうか。
エレミヤが神様から召された時に、
神様の言葉を語るんだから、
人々が聞くのは当然だと思っていたかもしれない。
やがて聞いてくれるようになる、と思っていたかもしれない。
でも、彼の同時代人は彼の言葉に耳を傾けようとしなかった。
そんな中で、彼にとって、「神が聞いてくださる」ということは、
命綱だったのではないだろうか?
わたしたちは、普通の生活の中で、
多くの人々が自分の声に耳を傾けてくれる、
多くの人々が聞いてくれる。
でも、その反面、神様に聞いてもらう、ということを忘れてはないだろうか?
人が聞いてくれている中でも、
神様に聞いてもらう。
神様ご自身から答えをもらう。
慰めをもらう、それがどんなに大切なことだろうかと思う。
主よ、
人の慰め、人の支えもありがたいです。
でも、それに頼ってしまって、あなたに聞いていただく、
あなたの慰めと平安を頂くことを忘れてしまうことがありませんように。
あなたの平安によって生きることを見失ってしまうことがありませんように。
主よ、聞いてください。
あんまり怒りたくないですが。
今日は朝は雨でしたが、
だんだん天気がよくなってきました。
でも、夜は冷えるみたいです。
いつ初霜になってもおかしくないそんな朝が続きそうです。
また起こりました。
飲酒運転の悲劇。
日曜日の未明、マンハッタンの西側を走るハイウェイで、
飲酒運転の母親が自分の娘と友達7人を普通の乗用車に乗せて、
80mph(130キロ)という猛スピードでコントロールを失い、
横転事故を起こしました。
定員は6人かなあと思いますが、この車に8人乗っていたわけですから、
シートベルトをしていない子がいたはずで、、
3人の子供たちが投げ出されて、
そのうちの11歳の子が亡くなりました。
45歳のお父さんは男手一つでその子を育てていたそうで、
その夜も警備の仕事をしていて、
夜勤中にその知らせを受けたそうです。
そこにあってテーブルをひっくりかえし、
椅子をいくつか投げないではいられなかったそうです。
その事故を起こした31歳の母親、
前の晩から子供たちを預かり、
子供たちがもう一泊したい、というので、
マンハッタンの元カレの家でその姪っ子(他人じゃん)の誕生日パーティーに参加して、
そこに親たちに着替えをもってきてもらって、ちょっとだけ、顔を出すつもりだったのに
9時半頃から飲み始めて、夜中の1時前(!)に11-14歳の子供たちを7人車に乗せて、ブロンクスの家に向かった、というんですからもう異常。
16歳の彼女の甥っ子も乗らないかと誘われたそうですが、
断って地下鉄で帰って難を逃れたそうです。
生き残った子供たちによると、
乗る時に「事故に遭うのが怖いヤツいる?」と聞いたとか、
「もっとスピードを落として!」と懇願する自分の娘の言葉に、
「これってスピード出し過ぎ?」って他の子供たちに聞いたとか、
子供たちの心を考えると、いたたまれなくなります。
今日も、そのニュースを読みながら、
本当に涙が止りませんでした。
何でこんな愚かな事故がなくならないのでしょうか。
そのパーティーにいた他の人たちはどうしてからだを張って止めなかったんでしょうか。
でも、自分がそこにいたらどうだっただろうかと思います。
前に似たような事故が起こった時に、書いたのですが、
今まで、何回か、似たような場面に出会ったことがあります。
でも、自分は「いや、わたしが送りましょうか?」「大丈夫ですか?」「やめた方がいいですよ」くらいで、本当にからだを張ったことがなかった。面倒になることを恐れて、関係が壊れることを恐れて、「何を大騒ぎしているの?」と嘲笑されることを恐れて、本気で対決しなかった。その自分のふがいなさを感じます。
そのことを本当に悔いる気持ちを込めて告白します。
何か出来ることはないだろうかと思います。
このお父さんはこれからの生涯を飲酒運転に対して厳罰を科すという法律を成立させるためにささげると言っておられます。法律もそうですが、もう、このようなことが起こらないように意識改革のために何か出来ることがないだろうかと思わされています。
でも、怒るとエネルギー使いますし、気持ちが落ち着くまで時間がかかるので、嫌です。んー、でも、「エネルギー使うし、気持ちが乱れるから・・・」と、こういうことに怒ることがなくなってしまったらいけないんでしょうね。主よ助けてください。
昨日、10月12日の聖書。
エレミヤ18:1-12。
「粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」6節。
主の手の中にある者としての畏れ。
そして、主の手の中にある者としての安心感。
最近、この後の方が強くなっている自分がいて、
それはそれで自分では肯定しているのですが、
でも、このエレミヤの預言を読むと、
本当に畏れの心を失ってしまってはいけないなあと思います。
新約聖書にも、
「恐れおののいて救いの達成のために努めなさい」という言葉があります(ピリピ2章12節)。
主が支配しておられる人生、
主の支配の下にある自分。
主の愛に感謝しながら、
その守りによる平安を覚えながら、
主を畏れて、誠実に歩む者でありたいと思います。
主よ、
あなたを畏れる思いをわたしが忘れないように、
あなたの大きな愛に感謝します。
あなたをなめきってしまうことがありませんように。
だんだん天気がよくなってきました。
でも、夜は冷えるみたいです。
いつ初霜になってもおかしくないそんな朝が続きそうです。
また起こりました。
飲酒運転の悲劇。
日曜日の未明、マンハッタンの西側を走るハイウェイで、
飲酒運転の母親が自分の娘と友達7人を普通の乗用車に乗せて、
80mph(130キロ)という猛スピードでコントロールを失い、
横転事故を起こしました。
定員は6人かなあと思いますが、この車に8人乗っていたわけですから、
シートベルトをしていない子がいたはずで、、
3人の子供たちが投げ出されて、
そのうちの11歳の子が亡くなりました。
45歳のお父さんは男手一つでその子を育てていたそうで、
その夜も警備の仕事をしていて、
夜勤中にその知らせを受けたそうです。
そこにあってテーブルをひっくりかえし、
椅子をいくつか投げないではいられなかったそうです。
その事故を起こした31歳の母親、
前の晩から子供たちを預かり、
子供たちがもう一泊したい、というので、
マンハッタンの元カレの家でその姪っ子(他人じゃん)の誕生日パーティーに参加して、
そこに親たちに着替えをもってきてもらって、ちょっとだけ、顔を出すつもりだったのに
9時半頃から飲み始めて、夜中の1時前(!)に11-14歳の子供たちを7人車に乗せて、ブロンクスの家に向かった、というんですからもう異常。
16歳の彼女の甥っ子も乗らないかと誘われたそうですが、
断って地下鉄で帰って難を逃れたそうです。
生き残った子供たちによると、
乗る時に「事故に遭うのが怖いヤツいる?」と聞いたとか、
「もっとスピードを落として!」と懇願する自分の娘の言葉に、
「これってスピード出し過ぎ?」って他の子供たちに聞いたとか、
子供たちの心を考えると、いたたまれなくなります。
今日も、そのニュースを読みながら、
本当に涙が止りませんでした。
何でこんな愚かな事故がなくならないのでしょうか。
そのパーティーにいた他の人たちはどうしてからだを張って止めなかったんでしょうか。
でも、自分がそこにいたらどうだっただろうかと思います。
前に似たような事故が起こった時に、書いたのですが、
今まで、何回か、似たような場面に出会ったことがあります。
でも、自分は「いや、わたしが送りましょうか?」「大丈夫ですか?」「やめた方がいいですよ」くらいで、本当にからだを張ったことがなかった。面倒になることを恐れて、関係が壊れることを恐れて、「何を大騒ぎしているの?」と嘲笑されることを恐れて、本気で対決しなかった。その自分のふがいなさを感じます。
そのことを本当に悔いる気持ちを込めて告白します。
何か出来ることはないだろうかと思います。
このお父さんはこれからの生涯を飲酒運転に対して厳罰を科すという法律を成立させるためにささげると言っておられます。法律もそうですが、もう、このようなことが起こらないように意識改革のために何か出来ることがないだろうかと思わされています。
でも、怒るとエネルギー使いますし、気持ちが落ち着くまで時間がかかるので、嫌です。んー、でも、「エネルギー使うし、気持ちが乱れるから・・・」と、こういうことに怒ることがなくなってしまったらいけないんでしょうね。主よ助けてください。
昨日、10月12日の聖書。
エレミヤ18:1-12。
「粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」6節。
主の手の中にある者としての畏れ。
そして、主の手の中にある者としての安心感。
最近、この後の方が強くなっている自分がいて、
それはそれで自分では肯定しているのですが、
でも、このエレミヤの預言を読むと、
本当に畏れの心を失ってしまってはいけないなあと思います。
新約聖書にも、
「恐れおののいて救いの達成のために努めなさい」という言葉があります(ピリピ2章12節)。
主が支配しておられる人生、
主の支配の下にある自分。
主の愛に感謝しながら、
その守りによる平安を覚えながら、
主を畏れて、誠実に歩む者でありたいと思います。
主よ、
あなたを畏れる思いをわたしが忘れないように、
あなたの大きな愛に感謝します。
あなたをなめきってしまうことがありませんように。
2009-10-12
どんなティーンになるのか・・・。
今夜は余り冷え込まない、と書いたのですが、
そんなことはなくて、今は夜中の12時前ですが、
6.9度まで下がっています。
この調子だと、明日の朝はまた3-4度でしょうか?
明日も肌寒い一日になりそうです。
今日はColumbus Dayというアメリカ大陸を発見したコロンブスにちなんだ祝日。
子供たちは半ドン(死語?)。
そして、のんちはフルで仕事。
わたしは元々の週休とぶつかって、
いつもと変わらぬ月曜日。
で、昼過ぎ、サキが学校の帰りの車の中で、
「Justice、今日まで40パーセントOFFだよ。」ってまるで主婦のような発言。
続いて「ママが帰ってきたら、買い物行くんだ」だって。
でも、今日は来客の予定があり、のんちが帰ってから、買い物はあり得ない。
その話をすると、
「じゃあ、ママが帰ってくる前!」・・・え、誰が連れて行くわけ?
・・・ということで、行きました。
Justiceという名前のPreteenのための店。
そこで、お店の中を走り回って、
「一つだけだよ」という言葉に従って、何とか一つお気に入りを見つけようと、一生懸命にShoppingをしているサキの姿に、3年後、5年後はどうなるんだろう・・・ってちょっと不安になりました。
でも、選んだ服はとてもセンスがいい。
何とか買ってやりたかったのですが、残念ながら、サイズが「今は何とか大丈夫だけど、来年はもう着れなくなっちゃうね」というのしかなく、あきらめて、30分くらい悩んだあげく、結局1冊のDiary帳に決めました。
でも、ホントにこれ、おしゃれに興味のある子供たちや、子供たちを着せ替え人形のようにしたい親にとっては、もう、たまらないでしょうね。いくらお金があっても足りないんじゃないかと思います。レジを待っている間には、ブーツはUGG、おしりにはアバクロのロゴ、そして、肩にはCOACHのバッグという全身ブランドものでそろえたおこちゃまもおいででした(シャツのタグも確認してやりたかったですが、さすがにそれはできなかったです)。
高いものではなくても、上手に着こなすティーンに育てようとまた一つ静かに心に固く誓ったオヤジでした。
さて、10月11日(日)の聖書。
エレミヤ17:19-27
「わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て。」22節。
わたしたちにとって安息日は日曜日。
イエスが復活したことを記念して、復活の主にお会いするために日曜日を特別な日として守っています。
時々、旧約に書いてあることはすべて新約聖書で無効になったかのように主張する方がおられます。
安息日も、十分の一献金もそんなのは旧約聖書の時代のことだと、切り捨てるような話も聞きます。
でも、結局は旧約か、新約かの話は、
義務感か、恵みへの応答としての献身かと言うことでしょうね。
主の恵みに答えて献身するならば、
すべては主のものなのですから、
それは当然、特別な日を特別な日とすることでしょうし、
与えられたものをすべて主のものとして管理をするために、
まず、十分の一を主のもとに持っていくことになってくるでしょう。
時間もお金も全部自分のもので、自分の自由にしていいんだ、
感謝して自発的に決めればいいんだ、というのは、
「悔い改め」という出発点が違うんだと思います。
悔い改めは自分中心の歩みをやめて、
神様を主とした、歩みをはじめること。
でも、決して単なる形の問題にとらわれていくのではなく、
つまりパリサイ人のように「わたしは安息日も守っています。献金もささげています」と「義務」を果たして満足しているところにとらわれるのではなくて、
本当に自分は、恵みを感謝して、神様を第一としているのか、
本気で主を主として歩んでいるのか、問われたような気がしました。
主よ、
生活のすべての側面で、神様を神様とし、
自分の生活のすべてがあなたを中心としたものでありますように。
時間も、思いも、経済的なものも、人間関係や、才能もあなたから任された、あなたご自身のものであることを忘れることがありませんように。
そんなことはなくて、今は夜中の12時前ですが、
6.9度まで下がっています。
この調子だと、明日の朝はまた3-4度でしょうか?
明日も肌寒い一日になりそうです。
今日はColumbus Dayというアメリカ大陸を発見したコロンブスにちなんだ祝日。
子供たちは半ドン(死語?)。
そして、のんちはフルで仕事。
わたしは元々の週休とぶつかって、
いつもと変わらぬ月曜日。
で、昼過ぎ、サキが学校の帰りの車の中で、
「Justice、今日まで40パーセントOFFだよ。」ってまるで主婦のような発言。
続いて「ママが帰ってきたら、買い物行くんだ」だって。
でも、今日は来客の予定があり、のんちが帰ってから、買い物はあり得ない。
その話をすると、
「じゃあ、ママが帰ってくる前!」・・・え、誰が連れて行くわけ?
・・・ということで、行きました。
Justiceという名前のPreteenのための店。
そこで、お店の中を走り回って、
「一つだけだよ」という言葉に従って、何とか一つお気に入りを見つけようと、一生懸命にShoppingをしているサキの姿に、3年後、5年後はどうなるんだろう・・・ってちょっと不安になりました。
でも、選んだ服はとてもセンスがいい。
何とか買ってやりたかったのですが、残念ながら、サイズが「今は何とか大丈夫だけど、来年はもう着れなくなっちゃうね」というのしかなく、あきらめて、30分くらい悩んだあげく、結局1冊のDiary帳に決めました。
でも、ホントにこれ、おしゃれに興味のある子供たちや、子供たちを着せ替え人形のようにしたい親にとっては、もう、たまらないでしょうね。いくらお金があっても足りないんじゃないかと思います。レジを待っている間には、ブーツはUGG、おしりにはアバクロのロゴ、そして、肩にはCOACHのバッグという全身ブランドものでそろえたおこちゃまもおいででした(シャツのタグも確認してやりたかったですが、さすがにそれはできなかったです)。
高いものではなくても、上手に着こなすティーンに育てようとまた一つ静かに心に固く誓ったオヤジでした。
さて、10月11日(日)の聖書。
エレミヤ17:19-27
「わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て。」22節。
わたしたちにとって安息日は日曜日。
イエスが復活したことを記念して、復活の主にお会いするために日曜日を特別な日として守っています。
時々、旧約に書いてあることはすべて新約聖書で無効になったかのように主張する方がおられます。
安息日も、十分の一献金もそんなのは旧約聖書の時代のことだと、切り捨てるような話も聞きます。
でも、結局は旧約か、新約かの話は、
義務感か、恵みへの応答としての献身かと言うことでしょうね。
主の恵みに答えて献身するならば、
すべては主のものなのですから、
それは当然、特別な日を特別な日とすることでしょうし、
与えられたものをすべて主のものとして管理をするために、
まず、十分の一を主のもとに持っていくことになってくるでしょう。
時間もお金も全部自分のもので、自分の自由にしていいんだ、
感謝して自発的に決めればいいんだ、というのは、
「悔い改め」という出発点が違うんだと思います。
悔い改めは自分中心の歩みをやめて、
神様を主とした、歩みをはじめること。
でも、決して単なる形の問題にとらわれていくのではなく、
つまりパリサイ人のように「わたしは安息日も守っています。献金もささげています」と「義務」を果たして満足しているところにとらわれるのではなくて、
本当に自分は、恵みを感謝して、神様を第一としているのか、
本気で主を主として歩んでいるのか、問われたような気がしました。
主よ、
生活のすべての側面で、神様を神様とし、
自分の生活のすべてがあなたを中心としたものでありますように。
時間も、思いも、経済的なものも、人間関係や、才能もあなたから任された、あなたご自身のものであることを忘れることがありませんように。
秋本番。
昨日の朝は4度。
そして今日の朝は3度。
昼間でも室内の気温が13度くらいだったので、
今夜また来客があるので、
とうとう暖房を入れました。
今夜は雨で、冷え込みはゆるみそうです。
さて、昨日のプリンストンの礼拝では
(こちらの教会は画像がアップされるんですね、いろんな癖が気になります・・・)、
途中から自分の証をさせていただきました。
証をしながら、「ああ、自分は本当にこのイエスの十字架の愛に捕らえられて、生かされているんだなあ、この渇くことのない命の水の泉は、イエスの十字架の愛なんだ。わたしは確かにこれをもらった。そして、これがわたしを今も生かしている」そのように言える幸いを感じていました。
ここがわたしの原点であり、力だと思います。
これからもそこに生きていきたいと思わされました。
さて、今日1個目の「日々のみことば」の更新。
土曜日からでしたね。
土曜日の聖書。
エレミヤ17:12-18。
「しかし、私は、あなたに従う牧者となることを、避けたことはありません。」16節。
どきっとしました。
わたしはこのように思って、このように考えて歩んできたかを思いめぐらされました。
一つは「神様に従う」ということ、
そして、「牧者として歩む」ということ。
神様に従うことにこだわるよりも、
人の声に動かされることが多かったのではないかと。
牧者として歩むよりも、
烏合の衆の一員になっていることが多かったのではないかと。
本当に主に従う者でありたいと思います。
恐れないで、主の示されること、
導かれることに従っていこうと思います。
この生涯を終える時に、
また主の前に立つ時に、
わたしもエレミヤのように言うことができるようにと思わされました。
主よ、
あなたに従います。
わたしがあなたではなく、人の声に迎合するようになった時には、
あなたが警告を与えてください。
いつもいつもあなたに聞き、あなたに従い、
そして、人々を導いていくことができますように、助けてください。
そして今日の朝は3度。
昼間でも室内の気温が13度くらいだったので、
今夜また来客があるので、
とうとう暖房を入れました。
今夜は雨で、冷え込みはゆるみそうです。
さて、昨日のプリンストンの礼拝では
(こちらの教会は画像がアップされるんですね、いろんな癖が気になります・・・)、
途中から自分の証をさせていただきました。
証をしながら、「ああ、自分は本当にこのイエスの十字架の愛に捕らえられて、生かされているんだなあ、この渇くことのない命の水の泉は、イエスの十字架の愛なんだ。わたしは確かにこれをもらった。そして、これがわたしを今も生かしている」そのように言える幸いを感じていました。
ここがわたしの原点であり、力だと思います。
これからもそこに生きていきたいと思わされました。
さて、今日1個目の「日々のみことば」の更新。
土曜日からでしたね。
土曜日の聖書。
エレミヤ17:12-18。
「しかし、私は、あなたに従う牧者となることを、避けたことはありません。」16節。
どきっとしました。
わたしはこのように思って、このように考えて歩んできたかを思いめぐらされました。
一つは「神様に従う」ということ、
そして、「牧者として歩む」ということ。
神様に従うことにこだわるよりも、
人の声に動かされることが多かったのではないかと。
牧者として歩むよりも、
烏合の衆の一員になっていることが多かったのではないかと。
本当に主に従う者でありたいと思います。
恐れないで、主の示されること、
導かれることに従っていこうと思います。
この生涯を終える時に、
また主の前に立つ時に、
わたしもエレミヤのように言うことができるようにと思わされました。
主よ、
あなたに従います。
わたしがあなたではなく、人の声に迎合するようになった時には、
あなたが警告を与えてください。
いつもいつもあなたに聞き、あなたに従い、
そして、人々を導いていくことができますように、助けてください。
連敗中。
今日・・・いや、日付が変わったので、
昨日になりますが・・・は祝福された一日でした。
3回のメッセージと役員会、
というフルコースだったのですが、
結構元気です。
ヤンキースは3連勝で、リーグ優勝をかけて、
エンジェルズと闘うことになりました。
西海岸のチームとやると、
夜が遅くなるので、ちょっと嫌なのですが、
余りはまって夜更かしをしないようにと心に誓っています。
でも、とりあえず、更新はまた「連敗」にしておいて、
明日復活を目指します。
昨日になりますが・・・は祝福された一日でした。
3回のメッセージと役員会、
というフルコースだったのですが、
結構元気です。
ヤンキースは3連勝で、リーグ優勝をかけて、
エンジェルズと闘うことになりました。
西海岸のチームとやると、
夜が遅くなるので、ちょっと嫌なのですが、
余りはまって夜更かしをしないようにと心に誓っています。
でも、とりあえず、更新はまた「連敗」にしておいて、
明日復活を目指します。
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