2020-03-20

2020レント集会第4回 「弟子たちのための祈り」ヨハネ17:1-26



今年は「イエスの苦難の中での祈り」というテーマで学びの時を持っています。今日は、4回目で、「弟子たちのための祈り」について学んでいきます。

 ヨハネは1316章まで、イエス様が弟子たちと最後の晩餐を過ごされたことを書いています。そして、その時にどんなことを弟子たちに話されたのか、それが詳しく書かれているのです。
 イエス様は、翌日十字架にかかろうとしておられました。弟子たちを残して去っていかれるのですが、その時に、弟子たちに何を伝えたか?私たちがイエスのように、誰か大切な人を残して去っていくことがわかっているならば、どうしますか?いちばん大切なことを伝えるでしょう。また自分が去っていくことによって、起こる出来事、その中で、「大丈夫だよ」「こうすれば大丈夫だからね」ということを伝えたいと思いますね。
 イエスはこの最後の晩餐の時に、まさにそれをされたのです。最初に、弟子たちに仕え合うことを教えられました。ご自分が弟子たちの足を一つ一つ洗うことを通して、それを教えられました。それが13章に出てきます。
 そして、14章から16章までは、「私が去っていくけれども、私は聖霊をあなたがたに与える、その聖霊によって、あなたは命をいただいて、平安をいただいて、力を頂いて、救いを受けて歩んでいくことができる。私の語ったことが本当によく分かるようになる。そして、あなたがたは実を結ぶ生き方をすることができるのだよ」と語られたのです。

 そして、17章に入ると、イエスは父なる神様に向かって祈られたのです。その祈りは、今日のテーマにもありますように、弟子たちのための祈りでした。長い祈りなのですが、今日は大きく全体像を見ていこうと思います。

1)私の栄光を現してください
 弟子たちのための祈りですが、最初は「私の栄光を現してください」ということでした。イエスの栄光は何でしょうか?それは2回目の学びで味わいましたが、イエスにとっての栄光というのは、イエスの十字架を指しています。イエスの十字架を通して、私たちが救われること、永遠の命をいただいて歩んでいくことがイエスの「栄光」だったのです。
 3節にはこのように書かれています。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。永遠の命は、いつまでも生きる、ということだけではなく神とともに生きること、神との交わりの中に生きること、です。それは三位一体の神との交わりです。前回もお話しましたが、この学びの中の最初の2回は、十字架に向かって歩まれるイエスが、父なる神との関係の中で、祈りの中で力を受けて歩まれた姿を読みました。「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」である三位一体の神は永遠の交わりの中におられるのですが、その「子なる神」がイエス・キリストとしてこの地上を歩まれた時に、「父なる神」「聖霊なる神」との交わりは、「祈り」という形で私たちの前に表されました。イエス様にとっては、その祈りこそがまさに命綱だったのです。
 そして、イエスによって「神の子」とされた私たちも、同じように父なる神との交わりに招かれており、「三位一体の神」の交わりの中に招かれているのです。これが「永遠の命」の実体です。もちろん、死んだ後も続く命という意味もあるのですが、それ以上に、神とともに歩む命です。神とともに歩む中で、この地上でも与えられている命です。
 イエスの弟子たちが、この命にあふれて歩むことができるようにとイエスは祈ってくださったのです。

2)弟子たちを守ってください
 イエスは弟子たちを守ってくださいと、父なる神に祈るのです。15節に「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。」とあります。イエスは弟子たちをこの世に派遣されたのです。この世に出ていくようにと遣わされたのです。その中で、彼らが守られるようにと祈られました。弟子たちはこの世のものではありません(14節)。それとともに、この世から離れたものでもありません(15節)。
 私たちも、イエスの弟子として、この世に生きながら、この世のものではない生き方をするようにと召されているのです。この世のものではないのですが、この世から逃げないようにと言われているのです。それは、私たちがこの世でイエスを伝える使命をいただいているから、この世で「世の光」としての使命をいただいているからです。そこには「聖別」という言葉も使われています(17-19節)
 ローマ人への手紙にもこのような言葉がありますね。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(12:1-2

3)弟子たちを一つにしてください
 20節の最初にはこのように書かれています。「わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。」ここで、イエスははっきりと、弟子たちだけではなくて、弟子たちによって信じる者たち、ですから、その後に生まれる教会、クリスチャンたちのために祈っておられるのです。弟子たちが救われて、喜びにあふれて歩んでいく、その私たちのために祈ってくださっているのです。
 その祈りは、「一つになる」ことです。イエスは私たちの一致のために祈っていてくださいます。私たちが自分たちの力で一つになろうとしても、それはできることではありません。また無理やり一つになろうとする時に、そこには黙らされる人が起こり、しこりが残る人が起こります。これはイエスが弟子たちに命じられたことではないのです。イエスが父なる神に求め、祈られたことです。イエスの恵みによって、神の愛によって、私たちは神の力によって、聖霊様の御業によって、一つにされるのです。ですから、私たちも祈りましょう。一つにしてください、私たちを一つにしてください、と。それによって、世の人は、神の愛が私たちのうちに注がれていることを知るようになる、というのです。主に切に祈っていきましょう。