2017-01-24

「わが神、わが神、どうして」

先日、「沈黙」について感じたことを分かち合ってから、いろんなことを思わされてきた。一番感じているのは、「わたしはあのヨブの友人たちのようなこと言っていないか」ということ。ヨブは旧約聖書の中に出てくる、正しい人でありながら、苦しみの中を通る人です。彼は最初は「神が与え、神が取られるのだ、神は素晴らしい方だ!」と賛美をしているのですが、悲しみ、痛みの中で、「わたしは何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのだろう」という思いが溢れてきます。その中で、友人たちは最初は黙って、彼に寄り添おうとするのですが、彼の余りの言葉に、因果応報の考えにとらわれていた友人たちは「神は何も悪くない、あなたがなにか悪いことをしたのじゃないか?」とヨブを責め始めるのです。

今痛みや悲しみの中にいて「どうして神は沈黙をしているのか?」と叫ばないでいられない人々に対して、わたしの書いたようなことはやかましい建前論になってしまっているのではないか。ヨブの友人たちのような間違ったことは言っていなかったとしても、単なる知的な議論が人を救えないことは何度も経験してきている。


そんな中で、私達の教会のウェブページに出てくる「証し」の一つをもう一度読む機会があった。


「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」という言葉。イエスはこの言葉を十字架の上で叫ばれた。新約聖書の中の福音書にはイエスは自分が十字架にかけられ、その後、三日目に復活することを知っていて、預言している言葉がある。イエスは自分の使命を知っていた。十字架で苦しむけれども、三日目によみがえることも知っていた。でも、それでも、イエスは「わが神、わが神、どうして・・・」と祈られたのだ。復活があるからOKではなく、「大丈夫、復活するんだから」というのでもなく、復活があっても、「どうして・・・」と叫ばれたのだ。

私たちもそのように叫ばないではいられないことがある。復活がある。神の勝利がある。それを信じている。それでも、私たちの歩みの中には「どうして・・・」と叫ばないで入られないことがある。つぶやかないで入られないことがある。それを人は不信仰というかも知れない。しかし、イエスはそれをわかってくださるのだ。共に行ってくださるのだ。いや、先に行ってくださっていたのだ。そのイエスと共に歩むのが、私たちの人生なのではないか、今日はそんなことを思わされている。