2013-05-04

バトンタッチ。

今日も朝は5度くらいまで冷えましたが、
昼間は20度を超えて暖かくなりました。
でも、ちょっと乾燥しているように思いますね。
4月は歴史的なほど雨が少なかったようです。

来週の半ばくらいからちょっと雨が降りそうですが、
どうなることやら。

今は夜の12時頃で7.6度C。
明日も朝は冷えそうですね。

さて、しつこいようですが、今日のoak tree。



満開、ですが、ちょっと色が黄色から、茶色に変色して来たみたいです。
相変わらず、車は花粉だらけですが、どうやら峠を越しそうですね。
明日あたりから、枯れたおしべがボロボロ降ってきそうです。

そして、今日はこんな花を見つけました。



これは、去年植えたイチゴの花。
立派な花がついたので、きっと立派な実がなるでしょう。
あちらこちらにつぼみを付けているので、
これから毎日のようにイチゴの花が咲きそうです。
oak treeからstrawberryへのバトンタッチです。

フルーツアレルギーで生のイチゴは食べられないのですが、
たくさん取れたら、ジャムにしましょう・・・。

さて、なかなか追いつけないのですが、月曜日、4月29日の「日々のみことば」。
4月29日は列王紀上の12章。

「国は今ダビデの家にもどるであろう。もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」 26−27節。

北王国イスラエルの初代の王ヤラベアムの言葉。

元々、ヤラベアムを王として立てたのは神様だったのに、
ヤラベアムは民は自分を捨ててしまうのではないかと恐れて、
偶像を造った。そして、「これがあなたがたをエジプトから導いた神だ!」と宣言した。
おかしな話である。

自分が王であることの土台は、人々の人気ではなかったはずなのに、
神様ご自身の選びによって、王となったのに、
その神様ではなくて、人々のことを気にしていた。

でも、それは自分の中にもあるかもしれない。
神様の召しが、私の牧師職の土台なのに、
それが始まりなのに、いつの間にか、人の評価を気にするようになってしまっていないか。

神様ご自身に聞いてこう。
神様の与えてくださる使命に立たせていただこう。

主よ、
あなたが立ててくださったのですから、
いつもいつもあなたに聞きながら、あなたに求めながら、判断をしていけますように。
あなたのみ声に耳を澄ませていくことができますように。

2013-05-03

NOと言う強さ。

今日はまた暖かかったです。
朝晩は結構冷えるのですが・・・。

今晩はNYCに出たのですが、歩くとちょっと寒いくらいでした。
今は夜の11時過ぎで、9.3度C。
明日の朝は5度くらいまで下がりそうです。

さて、先週日曜日、28日の「日々のみことば」。
28日は列王紀上の11章。

「彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。その妻たちが彼の心を転じたのである。 」3節。

多分、ソロモンは優しい人だったのだと思う。
妻たちが「自分は子供の頃から拝んでいた神を持っていきたい」と言ったら、それを聞いていたんだろうと思う。
言うままにさせていたんだろうと思う。

しかし、それによってイスラエルにはいろいろな偶像がはびこるようになっていった。

でも、それは本当は優しさなんて呼んではいけないんだろうな。
タダの無関心なんだろう。

何をしても許す。

それは単なる無関心。
自分が傷つきたくない、ぶつかりたくない、自分を守りたいだけ、なんだろうと思う。

自分もちゃんとNOを言うことを学ばなければ。
愛をもって、勇気をもって、
「それは違うと思う」という勇気をもちたいと思う。

主よ、
私に愛と勇気を与えてください。
NOと言うべき時に、NOが言える者にならせてください。

2013-05-02

空が黄色い?

今日はとってもいい天気で、とても暖かくなりました。
でも、気のせいか、花粉のせいか、空の下半分が黄色く見えました。
これはNYCに行くバスの中で撮った写真ですが、そんな感じしますよね。


まあ、さすがに、花粉だけでこの色になるとは思わないのですが、
かなり、たくさん飛んでいます。

明日も晴れて暖かいです。

もう5月だというのに、ミネソタからアイオワにかけて雪のようですね。
オクラホマ州でも雪になったところがあるようです。

さて、先週土曜日、27日の「日々のみことば」。
27日は列王紀上9章でした。

「しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず、わたしがあなたがたの前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。」6-7節。

旧約聖書の歴史は、まさにこの歴史。
このあと、ソロモン王の後の人々が、神を捨て、他の神々を礼拝していた。

そして、それは私たちのストーリーでもある。
でも、そこにイエスが与えられた。

本当は捨てられても仕方がない者であるのに、
代わりに捨てられてくださって、
私たちが赦され、生かされている。

主よ、
イエスの恵みをもう一度覚えて感謝します。
本来、捨てられてもしかたない者を救い、あなたの者としてくださって感謝します。
更に恵みの中に生きることができますように。

2013-05-01

神はどこにおられるのか?

今朝はよく晴れたせいか、そこそこ冷えました。
でも昼間は気持ちのいい天気で、さわやかな暖かさの日でした。

明日も暖かいようです。
というか、本当に心配になるくらい、雨の予報がありません。
今度は水不足を心配しないといけないかもしれません。

今日はほったらかし畑のアスパラの写真。



いい天気が続くのでどんどん出てきています。
太さも鉛筆くらいのもありますが、親指くらいの太さのも出てきました。

雄株と雌株があって、どっちかが太くて、どっちかがたくさん取れるだそうです。
どっちがどっちでもいいですし、太い方もたくさん取れる方もどっちもいいですね。

そして、アスパラとコーンは取ってすぐ食べるのがおいしい。
どんどん糖が消費されてしまったり、セルロースに変わってしまったりするんだったかな。ですから、このアスパラ、ちょっと伸びて来たら、すぐにポキッと折って(折れるところから上がおいしいらしい・・・)、すぐにゆでて食べてしまいます。夜まで取っておいたりしたらもったいなかったりしますから、なかなか、みなさんに味わっていただけないのが残念ではありますが、ホントうまいです。

ただ、植えてから食べられるようになるまで3年かかりますから(その後は毎年)、庭のある家にある程度の長さ住むことがわかっている方にお勧めです。

さて、先週の金曜日、26日の「日々のみことば」。
先週の金曜日は列王紀上の8章。

「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。」27節。

神様は大いなる方で、どんなに立派な建物を建てても、そこにお住まいになるわけではない、とソロモンは知っていました。そして、そのことを神殿が完成して、奉納する時に、祈ったのでした。

本当にそうですね。

神様は建物の中に閉じ込められているお方ではない。

でも、また、新約聖書はこのように言っています。

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」第一コリント3:16

だから、神様が私たちのうちに宿ってくださる。来てくださる。住んでいてくださる。
ちっぽけな私たちのところに住んでくださる。

そのことに感謝して歩みたいと思います。

主よ、
あなたが私たちと共に歩んでくださり、
私たちのうちに住んでくださるから感謝します。
どうか、あなたと共に歩む喜びに、日々、満たしてください。

2013-04-30

満開宣言。

今日は暖かくなりました。
20度以上まで上がりました。

明日も暖かいようです。
というか、この先どーんと暖かくて、ずっと天気がいいようです。

そして、いろいろな花が咲き誇っています。
今日はいくつか紹介。



言わずと知れたチューリップ。
何年も前に植えて、そのまま毎年放りっぱなしなのですが、今年は大きな花が咲きました。


そして、こちらはdogwood、ハナミズキですね。
十字架のために使われて、もう二度とそんなことのために使われたくない、という願いで、背の低い、曲がった木になった、という「お話」があります。
そして、花も十字架で、両手、頭、足、のところは、イエスの十字架を思わせる赤い色になっています。

そして、この「Oak並木」。


ちょっと大きな通りから、ウチの前の道に入ってくると、風景が変わります。
これ全部Oakですからねえ。

そして、それぞれの木にはこんな花が咲いています。


 これが全部おしべだっていうんですから、たまりません。

はい、満開になりました。

でも、それほど辛くありません。

・・・・もしかしたら、「花粉症治ったかも!」
あんまり期待していないですが、このまま2週間何ともなかったら、天国だよねえ。
マジ信じていますが、「天国には花は咲いていても、きっと花粉はない。」

さて、先週木曜日、25日の「日々のみことば」。(野球に行った日だ!)
25日は列王紀上5章でした。

「主が父ダビデに『おまえに代って、おまえの位に、わたしがつかせるおまえの子、その人がわが名のために宮を建てるであろう』と言われたように、わが神、主の名のために宮を建てようと思います。」5節。

この神殿建設は、ダビデの代から準備して、ソロモンが実現したことでした。
ダビデはどんなにか、自分の代で、それを建てたかっただろうかと思います。
でも、神様は、それを許されませんでした。

そして、次の世代が建てることになります。
でも、その神殿のための準備はダビデの代から始めていました。

ダビデは自分ではそれを見ることもできませんでした。
ダビデはそこに入ることはできませんでした。

でも、喜んで備えたのです。

私たちの信仰の姿勢が問われると思います。

受けるより与える方が幸い。

その祝福に自分は預かることはないかもしれないけれども、
次の世代のために投資をしていく。
与えていく。

与える者でありますように。

主よ、
私が自分がその実を見ることができなくても、
それでも、大胆に与えていく者であることができるように、愛と情熱を与えてください。

2013-04-29

傷つくことを恐れない。

今日は一日どんより+時々小雨。
そして、少し肌寒かったですね。

でも、明日からはまた晴れるようです。
暖かくなるでしょう。

もう4月も終わりますからね・・・。
暖かい日が続いてほしいものです。

でも、今年は花粉症楽かも・・・
治ったかも・・・

・・・って毎年言っているかも・・・。

さて、先々週の週末に家族で行ったコンサートで下の娘が「これ知っている」と喜んでいたのが、「オペラ座の怪人」の中からの曲。それで、先週一週間休みだったので、「ファントムのビデオみたい」といいだして、図書館に借りにいくことに。

ウチの町の図書館、なんと日本語の本やビデオいろいろあります。(これはホント)

で、何かないかなあ、と物色して出会ったのが、20年前のこのドラマ。



これって、台湾で出されているみたいだけど、またマレーシアのシールも貼ってあるけど、正規版?海賊版?と思いながら、図書館に入っているんだから、まあ、いいでしょう、と。

この放送やってた頃、夜遅くまで若者たちと時間を共有していたから、
(あ、自分もまだ20代だった・・・)
見なかったと思うなあ。

見たとしてもストーリーは覚えていない。

まあ、こういうのを「おお懐かしい」と思って見ようと思うのも、自分が年を取った証拠かと思いますが、

で、一気に見ておりますが、

見ながら、単純ですから、影響されやすいですから、いろいろ考えてしまいます。
特に、薫さんの方が亡くなった婚約者に似ている人に心動かされていくところ、で、身を引いてしまう達郎さんのこと。

物わかりが良いのか、意気地がないのか、思いやりなのか、いい人なのか・・・。

でも、一番思わされるのは「傷つきたくない」気持ち。

傷つきたくないから、優しい振りをして、物わかりがいい振りをして、自分の中で気持ちを整理して、何もなかったかのように生きていく、それって違うよなあ、と思いながら、見ておりました。(中年オヤジが気持ちを込め過ぎか?)

でも、これがクリスチャンの信仰と結びつけられると、

「ゆだねました」という一言で美化されてしまうことはないだろうか、

そんなことを思ったのです。

ほんとは自分が傷つきたくないだけなのに、逃げているだけなのに、「ゆだねました」と言えば、それがいかにも信仰的な言葉に聞こえてしまう。また自分をも納得させられる。

もしかしたら、自分もそんなことをして来なかったかと思います。

ホントはぶつからなければいけなかったところで、
「ゆだねました」「神様は最善にしてくださるから」と逃げて、
自分を納得させて、傷つかないように、自分を守っていたことがあったのではないかと。

神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」第2テモテ1:7

もう一度、この言葉が心にひびいてきました。
神様から来る勇気をもって、人への愛をもって、問題に対することができますように。

さて、ずいぶん遅れてしまいましたが、先週水曜日、24日の「日々のみことば」。
24日は列王紀上に進んで、3章を読みました。

それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」9節。

これを読んだ時に、
ソロモンは何を見ていたんだろうかと思いました。
彼は民を見ていたんだと。
自分がすばらしい王になることとか、
多くの富を得るとか、
周りの国より強くなるとか、
そういうことよりも、民を見ていたんだと。

だから、知恵を求めた。
民を治めるために知恵を求めたのです。

自分は何を見ているんだろうかと問われました。

同じように、人を見て、人を大切にする者となれますように、
そのように願いました。
そのために必要な愛と知恵を与えてください、と祈りました。

主よ、
私の場合は、知恵ばかりではなく、愛も必要です。
愛を与えてください。
人を大切にする、愛を与えてください。