2011-12-25

アドベント聖書日課12/25


おはようございます。

メリークリスマス!!!

「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)


「まことの光」の背後にはいくつかの「まことの光ではないもの」の存在が前提になっています。

「光のように見えて光ではないもの」
「光なんだけれども、まことの光を反映するもの」
「まことの光へと導いていく光」

世の中にはまことの光の存在を見えなくする偽りの光もあります。クリスマスがこのように世界中で祝われる中で、どれほどたくさんの「これがあなたの心を満たすよ」と誘惑してくるものがあるでしょうか?そして、それによって本当の光が見えなくなっていることがどれほどあるでしょうか?
まことの光を反映するものもたくさんあります。クリスマスのお祝いの中で本当にたくさんのことがそれに入るでしょう。プレゼント、キャンドルライト、ツリーや飾り、家族や仲間たちとのひととき、楽しい雰囲気。でも、それで満足してしまったら、それはまたまことの光との出会いを邪魔してしまうのかもしれません。

それらのものがすべて取り去られても残るもの。それがあなたのクリスマスの中にあるでしょうか?

イエスはあなたのために神様からのプレゼントとして送られてきました。
それは神様を指し示す、神様の道を教える以上に、自分が道となる、自分が十字架の上でわたしたちの罪の身代わりになる、という救い主でした。神様がどこまでもわたしたちとともに行ってくださる。今まで自分は神様に見捨てられている、と思っていた人々が、そうではなくて、神の情熱によって招かれている、ということをあらわすために来られました。

そのかみさまのプレゼントを受け取って、歩み始めましょう。

今日のクリスマスが多くの皆さんにとってBC(Before Christ 紀元前・・・キリスト以前)からAD(anno Domini 紀元後・・・主の年)に変わる時となりますように!

皆さんはこの一週間、この毎朝のメールはいかがでしたか?
私はだんだんこの朝のメールが楽しみになっていきました。
み言葉によって与えられた喜びや示されたことを分かち合う、それは主にある喜びの一つです。

レスポンスを下さった皆さんには心から感謝します。
でも、私に対するレスポンス以上に、お一人一人が神様のみ言葉によって支えられて歩まれることが一番の喜びです。

今日で、しばらくこの毎日の朝のメールはお休みになりますが、
次の機会を楽しみにしています。
まだ決めてはいないのですが、受難週あたりはどうかなと思っています。

今日あちらこちらの教会で洗礼式がありました。
多くの方々がクリスチャンとして歩み始められました。
その中の何人かの方々との出会いが与えられていたことに心から感謝しています。

8月のトロントの修養会、
そして、9月の日本訪問で初めてお会いした方々の洗礼式もありました。

「まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。」ヨハネ4:36-37

この御言葉が本当だなと思わされています。
もっともっと種まきをさせていただきたい、もっともっと刈り取りに関わらせていただきたい、そのように思います。

感謝しつつ。

2011-12-24

アドベント聖書日課12/24


みなさん、おはようございます。

昨日のユースのクリスマス会は、スタッフを入れて20人を超える集まりとなり、
楽しいひとときとなりました。
神様の愛のプレゼントの話をしたのですが、
導入の「みんなの初恋はいつだ?」の話では、
みんな照れくさくも輝いた瞳で、レスポンスをしてくれました。

神様はわたしたちに今日も熱い思いを寄せておられるんですね。

今日はそんなことを覚えながら、ヨハネによる福音書3章16節を思いめぐらせましょう。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」


もう一カ所、今度はヨハネの第一の手紙の3章16節です。
「主はわたしたちのために命を捨ててくださった。それによってわたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。」

神様の愛のプレゼント。それがイエス・キリストです。
でも、イエスはただ、わたしたちに正しい道を教えるために来られただけではありませんでした。
それだったら、イエスは来なくてもよかったのです。預言者たちが次々と送られて来ていました。そして、正しい道を教えていました。
問題は、その正しい道を知っても、そのように生きられない、わたしたちの「罪深さ」「罪への傾向性」でした。
イエスは、わたしたちのために新しい道を開くために来られました。わたしたちの罪を背負って、十字架にかかり、神様と共に歩むことができるようになる道を開かれたのです。それはただ信じ、受け入れるだけで、与えられる神からのプレゼントだったのです。
プレゼントですから、昨日の羊飼いが走ってベツレヘムに行ったように、わたしたちもそれを「受け取る」ということが必要です。それが信仰です。
今日も、あなたの前にこの神様からのプレゼントが差し出されています。日本式で「そんな、こんなの頂けないです〜」とやるのではなくて、アメリカ式にしましょう。「え、いいんですか?わあ、うれしいです。ありがとうございます!」と受け取ろうではありませんか?

今日は午後5時からキャンドルライトサービスです。
暗闇を照らすまことの光であるイエスさまを多くの人が知る、ひとときとなりますように。

2011-12-23

アドベント聖書日課12/23


おはようございます。

クリスマスまであと2日。
この朝のメールをお送りするのがちょっと楽しみになってきました。
主は、今朝、私に対して、教会に対してどんなメッセージを持っておられるのだろう?
それを思いながら、いつもメールをうっています。

今日はルカによる福音書2章15-20節を読みましょう。


「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか。」15節。

「大きな喜び」のニュースを聞いた羊飼いたちが、その「大きな喜び」を経験するために必要だったことは、行動することでした。
聖書の中で、ヤコブの手紙をのぞいて他のすべての場所で、「信じる」ことと「行動する」ことはセットです。切り離すことはできません。信じることは気持ちの問題ではありません。信じたら、そのように歩むのです。聞いたら、従うのです。ヤコブは信じることと行動することを切り離しましたが、結局のところ、ヤコブの言いたかったのは、「行いのない信仰なんて意味がない」ということでした。聖書全体を通して、信じることは従うことであり、信じることは行動を伴うものでした。かたちだけ行うことの無意味さは言うまでもないことであり、愛のない行いはむなしいものだとパウロは言います。偽善はイエスが一番攻撃された罪でした。でも、それらのことは「信じるならば行いがなくてもいい」ということを正当化する理由にはなりません。信じているなら、踏み出すことです。
わたしたちは失敗を恐れる文化の中で育ってきました。失敗するならばやらない方がいい・・・それが信仰の歩みの中にもあるのだと思います。羊飼いたちは、救い主に会えない、ということなど恐れないで、ベツレヘムに行きました。今日、あなたの信仰が問われることがあると思います。信じて踏み出す時に与えられる喜びを一つでも経験できますように。

2011-12-22

アドベント聖書日課12/22

今日はルカによる福音書2:8-14を読みましょう。

「すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える」10節。

正直なところ、今年は例年にもまして、神様はどんな思いでこのクリスマスをご覧になっているのだろうと思わされています。先日のFujisankeiの朝のニュースの若い女の子がクリスマスプレゼントに期待するもののリストで、50万円の腕時計とか、50万円のバッグとか、もちろん話題作りの側面もあるかもしれませんが、それは何だ?と思います(よい製品がそれなりの金額をするのはわかっていますが)。日本が大きな痛みを負ったこの年、クリスマスこそ、そこに目を留める時であるだろうに、このような話題を放送するテレビ局やわざわざアメリカにまでそれを持って来て面白おかしく放送するアメリカ側の企画の姿勢にも疑問を感じます。その放送の後から、ちょっとイライラしていて、気をつけないといけないな、と思っていますが・・・。そして、同じ日にラジオで流れていた話だと、クリスマスプレゼントで「あ、うれしい」と思うのは何十パーセントだとか、返品/交換が何十パーセントだとか・・・そんな話ばかりが耳に飛び込んで来ます。

この聖書の言葉はそんな世界とは無縁の羊飼いたちに与えられた言葉です。それは「すべての人」に向けられたメッセージでしたが、それを受け取ることができたのは羊飼いたちだったのです。日々の食べることに一生懸命で、その夜も、野原で羊たちとともに過ごしていた羊飼いたちだったのです。彼らに与えられる喜びでした。すべての人への喜びのメッセージだったのですが、神様は彼らを憐れんで特別に彼らに伝えたのではなかったでしょう。そうではなくて、彼らこそ、この喜びを受け取れる人たちだったのだということだと思います。
この救い主は「かいばおけのしるし」をもつ救い主です。わたしたちはどんなブランドを身につけるでしょうか?言ってみれば、イエスは「飼い葉桶」ブランドを身につけてお生まれになりました。そして、それはイエスの生涯を通してのブランドでした。イエスの目標はそこから抜け出すことではなくて、徹底的にそこに生きることでした。身を低くして生きることでした。仕えることでした。わたしたちはどうでしょうか。この喜びを受け取れるところにいるでしょうか。

私自身、自分を見失わないように、とこの数日思わされています。明日の中高生、あさってのキャンドルライトサービス、日曜日のタカホとメイウッドと2つの教会の礼拝、とクリスマスの集会が続きます。私のためにも祈って下さい。

今日はアップするのが遅くなりました。朝の祈りの時に間に合わなかった方々もおられると思います。すみません。
お一人一人の今日の一日の歩みのためにお祈りしております。

2011-12-21

アドベント聖書日課12/21

さて、今朝はルカによる福音書2章1-7節を読みましょう。

 「初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」7節。

ここは日曜日の礼拝の中でも読まれたところです。
昨年のキャンドルライトサービスでは「想定外の出来事の中に神様のメッセージが隠されている」ということをお話ししました。ヨセフとマリヤの人生にとって、処女懐胎も、このタイミングでの出産も、想定外だったでしょう。そして、このタイミングで人口調査があり、またそれも、自分の祖先の町で登録するなんてことになることも、本当に生活が乱されることだったと思います。しかし、そこに、その現実の中に、イエスはお生まれになり、神の愛の究極が顕わされたのです。

そして、わたしたちはそれから2ヶ月余たった、3月11日から、何度も何度も「想定外」という言葉を聞かされることになったのです。それはわたしたちの想定を超える「想定外」でした。やはり、わたしたちは心のどこかで、「想定外のことがあっても、この程度のことだろう」と思っている範囲があるんだと思います。しかし、神様はしばしば、わたしたちをその「想定の範囲の『想定外』」から本当の「想定外」に引き出されます。それは本当に悲しいことだったり、戸惑うことだったり、怒りを覚えることかもしれません。神を信じることさえ困難になることかもしれません。しかし、そこにこそ、神のメッセージが隠されているのです。人間の準備の範囲を超えたことの中に、自分の限界を知り、神と出会うチャンスが与えられるのです。

今日も、もしかしたら、想定外の出来事に巻き込まれる方々もおられるかもしれません。
もしも、そんなことが起こったら、思い出してください。神様はあなたに特別なメッセージを持っておられるのです。

祈りつつ。

2011-12-20

アドベント聖書日課12/20

おはようございます。
今日はマタイによる福音書1章18-25節を読みます。

今日は聖書が手元にない方のために聖書検索のリンクを貼っておきます。
http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi

ここの下のほうの「書名章節検索」に「マタイによる福音書」と「1」章を入れると、1章が20節ずつ出てきます。ご利用ください。

さて、今日の聖書箇所から。

「ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。」(24節)

昨日書いたとおり、聖書はマリヤの苦悩については沈黙しています。そして、マリヤは賛美にあふれています。しかし、もう一人の当事者、婚約者のヨセフの方は苦しんだようです。婚約者が自分の身に覚えがない妊娠をしているのですから、当然でしょう。ヨセフはひそかに別れようと考えていました。私自身も同じ男性として、このヨセフの苦悩はどんなだっただろうかと思わされます。

そんなヨセフには夢を通して神は語られました。
「心配するな」「聖霊による子供だ」「救い主になるのだ」と。語られたときに、ヨセフはすぐに従いました。実は19節を読むと、ヨセフはもうすでに別れることを「決心していた」とあります。人間的な決心です。自分で勝手に決めた決心です。私たちは決心したことはあまり変えたくありません。もう決めたのですから。でも、神様のほうにはほかのお考えがありました。それが語られたときに、ヨセフはすぐに従いました。

私たちにとっても、今、必要なのは「主に語っていただくこと」なのではないでしょうか?主は今も時には夢で語られることもあるでしょう。でも、今はヨセフの時代と違って「聖書」が与えられています。ですから、主は今、何よりも聖書を通して私たちに語られます。日々、み言葉である聖書を読み、祈りましょう。そして、与えられたことを分かち合っていきましょう。そして、それだけではなく、そこに具体的に従っていきましょう。

今日の一日の皆さんの歩みが主の導きに単純に従うものとなりますように。

2011-12-19

アドベント聖書日課12/19

おはようございます。
今日はルカによる福音書1:39-56を読みましょう。

「主のお語りなさったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。」45節

特別な方法で身ごもるという困難を与えられたマリヤには、特別な励ましが与えられました。それはエリサベツという親類の女性でした。彼女は高齢だったにもかかわらず、後にバプテスマのヨハネになる子供を与えられていたのでした。まさに、神の力を知っている人がそばに与えられたのです。私たちにとって励ましとなり、支えとなるのは「神の力を知る人」です。
実際、聖書はマリヤの苦悩については何も語っていません。マリヤはエリサベツとの交わりの中で喜びに満たされて、賛美をささげています。その中で、マリヤは、神が自分のような存在に目を留めてくださったこと、そして、救いのみ業をなそうとしておられることを賛美しているのです。彼女の目は、自分の出会うであろう困難にではなく、神様のみ業に向けられていったのです。
今日も、お一人ひとりの歩みが支えられますように、お祈りしています。困難に出会われている方々もおられるでしょう。お一人ひとりの目が、その中であなたに目を留めておられる主に向けられますように。

2011-12-18

JOYJOYクリスマス

今夜は冷えています。
まだ夜の10時なんですが、-6度。
でも、今夜が寒さの底で、この後はだんだん緩んでくるみたいです。


去年のJOYJOYクリスマスは「あれ〜?」と思うほど、
いつものメンバー以外は少なかったんだけど、
今年はたくさんの皆さんが来てくださいました。
中高生を入れると40人くらい。


楽しいひとときだったようです。
うちの娘の評価はかなり高かったです。
初めての子にも楽しかったかな。


今日の週報に書いたコラムから。

「いよいよJOYJOYクリスマスの日です。
まだ、この教会の牧師になったばかりのころの話ですが、その5年くらい前に買ったディズニーワールドの4日券が2日分ほど残っていて、問い合わせたら、まだ使えるということでしたので、家族4人(そのころはまだ下の娘は生まれていませんでした)で、車で行ってきました。


 感動しました。


そこのスタッフが本当に人を喜ばせるプロだったからです。ほかのテーマパークも行ったことはありますが、そことは全く別の、「ゲストに楽しんでもらおう」という思いがあふれていました。 先週、「社会人として大切なことはすべてディズニーで学んだ」という本を読んで、その舞台裏で起こっていることをちょっとだけ垣間見ました。そこにあるのは、何よりもスタッフを育てる人たちの真剣さでした。若いスタッフ、特に著者は元ヤンキーの、「口の利き方を知らない」タイプの若い子、そんな若者たちに、どうすればゲストの方に喜んでいただけるかを、体当たりで伝えていくんですね。そして、自分の側からしかモノが見えなかった子達に、ゲストだったら、どんなことが喜びで、どんなことが思い出に残るか、を伝えていくのです。


十数年前ディズニーから帰ってきた私が「うちの教会もこのように新しい皆さんを歓迎しよう」とアピールをした時の思いがよみがえってきます。もちろん、教会にはもっとすごいものがあります。神様の恵みであり、福音です。でも、だからといって、私たちの新しい方々への歓迎がディズニー以下でいいわけではありません。いや、最高の福音を知っているからこそ、私たちは最高の態度で新しいみなさんを歓迎したいと思います。今日のJOYJOYクリスマスも初めておいでになるご家族、子供たちにとってとびっきりの思い出となりますように。」


・・・まだまだ途上ですが、もっともっといいプログラムを・・・と思わされています。

さて、今週の「アドベント聖書日課」ですが、
今週はここに毎日直接貼付けるようにします。

12月18日(日)ルカ1:26-38
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」38節  
マリヤに天使ガブリエルが「あなたは男の子を産みますよ。その子は神様の子、救い主です」とお告げをするところです。処女としてみごもるということがどういうことなのか、想像を超えています。そしてマリヤが経験した苦悩や葛藤もどれほどだったかと思います。しかし、マリヤは「神には何でもできないことはない」という御使いの言葉に、「お言葉どおりこの身になりますように」と自分の身を差し出すのです。  
わたしたちも同じ思いでクリスマスを迎えようではありませんか。ただ、受け身で待つのではなく、ただ、「いいことないかな」と待つのではなく、自分自身で踏み出して、「主よ、このクリスマス、私をあなたの御用のために用いてください」と祈って待ちましょう。

明日からは東部時間の朝6時前後にアップします。

2011-12-17

大切なことはどこで学んだ?

なんだか、今年は穏やかな11−12月です。
日本は大変な寒波みたいですが。


水曜日にちょっと天気が崩れそうですが、
それがホワイトクリスマスの最後のチャンスかな。


そして、去年と同じで、クリスマス明けに何かありそうですが・・・。


さて、昨日の夜ですが、「1260円の本がiPhoneアプリでは85円。16日までのセール!」という言葉に踊らされて、「社会人として大切なことはみんなディズニーランドで学んだ」iPhoneアプリ版を99セントでダウンロード。


一気に読みました。


楽しかったです。
1260円出すかどうかは、「うーん」とちょっとうなりますが、
99セントだったり、85円だったら、いいですね。


で、印象に残っているのはトイレ掃除の話。


我が家の「べっぴんさんになる計画」は頓挫してしまって、今やトイレ掃除をしている娘たちを見ることはありませんが、トイレ掃除の大切さは、自分はどこで学んだかな。


小学校の時の家庭科の先生が、「私は家庭訪問をしたら、最初にトイレに入ります。そして、トイレで、その家のことがだいたいわかります。」と言われて、ちょっと震え上がるような思いで、「そうなんだ〜」と思った記憶がありますが、それで自分がトイレ掃除をするようになったわけではなかったです。「かあちゃん、先生の家庭訪問の時は、しっかりやってくれよ・・・」と思ったくらい。(笑)


大学に入った頃、牧師館が引っ越して、教会の隣に住むようになりました。
それまで歩くと20分、自転車でも10分くらいかかる隣の町に住んでいたので、便利になったのですが、元々下町の狭いところでなんとかやっていた教会です。子供たちのための教会学校の分級の部屋が足りなくて、また、一緒に食べる昼ご飯の場所が足りなくて、一部屋をのぞいて全部毎週日曜日に開放するということになったのです。


ま、自分はそんなに嫌じゃなくて、「どうぞどうぞ!」って感じだったのですが、日曜日の朝は、普通の日の朝よりも早く起きて、7時ごろには朝食を終えて、家中の掃除をして、8時半には皆さんをお迎えする、という生活をしていました。


その中で、誰かがトイレ掃除をしなければいけないわけで、「どうせやるなら、きれいにしよう!」と思うようになったわけです。ま、小学校の先生の一言も、ちょっと生きていたかな。


で、その本の話に戻ると、
トイレ掃除の研修の中で、自分が掃除をしている最中に、ゲストが入って来た時に「せっかくきれいにしたばかりのところじゃなくて、これから掃除するところを使ってくれればいいのに・・・」と思った、というんですね。でも、考えてみたら、「ゲストの方に気持ちよく使っていただくために自分は掃除している」わけで、「きれいなトイレを使っていただけて、よかった」と思うべきなんだ、ということが書かれいていました。


確かに、使う側としてはきれいなトイレを使いたい、というのはとっても自然なこと。自分も、掃除している方がそこにおられても、あまり迷わないで、きれいなところを使うでしょう。ちょっとだけ、「あ、せっかくきれいにしてくださったばかりだから、汚さないようにしないと・・・」と思うくらい。


でも、掃除する側はそんな気持ちも働くんですね。立場によって見えるものが変わってくる。当たり前のことだけど、時々、自分に言い聞かせて、「変えようと思わないで、わかろうと思おう」という鉄則を守って行こうと思わされました。




さて、久しぶりに「日々のみことば」から。
最近は「コロサイ人への手紙」を読んでいます。
昨日は3:12-4:1。


「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」(3:13)

ここを読むたびに思うのですが、
普通は、「責めるべきこと」は「責めるべき」なんです。
「責めるべき」だから、それは「責めるべきこと」なんです。

だから、「責めるべきことがあったら、赦しあう」って、矛盾ですよね。
でも、それを主は求めておられる。
そして、それは「主があなたがたを赦してくださったのだから」。

赦された自分を忘れないように、
見失ってしまうことがないように、
そこがずれると、いろいろ「赦せない!」となってしまうんでしょうね。

祈りました。

主よ、
自分が赦されたのだということを私が見失うことがありませんように。

2011-12-15

クリスマスの集まり

クリスマスの集会のご案内です。
ぜひぜひ、お出かけ下さい。


あと、今日の木曜日はLeoniaのPresbyterian教会
午後4時からJOYJOYキッズクラブがあります。

今年のクリスマス、
すばらしい出会いがありますように。


2011-12-14

NYCを愛される神様。

今日の午後は、ちょっと考え込んでしまいましたが、
そのあと、私も出ている教会のクロッキー教室の先生の、
NYCのギャラリーのExhibitionに行ってきました。

そこでは、お会いする約束はしていなかったし、
月曜日に「じゃ、しばしのお別れですね」と挨拶をした方にも
またお会いするというサプライズ付き。

神様の励ましを感じました。

で、絵を見ながら、神様のNYCへの愛も感じました。
自分を含めて、人間は人間の世界で勝手なことやっているかもしれないけど、
神様は、今も、この街を愛しておられることを感じました。

感謝。

「まことの光」

クリスマスまであと10日。
久しぶりにNYCに出てきました。
Thanksgiving後のクリスマス色一色のNYCに来たのは初めて。
いえ、月曜日も来たし、その他にも人を送ったりして来ているんだけど、
街を歩くのは初めて。

マンハッタンにはクリスマスの名所がいくつもあります。
その一つ、Macy'sの前を通り過ぎました。

ショーウィンドウの写真を撮っている人々、
買い物をしている家族。

クリスマスはすてきな季節です。

・・・でも。

やっぱり、考えないではいられません。
「神様はどうご覧になっているのかな」
「イエスの誕生を祝う、ということはこれでいいのかな」
・・・と。

そんな親父の小言みたいなことはこの際言いたくないのですが、
今日はちょっと考え込んでしまいました。
そう、どちらかと言うと、誰かに小言を言いたいのではなくて、
自分はどうすればいいのだろう?という自分への問いかけ。

ヨハネによる福音書1:9の言葉。
「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」

「まことの光」・・・イエスのことです。
まことの光である、イエスが来てくださった、それがクリスマスの意味だと言うのです。
よく、この「まことの光」という言葉は「まことではない光がある」ということを前提にしているといいます。
見せかけの光と言うか、光のように見えるもの・・・。

それは暗闇を照らすのではなくて、
暗闇をごまかすもの。
暗闇を暗闇でないかのように見せかけるもの。

大変失礼な言い方かもしれないのですが、
自分も商業主義に影響を受けていないわけではないのですが、
そして、家族で、このような名所を巡ったりすることもしてきたのですが、

このクリスマスの祝い方は、その「暗闇を暗闇ではないかのように見せかけける」ことをしていないか?と思わされたのです。

で、ここからがホントに自分に問われたことだったのですが、

「そんなこと言うなら、お前は何をしているんだ?」ということです。

街には「クリスマスにはイエス・キリストを!」とチラシを配っておられる方もいます。
でも、私はそれを見ながら、それに加わろうとはしませんでした。
たぶん、これからもみなさんが、NYCでチラシを配っている私を見ることはないと思います。

物乞いをしている人に話しかけることも、ホームレスのおじさんに寄り添ったりすることもしませんでした。

「もしも、お前が『まことの光』を持っている、知っている、というなら、お前はこのNYCで過ごす時をどのように送るつもりだ?」

今年のクリスマス。神様、あなたが与えてくださった「まことの光」を確かに誰かに届けることができますように。暗闇の中に歩んでいた人々に光が照った、ということが、このNYCの日本語を使う人々の誰かに起こりますように。私を遣わしてください。出会いを与えてください。ただ、待っているだけではなくて、出て行く者とならせてください。

2011-12-08

聞くこと。

今朝は雪降りませんでしたね。
予想以上に雨が北東に進んで行くスピードが早く、
冷たい空気が入ってくる前に、雨が上がっていました。


でも、昨日の夜の雨はすごくて、
NYCにちょっと行く用事があったのですが、
道がfloodで、エンコしている車もあるくらい。


でも、今朝はきれいに晴れて、気持ちがよかったです。
今は夜の10時過ぎですが、外は1.2度C。
もう12月なんで当たり前なんですが、
それなりの冷え込みが続きそうです。


で、今日は午前中はシニアセンターでのあつまり、
我が家では、のんちが小さな子供たちを持つお母さんたちの集まり、
そして、夕方にはJOYJOYキッズクラブ。
8月に来られたばかりの方、2週間前に来られたという方、
たくさんの子供たちが集まりました。


いろんな世代の方々のいろんなニーズ。
もしも、自分が何か求められたり、
わかろうとしようと思ったら、
いっぱいいっぱいになってしまうと言うか、
キャパを超えてしまいますよね。


でも、牧師の強みは、
自分で背負い込まないこと。
自分でわかろうと思わないこと、
自分でわかった気にならないこと、
自分でアドバイスをしようと思わないこと、


神様がおられる、神様が助けてくださる、
神様がわかってくださる、
そこに最後の砦を持っていること、かな。


特に最近、無意識のうちに「アドバイスモード」「お説教モード」に入りやすい自分がいるな、と思います。(年を取ってきたということか・・・)


ほんとに、人のことばを聞ける者となれますように。
そして、それを主の元に持って行ける者でありますように。



2011-12-06

「だんしゃり」も大切だけど。

昨日の朝はとんでもなく深い霧で、
途中で車で走るのが危ないと判断して、
教会に行くのは断念。

ですから、今朝、気持ちよく起きて、
外は雨が降っていて、暖かくて、
そして霧が出ていなかったこと、
とてもうれしかったです。

注目はあさっての朝。
明日の夕方からまた雨ですが、
夜遅くから、明け方にかけて、
雪が混じったり、雪に変わったりします。

ちょっと注目です。

さて、もう10年以上前になりますが、
あるご一家が帰国される時に、
パン焼き機というか、ホームベーカリーというか、
そういう機械を「使えると思うけど・・・」というノリで、
無償で置いて行ってくださいました。(日本のメーカー)
感謝!だったのですが・・・。

でも、取扱説明書もないし、
どうやって作ったらいいかわからないし、
まあ、ものぐさな性格が災いして、
そのまま、ランドリールームの片隅に置いてありました。

で、時代は進んで、今年の5月頃。
この「断捨離」ブームの中で、
3年使わなかったものはもう捨てよう、というスローガンのもと、
処分しようかとも思ったのですが、
考えてみたら、今どき、ほとんどのマニュアルはインターネットで探せる、
ということを思い出して、見つけ出して、
10年間のホコリを払って、試しに作ってみたら、
ちゃんと作れるじゃないですか、
そして、これがまたすごくおいしい。


・・・ということで、10年の眠りから目覚めて、
ほぼ毎日、活躍してくれています。
おかげで、おいしいパンをいつも頂いています。

・・・改めて感謝。

でも、こういうことがあると、なかなか、またモノを捨てるのが難しくなりますね。(笑)

さて、今日の「ひびみこ」から。
今日はエゼキエル書21:1−17

「剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。・・・」9節。

今日の聖書箇所はあまりに恐ろしい、
厳しい裁きのところです。

こういうところを読むたびに思います。
「ここで何を自分は学べばいいんだろうか?」
「主はここから私に何を語ろうとしているんだろうか?」

そして、牧師としての私は、「教会の人たちはここからどんなことを感じるんだろうか?」と。

今朝もそう思いました。
でも、すぐに思わされました。
この怒りは、イエスの上に注がれたんだと。
この厳しい裁きは、十字架のイエスの上に下されたのだと。

私はすぐに十字架の深刻さ、
罪の恐ろしさを、軽く考えてしまいます。
本当はどんなに大きなことなのか、どんなに大きなことなのか。

本当ならば、私が受けなければいけない裁きが、
このイエスの上に下されたことを、忘れることがありませんように。

主よ、
罪の恐ろしさを忘れてしまいやすい、
軽く考えてしまいやすい私です。
どうか、いつもいつもそのことを思い出させてください。

2011-12-05

第二のモーセとして来られた方。

今年のアドベントの礼拝説教は固いかもしれません。
ちょっと反省しつつ、
でも、主が与えられたメッセージはしっかり語る使命を思わされて。

何をお話ししているかと言うと、

第二のアダムとして
第二のモーセとして
第二のダビデとして

来られたイエス。

昨日は第二のモーセとしてのイエス。

先週の第二のアダムは「アダムの失敗を帳消しにする」イエスだった。
でも、昨日の第二のモーセは、それとは違って、「モーセの再来であり、モーセを遥かに超える」イエス。

今週のアドベント聖書日課はこちら。

http://www.jccofnj.org/main/advent2011/2011adventwk2.pdf

ぜひ、読んでください。
一日少しずつ、一緒に読んでいきましょう。

モーセの生涯の中から、
3つの側面を取り上げました。

預言者
解放者
執りなし手

世界各地から、とりなしの祈りのリクエストがいくつも届く中で、
主が今、その働きに招いておられることを感じています。

今も、父なる神の右でわたしたちのために執りなしてくださるイエスを信頼しながら。

2011-11-29

キノコに学ぶ。

今日も雨は降りましたが、暖かい日でした。
でも、今夜からは気温も下がり、明日からは12度くらい、と、
例年よりは暖かいけれども、まあまあ、秋らしい天気となりそうです。


で、椎茸始めました。
こんなの。


http://www.amazon.com/Shiitake-Mushroom-Kit-Growing-Mushrooms/dp/B000E7MTYY

でも、写真みたいに、こんなにできていない。
今のところ。






10日間でできたのは、2本だけ。
でも、説明書にはすぐにできなくても、まだチャンスはあるから、心配するな・・・とあるし、とにかく、しっかり元を取ってもらわないと・・・でも、茎も食べられるし、新鮮ですしね。少し収量が少なくても、元は取れるのかな。


でも、思ったんですよ。
このキノコは、ずっとずっと菌糸をホダ木(今回はおがくずパック)の中に広げて行く。
そして、その木の栄養を消化していく。
そして、ホダ木に菌糸が回りきったときに、キノコをのばして、胞子を飛ばして広がって行く。


ずっとずっと時間をかけて、見えないところで広がっていって、
見えるのはその見えないものの結果として、出てくると。
今日、茂木健一郎さんもtweetしておられました。


本音にその人の無意識が表れるんだから、教養を身につけて耕さなくては人生もったいない


酒の席で出た防衛省の役人さんの失言。
でも、そんなところで出る失言こそが、その人の本音なんだと。


だったら、自分はどうかなあと思いました。
自分は酒は飲まないけど、本音がぽろっと出た時に、
それは人を生かすようなものであろうかと。


自分の中にあるものは、そんなに人に誇れるものではない。
いや、多分、恥ずかしいものだろうと思う。
だから、「酒に酔うより、聖霊に酔え」とパウロが言ったことの方が、
自分には当たっているなあと、思わされる。


だから、聖霊様に満たしてもらうしかない。
聖霊様のキノコが生えてくるように。


「なまけ者は寒いときに耕さない、それゆえ刈入れのときになって、求めても何もない。」箴言20章4節。


見えないところを大切にする者でありたいと思います。
じっと我慢、のときを大切にする者でありたいと思います。
聖霊様に酔わしていただきたいものです。

2011-11-28

小春日和。

11月ですから、いいですよね、この言葉を使って。
今日のNJは20度まで上がる小春日和でした。
あの恐ろしかった10月の雪のあとは、
ホントに不思議なくらい穏やかな日が続いています。


10月の雪からちょうど1ヶ月。
アトランタも含めて、南部では今夜から明日、雪かもしれないそうですね。
あちらも11月の雪はびっくり、でしょう。


こちらのこの天気も今日まで。
今夜から雨で、その後はまた冷え込みます。
今夜から雨と聞いて、
絶対やらなければ・・・の庭掃除。


そして、やっている中で、雨樋の掃除も。




何を隠そう、自慢じゃないけど、高いところは苦手なんですが、
これ、その問題を克服さえすれば、なかなか、男の子的には楽しいですね。
たまった葉っぱや泥を流して、水が低い方に流れて行くのを見るのは、快感です。


そして、屋根の上に寝転がると、空がデカい。




なんてったって、首を上げなくても、空が見える。


こんど、流星群の夜かなんかにここに上って寝転ぼう、と思いました。


次の流星群は12月14日前後のふたご座流星群だな。
凍えるだろうけど・・・。


で、その日の練習じゃないけど、学校から帰ってきた下の娘を招待しました。






屋根の上に寝転んで話をする父娘って、憧れるぞ。よろしく。


さて、今日の「日々のみことば」。
今日はエゼキエル書17:11−24


「主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし・・・」24節。

世の中一般でも、教会の中でも、
「こうすれば成功する」とか「こうすれば神様は祝福する」みたいは話があふれている。
でも、今日はここを読んでいて、主が主のお考えの中で、なされることがあるんだということを思わされた。

だから、本当に単純に、愚直に、主に従って行けばいいんだなと。

時代のはやりに振り回されやすいわたしたち。
「これこそ本当の教会のあり方!」
「新約時代の教会はこうだった!」
「これからの教会はこうでなければ!」
みたいな話がゴロゴロしている。

そして、5年くらいはやった後に「反省」が語られ、
また次のブームがやってくる。

ただ、主を見上げて歩んで行こうと思わされた。

主よ、
どうか、わたしの歩みを支えてください。
確かなものをしっかりと見据えて、歩む者でありますように。
あなたの導かれるところを歩むことができますように。
そして、「低くされた」とき、
動かされないものを持ち続ける強さを与えてください。


アドベント聖書日課。

アドベントに入りました。
今年も聖書日課を準備しました。
まずは第一週目。

http://www.jccofnj.org/main/advent2011/2011adventwk1.pdf


今日の朝、教会での祈りのひとときを終えて外に出たら、
圧倒されるような朝焼け。
神様のプレゼントに感謝。


「朝焼けは天気が崩れる前兆」とよく言われますが、
まあ、そこまで言っていいのか?と納得はしていないのですが、
確かに、そういうことが多いですね。

今夜から、天気が崩れそうです。

2011-11-25

感謝を込めて。

穏やかなThanksgiving Dayと穏やかなBlack Friday。
ホントに主が与えてくださっている一つ一つのことに感謝。
この後もしばらく穏やかな日々が続きそうです。
寒くなってくるのは12月になってからかな。


昨日は「どなたでもどうぞ」で、
Queensから、NJ各地から、そして、ボストンから10人ほどの方々が来られて、
感謝を覚えながら、楽しく過ごし、




今日は家族でレフトオーバー鍋。




なかなかうまそうでしょう。


で、8年間あまり酷使してきたファミリーPCがいよいよダメみたいで。
朝から何回も勝手にリスタートを繰り返しています。
いろんな部品を「これかな?」「これかな?」と交換して、可能性をつぶしていきます。
一度は、CPUと言う「心臓」にあたる部品のピンが曲がってしまって、「やべえええ」という場面もありましたが、そこはなんとかクリア。
中心的な部品であるマザーボードのだろうなあああ、と思ったところで終了。
もう昔の部品なので、eBayで探すしかありません。
60-80ドルとかするので、うーん・・・です。
ずっと性能のいい新品が2年保証付き(クレジットカードで買えば+1年)で400ドルとかで買えちゃうんですからね。


でも、ほんとにつくづく「バックアップの大切さ」を痛感しているところです。
なんとか、データが吸い出せるといいのですが。


さて、あさってから、アドベント。
イエスがわたしたちのところに来てくださったことの意味を、
一つ一つ味わっていくことができるようにと願いつつ。

2011-11-16

どこに祝福を求める?

また前回の更新から1週間経ってしまいました。
今夜もすべきことはたくさんあるし、
最近ちょっと朝きついので、早寝早起きに生活のリズムを戻したいし。


でも、今日はちょっと更新。


今日は一日雨。
ちょっとまとまった雨になりました。
あの季節外れの雪の日から、2週間あまり。
初めてのまとまった雨です。


明日もう少しぐずつきそうです。


その後、ちょっと冷え込みますが、
サンクスギビングまでというか、12月初めまでというか、
しばらくは基本的にはあまり冷え込まず、
過ごしやすい日々が続きそうです。


ここのところ、
礼拝で、アブラハムの生涯から、
神の与えられる祝福について、教えられています。
先日の日曜日は、
わたしたちに祝福を与える人はどんな人か、
それは、「祝福の源である神様に目を向けさせてくれる人」ということができると思います。
なんだかわからないんだけど、この人と話をしていると、いつの間にか、心が神様に向いていく。別に「神様が、神様が」というわけではない。聖書の言葉ばかりが口をついて出てくるわけでもない。


でも、なんだかわからないんだけど、その人と話していると、祈っていると、心が主に向いていく。多分、その人自身は意識していないんだと思う。そういうのとは違う。自然な感じ。


自分の今までの歩みの中で、そういう人たちが何人かいた。
そういう人たちの存在に支えられて、神様を近く知ることができるようになってきた。


自分も誰かにとって、そのような存在になったらいいな、と思う。


それとともに、最近思っていることがある。
それはクリスチャンは、聖書や信仰書以外の本をもっともっと読むべきだということ。


自分もなかなかゆっくりというのは難しいのだが、
信仰書と、カジュアルに読める信仰書以外の本を交互に読むようにと心がけている。
自分の場合は、本当にもっともっと読むべきだろうな。


不思議と神様はそういう人たちを通して、
神様に目を向けさせてくださる。


最近読んでいるのは、「がんばらない」
これはもうこの題が、脱力系の自分のツボにはまりましたね。
「いいねえ」
だから、古本屋の1冊1ドルセールで見つけたとき、迷わず買いました


でも、題は肩の力を抜いてくれる題だけど、
この本の中に出てくる人たちは、肩に力を入れないで、
でも、精一杯生きた人たち、生きている人たち。
題が想像させるよりも内容の詰まった本でした。


で、著者は今、原発の事故のせいで、メディアへの露出が今まで以上に頻繁になっている鎌田實先生。諏訪の病院の再建に尽力しつつ、放射能の問題に取り組んで、チェルノブイリの原発事故や、湾岸戦争の時に使われた劣化ウラン弾で、病を負った人たちのサポートをしておられます。


のんちが、今年の4月に先生の団体でボランティアをさせていただいたので、よけい親近感をもちました。


何度も何度も涙しています。


この本も、わたしにとっては、わたしに祝福を運んでくれる、そう、「祝福の源である神様に目を向けさせてくれる」本です。


いろいろ調べてみたら、この先生、「空気は読まない」って本も出しているんだね。ちょっとそそられる・・・。


さて、最近の聖書から。
エゼキエル書の8章、これは先週の後半に読んだところですが、
その中からこの言葉が心に留まりました。


「はいって行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ」9節。

エゼキエルもそうだったと思いますが、
わたしたちは人を悪く見たくはないものです。
まさか、そんなひどいことはないだろう・・・、
そう思います。

確かに、人を疑ってかからない方がいいことが多いです。
でも、しばしば、自分もそうなんですが、自分が見ていることさえも、
「そんなつもりではないだろう」「そこまでひどくはないだろう」と思ってしまいます。
そう思いたいのです。

そして、現実から目を背けてしまい、
見ていることさえも否定してしまって、
語るべき言葉を語らないで、
逃げてしまうことがあるのです。

だから、自分にとって、これは本当に大切なことだと思いました。
人々の罪の深さから目を背けない。対決することを恐れない。

現実を現実として受け止めて、
そのために祈り、とりなしをして、
そして、警告と福音を語る者とならせていただきたいです。

主よ、
助けてください。
わたしが現実から目を背けることがないように。
わたしが現実を否定してしまうことがないように。
そして、はっきりと恐れないで、聖書のメッセージを語る者とならせてください。



2011-11-08

大きな犠牲。

今日はホントに暖かく、午後には20度Cを超えました。
明日ももう一日暖かい日が続きそうです。
木曜日はちょっと雨が降り、
金曜日はちょっと冷えそうですが、
その後は11月にしては穏やかな日が続きそうです。


1ヶ月くらい前になりましたが、
アシュラムの集いに参加してから、
ずっと感じている感覚なのですが、


自分はいったい、聖書を読む時に、
人に伝えることを前提に読んでいないか、
いつもそれを意識して読んでいないかと。


もっともっと自分で味わうべきで、
もっともっと自分の中で沈潜すべきなのに。


あまりにも人との関係の方に目がいって、
神様との関係を深く持っていないのではないだろうか、と。


このブログやTwitterやFBの方に何かをアップすることを
神様とのひとときを楽しみにしているよりも考えているのではないかと。


だから、ちょっと意識して、
もっともっと神様とのひとときを大切にしたいと思います。


さて、今日は早速今日の聖書。
今日はエゼキエル書の6章。


「こうしてわたしは彼らに対して怒りを注ぎ尽くす」12節。

この章は読んでいて、本当に恐ろしくなりました。
神様の怒りが注がれるとはこういうことなのかと。

でも、読んでいる中で、この怒りは今はどうなっているのか、
そのことを思った時に、それをイエスがあの十字架の上で負ったのだと、
気がつかされたのです。
イエスは大きな犠牲を払われたのだと思わされたのです。

この神の怒りは、新約時代の私たちにとっては、
イエスの上に注がれている。
100パーセント注がれている。
本当は私が受けるべき、私の上に注がれるべきものなのに。

そう思った時に、イエスが血の汗を流して「私がこれを避けることができれば・・・」と祈られたのが少しわかったような気がしました。あの十字架の上で「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫んだことも。

イエスはすべてわかっていた。
自分が十字架にかかるのは使命であることも、
そして、何よりも3日目にご自分がよみがえることも。

それでも、とんでもなく恐ろしかった。
叫ばないでいられなかった。

それはこの神の怒りがどれほど恐ろしいものであるか、
それを覚えた時に、そうだったんだと思いました。

まだまだ十字架の意味が分かっていない、
そんな自分を感じました。

主よ、
イエスの十字架の大きさ、重さを感謝します。
どうか、もっともっとそのことをわからせてください。
もっともっと深いところで味わわせてください。

2011-11-07

逃げるのか?自由なのか?

あの季節外れの雪での停電から1週間。
うちは1週間前の月曜日の夕方に電気が戻ったのですが、
その後、いろんな方々にお会いしている中で、
火曜日まで、水曜日まで、木曜日まで・・・金曜日でもまだ・・・
など、もっともっと大変な方々がおられたようです。
庭の枝が落ちて、窓ガラスを突き破って、


3日間でもほんとうに大変だったのに・・・。


その後、天気が落ち着いているのは本当に助かります。
冷え込む朝はあったのですが、
毎日いい天気で、今日はすっかり乾いたところで、落ち葉集め。
あの雪が嘘のような平和な冬支度の一日です。


さて、昨日の礼拝で、
神様との関係で満たされる中で、
他のものから自由になる、
いろんなこだわりや、人からどう評価されるかとか、
仕事が認められることなどから・・・
振り回されないで済む、
支配されないで済む。
そんなことを語らせていただいた。


本当にそうだと思う。
そこで与えられる勝利も何度も経験して来た。


詩篇37篇の言葉。
「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。
・・・・・・
主を信頼して善を行え。」


でも、今日一つの出来事の中で、
自分が直面しなければならない問題から逃げるために、
神様を利用している場面はないだろうかと思わされた。


結局は恐れて、直面したくなくて、
「神様との関係・・・」というところに逃避していないだろうか?


本当は自分が愛がないだけなのに、
問題をちゃんと見据えて、解決のために自分のできることはないだろうか、と求めなければいけないのに、逃げていることはないだろうかと。


熟成中・・・だな。


さて、ここ数日の聖書から。
実は、「日々のみことば」誌を読んでいる方はご存知だと思いますが、
11月に入ってから、なんと「エゼキエル書」を読んでいます。
難解なところもたくさんありますが、本当に教えられることの多い書物です。


そんな1週間の中から。


「彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ」2章7節。

本当に大切なことですね。
「聞いてくれそうなこと」を語りたい、
という誘惑もあります。

「聞かれないなら語りたくない」
と思う気持ちもあると思います。

でも、人のことばではなく、神様が聖書を通して、
どのように語ってくださっているのか、
それを忠実に語ることのできる者になりたいと思います。

そのためにはやはり神様との関係をもっともっと豊かに。
もっともっと、日々の祈りの中で力を頂いて、
聖書から語っていただいて、その語られたことを分かち合うことが
必要なんだと思います。

主よ、
あなたのみ言葉を語ってください。
わたしの心に、あなたのみ思いを教えてください。
そして、大胆に語ることのできる者となれますように。


そして、勇気をもって、あなたにゆだねるべきことと、
あなたからわたしにゆだねられて、勇気をもって直面すべきこととを
見分ける力を与えてください。

2011-11-01

停電の中で。

お久しぶりです。
前回の更新から、今日までの間、
たくさんたくさん書きたいことがあったのですが、
あまりに早すぎた雪で、更新できないでいました。


予告通り、今、嵐が過ぎ去った後で読むと、本当に予告通り、
土曜日は大変なことになりました。


予想の積雪量は15-30センチ。
でも、実際は15センチと一番下の値。
でも、それで、この地域を混乱させるのには十分な量でした。


普段は15センチの雪なんて、屁でもありません。
もちろん、気をつけて運転しなければなりませんが、
普通タイヤで走りますし、すぐに除雪が進んで、何もなかったように
普段の生活を送って行きます。


でも、今回の問題は紅葉がまだ終わっていなかったこと。
例年よりも紅葉が遅かったようにも感じます。
まだまだ青々とした木々もありました。


そこに湿った重い雪が降ったのですから、
ひとたまりもありません。


それも予想では、もう少し遅い時間が深刻だと思っていたのですが、
2時頃、激しく雪が降っていました。


それで、私も車で5分もかからないところにある郵便局まで、
3時までの土曜日の受付が終わらないうちに・・・と走ったのですが、
家の前の通りを走っている時にも前で、後ろで、枝がドン、ドンと落ちていきます。
地面に落ちた枝をよけながら、また上から降ってくる枝におびえながら、
(一度は「ドン」と何かが落ちて来たのでびくっとしましたが、雪の固まりだけで、枝はなかったようです)
郵便局まで無事に着けるか・・・と思いながら走っていました。
後で考えてみると、月曜日に送っても別に何の違いもない郵便物だったんで、滑稽なんですが、なんだか、「命がけ」って感じでした。


びくびくしながら、後で考えてみれば停電直前の郵便局から帰ってきたら、ウチは停電していました。それから停電が50時間も続くとは考えてもいませんでしたが・・・。


落ちた枝や、倒れた木で、送電施設は寸断されて、
広い範囲で停電となりました。


ウチの庭の木の枝も、屋根を直撃しないか(実際一本屋根に乗っかっていましたし、何本ももたれかかっていました)と、それ以上に隣の家を直撃しないかとヒヤヒヤしました。

ウチの裏庭からの全景
よく見ると屋根の上にも枝が。

上の写真の右側のデッキの上に落ちた枝。
屋根の上に乗っている枝の何倍の大きさ。
今度は左側の隣との間の木。
この木の枝は隣の家にも何本も落ちていた。


昨日も枝の片付けをしていましたが、
雪の付いたままの枝はものすごく重かったです。
これだけ重くなったら、バキバキ折れるのも無理はないなあ、と思います。
そして、折れてくれたからこそ、幹ごと倒れることがなかったのでしょう。


でも、落ちる枝の中でのドライブは、ホントに「マジ怖かった」です。

前回のハリケーンアイリーンの時は、我が家は26時間の停電だったのですが、
教会は大丈夫で、電気が必要な時は教会に行けばよかったのですが、
今回は教会も電気がダウン。

ここら辺の暖房は燃料がガスだろうが、重油だろうが、電気がないと動かない。

で、教会も寒かったです。

礼拝は守りました。
電気が復活することを祈りながら。
でも、結局復活せず、子供を入れると40人以上の方々が集まりましたが、
ほとんどは自宅には電気があるし、自宅は暖かい、という方々、
でも、共に礼拝を守るために、電気が消えていて、寒いとわかっている教会に集まりました。(でも、ホントに寒かったので、同じことが次にあったら、「無理はしないでください」と言うでしょうね)

でも、その礼拝は「本当に礼拝になくてはならないものは何か?」が問われるひとときとなりました。

暗い中で、寒い中で、「週報」もない、楽器もいつもの半分以下、マイクもない、プロジェクターもない・・・そんな中で、でも礼拝を守っている、という実感はありました。

礼拝前の成人科の小さな集まりでも、共に語り合いました。
週報がなくても、楽器がなくても、礼拝ではある、
 でも、例えば、説教はどうだろうか? 

説教者がいなくても、聖書があれば、聖書朗読があれば、礼拝だろう。

 でも、旧約時代のように、聖書が与えられていなかった時代には、
礼拝は何だったんだろう。

神様の恵みと、応答としてのささげもの、いけにえ、献身、だっただろう。 

私たちにはイエスの十字架が、罪の赦しのために与えられて、
その前に献身をする者たちが集まる、
それが礼拝なのではないだろうかと思わされていました。

神がイエスの十字架を通して開いてくださった道。
神の私たちへの招き。
私たちの応答としての、神を神とする者たちの集まり、
それが礼拝の「なくてならぬもの」。 

「兄弟たちよ、そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」ローマ12:1

今回の礼拝でなかった「週報」も、電子楽器も、マイクも、プロジェクターも、すべて、もっと心からの礼拝を・・・という目的のために用いられています。でも、今回のように、すべてが取り除かれた時に残るもの、それに目を留めることが時々必要なんだろうなと思います。

1年半前にも書きましたが、Heart of Worshipという歌が作られた由来、思い出していました。

でもね、ホントにホントに寒かったので、
体調を崩した方はおられないかとちょっと心配です。
電気がなくても、何とかなりますが、暖かさは本当に必要です。

礼拝の後、停電しなかったお宅に呼んでくださる方があって、
お言葉に甘えて、お伺いしました。
心も体も暖まりました。

だから、改めて祈らされます。
これから寒い冬を迎える震災の被災地の方々の
心と体が守られますようにと。

2011-10-28

あまりに早い大雪に警戒。

今日は天気のことだけ書きますが、
明日は大雪です。
特に夕方から夜にかけて。
15センチから30センチ積もるようです。

この季節にこんな雪が降るのはホントになかったようで、
記録を取り始めてから初めてだそうです。

何よりも問題なのは、木々にまだ葉っぱが残っていること。
この葉っぱに雪が積もると、木々の枝が折れたり、
木が根こそぎ倒れたりします。

停電の準備をしっかりしないと。
あと、車で出かける時には路面の問題以上に電線が垂れたり、木が倒れたり、という問題に注意です。

2011-10-27

それぞれの役割。

今日は冷たい雨です。
朝はそんなに冷たくなかったのですが、
昼頃に10度を切って、その後も気温が下がり続け、
夕方には5度。
もう雨は上がりましたが、
午後9時で外は4.5度C。
明日の朝は1度くらいまで下がるようです。
霜注意報も発令中。


でも、今、注目は土曜日の午後から夜にかけての雪です。


まだまだ不確定要素が多いのですが、
今日の夕方のGFSやNAMが当たったら、いきなり積雪です。


それはマジやばい(昔の意味で)。


今の時期の積雪のヤバいのは、まだ木々から葉っぱが落ちていないから。
落ちていない葉っぱにたくさん雪が積もると、重みで木が倒れたり、
枝が折れたり、それで電線が切れたり。


要注意です。


今年の夏頃から、ずっと考えて来たことがあります。
今回、うちの教会でも9-11の集会の献金をお持ちしたオアシスライフ・ケア。
そのオアシスライフ・ケアが応援している鮫浦湾のホヤの養殖。
ここで一般の人々からの投資を募集しているのです。
いや、正確に言うと支援基金かな。
詳しくはこちら。


金華ほや・帆立復興支援プロジェクト


ホヤは食べたこともないですし、
特別な思い入れがある訳ではないのですが、
応援したい・・・とずっと思ってきました。


で、「武士は食わねど高楊枝」の文化の中で生きて来たのですが、
この際、バラしますが、どうしてもこの1万円がひねり出せません。
まず、自分で一口募金してから、そのあと皆さんにアピールしよう、と思っていたのですが、その一口がとっても難しいんですねえ。


3月末にのんちが日本に行った時に、
たくさんの皆さんが応援してくださいました。
日本でもサポートがありました。
でも、もちろん、ほとんどは家計からの持ち出しです。


病院派遣で行かれたり、
お仕事として行かれる場合もあるんでしょうが、
うちの場合は、そこまでの交通費を含めて、100パーセント自腹のボランティアです。


仕事もスパッとやめて行きましたし。


そんなこんなで、


なんとかひねり出そうと、かなりがんばってるのですが・・・。



すべては自分の責任ですし、
自分で決めたことですし、
判断が間違っていたとは思いません。

これからもなんとかひねり出せる日が来るのを待ち望みながら、がんばって行きます。


で、ホントに思ったのです。
人にはそれぞれ役割があると。
自分はやっぱりどこかで、足りないものは自分で埋めようとして来た。
資金の問題でも、労力の問題でも、
みんなにアピールすることよりも、自分や自分の家族で、なんとかしようとしてきた。


でも、それもつまらないプライドだったり、
人を心から信じていない証拠だったり、
するんじゃないかなあ、と思ったのです。


自分はこのことについては、少なくとも今は、お金を出す役割を与えられていない。
PRをする、紹介をする働きを与えられているのだと。
経済的に与えられていて、意味のあるところに使いたいと思っている誰かにつなげる働きをさせていただくのだと。


ですから、今日は堂々と紹介します。


どうか、元手が与えられている皆さん、それをどこに使うか、で悩んでいるみなさん、ここも、それを「投資」する先として、考えてみてください。


いや、厳密な金融商品としての投資ではないのですが、
この地域の将来のために投資してください。
「夢」とかじゃなくて、「日常」を取り戻すために大切な一歩です。
2万口が目標ですが、目下、531口だそうです。






ドネーションを求めているところはたくさんあって、
いくら元手があっても足りない・・・というのが本当かもしれませんね。
だから、祈っている中で、示されて、元手が与えられた皆さん、


ぜひこちらにも一口!