2007-03-30

unfailing love

今日は朝は冷え込んで-0.6度。久しぶりの氷点下です。
でも、昼間は20.2度Cとグッと暖かくなりました。
こんな日は家の中の方が寒いくらいです。

今は夜の11時ですが、10度あります。
でも、今夜もそこそこ寒くなりそうです。

昼間はまあまあでしょう。

そう、明日はJOYJOYイースターです。
午後3時から。
天気はいいです。今年は去年みたいにみぞれが降ったりしません。
元気なみんなをお待ちしています。

今日の夜のレント集会はとても大切な内容でした。
「私たちが共につけられる十字架」

私たちはいつも「私の罪」がイエスの十字架にかけられなかったと思います。
でも、ほんとうは「私自身」が十字架にかけられなければいけないほど、
「私」と「私の罪」は一つになってしまっているのです。

だから、パウロは「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と言っているのです。
とても大切な「教会が教会となる」ために大切な学びだと思うので、
おいでになれなかった方々は是非HPで聞いて下さい。
まだアップされていないようですが、レント集会の3月30日のメッセージです。

さて、今日は詩篇の第6篇を読みました。
心に留ったのは、「あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。」という4節の言葉です。

私は今、日英対訳で読んでいるのですが、
この「恵み」ということばが英語のNew International Versionという訳では、
「unfailing love」と訳されています。
「確かな、揺るぎない、信頼できる愛」という意味です。

苦しみ中で、
いつでも共にいて下さる神様に
「帰ってきて下さい」と言わなければいけないほどの苦しみ。

神様が共にいて下さることさえ、
忘れてしまう、
見失ってしまうほどの苦しみ。

でも、その中でも彼は、
神様の恵みが
unfailing loveであることを信頼していたのです。

自分に対する神様の気持ちは
unfailing loveであると確信していたのです。

単純に神様を信頼していく者でありたいと思いました。

幼子のように神を信頼していく者でありたいと思います。

主よ、
どうかあなたのunfailing loveを信頼して、
歩む者でありますように。
幼子がお父さんを、お母さんを信頼するように、
私もあなたを信頼します。
あなたの御手の中で歩ませて下さい。

2007-03-29

主の盾

今日は昨日までに比べるとひんやりした日でした。
朝は1.1度C。昼間も12度くらいまでしか上がりませんでした。

で、自分はジーンズの下にパッチを履いているオヤジなのですが、
もう最近は暖かいから大丈夫だと思って、
今日もジーンズ一枚で過ごしていたら、
もう午後には足が冷えて冷えて、
3時頃に降参してパッチを履いています。

今夜も冷えるみたいですね。

でも、明日は20度近くまで上がるようで、
パッチレスで過ごせそうです。

JCCNJは今年が20年目。
初めての会堂を持とうといろいろ調べています。
でも、調べてみると、町によっていろんな法律があるんですね。

ある郊外のまだ更地のたくさんある町の場合、
新しく教会を建てるなら10エーカーの土地が必要だそうです。
=4万平方メートル=1万2千平方メートル。

ちなみに私が住んでいる町は最低2エーカーだそうです。
そんなに大きくない教会もたくさんあるのですが、
たぶん、そんな法律ができる前に建てたものなのでしょう。


そういう規制がないところもあります。
市街地に行くと、もっと小さい規定があるところもあります。
最低2000平方メートルとか。大体600坪くらい。

これでも、日本では考えられない話ですよね。

昔ながらの教会は駐車場もないものが多いです。
つまり「歩いていける教会」だったんでしょうね。
でも、今は町の法律で
「教会堂の座席3に対し、駐車場1台分」
とかなっている町が多いです。

なかなかむずかしいです。

神様が私たちにどんな道を準備しておられるのか、
心をオープンにして待ち望みたいと思っています。

今日は詩篇の5篇。
5篇は最初の「朝ごとにあなたを待ちます」という言葉も大切な言葉ですが、
今日は最後の言葉が心に留りました。

「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」12節の言葉です。

いろんな攻撃があります。
それにたじろいでしまったり、
心に壁を作ってしまったり、
恐れて言うべきことが言えなくなってしまったり。

そして、サタンからの攻撃があります。
誘惑があったりします。
牧師が骨抜きになれば、
教会は骨抜きになる。
牧師がみんなの信頼を失えば、
教会のメンバーは人間不信になる。
そういう風に考えるんでしょうね。

だから、私には主の盾が必要なんだと思わされます。
主御自身がその愛で私を守って下さる。
それが大切なんだと思います。

それがありがたいですし、それが必要だと思います。

主よ、
あなたの守りを感謝します。
どうか、あなたの盾で私を守って下さい。
あなたの下に隠れ、あなたを避け所とすることができますように。
どうか、守って下さい。

教会堂についても、あなたの道を示して下さい。

喜び

昨日は詩篇の第4篇。
「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」7節。

主が与えて下さる喜び、それは収穫の喜び、経済的に満たされた中にある喜びを遙かに超えるのだという。
農業をやっている方々にとって、収穫の喜びはどんなに大きなものかと思います。
また今の時代とこの聖書の時代、そして聖書の生まれた地域、との違いを考えてみる時に、
収穫がどれくらいあるか分らない、不安定さは、この時代の方がずっと大きかったのだろうと思います。

だとすると、この詩人の言葉の重さがどれほどかと思います。

その大きな喜び、収穫の喜びを超える神の与える喜び。

苦しみがあり、怒りがあり、悩みがあるような状況の中で、
主が与えて下さる喜び。

もっともっと経験させて頂きたいと思いました。
主の喜びを満たして頂きたいと思いました。

主よ、
どうか、私の心に、
あなたしか与えることのできない、
あなただけが与えることのできる、
喜びを満たして下さい。

他のどんなに楽しいこと、
どんなにうれしいことも、
与えることのできない、大きな喜びを私に満たして下さい。

また朝に・・・

今日(もう昨日になってしまいましたが)は朝早く「コンピューターを持たないで」(使うひまがないと分っていたので)NYに行って、先ほど帰ってきたので、これからごはんなので、更新は明日~
おやすみなさい。

2007-03-27

眠れるということ

今日はほんとうに暖かい一日でした。
朝から10度くらいありましたが、
昼間には25度まで上がって、
汗ばむほどでした。

でも、ここまで暖かいのは今日だけ、
明日は15度くらい。
あさってからは10度そこそこのようです。

でも、ほんとうに一日でもこういう日があると、
春になったんだなあ、と思いますね。

明日はNYの日です。
すばらしい一日になりますように。

今日は詩篇の3篇でした。
敵に命をねらわれる中で、書かれた詩です。

その中で、この言葉が心に留りました。
「私は身を横たえて、眠る。 私はまた目をさます。」5節です。

夜眠れる方ですが、
何だか「悩みがないんじゃないの?」と思われると、ちょっと悔しいような気もします。
でも、時々、やはりいろんなことが心に巡って、
どうしても眠れない時があります。

やはり眠れるということは恵まれているんですよね。
不眠症で悩まれている方々は、
どんなにおつらいことかと思います。

この詩人、命をねらわれるような危険な状況にあって、
自分が眠れるのは神様の守りの中にあるからだ、と、
しみじみと語っているのです。

神様の守りがあること、
神様の支えがあること、
眠れる平安が与えられていること、
すばらしいプレゼントなのだと思います。

眠れない時は祈ります。
祈ると不思議と眠れます。
お祈りがお居寝りになってしまいます。
ほんとうは、もっと苦しいところを通っていないからそんなことを言えるのかもしれません。
でも、時分が与えられている恵みを素直に分ち合うと、
ほんとうにそうだと思います。
祈る時に与えられる慰め、平安、主に感謝します。

主よ、
あなたに祈ることのできる幸いを感謝します。
痛みの中で、苦しみの中で、不安の中で、
祈ることを教えて下さい。
そして祈る中で与えられる平安のうちに歩んでいくことができますように。
今夜もよく眠れますように。

2007-03-26

おののきつつ喜ぶ

今日も穏やかな天気。
気温は余り上がりませんでしたが、それでも12度くらい。
夜になってから雨が降ってきたようですが、
明日は回復して20度くらいまで行くみたいです。

庭のクロッカスが満開になりました。


去年よりも10日遅れて、春になっているようですね。

去年も4月の8日のJOYJOYイースターの時にみぞれが降りましたからね。
今年もまだまだ「寒い!」日はあるでしょう。

ちなみに今年のJOYJOYイースターは3月31日、
今週の土曜日です!

今年はスカッと晴れます!きっと・・・たぶん・・・。

先週の月曜日に紹介したおにぎりの素。
裏に「おにぎりを作る時にはよく手を洗って・・・」と書いてありましたが、
それにびっくりして、その後はさらっと読んでしまいましたが、
よく読むと、「調理後はできるだけ涼しいところに保存し、お早めにお召し上がり下さい」だって。うーん、手取り足取りですね。

でも、「注意書き」でググルと、またいろいろ出てきますね。
2005年のアメリカの注意書きコンテストのニュース、日本語になっています。いいですねえ。このトイレブラシの話といい、体温計の話といい・・・。やるひとがいるんでしょうか?
でも、この団体のHPを見ると、今年版が載っています。第10回だそうです。

今年は「この洗濯機で人間を洗わないでください」だそうです。
これは絶対いないと思います。さすがに・・・。
でも、グランプリの賞金500ドルと一緒に賞品として渡される本の題名にもなっている「たたむ前に子供を下ろしてください」という折りたたみ式のベビーカーの注意書き、これもすごいなあ、と思います。これもいないでしょう。それはさすがに・・・でもうっかりそういうことをしてしまった人がいたら、メーカーはその責任を負わされたりするということを恐れているんでしょう。コワい世の中です。

あ、でも、自分的には、
ミニバンのうしろの跳ね上げ式のドアに、
「閉めるドアで頭を打たないようにご注意下さい」
と書いておいて欲しいなあ、と思います。

車のドアに自分の手を挟んだことはありませんが、
何でか、あのミニバンのうしろのドアというか、ゲートというか、
あれはよくやるんですよね。

車のメーカーを訴えたら、勝てるかな?

昨日から読み始めた詩篇、今日は第2篇を読みました。
新改訳の第3版というので読んでいますが、
心に留ったのは、その11節の言葉。

「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。」

主の前の畏れ、そして、おののき。
それを失わないなかで、「喜ぶ」。

恐れを持ちながら、喜ぶ。
ほんとうに恐れがあるから、喜びが大きくなる、のだと思いました。
でも、時々、「恐れ」を忘れてしまうから、
いつのまにか、「本来、神の前に立てるような自分ではない」ということを
忘れてしまうから、喜びも、感謝も、感動も、いつの間にか薄れてしまって、
慣れっこになってしまって、
「昔はもっと熱かったけどなあ」なんて思ってしまう。
喜びも、他のものに求めるようになってしまう。
いつの間にか、クリスチャンとしての「成功」や、
人との楽しい一時に喜びを求めてしまう。
「恐れ」を忘れない、
「罪深さ」を忘れない、
「どれほど大きな愛をもらったか」忘れない

そういう歩みをしたいと思いました。
主に愛されている喜びにあふれるものでありたいと思います。

主よ、
罪深い私をおゆるし下さい。
私のためにどれほど大きな愛が注がれたか、
どれほど大きな犠牲が払われたか、
忘れない者としてください。
そして、喜びにあふれさせてください。
あなたから来る喜びにあふれさせてください。
他のものをすべて失っても、その喜びを与えて下さい。

2007-03-25

昼も夜も

夕方はちょっと肌寒いですが、
昼間は暖かいですね。
やはり春分の日を過ぎて、太陽がどんどん高くなっているのもあると思います。
今は夜の11時半。3.9度C。ちょっと冷えそうですね。

でも、あさってには20度くらいまで温度が上がりそうです。

今日からどういう風に聖書を読もうかと思っていましたが、
詩篇をまた「一日一篇」で読んでいきたいと思います。
中には「この一篇ですか?」と感じるようなところもあるかもしれませんが、
その中から、語られることを待ち望みつつ、読みたいと思います。

ということで、今日は詩篇の1篇。
神の言葉、聖書のメッセージを慕って歩む、
その言葉に従って歩む者の幸いを書いた箇所です。

その中の2節の言葉が心に留りました。
「昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」

英語ではmeditateという言葉が使われています。
口ずさむ、と訳した新改訳には特別な思いがあるんだろうな、と思います。
単に思いめぐらすのではなく、喜びとして、鼻歌のように口に出てくる。

御言葉を喜びとする、
歌とする。
そんな歩みをしたいと思いました。

聖書を読むのが、ちょっとお勤めっぽくなってしまって、
毎日毎日「読まなければいけない」ではなくて、
それが口をついて出てくるような、
そんな歩みをしたいと思いました。

楽しい信仰生活を送りたいと思いました。
それも御言葉を中心とした楽しさ。

それをもっともっと味わっていきたいと思います。

主よ、
御言葉による喜びを、
それを知る喜びを、語られる喜びをもっともっと教えてください。
経験させてください。
そして、私の唇に、あなたの対する賛美を与えて下さい。
もっともっと賛美させて下さい。

都の中央を流れる川

去年の7月9日から一日一章ずつ読み始めた新約聖書。
3月24日に読み終わりました。
もう日付が変わってしまいましたが・・・。

一日一章ずつ、というのは私の今までのスピードに比べるととても遅いのですが、
それもほんとうに必要な時だったと思います。

聖書は「神様からのラブレター」だと言われます。
ラブレターはもらったら、何度も何度も読み返しますよね。
繰り返し繰り返し、ニタニタうっとりしながら・・・。

でも、聖書を読む時には時々「義務」になっていないかと。

クリスチャンの一人ひとりが悩んだり、苦しんだりするポイントかもしれませんが、

「義務感で読むのはおかしい」
「読みたいと思うまで待っていていいものではない」

この二つの思いの間を行ったり来たりするのです。

でも、御言葉を味わう喜び、
いや、それ以上に、「御言葉によって取り扱われる幸い」を経験すると、
もっと語って欲しい、もっと取り扱いを受けたい、と思うものです。

今回の新約聖書の通読、
私にとってはそんな原点に帰るような経験でした。

そして、昨日24日に読んだのはヨハネの黙示録24章でした。
その中で心に留ったのは、
1-2節。

「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」

時々、無性にどこか静かなところに行きたくなる時があります。
自然の中に飛び込んでゆっくり過ごしたくなる時があります。
自分にはそれが必要なんじゃないかと思う時もあります。

でも、今日、この聖書の箇所を読んで祈っているなかで、
「いのちの川は都の大通りの中央を流れていた」という言葉を読んで、
そうじゃない。主が私にいのちの水を与えて下さるのは、
決して自然の中に入っていった時とか、バケーションでゆっくりしている時とかではなくて、
この今生かされているこの場所なのだ、ということを感じました。

私は東京の下町で育ちました。
都会の川はどす黒く、悪臭を放ち、
田舎の川が澄んでいて、たくさんの魚が生きている、そういうものだと思っていました。

それを天国の川にも当てはめて考えている自分に気づきました。
天国の標準で言うならば、水晶のように光るいのちの川が、
都のど真ん中に流れている。

いま、生かされているこの場所でいのちの水の満たしを与える、と主が語ってくださったように感じました。ここで主が満たして下さるならば、大丈夫、と思いました。元気が湧いてきました。

また、日曜日、主が用いて下さることを期待します。
待ち望みます。

主よ、
あなたは今、ここにいる私を満たすことのできる方であること、
どこか静かなところに行って、祈らなければ、満たされない、
そんなお方ではなくて、
ここにいる、今を生きている私をも、満たすことのできる方であることを、知りました。
感謝します。
ここに生きる者、今を生きる者としてください。