2009-11-07

バリ霜。

いやあ、今朝は家を出ようとしたら、
フロントガラスがバリバリに凍っていました。


初霜なんてもんじゃない。
って、別に初霜がバリバリでも何の不思議もないんですが。


ほんと、ガリガリに凍っていました。
で、今、最低気温を確認したら、
なんと-2.3度。
東京だったら、何年かに一回の冷え込みですよね。


今夜はそこまでは冷えないようです。


そして、明日は暖かくなるそうです。


昨日から読んでいる「舟から出て、水の上を歩いて・・・」から。


「私が成長する限り、恐れは決して、消え去らない」


成長するためには、恐れを感じないではいられないようなところに、
あえて、足を踏み出していくことが大切なんだということだと思う。
恐れなんてなくなるのでは・・・と思っていた。
でも、恐れは成長している限り、成長をする歩みをしている限り、
決して消え去らない・・・と。
そうなのか。では、恐れないで、恐れを感じるようなところに踏みだしていこう。


さて、11月3日(火)の聖書。
ヤコブ1:19-27


「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」22節。

御言葉を実行する。
それはある意味、その御言葉に一日支配されることだ。
ずっと支配されることだ。

丁度鏡を見て、そこを離れたら、自分の顔を忘れてしまう人のように、
「あれ、今朝はどんなことを思わされたんだっけ?」
という風になってしまうのではなくて、
その御言葉が一日中自分の心を支配しているような状態。

そのように生かして頂きたいと思います。
今日も、そのように歩ませて頂きたい、
明日もそのように歩ませて頂きたい。
そして月曜日も・・・。

主よ、
御言葉を実行する者とならせてください。
あなたの御言葉に一日中支配されているような、
そのような歩みをさせてください。
あなたの愛が、今夜も、明日も、明日の夜も、
そして、月曜日も、支配し続けますように。

2009-11-06

絶対マイ初霜宣言。

自分でも何をこだわっているのかと思いますが、
今朝もマイ初霜はありませんでした。
朝は2.8度。
ちょっと風もあったので霜もおりませんでした。


霜は風があると降りません。
だから、お茶の産地など、春に遅霜が心配される時には、
巨大扇風機を回して風を送り、霜が降りないようにします。


どうしてか?どうして風が吹くと霜が降りないのか?
今朝みたいな温度だと、風が吹いていないと、地表の熱はどんどん奪われ、
地表あたりの温度だけぐっと下がるので、氷点下になるので霜が降りる。


では、真冬のように空気全体が氷点下の時はどうか?


やっぱり風があると霜はできにくい。
空気中の水蒸気が急激に冷やされて昇華して、氷の結晶を作るのが霜だから、
風があるとそれがなかなかできないんですよね。


そこら辺のメカニズムはちょっとわからなくなっていくので、
余りいい加減なことは書かないようにしておきますが、
とにかく、「風があると霜は降りにくい」です。


で、今夜は冷えて、風も弱まりますから、
明日の朝は、絶対マイ初霜です。


今は10時前ですが、既に1.3度まで下がっています。
もう、明日の朝はマイ初霜に加えて、マイ初氷も確実な勢いです!


昼間は晴れますが、気温は低いでしょう。


でも、日曜日からは暖かくなるみたいですよ。


日本での携帯電話の請求書、
今日インターネットで確認出来ました。
やはりデータ通信は「日割り」なんですね。
ですから、請求金額も半分くらいならば、
それに含まれるデータ通信の許容量も半分くらい。
結局50MBの契約を半月したことになるので、
27MBしか使っていないのに、ちょっとオーバーで、
15ドルくらい超過料金を払うことになりました。


そして、電話は、アメリカにかけるのも、
日本にかけるのも国際電話料金はかからないみたいです。
ただ、ローミング料金は1分$1.69かかるので、
ちりも積もれば・・・で、けっこうな金額になりました。


テキストだとローミングだと1本50セントで、一見そっちの方が安く感じますが、
これも、1会話で4回のやりとり、それがたとえば「OK」だけでも、
1回50セントで、全部で2ドルだとすると、それも決して得ではありませんからね。


さて、11月2日(月)の聖書。
月曜日はヤコブ1:12-18。


「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」12節。

またまた「忍耐」なんですよね。
本当に大切なことだと思う。

そして、本当に自分にとって必要なことだと思う。

堅く立っていく。
主が与えてくださっている試練の中で、
堅く立っていく。

我慢をするのではなくて、
下を向いてじっとしているのではなくて、
主を信頼して忍耐をしていく。

これは強いことなんだ、
これは勇気がいることなんだ、
そう思う。
でも、それと共に、とても楽なことなんだ、
とても、自由なことなんだ、
それも思う。

忍耐が自分の品性の一つになるほどまでに、
そこにこだわっていきたい。

主よ、
あなたのことを信頼します。
信頼して忍耐します。
どうか、あなたの守りの中で生かしてください。

2009-11-05

ここに導かれて。

今日は寒くなりました。
特に夕方ちょっと雨が降って、
その後ぐっと冷えています。
今、10時半で5度。
どんどん下がっているので、
明日の朝こそ、My初霜になりそうです。


明日は晴れますが、寒い一日でしょう。
土曜日も冷えて、暖かくなるのは日曜日。
これから暖かくなったり、冷え込んだりを繰り返して、
今月末には雪が降るようになると思います。
今年の冬は、ズバリ、寒い冬だと思います。


覚悟しておきましょう。


さて、今日は我が家での家庭集会の日。
聖書を読む前に、皆さんがアメリカに来ることになった時のこと、
そして、実際に来てからの歩み、
少しずつ伺いました。


今日の参加者の皆さんは割合、来たかった方々が多かったみたいで、
皆さん積極的な発言が多かったのですが、
私自身も来ることにはためらいもありましたが、
ここにいること、特にこのNJにいることの中に、
神様の特別なお計らいを感じます。


でも、今日は余り出てこなかった、
痛みの部分、「こんなはずじゃなかった」という部分も、
誰にでも必ずあるはず。
でも、それも、すべて主の御手の中で、
「神の御業があらわれるため」だということが、
見えてくるんだ、それがわたしたちの癒しだし、救いだと思います。


私も集会のために聖書を読んで準備しながら、
心にあるこだわりがまた少し溶かされていくのを感じました。


さて、11月1日(日)の聖書。
ヤコブの手紙1:1-11。


「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」2-3節。

信仰が試されると忍耐を生じる。
忍耐が問われる場面がいろいろあると思わされます。

ヘブル人への手紙の10章にも、「あなた方に必要なのは忍耐だ」と言われています。

自分にもどれほど忍耐が必要だろうかと思います。
そのために主は試練に会わせてくださるのだと思います。
そしてもっと祈るようにと招いておられるのだと思います。

私のような人間はものごとがうまく進むと祈らなくなってしまうでしょう。
そして、祈らなくてもものごとが進んでいくように勘違いしてしまうでしょう。
背後にどれほどの祈りが積まれているのかも、気がつかないで・・・。

ですから、試練はやはり必要だし、ありがたいものだと思います。

もちろん、もっと厳しい試練がやってきた時に、
「ありがたいものだ」と言い続けることができるかどうかは、
また別ですが・・・。

「この上もない喜び」とまではなかなか行かなくても、
やはり試練は必要なんだと思います。

それが「この上もない喜び」になりますように。

主よ、
私が試練に出会う時に、
それを「この上もない喜び」と思うことができますように。
あなたが与えてくださるすべてのものを感謝して受け取ることができますように。
もっと厳しい試練がやってきた時にも、同じように、
「感謝します」と言うことができますように。






自立。

元気なので、もう一つ。
先日紹介した「Ministry」第3号から。


記事の中で懐かしい名前を見つけました。
太田和功一さん。
大学の時に、大学を超えたクリスチャンの集まりで
お世話になりました。
個人的にもいろいろお話をするチャンスをもらいました。


今は特に牧師のためにサポートをする働きをされているんですね。
太田和さんのような方がそのような働きをされているのは心強いです。
このような働きの深さを思うと、日本はいいなあと思います。
アメリカはもちろん、もっと進んでいるのでしょうが、
日本語でそのようなケアをしてもらえる場はまずありません。
書きながら、そのようなことの必要を感じている自分が立ち上がることが必要なのか、と思わされています。


とにかく、記事で紹介されている氏の言葉。


「寄りかかる甘えの『依存』ではなく、誰にも頼らない『独立』でもなく、それぞれが自分の責任を負うという意味での『自立』を互いに支え合う、相互依存の関係。」


教会は「キリストのからだ」。


今まで、「自分と神様のとの関係」という言葉のもとに、
信仰があまりに個人主義的になっていたのではないかと思います。
もっともっと心を開いて、支え合う関係が必要なんですよね。
それも、土足で人の心に上がり込むようなのではなくて、
互いの自立を尊重しながらの、信頼関係の中の自己開示の関係。
信頼関係の中で、心の中に「お茶でもどうぞ」と相手を迎える。
そんな関係の深みへと導いて頂きたいです。


さて、10月31日(土)の聖書。
ユダの手紙17-25節。


「 疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。」22-23節。

ある人々を「火の中から救い」
ある人々を「下着さえ忌み嫌う」
でも、どうやってそれを見極めるのでしょうか?

むずかしい・・・。

どちらをしても「これでよかったのだろうか?」と思うのではないだろうか?

ただただ、祈らされました。
見極める目を与えてくださいと。

事なかれ主義に陥ってしまうことがないようにと。

いずれに対しても「憐れみ」という言葉が出てきます。
いつもいつも愛を与えてくださいと。

主よ、
どうか、私に人を見る目を与えてください。
霊を見分ける賜物を与えてください。
そして、愛を持って、憐れみを持って、
人に接することができますように。
事なかれ主義や、逃げの姿勢に入ってしまうことがありませんように。
愛を持って真実を語ることができますように。


やったね!

日付は変わってしまいましたが、
Yankees勝ちましたね!
マツイは今日の活躍で、MVP。
ワールドシリーズの通算打率が6割以上ですから、
すごいですね。
特に昨日までの3試合は代打でしか出番がなくて、
でも、出たらきっちり仕事をする・・・。
たまたま調子がよい時と重なった、
という意地悪な言い方もあるかと思いますが、
でも、自分の役割をしっかりと知っていることの素晴らしさを感じました。


9年前を経験している何人かの選手達も、
初めて経験するたくさんの選手達もみんな嬉しそうでした。


さて、10月30日(金)の聖書。
ユダの手紙1-16でした。


「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」2節。

戦うこと。
主の与えてくださった信仰のために戦うこと、
その大切さを思います。

いい顔をしたくなったり、
波風が立つのを恐れたり、
そんなことがどれだけあるかと思います。

でも、戦うべき時に戦う。
大胆に戦う。
はっきりとした態度で戦う。
真剣に戦う。

戦う男達の真剣さを今日も見ましたが、
信仰の戦いを戦う自分たちはもっともっと真剣でなければと思います。

パウロが言ったように、
競技に出る者たちが勝つためにすべてを犠牲にするように、
いや、それ以上に、わたしたちは真剣に戦うのです。

そして、この間の礼拝で話したように、
祈りの中で力を頂いて戦う。

そう、この戦いは自分の力で勝てるようなものではない。
厳しい戦いだからこそ、
主の力を頂いて、戦う。

主よ、
戦わせてください。
そして、勝利を与えてください。
あなたによる勝利を経験させてください。
恐れを取り除き、真剣な愛を与えてください。

2009-11-04

棲んでた。

今日はマツイデーですね。
ここまで3打席で6打点。
明日の家庭集会のためにタマネギ炒めながら、しびれてました。

さて、今朝のMy初霜予告は見事に外れました。
最低気温は2.8度。霜を見ることはできませんでした。


でも、今朝は、朝が1時間遅くなって初めてスカッと晴れたので、
朝6時がここまで明るくなっていると初めて知りました。
薄暮って言うんでしょうか?
ん?「暮」っていうのは夕方?
・・・調べる・・・ですね。


では朝の薄明るくなってくるのは・・・
薄明?・・・あった。
でも、これは日没後にも使うんですね。
黎明?・・・これかな?


6時45分に教会を出る時にはすっかり朝になっています。


今夜はこれから少し雨が降るようですが・・・
どうなるでしょうか?


さて、昨日屋根裏で探した生物ですが、
やはり、リスでした。
今日、また「ガサゴソ」と音がしたので、
すかさず屋根裏に上って懐中電灯で照らしたら、
しっぽが見えました。
昨日、窓から中をのぞいていたリスかどうかは、
しっぽだけではわかりませんが、
昨日の表情からするときっとそうです。


メインの入り口の他にもう一つ、ここがあやしい・・・というところがあるので、
明日、外に出たのところを見計らって、そこもふさいでしまうことにします。


さて、10月29日(木)の聖書。
ピレモン17-25。


「私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。」21節。

「従順」ですね。
これは私もものすごい試されることです。
自分は大人になってから、「従順」に生きたことがあっただろうか、
それを具体的に実行したことがあっただろうかと、
思わされます。

神様に対して、また上の秩序に対して・・・。

神様に対する従順も難しい課題ですが、
人に対する従順は更に難しい課題です。

心から従うこと、
喜んで従うこと、
それを経験すると共に、
その時に与えられる恵みを経験したいです。

主よ、
私のために準備してある従順の訓練に、
正面からぶつかっていくことができますように。
あなたに従い、また権威に従う者でありますように。

2009-11-03

かきごおりのおっちゃん。

今、夜の10時ですが、よく晴れています。
月が冷たい空で凛としています。


外の気温は8.6度。
まだまだ高めですが、この2時間で2度下がりました。
明日の朝は霜の降りる寒さです。


日本で手に入れた雑誌に、
「Ministry」というのがあります。
今年の初め頃に創刊された、
教会のミニストリーのための雑誌です。
キリスト新聞社からだされている、
新鮮な切り口からのこれからの教会を考える記事が多く掲載されています。


ネット上、あちらこちらで話題になっていたので、
是非、創刊号から読んでみたいと思いました。
夫婦ではまっています。


季刊なので、最新号は第3号。
ここには、我らがコバ先生も大きく取り上げられています。
特集は「牧師館からのSOS」。
決して新しい話ではないですが、
燃え尽きてしまう牧師の問題を主に取り扱っているみたいです。
そんな中で、ミーハーな私が最初に読みたいと思ったのが、
売れっ子の精神科医・香山リカさんが編集長と対談している文章。


最近知ったのですが、この方、高校の先輩だったみたいで、
いえ、全く接点はないのですが、
ただ、それだけで、親しみを感じてしまいます。
クリスチャンではないのですが、子供の頃、教会学校に行っていたり、
今でも友人に誘われて、礼拝に出席したり。
そんな立場からの発言、おもしろかったり、つっこみたかったり・・・。


その中の言葉。
「町を歩いている時も、『先生』よりも、『おっちゃん』の方が楽じゃないですか、牧師ではない匿名の人として扱われることって、ある種の解放感を伴うと思うのですが・・・。」


はい、必ずしも「匿名」でなくてもいいのですが、というか、名前はいつも持っていたいのですが、「おっちゃん」になるのは好きです。


最近は余り言われないのですが、
子供が小さい頃は近所の子供たちに、
「ハジんちのおっちゃん」と呼ばれたこともありました。
それがとてもすわりがよくて、気に入っていました。


これからももっともっと「かきごおりのおっちゃん」になっていきたいと思います。


さて、今日2回目の更新。
10月28日(水)の聖書。


久しぶりの新約聖書で、ピレモンへの手紙1-16。


「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。」15節。

神様はそういうこともなさる。
この「彼」つまりオネシモの行為は、
決して正当化されるものではない。

どんなにピレモンを傷つけ、苦しめ、怒らせたことだろうか。
その事実は決して変わらない。

でも、神様はその痛みの中で、
オネシモを悔い改めに導き、
それまでの「主人ー奴隷」という関係よりも、
もっともっと深い「主にある兄弟」という関係へと導かれようとしている。

引き離されることは痛い。
でも、それを通して、もっとよい意味で、
もっと長く、彼と共に歩むことができるようにしてくださった。

神様を信頼したくなる。
主を信頼して、じたばたしなくてよくなる。
主を信頼して、安心して歩める。
この聖書箇所が与えてくれた平安は大きい。

主よ、
あなたの御手の中にあっては、
悪も善に変えられます。
あなたにはそれがおできになるから、
安心して、あなたにゆだねます。
あなたが素晴らしいことをしてくださいますように。

何が棲みついているのか。

今朝は寒かったです。
最低気温は測っていませんが、
3度くらいだったでしょうか?


そして、昼間はまあまあ暖かかったのですが、
午後から風も出てきて、冷えてきました。
今夜は霜が降りると思います。
もうホントの初霜かどうかはわかりませんが、
My初霜になりそうです。


しばらく前から課題になっていたのですが、
家の屋根裏には何かが棲んでいます。
がさごそがさごそ音がします。
どうやら生き物みたいです。


で、今日、屋根裏に上りました。
昼間、たぶん外に出ていたので、もぬけの殻でした。


そして、屋根裏の壁に動物の入れそうな穴を発見。
周りには動物の毛が落ちているし、
周りを壊したような跡もあるし、
怪しい。
それで、とりあえずパテで穴を埋めて様子を見ることに・・・。


その後、ガサゴソ言わなくなってので、
どうやら作戦は成功だったようだ。
その後、鍵のかかったデッキの窓には、恨めしそうに家の中をのぞくリスの姿が。


・・・きっと犯人はコイツだと思う。


網戸に手を掛けたまま、こっちを見ています。
目が訴えているんですよね。
「僕の入り口、なくなちゃったんだよね・・・ここから入っちゃダメ?」って。
思わず、「いいよ、入りなよ」と言いたくなってしまいました。


でも、ここはぐっと心を鬼にして、
「君は新しい道を自分で切り開いて行かなきゃダメだよ」と
励まして送り出してあげました。


これでよかったんですよね・・・。きっと。


でも、ここら辺はもう、住宅地なんですが、
いろんな動物がいます。
前の牧師館には、
アライグマが棲みつきました。
ここでも、オポッサムやスカンクがわなにかかったことがあります。
野菜を荒らすグランドホッグは何匹捕まえたことか・・・。


鹿は何度か見ましたし、
熊が迷い込んできてニュースになったこともあります。


元々彼らの棲んでいたところに、
わたしたちが間借りしているんですよね。
謙虚でありたいと思います。


さて、10月27日(火)の聖書。
エレミヤ25:30-38。


「聞け。牧者たちの叫び、群れのあるじたちの泣き声を。」36節。

聖書全体から見ると、
やはりこの聖書の箇所は、
「イエスがおられなかったら、当然私にも与えられる裁き」を語っている。
本来、自分はこのように裁かれてもおかしくなかった。

こういう聖書箇所を読むとつらくなります。
どうして、こんなことが・・・と。
でも、本当はわたしたちはこの裁きを受けても何の文句も言えなかったはず。
いつの間にか、自分がこんな目に遭うはずがないと、
そこまで悪くないと、勝手に思い込んでいるのかもしれません。

いつの間にか、イエスを十字架から引き下ろし、
自分が神に認められる者だと、傲慢になっているのかもしれません。

主の憐れみをもう一度覚えたいと思います。

主よ、
あなたの憐れみによって生かされていることを、
もう一度教えてくださってありがとうございます。
あなたの恵みの中に生きる者でありますように。
恵みに感謝して生きる者でありますように。

2009-11-02

ここにも目を留められる主。

今日は休みの日だから、ちょっとは追いつけるかと思いましたが、
なんだかんだで、結局1日分。


今朝も、雲があったせいか、それほど冷え込まず、
7度くらいでした。
今夜は今10時半ですが、6.2度。
たぶん、明日の朝は今朝よりは冷えると思います。


そして、明日は曇りがちですが、
夜には晴れて冷え込んでくるようです。


書いている最中に、
ハジから電話。
「マフラー送って」だって。
アトランタがもっと暖かいと思っていたらしい。
あんなに言ったのに・・・。


そして、12月の帰省の相談。
あと1ヶ月半。もう半分以上来たんですね。
飛行機の予定を見ていたのですが、
どうしても「ニューアーク発」を探してしまいます。(笑)
素直に楽しみにしています。


さて、今日はすぐに聖書。
先週の月曜日、10月26日は、
エレミヤ25:15-29でした。


「主が私を遣わされたすべての国々・・・」17節。

この聖書の言葉は「すべての国々へのさばき」。
神様が全世界を治める主であることを覚えます。

私も主の支配の下に置かれていること、
今も、主は私にも目を留めておかれていることを、
畏れと共に喜びをもって、受け取らされます。

この大きな世界の中で、
この大きな宇宙の中で、私にも目を留めておられること、
本当に感謝します。

でも、襟を正させられるような気持ちもあります。
主の前に真実に歩むことができますように。

主よ、
あなたが私にも目を留めていてくださることに、
心から感謝します。
あなたがいてくださるから、
あなたが気にしていてくださるからありがとうございます。
私もあなたを忘れることがないように、守ってください。

2009-11-01

その1時間を・・・

今朝はそれほど冷え込みませんでしたが、
夕方からはだんだん寒くなってきました。
今は夜の10時ですが、6.6度まで下がっています。


明日からはだんだん晩秋らしい雰囲気になってくるでしょう。
今日からは夕方が暗いですからね。


昨日、更新をした後、「さあ休もう」と思ったのですが、
それと同時に「今夜は1時間長いんだよねえ」と思いながら、ベッドに入りました。


でも、正直なところ、
日曜日のメッセージのために何だか祈り足りないような気持ちがしていました。
それも、メッセージの結論は「イエスは祈りによって支えられていたのだ」という話。
その時、「その1時間を私と共に過ごさないか?」「その1時間を私にくれ」と神様に招かれたような気持ちがしました。
ちょうど、昨日の午前中、弟子訓練で兄弟達と「祈り」について語り合っていました。
その中で、「祈りは神の御手を動かすか?」という問いがありました。
私の答えは、「動かす」。
そのことを思い出しながら、
もしも、そのように信じているのなら、どうしてもっと祈らない?
もしも、私が祈ることによって、礼拝がもっと祝福されるなら、
礼拝で一人一人が更に豊かに取り扱われるならば、
祈りのリバイバルが起こるならば、
どうして、もっともっと主に求めない?と迫られたのです。


そして、悔い改めて、しばし、祈りの時を持ちました。
礼拝の祝福を祈りながら、
一人一人が礼拝に導かれることを祈りながら。


幸いな、楽しい、エキサイティングな一時でした。


さて、10月25日(日)の聖書。
エレミヤ25:1-14。


「わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて・・・」9節。

バビロンの王も神の僕。
神を信じる者ではないと思うのですが、
それでも、本人は気がついていないとしても、
神の支配の中にある。

すべてのことが神の支配の中にあることを、
もう一度思い出させられました。

そうなんだなあと、
主の御手の中にあるんだなあと。
だから、信頼して歩んでいこうと思います。
主のなさる最善のことを信頼して歩んでいこうと思います。

この一週間も神様が素晴らしいことをしてくださる、
主が素晴らしいことを与えてくださる、
それを信頼して、進んでいこうと思いました。

神様、
あなたのなさる、素晴らしいことを信頼して歩んでいきます。
すべてがあなたのみ許しなしにはあり得ないことを、
あなたの御手の中にあることを信頼します。
不安や恐れに支配されることがありませんように。