2010-05-20

人ではなく神が。

連夜の11時台の帰宅はちょっと堪えましたが、
今日は在宅で11時台までSkypeミーティング。
いやあ、便利ですね。
今日はこの地区の日本語教会が3つ集まって、
子どものためにもつキャンプのためのミーティング。
5人が無料で遠隔地会議ができてしまうんですからね。


次のバージョンからは、少人数のビデオ会議にも対応しているとか。
やっぱりちゃんと面と面と向かって会議をしたいですが、
こういう道具をうまく活用して、主のために働くのも素晴らしいことだと思います。


今日は暑くなりました。
明日はもう一段階暑くなるようです。


今日は朝の集会も、午後のキッズクラブも沢山の方々と楽しいひとときを過ごしました。
集われた方々にみ言葉がとどまり、実を結ぶ日が来ますように。

「まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。ヨハネ4:36−38


蒔くことも本当に大切な働き。
軽く見ないで、真剣に働かせていただきたいです。


今日の聖書。
エレミヤ書49:1−6。


「あなたがたはみな、散らされて、逃げる者を集める者もいない。そうして後、わたしはアモン人の繁栄を元どおりにする。」5−6節。


神様のアモンの人々に対する裁きの言葉。
誰も、彼らを集めることはできない、という。
散らされる一方で、
一つにされることはない。
回復させられることもない。

でも、神様にはその力がある。
神様には彼らを回復させられる力がある。

それはどのような方法によって実現されるかも神のみ手の中にある。
見た目は解放者がいるのか、占領者が解放するのか、
そういうことなんだろうけれども、
本当に起こっていることは、
神様による解放、神様のみ手による回復。

誰もない。誰も彼らを集めない。
でも、主が回復される。
主が回復を与えてくださる。

主よ、
どうか、あなたの回復を与えて下さい。
自分の頑張りも、あなたの導きと守りなしには虚しいものです。
あなたが与えてくださる回復を、待ち望みます。

2010-05-19

回復を願う主。

朝になりました。
たまには朝の更新。
昨日は一日冷たい雨でしたが、
今日もなかなか雲が取れない一日なりそうです。
明日からは回復して、また「半袖」の陽気になりそうです。


JOY JOY Camp 2010「おどろき!なぞ解き、探偵団。」申し込み殺到中。
来週の土曜日が受付の締め切りです。


火曜日から水曜日の聖書。
エレミヤ書48章の後半でした。


「しかし終わりの日に、わたしはモアブの捕われ人を帰らせる。」47節。

傲慢で、イスラエルを笑いものにしたゆえにさばかれるモアブ。
しかし、主はモアブの回復を約束された。

「ひびみこ」にはこのように書かれている。
「あなたに対して高ぶり、あなたの悪口を言ってやまない人がいるでしょうか。その人の救いのために祈ることができるように、愛を主に求めましょう。」

もしもそんなことがあったら、祈れるだろうか。

主の恵みの深さを思わされるとともに、
主の基準の高さに圧倒される。

今日も主を見上げて歩んでいきたい。

今日も、一人ひとりがそれぞれの場所にあって、
主を礼拝する歩みへ導かれますように。

主よ、
あなたの基準はあまりにも高くて、
圧倒されます。
どうか、そこまで私を導いて下さい。
自分の力ではなく、聖霊様によって愛を与えられて歩むことができますように。
今日も教会の一人ひとり、ここに連なる一人ひとりがあなたを見上げて歩めますように。
人間関係の中だけに埋もれてしまうことがありませんように。

二つほど。

また日付が変わってしまいましたが、
今日は寝てたわけではなくて、
ほんのさっき帰ってきたから。


早く休みますが、
忘れないうちに思わされたことを2つほど。


一つは「博士の愛した数式」から。


直線は紙に書いたときには、直線ではない、
最初があって最後があるのは「線分」であって、直線ではない。
そして、紙にかかれた線はどんなに細く書いても、それには太さがあるから、
厳密な意味で、直線ではない。


完全な直線は、私達の心の中にだけある。


そういう意味の記述がありました。
何かとても神聖なものに触れたような気がしました。
完全な直線は書かれた瞬間に完全な直線ではなくなる。


本当だ。


じゃあ、教会や神様はどうだろうかと思いました。


教会もこの世に置かれた瞬間に、
それは完全なものではなくなる。


神様も「こんな方だ」と説明された瞬間に、
神様ではなくなる。


さて、本当の神様は「心のなかにおられる」となると、
それもまた本当ではなくなる。
私たちの心の中に縛られた瞬間に神様ではなくなる。
神様は私たちのちっぽけな頭やちっぽけな心には入りきらない大きな方。


じゃあ、教会は?
そう、教会は反対に心のなかにある教会、というのは、
実は本当の教会じゃない。
本当の教会は、いつでもこの世に存在する不完全な存在。
その不完全な教会を、聖書は「キリストのからだ」であると言う。


とてもおそれおおい話だと思う。
不完全な教会を「わたしのからだ」と呼んでくださることの恵みを感じる。


もうひとつは日付が変わったので昨日になりましたが、お会いしたある方がいわれていたことば。
「信じることの恐ろしさ・・・」
これは本当に深い言葉だと思いました。


ほんとに信じるとは恐ろしいこと。
それが人生を決め、歩みを決め、生活を決め、
お金や時間の使い方を決めていく。
いや、人生自体の使い方を決めていく。


信仰者として、そして、また信仰者を励ます者として、
信仰への招きを語る者として、
決して忘れてはいけない言葉だと思いました。

2010-05-18

守られて感謝。

月曜日のために祈って下さい、
と思い切って、お願いして、
心は守られて、支えられて、ああ、祈られたんだなあという一日でした。
朝飯前には祈った後、庭掃除から一日をはじめるという
なんだか、日本にいるかのような気持ちのいい一日のスタート、
そして、のんちが帰ってくる夕飯も6時にはもう出来ている、という、
心的には健康な一日でした。


ありがとうございます。


日付は変わってしまいましたが、
昨日は、医者の予定(両方チェックだけ)が2つ入っていて、
2個目、午後行った方、オフィスが鬼のように寒くて、
それでおかしくなったんでしょうか、
せっかく心が元気なのに、カラダが変調をきたし、
夕方から頭痛が始まって、9時前にはもうダウンしておりました。


夜中の1時前にモゾモゾ起き始めて活動開始、
でも、余り長い間起きていると、朝がきついので・・・
と思いながら更新しております。


さて、日曜日からはエレミヤ書48章のモアブについての預言のところです。
月曜日までの1-25節の中で心に留まったのは、7節。


「おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので・・・」

繰返し繰返し語られることですが、
「あなたは何を頼りにしていますか?」と問いかけられる。

本来道具であるはずのお金やモノにいつの間にか支配されていないだろうか?
「これがあなたを生かしている」と思わされていないか。

ネットもそうだ。

PCもインターネットも、タダの便利な道具なのに、いつの間にかそれに支配されてしまっていないだろうか?

20年前はPCを持っている人は本当に特別な人だった。
日本では、「ワープロ」までだった。
24年前の大学の卒論までは手書きだった。

つい最近出てきたばかりの道具であったPCが
今や私達を支配しようとしている。
一日繋がらないと「大切な情報をミスしていないか」と不安になったり、
陸の孤島に取り残されたような気になったり・・・。

「あなたは何を頼りにしていますか?」

本当は私たちは私達を創造された主を頼りにしていくべき者であるのに、
何を頼りにしているだろうか?

いや、一般論としての「わたしたち」ではなくて、「わたし」はいったい、何を頼りにしているだろうか。

やはり自分?健康?誰か信頼できる人?

主を信頼しよう。
主との関係の中に生きよう。

主よ、
あなたの守りを感謝します。
祈って下さる方々が与えられていることに感謝します。
あなたを頼ります。
あなたを頼る者を祝福してくださることを、弱いわたしに経験させて下さい。


夜中の2時半。
今日はこの後、雨のようです。
またひと休みして、朝に備えます。

2010-05-16

月曜日のために乞祈祷。

みなさんは月曜日をどのように迎えられるでしょうか?
日曜日にいただいた恵みに溢れてスタートされるでしょうか?
仕事や学校が始まることに重い心を抱えて始められるでしょうか?

私はいつも日曜日の礼拝の後、チャレンジを受けます。
そして、月曜日に一番サタンの攻撃を受けると思います。
ですから、私もみなさんのために祈らせていただきますので、
このサイトを訪問されたみなさん、
私の月曜日のために祈って下さい。

闘いとしての礼拝。そして、礼拝のための闘い。

今回のWorship Seminarで学んだことはこれでした。


創世記4章で、最初の礼拝の中に忍び込んできた、「妬み」「怒り」、そして、最後には「殺人」。礼拝を台無しにしようという力がそこには働いている。


礼拝は、
キリストの主権を宣言すること。
神を神としてその前にひれ伏すこと。
主の臨在、神の愛を信頼して歩むこと。


それは自分の気持とはかかわりなく、です。


それを否定しようという力が働きます。
お金が私達を生かしているかのように思い込ませたり、
病が私達を支配しているように思わせたり、
神の愛を否定したり、
不信感を互いの中に植えつけたり。
でも、その中で、ハッキリと主の主権、主の支配、主の最善を告白し、
そこに生きていくのです。


毎日が「礼拝」というのもそのコンテキストで考えるとクリアに見えてきます。


そのような生き方を、社会生活でも、家庭生活でもしていく、ということなのです。


それは闘い。


だから、礼拝は闘い。
そして、そこで勝利するために、
礼拝のための闘いがある。


礼拝をリードする使命をいただいてる者として、
そこに焦点を当てて歩んで行こうと思わされました。


本当に幸いな3日間でした。


知らない曲ばかりだったのですが、
「魂」が喜んでいることが分かりました。


主を喜ぶときに、私たちは力が与えられるって、
本当ですね。


JCCNJの礼拝が、
各地の教会の礼拝が、
さらに祝福されますように。


みなさんの一週間が主の支配の中に守られていることを、
一人ひとりが経験することができますように。


さて、1週間の「ひびみこ」で語られたこと。


昨日まででエレミヤ47章まで来ました。
その中で一番心に残ったことば。


「エジプトはかわいい雌の子牛。・・・その中にいた傭兵も、肥えた子牛のようだった。」46:20-21。

戦いのために備えの出来ていない者たちの姿。
それがミジメで、滑稽なくらいだ。

最近また「龍馬伝」がたまってきてしまっているが、
ずいぶん前に見たエピソードの中で、
黒船が来たときに、
武士たちが刀や鎧を探しに古道具屋に殺到する場面があった。

徳川時代の二百数十年の平和な時代の中で、
武士が戦うことを忘れてしまった。

私たちは武力で戦うことはないかもしれないし、
そのことを願うけれども、
霊的には戦いがある。
礼拝が「戦い」だ、ということだったけれども、
本当にそうだ。

その戦いに備えが出来ていないということはないだろうか?
霊的な平和ボケというか。
いや、平和であるかのようにボケてしまっていることはないだろうか?
戦うべき時に戦わないで来たときに、戦えないものになってしまっていた、ということはないだろうか?主の力を知らない者になっていた、ということはないだろうか?

戦いの備えをしていく者でありたい。

主よ、
霊的な戦いの備えをさせて下さい。
そして、そこで勝利をいただくことができますように。
勝利を得ることができますように。
物事の本質を見ぬくことができる者でありますように。