2007-03-24

マイトロンボーン

今から10年前、留学生でした。
いろんな方々のサポートを頂いていましたが、
一応自費の留学生でした。
カミさんがアルバイトしたり、
日本で数ヶ月働いたりして、
支えてくれました。
私も翻訳をやったり、休み中にはアルバイトをしたりしましたが、
日本で国家資格を持っているカミさんとは比較にはなりません。
お小遣い程度にしかなりません。
苦労をかけました。
(今も、別の意味でかけてますが・・・)

10年前ですから、
16歳の息子はそのころ6歳。
留学生活が始まったのが息子が1歳の時からですから、
5年間、それまではホントいろいろ我慢させたと思います。

こっちも気合い入っていましたから・・・。
1ヶ月の食費が100ドルだったり、
光熱費が20ドルだったり・・・。

カミさんに言わせると、
「1ドル以上のものは買ってあげない」ということだったらしく、
「これ1ドル以上?」「これはダメだよね1ドル以上から・・・」と買い物に行くたびに、「いじらしい」ことを言っていたようです。逆に親はこういうのには弱いんですよね。「買って買って」とぎゃあぎゃあ言って、寝ころんで泣き騒がれるよりも、「ダメだよね、これ高いから・・・」の方が効くんですよね。でも、それでも買ってやらないくらい、こちらも気合いが入っていました。というか、現実問題、無理でした。

で、今でも、何だかいろいろ欲しがりません。
周りの子が楽器とか買ってもらっても、
こちらも「どうする?」って聞くのですが、
欲しがりません。
「我慢なんかするなよー」と言うのですが、
子供の時の経験がもう染みついてしまっているのかもしれません。

そんなことを考えていたら、
自分の子供の頃のことを思い出してしまいました。

中学でブラスバンドに入ってトロンボーンを始めました。
最初はどうでもよかったのですが、
やはり2年生、3年生と進んでいくうちに、
「マイ楽器」を買ってもらう仲間が増えてきました。
ドラムのヤツ、トランペットのヤツ、ホルンのヤツ、
そして、フルートの子、クラリネットの子。
伝統・・・っていうか、歴史が長いというだけなんですが・・・
がある学校だったので、
学校の楽器は古い。
でも、実績はないので、部には新しい楽器を買うお金はない。
学校の楽器は凹んでいたり、さびて、使っていると緑青が手につくような、
そんな楽器でした。

今考えると、そんな楽器でも使い込むといいのかもしれませんが、
そのころはみんなのピカピカの楽器がうらやましくてしかたありませんでした。

カタログを見ては「欲しいなあ」とため息をつく毎日でした。
そして、ある時、親に言いました。
トロンボーンが欲しい、と。
「無理だ」と言われました。
泣きました。
あんまり泣いているので、
部屋に親父がやってきて
「いくらくらいなんだ?」と聞いてくれました。
「一番安いので5万円・・・でも、ボクが欲しいのは10万円」
それを聞いて親父は「バカ!」の一言を残して部屋を出て行ってしまいました。

泣きました。
思いっきり泣きました。

そして、あきらめました。
無理だと思っていました。

でも、数ヶ月後、
親父に「中古の楽器があるけど見てみるか?」と聞かれました。
宣教師の先生に聞いてくれたみたいです。

そして出会ったのがマイトロンボーン1号。
親父が2万5千円で買ってくれたのです。
もう天にも昇るような思いでした。
それを5年くらい使いました。

高校時代、おぼっちゃま、お嬢様方も多かったので、
30万円のホルンやら20万円のチェロ(これは安い方でしょうが・・・)やら持っている仲間がいて、またまた「うらやましい病」が再発してしまいましたが、「まあ、自分の楽器があるからいいや」と我慢しました。

でも、さすがに大学へ行くと、楽器のレベルがちょっとネックになってしまって、
「この楽器じゃなぁ」という感じになってきたので、
子供の頃からためていた貯金と
アルバイトで稼いだお金で23万円のトロンボーンを
渋谷のネロ楽器で新品で買いました。
(今もあるんでしょうか・・・)
あこがれのBachの42BGL(だったかな)、
10本の同じ型番の楽器の中から、よく鳴るヤツを
プロの女性のトロンボーン奏者、宮下宣子さんに選んで頂きました。
宮下さんのファンだったので、とてもうれしかったです。

今、そのマイトロンボーン2号、日本のどこかで、若者が使ってくれているようです。

こうやって振り返りながら、
息子に「無理して我慢するなよ」と思いながら、
でも、自分が何でも好きなものを簡単に手に入れることができなかったことが、
よかったことなんじゃないだろうかと思っています。

神様はどうなんだろうなあ、と思います。
私たちが「あれが欲しい」「これが欲しい」というのを
どういう目で見ておられるのだろうかと思います。

うちの親父と違って、
自分とも違って、
この神様はどこまでもどこまでも豊かな方ですよね。

与えるものが無かったら、
「無理だ」と言うのは簡単だと思います。ほんとうなんだから・・・。

でも、あるのに「今は与えない」と決断されるのはどんな気持ちなんだろうかと思います。
「神様はほんとうにいるんだろうか」
「神様はケチな方だ」
「神様は意地悪だ」
「神が愛だなんて嘘っぱちだ」
「何でも聞いてくれるって言ったくせに・・・」
そんなことを言われるリスクがあるわけですよね。

「 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。」ヘブル12:10

神様は今の私たちのことをどんな気持ちで見ておられるんでしょうか?

2007-03-23

夜がないところ

まずい、最近、「脱力系牧師」でなくなってしまっているかもしれない。
このブログも固くなっているかもしれない。
今日、そんなことを思っていました。

でも、分ったんです。いいんだってこと。レッテルを気にしなくても・・・。

自分であることが大切で、「脱力」してても、「元気」でも、「気合い」入っても、
そんなのは何でもいいんだ。

主の前にホッとできる自分であれば・・・それでいい。

うん。そうだ。(妙に納得)

今日も何だか暖かいような、肌寒いような、
どんよりしたり、ちょっと明るくなったり、雨が降ったり、
スカッとしない天気でした。

そして、朝からずっと12度くらいだった気温は、
夜になってから下がり始めて夜の12時前で7度。
明日の朝には1-2度くらいまで下がるようです。
そして明日も雨。
それだけではなく、明日の夜には「s」wordが出てきています。
雨に雪が混じるだろうと・・・。

そして、再来週あたりはかなり冷え込むだろうと・・・。
春はまだまだでしょうか・・・。

明日、中高生の集まり。
「友情」について話して欲しいというのですが、
いろいろ考えさせられますね。

「間違ったことをしている友人がいたら、どうするか?注意するのが友情か?注意して友情にひびが入ることを恐れるのか?」
「『mixi疲れ』っていうのがあるらしいけど、日記に足跡残してコメント残さないのが許されないことがあって、それで逆に疲れてしまうらしいけど、コメント残さないと友人とは言えないのか?」(ちなみにかきごおり牧師はmixiやっていません。念のため。でも、知っています。mixiの場合は誰が自分のページに来てくれたか、足跡が残るということ・・・)
・・・なんてのを考えていて、中高生達がどんな気持ちで今の時代を生きているのかと思ったりね。

やっぱり中高生の時って友人関係がすべてみたいに感じちゃいますからね・・・。

でも、何でも「義務」になったらしんどいよね。
「コメント残さなきゃいけない」
「自分の日記にコメント残してくれたら、相手の日記にもコメント残さなければいけない」とかだったら、しんどいよね。

最近読んだ本の中に
「不機嫌な人」は、「自分がこうしたら、相手はこう応答して欲しい」と思っていて、
それに対して、相手が自分の期待していたような応答をしてくれない時に、
甘えた怒りを覚えて、不機嫌になる。
小さな子供だと、その要求を言葉にできるからいい。
でも、大人になったら、それができない。だから不機嫌という形で表す。
と書かれていました。
なるほど・・・と納得してしまいました。
自分もそういうときある・・・からね。

ストレートに言えばいいのにね。
「こうして欲しいんだ!」ってね。
でもそれはプライドが許さなかったりする。

相手に義務を課さない。
要望があるなら、それをちゃんと伝える。

「大切なことはみんな幼稚園で習う」ってホントだな、と思いました。

さて、今日の聖書。
今日は黙示録の21章を読みました。
いよいよ、世の終わり、世界の完成の場面です。

25節に「そこには夜がないからである。」とあります。

その言葉が心に留りました。

もう夜はない。見えないところはない。
トンネルの中に入って出口が見えない時もない。
不安で不安で、ほんとうに夜は明けるんだろうか、という日もない。

そして、その新しい世界を照らす光は主ご自身だというのです。

そう、主が今、私たちと共にいて下さるのとはレベルの違う近さで、共にいて下さる。
それだけで楽しみで楽しみでしかたがない。

また「天国へ行きたい病」が始まってしまいそうだ。
「この世の天国」も捨てたものではない。
この世で神様と共に歩んでいく「この世の天国」もすばらしい。

でも、「あの世の天国」はダンチ(死語?)なんだろうな。
もっともっと神様を近く感じられるのだから・・・。

主よ、
天国の約束を感謝します。
あの世の天国で、あなたが世界を照らす光となって下さることに希望を持ちます。
でも、どうか、この世で、その天国のかけらを見つけていくことができますように。
この世にもあの世の天国のforetasteである「この世の天国」があることを感じることができますように。


2007-03-22

この大いなる救い

今日は午後からグッと暖かくなりました。
朝は3度くらいでしたが、
最高気温は19度まで行きました。

残念ながらこの天気も今日限り。
明日はまた12度くらいに戻ってしまうみたいです。
1週間前は雪が降っていたことを考えるとずっといいですが・・・。

ちょっとどんよりした日が続くようです。

今日は春めいた天気になったせいか、
JOYJOYキッズクラブも、いつもよりたくさんの仲間が来てくれて、
なんか、楽しかったです。
やっぱり「暖かい」「明るい」って大切なんだなと思います。

これで花粉症がなければ、春は最高の季節なのですが・・・。

去年の今頃どうだったかな、と思って見てみたら、
去年の3月23日は今日キッズクラブをしたレオニアの教会で
レンギョウの花が満開だったんですね。
今日はまだまだ。
3月15日にはウチの庭のクロッカスが咲いていた・・・と。
4月1日には25度を記録しています。

年によってこんなにも違うんですね。
でもクロッカスも雪の中から顔を出しています。
この週末くらいから咲き始めるでしょうか。

最近、「ホントの自分である」ことの意味を考えさせられています。

「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。」ルカ9:25

「自分自身を失う」ということがある。
他のものを大切にして、
自分の立場を大切にしたり、
物質的な豊かさを求めたり、
表面的な「成功」を求めたりして、
ほんとうの自分を失ってしまうことがあるのだと。

ほんとうの自分は主と共に歩む中にある。

それが聖書の主張だ。

それと共に裸の自分で主の前に立つということ。
肩書きや立場や、そういうものもすべて置いて、
主の前に立つということ。

そのような自分の時を大切にしていこうと思います。
主の許に重荷を下ろして、安らぐ時を。

さて、今日も黙示録を読みました。
いよいよあさってで新約聖書一日一章が終わります。
7月から初めて3月までかかりました。
今日は20章。

「この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。」6節の言葉です。

この言葉の裏には、
第二の死の力の恐ろしさがあります。
本来、私たちは自分たちの罪ゆえに、それを経験するのが
当然の結果でした。
当然のことでした。
この第二の死は永遠の苦しみであり、永遠の孤独です。
永遠に心の中に「憎しみ」「恨み」を持ち続ける世界です。

「地獄で会おう」なんて冗談で言う人がいますが、
あまりに不謹慎です。
「地獄」は「この世の地獄」レベルではありません。
「この世の地獄」だってどうにもならない苦しみであるのに、
ほんとうの地獄はどうだろうかと思います。
「昔の仲間」にそこで会っても、
「やあ、どうしてた、おまえ・・・」なんて懐かしい気持ちが湧いてくるところではないでしょう。
誤解と苦しみ、恨みと、非難・・・。

でも、そこから解放された。

それはイエスの十字架のゆえです。
イエスの十字架のゆえに、私たちは初めてその「第二の死」から救われているのです。
その「第二の死」は全く私たちにとっとは無力なんです。

感謝。

主よ、
あなたの救いの大きさに感謝します。
その救いがあるから、私のうちに平安があるのです。
その救いがあるから、死も恐れることはありません。
「第二の死」は私たちに対して、全く力がないことを、
心から感謝します。
この大きな救い。この救いの大きさを忘れることがありませんように。

2007-03-21

イエスのあかし

今日は朝は冷え込んで-5.5度まで下がりました。
昼間も10度までは行きませんでしたが、でも、穏やかな一日。

今、夜の12時ですが、3.5度。
もうこれ以上下がりません。

そして、明日は暖かな春の日になるでしょう。

どんどん春になって欲しいですが、
今年の春は何だかどんどん暖かくなるというよりも、
いつまでも、暖かくなったと思ったら、
肌寒い日が帰ってくる、という感じになるみたいです。

外れて欲しいものです。

地球温暖化、
つい、この間までは、「そうやって騒いで、経済活動が停滞したらどうするんだ!」
というのがアメリカでの大方の反応でしたが、
だんだん本気で「これはやばいぞ」と思い始めたみたいですね。
白熱電球から蛍光灯にどんどん変わってきています。
省エネ車が結構人気です。
相変わらず大きな車も多いですが・・・。

教会で支援している「日本国際飢餓対策機構」のニュースレターの3月号には、
こんな記事も。
世界中の氷がガンガン溶けているのだと・・・。
子供の頃には「氷河期が来る!」って本が売れてたけどね。
今度は反対に温暖化。
でも、これは根拠がはっきりしている。
単なる気候変動ではなくて、
化石燃料を燃やして来たツケが回っているんですね。

でも、この文明にしっかりと恩恵を受けているわけですから、
「外にいるかのように批判している」だけでは、いけないわけです。

省エネ、ちゃんとしないとな。
車は必要以上に使わない。
電気やガスも節約。

神田先生の「
少々の不自由さを楽しもうではありませんか。」という言葉、
楽しそう!と思いました。そうですね。そのように生きたいと思いました。

今日は黙示録の19章。
続いて悪の力への裁きが下されていきます。

その中で、ヨハネが天使を拝もうとした時に、天使が言った言葉が心に留りました。
「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」10節。

「イエスのあかし」
それは「預言の霊」だといいます。
「預言」とは神からの語りかけを人々に伝えることです。
今日の「説教」もこの一つです。

聖書の言葉を分析して語るのではなくて、
神様からの言葉を読んで、
自分に対する語りかけとして聞いて
それによって、自分が問われて、
自分に御言葉が突きつけられて、
それを人々に語っていく、
そのようなものです。

それが「イエスのあかし」つまり、イエスが私たちと共におられることの証拠であり、
私たちがイエスの弟子であることの証拠です。

そのようにいつもいつも主から聞いていく者でありたいと思います。
主から聞いて、主に語って頂いて、
主に教えられて、整えられて、
力を頂いて、進んでいく者でありたいと思います。

主よ、
どうか私に語ってください。
あなたが教えてください。
あなたの御言葉を与えて下さい。
そして、「預言」として人々に語り続ける者でありますように。
いつもいつもあなたと共に歩ませて下さい。
私の心を守って下さい。
あなたのみこころにしたがって歩むことができますように。

2007-03-20

おごれるものも久しからず

今日は思いの外暖かくなりました。
10度くらいまで温度が上がり、雪解けも進みましたね。
あと少しです。
でも、今夜だけはちょっと冷えます。
今、夜の11時半ですが、ちょうど0度。
天気予報は軒並み-5度以下を予想しています。

明日の夜はNYですが、
まあ、今夜並み。
でも、夜半頃からは冷え込まずに、逆に暖かくなってくるようです。

木曜日からの暖かさが楽しみです。

今日の夜、ある方からお電話。
「今、月食じゃないですか?」との問い合わせでした。
そんなバカな・・・というのが最初の反応。
だって、月食は「満月」と決まっているのに、つい最近、三日月を見たからです。

そう、月食は月の上に地球の影がかぶさるのですから、太陽、地球、月の順番に並んで、月は光っている面をこっちに向けるので、絶対に満月です。逆に、日食は太陽を月が隠してしまうので、太陽、月、地球の順番に並ぶわけですから、月は背中を地球に向けているわけで、必ず新月です。ですから、三日月の時に月食は起きないのです。ちなみにこの前の満月の時にちょうど月食があったんですね。ここら辺は余り条件はよくなくて、話題になりませんでしたが・・・。

次は8月28日。こちらもアメリカ東部では明け方になってしまい、余りいい条件ではないみたいですね。

でも、その方どうして「月食?」と思われたのだろうと思って、外に出てみると、三日月の光っていない部分もうっすらと見えていました。確かに、月食の時はこんな感じですよね。どうして、今日はこんなに光っていない部分がよく見えるのかなあ、と思いました。よくわかりません。それと月の上に明るく輝く星が見えていましたが、これはたぶん、金星。

・・・と調べていたら昨日場所によっては「部分日食」だったんですね。それは知りませんでした。

でも、あんなに明るい金星も、月も、確かにそこに輝いているのに、昼間は全然見えない。私たちの日々の歩みの中でも、たしかにそこにおられる神様が他のものにかき消されて、見えない時があるんですね。でも、私たちが気がつかなくても、確かにそこにおられる。それを信頼して歩みましょう。

さて、今日も黙示録。
今日は18章を読みました。
いよいよ終わりが近づいてきました。
今日は昨日紹介した「この女」への裁きのところです。
栄華を極めた大都市が、滅びるのです。

その中で、この言葉が心に留りました。
「あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった。」17節の言葉です。

この時代の教会は迫害され、地下に潜っていました。
立派な会堂を建てることも許されず、
大々的に集会の宣伝をすることもできず、
人々の気に入るプログラムを持つこともできず、
クリスマスやイースターのパーティーや、
ピクニックや、子ども達のキャンプや、バザーをすることもできませんでした。

そして、それとは対照的に、彼らを取り巻く社会は繁栄を楽しんでいる社会でした。

それでも、教会には光がありました。
人々の嗜好におもねるのではなく、
厳しい迫害の中でも、
ホンモノを持っている教会は人々を惹きつけていきました。

今の教会に必要なのはその冷静さと、
ホンモノに対する飢え渇きと、
ホンモノを持っているのだという自信ではないだろうかと思います。

栄華をほしいままにした、大都市も滅びるのです。

この時代のローマ(ここではバビロン、と言われているけれども・・・)が
やがて衰退していく、などと当時の人はまったく考えられなかったでしょう。
ちょうど、今のNYが、アメリカがいつまでも繁栄するかのように私たちが思っているのと同じように・・・。

だから、淡々と単純に、福音を語り続ける者でありたいと思いました。
流行を追うのではなく、人々の関心を買おうとするのではなく、
単純に今まで通りに、大胆にキリストの福音を語り続ける者でありたいと思います。

主よ、
この大都市も、やがては衰えていくのでしょうか?
この国も、いつの日にかは衰えていく時があるのでしょうか?
信じられません。
でも、歴史はそれを暗示しています。
どうか、周りに振り回されない確かなものを握っていくことができますように。
確かなものを語っていくことができますように。
単純に語り続ける者でありますように。

2007-03-19

純粋であること

先週は牧師会だったので、
今日は2週間ぶりの完全休日。
前回は何があったのかなあ、と2週間前の記録を見てみたら、
「献血失敗」の日だったんですね。

今日は、ご飯つくったり、買い物行ったり、
洗濯物を放り込んだりたたんだりの
マイホームパパをしてしまいました。
悪くないかな。
でも、のんちみたいにはできません。
改めて感謝。

今日は朝は-6度まで下がりましたが、

昼間は8度くらいまで上がりました。
でも、風があったせいか、それほど暖かく感じませんでした。

夕方からはちょっと小雨。

明日はまたちょっと冷えるようですね。

でも、冷え込みも明日の夜まで。
その後はグッと春らしくなってくるようです。

早く雪が融けて欲しいものです。

そうそう、下の娘が今幼稚園なのですが、
「あさって、springになるんだよ」としきりに言っていました。
日本で言うと「春分の日」がこちらではfirst day of springなんですね。
確かに、日本の「立春」は「え?もう春が始まるの?」って感じですし、
「春分の日」を過ぎると結構暖かい日も多くなりますから、
アメリカ版の春の決め方の方がいいんでしょうね。


このあとも、
夏至に夏が始まり、
秋分の日に秋が始まり
冬至に冬が始まります。

春と夏は季節感がぴったりですが、
秋分の日に秋が始まるというのは???です。
NJでは8月の終わりには秋が始まっています。

冬も11月の終わりから始まっているかなと思います。

今日は久しぶりに「えー?」という話を一つ。
日本からのおみやげで頂いたものでしょうか、
日本の「おむすびをつくるためにご飯に混ぜ込むふりかけ」みたいなやつ。
何の気なしにパッケージを見ていました。
製品名は「鮭わかめごはん」ってやつですが、
その裏を見ると、



「おにぎりを作る時は、手をよく洗って下さい」だって!
えー、「洗わない人なんかいるわけないじゃん!」って声を挙げてしまいました。

これ書いてないと、「何にも書いてなかったから、手を洗わないで作ったら、変な味がした」なんて、苦情が出るんでしょうかねえ?アメリカみたいに「このおむすびの素を使う時に、手を洗わないで作ったら、お腹をこわした。手を洗ってから作ってください、と書かなかったメーカーの責任である。治療費と慰謝料として500万円(ちょっと控えめ?)を支払え」と訴えられちゃうんでしょうか。それとも、手を洗わないで作る人がいるから・・・それがまず信じられない・・・でも、トイレで手を洗わない人が結構多い、という話も聞いたことあるしなあ・・・よくお店の中のトイレに「従業員は必ず手を洗うように」なんて書いてあるから、やっぱりいるのかなあ・・・教育的な意味で「おにぎりはを作る時は、よく手を洗いましょうねえ」って宣伝しているのか・・・。

なんか「ペットを乾かそうと思って電子レンジに入れるのはおやめ下さい」と同じレベルですよね。

今日の聖書。
今日は黙示録の17章を読みました。

「地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」2節の言葉です。

「この女」は一つの都市であることが後の方に書かれています。
経済的な繁栄をしている一つの都市のことです。
当時の人々はローマのことを指していると思ったことでしょう。

人々はその都市との関係に全く疑問を抱かなかったのだろうと思います。
その年との関係で自分たちが潤うことを喜んでいたのです。

私たちの生活の中でも、
みんな「あたりまえじゃないか」と思っていることで、
ほんとうは神様から見て、「止めて欲しい」と思われていること、
怒りを買っていることがあるのではないかと思いました。

不品行・・・これはみだらな行い、ということだと思います。
それは聖書の中では象徴的な意味で用いられる時には、
神を信じながら、神以外のものを信じていることを指しています。
二股をかけているというか・・・。

純粋さを失わない者でありたいと思います。
世間では通用しないと人は言うかもしれません。
清濁併せのむべき、人々は言うかもしれません。
でも、聖書は、純粋さを求めています。

目先の成功とか、
表面的な華やかさとか、
人数の多さとか、
そんなものではなくて、
ほんとうに純粋なもの、「ホンモノ」を求めていきたいと思います。

主よ、
どうか私があなたのことだけを見つめて歩むことができますように。
あなたの願われる道を歩んでいくことができますように。
派手なもの、目立つもの、そのようなものに振り回されるのではなく
純粋なもの、「ホンモノ」を求めていくことができますように。

2007-03-18

語り続けること

まだまだ雪が残っています。
朝は-3度くらいまで冷えましたが、
最高気温は5度くらいまで上がったようです。

でも、今は夜の10時で-0.6度。
明日の朝は-5度くらいまで下がるのでしょう。

明日はにわか雨かにわか雪があって、暖かくなり、
火曜日にはまたグッと冷えて、
でも、週の後半にはまた春めいてくると思います。

だんだん待ち遠しくなってきました。

今日もたくさんの方々と共に礼拝を守ることができました。

でも、その一方でおいでになることができなかった方々もたくさんおられました。
病気の方、
子供が熱を出したという方、
飛行機が出なくて、出張先から帰れなくなった方、
そんなことでご主人が帰ってこられなくて、家から出られない、という方、
などなど、
ほんとうに残念でした。
右側に礼拝説教のリンク貼っておきますね。

ほとんどのメンバーが当たり前のように守っている礼拝。
でも、この礼拝を守れることも決して当たり前ではない、
ということをおぼえて感謝しましょう。

さて、今日の聖書。
今日は黙示録の16章を読みました。

「こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。」9節。

「そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。」11節。

「また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。」21節。

これらを読みながら、
そうだろうなあ、と思いました。
いろんな苦しみがあったときに、神様に悔い改めるべきだということは、
このような聖書を読むと、客観的にそうだよなと思うのですが、
実際に自分がそんなことに出会うと、
「さあ、悔い改めよう」と思うだろうかと思いました。

そして、もっと深く思わされたのは、
このような状況の中で、自分は福音を語り続けることができるだろうか、
悔い改めへの招きを語り続けることができるだろうか、ということです。

人がたくさん救われていったら、いいでしょう。
人がメッセージを聞いて、「そうですね、私は悔い改めます」と言ってくれたら、
語ったかいがあるでしょう。
でも、人々は「こんな苦しみがあるなんて、神なんかいるもんか、神なんか信じるもんか!」と言うというのです。そんな状況の中で、私は語り続けることができるだろうか、ほんとうにそのことを思わされました。語り続ける者でありたいと思いました。
人がどう思うかではなく、主がどのように語りなさい、と言われているかにかかっているのだと思います。

この聖書を読んだのは朝ですが、これを書いているのは夜です。
今日の礼拝の中で、「あなたは罪人です」と語りました。
語りながら、「教会行ったら、罪人だと言われるのがイヤだ」という声を聞いたことがあることを思い出しました。「ああ、なんて自分は大胆なことを言っているのか」と思いました。でも、主が語ることを求められたことを、人の反応を見て、止めてしまうならば、自分は何のためにここにいるのだろうと思います。いつもいつも主の御心を求めながら、歩んでいきたいと思いました。

主よ、どうか私の唇を守ってください。
あのエゼキエルに対して、そのようにされたように、
私の額を「ダイヤモンドのように固い額」としてください。
人の反応に振り回される者ではなく、
あなたが「語れ」と言われることを語る者であり続けることができますように。
弱い私を支えて下さい。