2008-11-28

なにかがおかしい。

今朝は、そこそこ寒くなって、-2度くらい。
でも、一度、もっと寒いのを経験したら、
「今日はたいしたことないね」という感じです。


昨日の夜11時過ぎに、マンハッタンに行ったら、
もう、Best Buyの前には列ができていました。
すごいですよねえ。
その皆さんにとっては、ちょっと寒い夜だったと思います。


昼間は10度くらいまで上がりました。
今夜も今朝と同じくらい。
でも、天気は下り坂。
日曜日の午後あたりからは雨のようです。


そう、2週間くらい前は、
12月の初めには大寒波が来る、と言っていましたが、
もうちょっと遅れるようです。
来週は昼間は5-6度くらい。
その次の週は一日氷点下の日もあると思います。
覚悟のほどよろしく・・・。


その、日本の「初売り」と似ているかもしれない、
Thanksgiving Dayの次の日の、Black Fridayですが、
今朝、家の近所も電気屋さんが一番行列がすごかったですね。
まあ、「薄型テレビ、絶対欲しい!」というおじさんたちは、
ねらっていたでしょうから・・・。


そこで起こった悲劇。
今朝、NY州のマンハッタンの向こう側、
ロングアイランドのとある町にある安売りの店Walmartで、
34歳の店員さんが、開店時間になって、ドアを開けようとしたところ、
押し寄せてきた人たちに倒されて、踏みつけられて、亡くなったそうです。


ひどい話。


やはり目玉は薄型テレビだったそうで。
値段が下がってきて1000ドル以内で買えるものが増えてきて、
安売りの目玉で300-400ドルくらいのものも準備されていたようです。
だから、おじさんたち一生懸命だったんだと思いますが、
人を踏みつけてまで、倒れている人を助けようともしないで、
買いに走るかなあ、と思いました。
前の方の人たちは8時間とか寒い中待っていたでしょうから、
「こんだけ待ったんだから、何としてでもハイビジョン薄型テレビ!」だったのでしょうが、
(ノートパソコン!の人もいたでしょうが・・・)
それでも、それはまずいでしょう。
楽しくないと思いますよ、そうやってゲットしたテレビで好きな番組見ても、スポーツ見ても。
自分の足には「人を踏んだ」って感触残るでしょ。
そのテレビで「その人亡くなった」というニュースも流れるでしょうし。
防犯ビデオの映像を調べて、刑事事件の立件も目指すとか、言われていますが、
この国の行く道が大きく変わっていくような方向で生かされるように願います。


でも、日本と違うな、と思うのは、
まず「店の準備体制は?」「客をちゃんと誘導したか」とかが言われる前に、
(もちろん、それも大切でしょうが・・・)
「そこまでして買い物に走るのはおかしい」という論調がほとんどだということです。


せめてもの救いです。


自分も本当に大切にすべきものを大切にする者でありたいと思いました。


さて、今日の聖書。
今日は黙示録の1章9-20節。


「わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。」17-18節。

イエスはすべてを支配しておられる方で、
今も生きておられる方。
わたしのすべて。
今も共にいてくださる。

そのことを思いめぐらしました。

まだまだ、自分は「イエスと共にいる喜び」のほんの入り口を見せてもらっている、だけなのかも、と思わされてました。

もっともっとイエスと共に歩む喜びを経験させて頂きたい。
心の中からの飢え渇きが湧いてきています。

イエスよ、
あなたが初めであり、終わりであってくださること、
すべてであってくださること、感謝します。
どうか、あなたの愛の中に生きることのすばらしさを
もっともっと経験させてください。

とりなし。

朝起きたら更新、宣言にもかかわらず、
もう昼になってしまいました。


昨夜は人数は決してめちゃくちゃ多くはありませんでしたが、
20人くらいの方々がおいでくださって、
その中でも、初めて我が家においでいただく方々が、5人、
また去年の今頃はお互いその存在を知らなかった方々も何人もおられて、
とても、幸いな一時でした。
去年は一つのテーブルを囲んでみんな一つのグループでいろいろ話したのですが、
今年は自然といくつものグループに分かれて、
他愛のない話も、いい話もいろいろすることができてとても気持ちのいい一時でした。


昨日の名言。

中高生や若い方々がUNOをやっているのを見たのんち、
「あ、UNOやってるんだ。盛り上がっているね。で、『大貧民』は誰?」

それゲーム違うでしょ。
この調子では20年後、30年後が思いやられます。


では、昨日の聖書。
昨日からヨハネの黙示録に入りました。
難しいところですが、「日々のみことば」のヘルプがあるのは助かります。
昨日は1章1-8節。


「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」5-6節。

私たちは祭司とされた、ということが心に留まりました。
祭司は民の側に立って「とりなし」をする人。
神さまの前に祈る人。

その使命をいただいていることを再確認しました。
祈るために招かれていることを感じました。

そして、名簿を見て、また心に浮かぶ方々の名前を一つ一つ、挙げながら祈りました。
私もこのように祈られてきた。
私もこのように祈ることをもっともっとさせて頂きたいと思いました。

神さまが「もっと祈りの世界を知ってもらいたい」と願っておられることを思わされます。
「おまえは、こんなもんだと思っているかもしれないし、自分の経験の中で教会の人々に語っているけれども、もっとすごい世界なんだぞ」と言われているように思います。

主よ、
あなたが「とりなし手」として私を招いていてくださることに、
心から感謝します。
神さま、どうか、今日も教会に連なる一人一人を、
私に出会わせてくださった一人一人をお守りくださり、
語ってくださいますように。

感謝。

今日の一日と、
今日の一つ一つの出会いに感謝。

今日の一人一人の愛に感謝。

あ、もう28日になってしまいましたね。

月末で、12月に向けて、
いろいろ週末に準備しなければいけないものが、たまり中。
明日も有意義な一日となりますように。

聖書はまた朝起きてから。

2008-11-26

使命と助け。

たぶん、今書かないと、また、
「また明日!」となってしまうと思ったもので、
NYPLからの2回目の更新。


今日、図書館で仕事をしていて気がつきました。
コンピューターのキーボードの上の方に、折れた針のようなもの。
コンピューターが閉じた時に、自動的にスリープに入れるための、
小さなプラスチックの部品です。


まあ、しょうがないですね。
3年保証が切れてもうすぐ1年。
無意識で閉めてしまうことがないように、
ちゃんと閉じる時にはスリープに入れたり、
シャットダウンしたり、する習慣が必要になりました。


もうひとがんばりしてもらわないといけませんから・・・。
(といいながら、Black Fridayの出物をチェックしていますが・・・)


今日は2週間前に「来週はもっとおいしいのを作るぞ」と思っていた、
Mongolian Barbecueに行きました。
今日はシーフードスペシャル。
たくさんホタテを入れて、たくさんエビを入れて、
でも重さでお金を払うので、
前回と同じ値段でした。
でも、ランチが大幅に遅れて、3時前になっていたので、
閉まる直前・・・。あわてて頼んで、あわてて食べて・・・。


ああ、次回は(また食べるかよ!)もっと早く来ようと思いました。


でも、この遅いランチには神さまのご計画があったのです!


なんと、食事の後、図書館でもう一仕事、と思って帰る途中、
ミッドタウンの真ん中で、「かきごおり先生!」
(もちろん実際は「芸名」の方を使ってくださいましたが・・・)
と呼ぶ声が。


なんと、3日前の日曜日の感謝祭礼拝に始めてこられた方でした。


主の導きを感じて、少しお話しして、
お祈りをする時がもてました。


本当に神さまが使命を果たさせてくださるんだと思わされました。


・・・というのは、今朝の聖書のみことばが伏線にあったのです。


ということで、今朝の聖書の言葉。
今朝は詩篇の86篇の後半、19-35節。


「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。」(19節)


NIVでは our burdenとなっています。

私たちの重荷を、主が、共に、日々、負ってくださる。

自分は、いつの間にか、
神さまが腕組みをしながら見ておられて、
「しっかりやれよ」という思いで見ておられるようなイメージを持ってきました。
だから、「しっかりやらなきゃ」「いったい何をしているんだろうか、自分は」という思いがあります。

でも、今日のところで、
神さまが私の重荷を負ってくださる方なんだと。

本当にそのことを思って、
自分一人で何かやっているかのような勘違いをしてきたことを、
思わされました。
そして、肩に入っていた力が抜けていくのを感じました。

そして、今日の神さまの導き。
本当に励まされました。
これからもこの方がおられるから大丈夫です。

祈っていきたいと思います。

主よ、
あなたが私の重荷を負ってくださる方であり、
私が一人で負おうとしていることを、戒めてくださったこと、
解放してくださったことに感謝します。
これからも、一つ一つのことを、
御手の中に導いてください。

ガードレールは崖ぎりぎりに造るな。

昨日、帰ってきた時は、
「ああ、寒くなってきたなあ」と思いましたが、ちょうど0度くらい。
でも、今朝はそれほど冷え込みませんでした。
逆に気温はちょっと上がったようです。
今日は穏やかな、過ごしやすい日になりそうです。


ちょっと前に、
iTunesからpodcastなるものをぼやーっと見ていたら、
カテゴリーの中に、Religion and Spiritualityなるものがありました。
日本だといろいろまた怪しいのがあるんでしょうが、
(いえ、アメリカにもたくさんありますが・・・)
こちらでは、いくつかの尊敬できるリーダーたちの語る言葉を聞くことができます。


で、Andy Stanleyの最近のものを聞いてみました。
アトランタのNorth Point Communitiy Church の牧師で、
First Baptistの良くテレビに出ているCharles Stanleyの息子です。
58年生まれなので、5つ年上。
私がアトランタからNJに移ってきて間もなく6人でスタートした教会に、
今や2万人以上が毎週通っているそうです。


もちろん、コンピューターでも聞けますが、
携帯に入れてバスに乗ったり、NYを歩きながら聞けるのが、いいですね。
コンピューターだと、その前に座っているのがちょっときついので。


”The Best Question Ever”の第3回目。 
題して「崖っぷちに生きる」。


その中で何度も彼が言っていたのが、
「ガードレールは崖っぷちに造るな」ということ。
余裕を持って、もっともっと手前に造りなさい、と。


これ以上行ったら崖に落ちる、というところに、
ガードレールを造るのは危なすぎる、
ちょっとしたトラブルで、それを超えたら落ちてしまう。
だから、ゆとりを持って崖よりもずっとこっち側にガードレールを造りなさいと。


自分はどうだろうかなあと思いました。
結構、いや、いざというときにはちゃんと踏みとどまれる、
なんて、自信過剰になっているかもしれない、と思わされました。


謙遜でありたいと思います。


さて、昨日の聖書。
昨日は詩篇の86篇1-18節。


「A father to the fatherless・・・」5節。

NIVで読んだのですが、
主の父親のない者の父親になってくださる、
宣言に心が留まりました。

誰にでも、
他の人には当たり前のように
与えられたものが与えられていない、
ということがあります。

私たちはどうしてもその「与えられなかったもの」に目がいきます。

そして、世の中は、
その「与えられなかったものに目を向けないで、与えられているものに目を向けなさい」と言います。もちろん、それも無意味ではないでしょう。

でも、主は、「私自身がそのあなたに与えられなかったものになる」と言ってくださるのです。

父親の愛を知らないで育った者には、
私が父親になる、と言ってくださる、というのです。

自分は何だろうと思いました。
自分は何を与えられなかったんだろうかと。

与えられなかったものに目を向ける、
それは今まで「そんなのは贅沢な悩み」と言われ、自分でも自分に言い聞かせ、
封印してきた心の深いところにある痛みに触れる、
そして、「与えられなかったものではなくて、与えられているものに目を向けなさい」と言われて、目を背けていたものに光を当て、
絡んでしまった糸をほどいていく、そんな時になるのではないだろうか。

そして、それをあなたに与えなかったのは、
そこに、その空洞に私が入るためだった、
と主は言われる。

パンドラの箱を開けるような怖さはあるけれども、
大丈夫、主がそこに満ちてくださると約束してくださっているから。
勇気を出して、開いてみよう。

主よ、
私に与えてくださらなかったものの故に、
心から感謝します。
そこにあなたが来てくださるから。
そこに目を留めるのは、
痛いし、悲しいし、不安だし、悔しいし、
惨めな気持ちになります。
だから、主よ、満ちあふれてください。
私が与えられなかったすべてになってください。

2008-11-25

お父さんたちの毎日。

いや、決してお父さんたちだけじゃなくて、
お母さんやお姉さんでもそのような生活をしている方々もおられるでしょうが・・・
まあ、イメージ的にはお父さんっぽいかな、と思うので・・・。

今日は先ほどNYから帰ってきて、
明日はまたNYの面談日なので、
7時間半後にはもうNYにいるわけで、
早く休もうかと思いますが、
世のお父さんたちの中には、
午前様になって、帰って、寝て、
翌朝またNYに出勤という毎日を過ごしておられる方々も、
おられるわけですよね。
(長い+行き先のわからない悪文)

いやあ、これが毎日になったら、
家のこととか、何にもできないですよね。
私は今日の昼間家で仕事をしていたので、
ちょっと時間の合間に、トイレ修理。
最近、夜中とかずっと流れっぱなしになっていたりしたので、
あさってのThanksgivingにはお客さんも来られるし・・・
(例年通り、どなたでも歓迎です)

世のお父さんたちはホントに大変だな、と思った夜でした。

また、今日の聖書は明日の午前中にでも・・・。

2008-11-24

感謝祭礼拝。

昨日の礼拝は本当に新しい方がたくさん来られて、
とてもうれしかったです。

用事があってこられない、という方、
風邪を引かれた、という方、
結構おられて、あれあれ、ちょっとこぢんまりした礼拝と愛餐会かな、
まあ、それもいいなあ、と思っていたのですが、
神さまはちょっと違う考えでおられたようで、
子どもを入れて100人を超える方々が来られました。
その中で全く初めての方も20人以上。


まだまだ働きのFieldは広いと思いました。


もっともっと、初めての方でも、
わかるメッセージを心がけなければ・・・と思いました。

そしてたくさんのお料理。
私は今回はどうにもこうにもtime managementができなくて、
何も作れませんでしたが、
でも、私なんか出る幕なくても、
皆さんすごくたくさん作ってきてくださいました。


来られた皆さん、十分召し上がったでしょうか?
そして、楽しい一時を過ごして頂けたでしょうか?




たくさんの方々をお迎えすることもうれしいですが、
それよりも大切なのは、来られた方々とQualityの高い時間を過ごすこと。
また続けてこられる方々も起こされますように。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇の67篇。


「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」1節。

昨日の説教の中で語ったことが自分の心に問われています。

私は神さまを一番に求めているだろうか?
神さまがおられることを、神さまが共にいてくださることを、
一番感謝しているだろうか?

神さまの与えてくださる「もの」を求めて、
神さまご自身を求めていないことはないだろうか?

神さまの与えてくださる「平安」を求めて、
神さまご自身を求めていないことはないだろうか?

神さまの与えてくださる「ビジョン」を求めて、
神さまご自身を求めていないことはないだろうか?

神さまの与えてくださる「燃える思い」を求めて、
神さまご自身を求めていないことはないだろうか?

昨日子供たちのためのThe BRAVEの聖書箇所は、
アブラハムがイサクをささげるように言われるところですが、
神さまよりも神さまが与えてくださった約束の子イサクの方が大切になって、
そっちの方が神さまよりも喜びになったんだろうと思います。

だから、神さまは、
もう一度神さまご自身を喜びとする歩みへと招かれた。

私も今、招かれていることを感じています。

ほんとに、神さまご自身を喜びとする者となりますように。

神さま、
あなたを求めます。
あなたが御顔を向けてくださることが、
私の喜びです。


いつの間にか、あなたではなく、
あなたの与えてくださる何かが、
あなた以上の喜びになることがありませんように。

Role Model。

あっという間に月曜日も夜になってしまいました。
今日は朝は-4度くらいの寒さでしたが、
昼間は久しぶりに10度を超えて、
ぐっと寒さがゆるみました。


今夜は雨。


Heavy Rainと予報が出ています。
明日にかけてまとまった雨になりそうです。


昨日の朝、
教会で祈っている時に、
最近日本からいただいた一通のメールのことが
心に浮かびました。


それは彼の教会に来ている一組の夫婦を愛し、
そのために自分は何をすべきかを模索し、
心から受け入れながら、
でも、まさに愛し受け入れているが故に
どうしてもおかしいと思うところは、
はっきりと伝えている様子が書かれているメールでした。


若い働き人でありながら、
そのような勇気と愛にあふれた姿に、
本当に心が熱くなりました。


自分がいかにたくさんの対決すべき場面でそれを避けてきたか、
そのことを考えさせられました。
勇気のなさよりも、愛のなさを突きつけられ、
悔い改めに導かれました。


そして、教会の一人一人の思い、
単に表面的な一生懸命さや、忠実さではなくて、
心の思いに目を向ける者にさせて頂きたいと祈らされました。


神さまが与えてくださったrole model。
自分よりも若い働き人ですが、
そのようなmodelが与えられたことに感謝。


考えてみると、私の牧師としての働きの中で、
先輩牧師なり、同労者なりが、
そのような愛にあふれた対決をしておられるのを
あまり見たことがありませんでした。


どちらかというと、愛にあふれてだとは思うのですが、
自分の考えを譲り、相手を赦し受け入れて・・・という姿を見てきたと思うのです。


対決もあったかもしれませんが、
それはあまり見えるところでは起こらないのかもしれません。


本当に愛にあふれた対決ができる働き人との
出会いを与えてくださった神さまに、心から感謝。


昨日、日曜日の聖書。
昨日は詩篇の66篇10-20節を読みました。


「もしも私の心にいだく不義があるなら、
  主は聞き入れてくださらない。
 しかし、確かに、神は聞き入れ、
  私の祈りの声を心に留められた。」18-19節。

この言葉ではいろいろなことを思わされます。
いつかは、本当に自分の罪を探られることもありました。

でも、昨日はこの箇所から、この詩人と同じように、
「わたしが不義にとらわれていないことを証明するために、どうか、祈りに答えてください」と祈りました。

もちろん、失敗ばかりです。
過ちを犯します。
罪人です。

でも、この詩人がそうであったように、
困難の中で、神さまに祈った時に、
神さまが聞いてくださったことの中に、
神さまが祈りに答えてくださったことの中に、
「私が間違っていたわけではないですよね」という
答えをいただきたいと思ったのです。
聞き入れて頂きたいと思ったのです。

主よ、
私が間違っている時には教えてください。
はっきりと教えてください。
私の願いが自分のわがままや自己中心的な思いに支配されているならば、
そのことをはっきりとわからせてください。


しかし、私の願いや行動が罪によって支配されていない時には、
その祈りを聞き入れ、御業をなしてください。


信じます。


あなたは祈りに答えて御業をなしてくださる方であることを。

2008-11-23

感謝。感謝。

今日もいろいろ書きたいことはあるのですが、
とにかく、たくさんの方々をお迎えして、
感謝祭礼拝、愛餐会を持つことができました。
100人を超える方々が来られました。

新しい方々との出会い、いつもうれしいのですが、
今回は本当にうれしく、また楽しかったです。

朝祈っていた時に導かれたこともあって、
いろいろ書きたいのですし、
まだあまり眠くはないのですが、
また夜更かしになってしまうので、
明日、ゆっくり書きます。

心から感謝しつつ。

ではでは。