2010-11-20

冬支度。

今朝の最低気温は-1.1度。
この秋最低をあっさり更新。
紅葉もすっかり終わり、
落ち葉の片付けが大仕事です。
明日はThanksgivingの礼拝。
神様の恵みのあふれる日でありますように。

2010-11-19

冷えてるよ〜。

はい、ビールの宣伝みたいな題ですが、
そうじゃなくて、天気の話です。
今日は夜の12時前に氷点下になっています。
明日の朝の最低気温予想が0〜2度ですが、
もうすでにそれを下回って、-0.1度(11時50分)。
はい、明日の朝は、この秋最低更新です。


明日も晴れて、秋らしい天気になりそうです。


今日は、朝の祈りの中で、
自分がいかに人の言葉に振り回されやすいか、
それを思い知らされて、
それはどうしてかなあと思ったら、
祈りの中で、神さまとの関係がもっともっとしっかりしないと、
いけないんだなあということを思わされ、
それで「もっとあなたとの関係が強められますように、今日も沢山の方々にお会いしますが、あなたとの関係の中で、確信と平安を持って、お話をしたり、お話を聞いたりできますように」という祈りに導かれました。


そんな平安の中で、今日の一日は幸いな一日でした。


朝も、夜も集会があったのですが、
平安が自分の心を守っている、という感覚がありました。


毎日の祈りが祝福されますように。


あ、でも、今朝の祈りの時には、伏線があって、
昨日の夜、10時半に就寝。
それも、風邪薬を飲んで(風邪じゃないけど)、
しっかり7時間寝た。
ホントは5時間後の3時半に目が覚めたんですが、
薬のおかげで、そのまま眠れた。
ちゃんと寝ることが、朝の祈りの時の祝福につながる。
ほんとそう思います。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記の20:1−16でした。


「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。私があなたがたの神、主であるからだ。」7節。

自分の身を聖別する・・・
その後に続くのが性の問題。

自己の経験からしても、
本当に主の前に聖別が問われるのは
性の問題だと思う。

いや、それだけではないと思うけれども、
でもとても大きな問題だと思う。

主に守っていただきたいと思う。
若い時には「結婚すれば」「歳をとれば」解決すると思っていた。
でも、たしかに結婚前とは問題は違うし、若い時とは違うと思うが、
やはり闘いはある。

主に守っていただきたいと思うし、
主の前に、自分を清く守りたいと思う。
こころと体を守っていただきたいと思う。

主よ、
あなたが守ってください。
私の思いと体を清く守ってください。

2010-11-18

主へのささげもの。

今夜、何げなく読んでいた記事にこんなのを発見。



ミスコン候補の女子大生へのアンケート。
「返信に困る男性からの携帯メールの内容」



返信に困る男性のメールは、「自分撮りの写メを添付してくる」「とにかく長文」が1、2位で票を集めた。3位以下は「質問ばかりしてくる」「日常の報告をしてくる」「甘えてくる」「難解な話をしてくる」「天気の話をしてくる」など。


最後の一つが気になった。


「天気の話」だとぉ??


わりーか?と反発しつつ・・・


内心かな〜りショック。


別に自分の子供の年代の女子大生にモテたいとも思わないが、これって、結構普遍的な傾向かと思うと落ち込む。やっぱり「天気の話」はダメ?


自分的には一番盛り上がる話なんですがねえ。
まあ、自分が好きだからと勝手に盛り上がるのは最悪なんでしょうし。
それなりに読めない空気読んでやっていこうと思いますが・・・。(苦笑)






でも、どんな反応があろうとも、
読み飛ばされようとも、
はい、ここでは天気の話をします。(上を向いてキッパリ)






ということで、今、夜の10時前で、外の気温は7.8度。
ちょっと雨が降っているのかな。


明日の朝は2度くらい。
昼間は晴れても10度以下の11月らしい天気になりそうです。


中期的にはやはり来週の木曜日くらいを境に、米国東部「冬に突入」のようです。
その前にはちょっとした「小春日和」もあるかも。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記19:19−37でした。


「あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、主への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。」23−25節。


木の実がなっても、3年間はそれをとらないように、
多分それは、木の力を弱くしないためなんだろう。

そして、4年目。
待ちに待ったその年、
さあ、収穫できるぞ、という最初のものを、
主のもとに持って来なさい、という。

ゆとりがあるからではない。
自分が十分満たされているからではない。
たくさん食べた余りではない。

最初のものを主のもとに持っていく。

神さまを第一とすることの意味を思わされる。

すべての必要が神様から与えられるのだということを、
どこまで本気で信じているのかが、問われているのだと思う。

文字通り、そのような生き方をさせていただきたいと思った。

主よ、
私の必要をすべて満たすことができるのはあなたです。
この手ではありません。私の努力ではありません。
勤労ではありません。
あなたの恵みです。
そのことを本気で信じて、生きる者とならせてください。


あなたを第一とすることの意味を、そのまま生きる者とならせてください。

2010-11-17

隣人を愛しなさい、と。

今朝起きたら、すっかり雨は上がっていました。
そして、朝のうちにどんどん青空が広がって、
いい天気になりました。
風は強かったですが、私たちの住んでいるあたりは、
大きな被害はなかったようです。


夜になって、ちょっと冷えてきたかな。
でも、真夜中の12時頃で、9.9度。
明日の朝も4−5度ありそうです。


でも、来週に向けてだんだん冷えてきそうです。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記の19章1−18節でした。


「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」18節。

これは新約聖書への引用で有名な言葉。
レビ記の中にあるんですよね。
意外かもしれないけど。

そして、イエスが「隣人だけではなくて、敵をも愛せ」と言われているから、このレビ記では「隣人」は「普通の周りの人」、または「なかよし」、のことだと思われている。

でも、前後を見ると、

人を中傷するな!
血を流すな!
心のなかで憎むな!
優しく戒めよ!
復讐するな!
恨みを抱くな!

・・・愛せよ。

となっている。

とすると、その隣人とは、「中傷したくなる相手」「仕返しをしたくなる相手」「つい、憎んでしまう相手」「戒める必要がある相手」「復讐したくなる相手」「恨みを抱いてしまう相手」なんですね。

イエスが言われたとおり。
自分に良くしてくれる人を愛するのは誰でもできる。
神の愛に捕らえられて、イエスの十字架によって救われて、
聖霊様に導かれている人は、

このような隣人をも愛することが求められている。
このような隣人をも愛そうと思う。
このような隣人をも愛する力が与えられる。
このような隣人をも愛する。

今、自分は「愛させてください」と祈るだけだ。

主よ、
あなたの愛を与えてください。
自分に良くする人だけではなく、そうではない人をも、
いや、そうでない人をこそ、愛することを教えてください。
愛する力を与えてください。
聖霊によって奇跡をなしてください。

2010-11-16

いのち。

今日は朝と夜に雨。
今は夜の10時過ぎですが、しとしと降っている音が聞こえます。


この後、雷雨になるかもしれないそうです。
雨の量は大したことがなくても、
落ち葉で排水口が詰まっていたり、
路面が滑りやすくなったり、
この時期特有のトラブルがあるかもしれません。


そして、この後、来週前半まで、「秋」みたいですが、
Thanksgivingあたりから、「冬」になりそうな予報が出始めています。


さて、先週末から計画はあったのですが、
今夜、初めて豆腐を作ってみました。


というのは、下の娘が日本語補習校で、
「大豆が原料の食べ物がいろいろある」と習ってきて、
じゃあ・・・ということで、ほんとに大豆から豆腐ができることを、
一緒に実験してみたわけです。


以前、アトランタにいた頃、納豆をつくってみたことがあったのですが、
豆腐は初めて。たまたま「にがり」を数年前に頂いていて、棚の中にあったので(液体のヤツだったんだけどきれいな結晶が出来ていた)、やってみたわけです。


で、やはり最後ににがりをうって、固めるあたりのにがりの量と豆乳の温度の調節が難しかったですが、温度を上げてにがりを増やしたら、かたまりました(邪道かもしれないけど)。


で、娘に「写真撮ってお天気何とかに載せないの?」と催促され、撮った写真がこれ。


あんまりうまそうに見えませんが、どうしてどうして、うまかったです。
にがり増量で水にさらす前はちょっとにがりの味を感じてしまいましたけどね。


これは楽しいし、できたてがうまいので、ちょっと研究しようかな、と思ってしまっています。平気で4時とかに目が覚める今日この頃、豆腐屋でも始めようかと・・・。


さて、日曜日の聖書。
日曜日の朝は、レビ記の17:1−16を読みました。


「いのちとしての贖いをするのは血である」11節。

今、私たちは「いのち」について考えなくていい生き方をしていると思います。
肉や魚を食べる時にも、その命をいただいている、という感覚を持たないことが多いです。

聖書の時代には、その血を注ぎ出して、命をいただいている、と受け取ったり、犠牲の動物も、文字通り、自分の身代わりだったわけです。

また、人の生き死にの場面に出会うことも少ないです。

たぶん、なるだけ、見えないところに追いやられてしまっているのだと思います。
肉を食べるために屠殺する場面も、人がその人生を終えて、旅立って行く時も、私たちに見えないところに押し出されてしまっているのです。

仕方が無いといえばそうですし、私もそのような場面をたくさん見るべきだと思っているわけではないです。でも、それゆえに、命の大切さや、ありがたさを見失っていないかと思うのです。

イエスの十字架もそうです。

私たちの命の回復のためには、イエスの血が流されなければならなかった。血は命そのものだから、贖うことができる。

それなのに、イエスの十字架の恐ろしさ、痛み、苦しみは、後ろに追いやられ、ほかのこと、充実した教会イベント、マネージメントのよさ、いい音楽、本音トークができること、それらが教会の中心になり、力になり、活力の元になっていないだろうか?

いつもいつも、いつまでも、この十字架の恵みが中心。
そのことを忘れないでいたいと思います。

主よ、
イエスの血が流されたから、
私たちが救われていること、
心から感謝します。


どうか、どこまでもどこまでも、十字架のもとに救いがあり、喜びがあり、力があることを、忘れることがないように、そのことをいつもいつも伝えていくことが出来るように、守り、導いてください。


2010-11-15

「苦行」ってあり?

今日は午前中は雨が降ったりしていましたが、
午後には回復して、落ち葉集めができるくらい。


今夜はまた雨みたいですね。
でも、その中心は明日の夜のようです。
今週前半は冷え込みも弱く、過ごしやすい日が続くようです。


さて、土曜日の聖書から。
土曜日はレビ記16:23−34でした。


「あなたがたは身を戒める。」31節。

この言葉ですが、どんなことかなあと思いますが、
新共同訳では「苦行をする」と訳されています。

「苦行」って何なんでしょうかね。
これは「贖罪の日」についての記述の中の言葉。
そこ深刻さ、罪赦されることの大きさを、表しているのかと思います。
軽々しく考えられないこと、それを表しているのかと思います。

新約聖書になって、
イエスが十字架にかかり、救いの道が開かれたのですが、
その十字架の恵みも、簡単に軽々しく受け取られてはいけないのかと思います。

本当にどれほど大きな犠牲が払われているのか、
それを忘れないでいたいと思います。

主よ、
あなたの十字架の重さを忘れないようにしてください。
安っぽいものにしてしまうことがありませんように。
どれほど大きな犠牲が払われているのか、
そこをおぼつつ、礼拝を守ることができますように。

12時半だからねえ。

元気なんですが、まあ、この時間なのでもう休みます。
でも、本当に聖書には教えられることが多いので、
またゆっくり書きます。

一つ一つの出来事に感謝。

あ、そう、最近、また「何時に寝ても5時間で目が覚める」日々が続いています。
昨日も11時に休んだので、今朝は4時に目が覚めた・・・。

今夜はちょうどいいかも。

ではでは。