2012-08-01

いろいろあったんで。

昨日の続きで、今日は「前線型」雷雨の話のはずでしたが、もう今日は休みます。


一昨日、ウチの車が動かなくなって、昨日はそれをtowingして、ディーラーで見てもらって、今朝、点検の結果が出てきました。


直すのにはものすごいお金がかかるという話だったので、その同じディーラーで頭金なしのリースをすることにしました。


少なくとも3年間は修理の心配をしなくていいし、メンテナンス込みの契約。とてもいいディールだったので、今日もう乗って帰ってきました。結局今まで乗っていた中古よりも割安だと思います。towingにはお金がかかったし、今までの車の価値も当然ゼロ査定だったけれども、今までの車の悪いところを点検するための120ドルも免除になり、その車もそのまま引き取ってもらえて、何よりも神様がこの車をくださった(リースだから実は自分のものじゃないけど)んだ、という平安があるので、感謝です。


明日の平安を祈りつつ。



2012-07-31

雷雨の起こり方2つ。

昨日、今日と、それほど暑くならない、でも、決してさわやかではなく、すかっと晴れるわけでもなく、どんよりでもなく、雨も降らない、という、なんて言ったらいいんでしょうか、ちょっと半端な天気。

明日は雷雨になりそうです。


この写真は先週の木曜日の雷雨の前の不気味な雲ですが(この日は、友人である近くの教会のK牧師ご一家が日本からの帰国の途中、16時間空港で待たされたそうな・・・おつかれさまです)、明日はここまではいかないと思いますが、激しい雷雨があると思います。

で、その夏の雷雨のメカニズムなんですが、
大きく分けて、「前線型」と「夕立型」の2種類があります。

明日は「前線型」ですね、きっと。

これはどっちにも共通なんですが、雲が発達したり、雨が降ったりするのは、「上昇気流」と関係があります。「上昇気流」というのはなんだか景気が良さそうで、空高くのぼって行く、って感じで、天気がよくなるような気がするかもしれませんが、それが正反対で、「上昇気流」は悪天候の原因の一つです。

なんでかというと、高度が高くなると、空気は薄くなっていきます。気圧が下がるんです。そうなるとどうなるかと言うと、空気は膨張します。「富士山 ポテトチップス」で画像検索をかけると、パンパンに膨らんだポテチの袋の写真がたくさん出てきますが、それは、富士山の気圧は地上の2/3なので、ポテチの中に入っていた空気が膨張したからです。

空気は熱を加えると膨張しますが、もしも熱を加えないのに気圧が下がるが故に膨張するとすると、気温は下がります。「断熱膨張」というのですが、(・・・ここら辺で「もうわからない・・・」となる方が起こりそうな気がするのですが・・・)、空気は温度が下がると、その中に水蒸気として含むことができる水分の量が少なくなってしまうのです。その時に、空気の中に含みきれなかった水蒸気はどうなるかと言うと、水の粒になります。その水の粒が白く見えるのが「雲」です。

ですから、「上昇気流」で空気が上に上がっていく→断熱膨張→気温が下がる→水蒸気が水滴になる→そこに雲ができる、というわけです。

その「上昇気流」の起こる理由の違いが「前線型」と「夕立型」の違いです。

いい天気で気温が上がったけれども、同時に上空に冷たい空気が入ってきている時には、特に「夕立」が起こりやすいです。上空の冷たい空気は重いので下に降りようとします。そして、地表の熱い空気は、どんどん上に上がろうとします。それで、激しい上昇気流が起こります。そうすると、そこに雷雲が発達して、雷雨が降るのです。上空の気温が低いことや上昇気流が強いことがポイントですから、雹(ひょう)も降りやすいです。


そこらへんの事情は、3年前にも「どうして夏にヒョウが降るわけ?」というテーマでも書きました。
興味のある方はこちらもどうぞ!(いるかな?)


「日中の日差しで地面が暖められることが理由」ですから、これはまず昼過ぎから、日没直後までの間に起こります。ですから、これは「夕立」なのです。

で、もう1つの「前線型」ですが、これは朝でも夜でも、いつでも起こります。これについては、明日「前線型」で雷雨となるので、また明日。

(追記:結局、1週間後になりました。
こちらから。
http://njotenki.blogspot.com/2012/08/blog-post_7.html

さて、「日々のみことば」から。
今日は第一コリント15章20-34節を読みました。

「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」28節。

これを読んでいると、従うことが喜びとなる、という感じがしてきた。
わたしたちにとって、イエスに従うこと、神に従うことって、難行苦行じゃなくて、喜びなんですよね。

この世界の向かっているところは、すべてが神に従うところ。

そして、それは究極的な平和、究極的な調和、究極的な喜び。

私の小さな人生、私のちっぽけな毎日の中で、イエスを王として歩むことができますように。イエスに従う歩みができますように。

主よ、
今日もあなたを王として歩ませてください。
私を支配しようとする他のものすべてから私を守ってください。
あなたに従う喜びをもっともっと経験させてください。

2012-07-29

幼子のように。

昨日も、今日も夕方土砂降りの雨。
今日は教会にいたので大丈夫でしたが、昨日は水たまりで悪名高きNYのHarlem River DriveからFDRに向かって走っていたので、何度か深い水たまりにハラハラしながら走りました。

明日は雨は降らないようですが、湿度の高めの、蒸し暑い日になりそうです。

一昨日の金曜日ですが、6月に80歳になられた方をのんちと訪問してきました。
2週間ほど前にご訪問した時に、「楽しいことをしましょう」ということになり、時間を作って、ご訪問してきました。
本当にうれしそうに話をしておられる姿に、教会が神を父とした一つの家族であり、一緒に歩んで行くんだなあ、ということを強く思わされました。

そして、何よりも幼子のように喜びを表してくださるその姿が本当にうれしかったです。

昨日は、土曜日だったのですが、カルフォルニアでコンサートに行かれた方がとってもよかった、という話だったので、リンカーンセンターでのフジコ・ヘミングさんのピアノコンサートに家族で行こうか、ということになりました。下の娘がピアノを習っているのですが、音符を追うだけで満足しているようなので、その壁の向こうに行こうという気が起こるようにという願いもあり、goldstar.comというサイトで、40ドルのチケットが10ドルで手に入るというメールも来ていたこともあり、思い切って行くことにしました。

そのカルフォルニアの方の感想が「私も久しぶりにピアノを弾きたくなった」というのが心に響きましたね。何でもそうですが、心がワクワクするようなそういうのがうれしいです。礼拝でも、私の願いは、礼拝の終わった時に「もっと祈りたくなった」「もっと聖書を読みたくなった」という気持ちになる方が起こされるのが喜びです。

で、行ってみたら中規模のホールに満席の人。そして、10ドルはお得でしょう(手数料込みでも16.50ドル)、といういい席で、2時間たっぷり楽しませていただきました。

私自身はやはりよく知っているということでムソルグスキーの「展覧会の絵」がよかったです。ラヴェル編曲のオケ版があまりにも有名になっているので、そのイメージが強いのですが、元々ピアノ用に書かれた曲。楽しそうに弾いておられました。

実はその曲、大学時代のコンサートバンドでやろうということになりました。私のイメージの中では、ラヴェル編曲のオケ版を土台にして、それをブラス版にしたものがいい、ということがあったのですが、プロの音楽家である指揮者の方がそれを拒否。指揮者をやめるかもしれない、というところまで行きました。何とか引き止めて、続けていただいたのですが、この曲をやる条件は、ラヴェル版を土台としない、原曲を土台としたアンサンブルに新しく挑戦する、ということでした。

出来上がったのは今までと全然イメージの違うアンサンブルで、ラヴェル版に慣れ親しんだクラッシックファンには「何これ?」だったのでは?とずっと思っていました。

それはもう、30年も前の話ですが、今回、初めて原曲のピアノ版で全体を聴いて、その方の言うことがわかったような気がしました。

元々はこれだったんだな、と。

最後はリストを3曲。「これを一番やりたかったんだろうな」ということがわかるくらい、情熱的な演奏でした。最後の「ラ・カンパネラ」は下の娘も知っている曲だったので、「ながいー」という感じで聴いていた娘も、このときばかりは食い入るように身を乗り出して聴いていました。

この方も80歳。これがまた幼子のようで。本当に喜びでピアノを弾いておられる。

金、土とお会いしたガールズの姿に「幼子のようにならなければ、神の国にはいることはできない」と言われたイエスの言葉を思い出させられていました。

人は子供から大人になって、また幼子を取り戻すんだな、と思わされます。

ちなみに、このgoldstar.comというサイト、結構お得情報が手に入り、お世話になっています。


今回は特別にお得でしたが、宮古の先生が来られた時に、ダウンタウンの水上バス観光も、半額くらいで行くことができました。これはその時の西の空、ニュージャージー方面です。

きょうの「日々のみことば」から。
今日は第一コリント15:1-11を読みました。

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」10節。

パウロが今の自分があるのは神の恵みによるのだ、ということ、本当にそうだと思いました。私もそうでした。そして、一人の人がイエスを信じて信仰をもって歩み出すのは、決して、簡単なことではない、本当に神の奇跡なんだということを思わされています。

だから、いろんな知恵を用いた言葉や、説得力とか、そういうものではどうにもならないのだと思います。

神様の奇跡が必要なんだ、神様が触れてくださること、神様の恵みによって、触れていただくこと、それ以外にないんだと思わされます。

だから、本当に祈って、神様の恵みを待ち望みたいと思いました。
それも、また私たちが幼子のようになること。

主が大きなことをしてくださいますように。

主よ、
あなたの恵みを求めます。
私が何をしたからではなくて、ただ、あなたの恵みによって救われたことに感謝します。
どうか、私のまわりにいる人々、私が出会う人々に、あなたの恵みが届きますように。