2009-09-12

JOYJOYシンガーズ再開。

昨日は本当に肌寒い一日でしたが、
今日は昨日よりはワンランク回復。
明日は晴れてくる見込みです。


肌寒いのになれてしまった体には
ちょっと暑いくらいかも・・・。


今日からJOYJOYシンガーズも再開。
これがまた楽しいのなんのって。
日本に帰っていた仲間も戻ってきて、
ほぼ3ヶ月ぶりとは思えない、いいスタートでした。


去年の今頃はまだ計画段階だったんですよね。
でも、今年はもう既に結構いい声が出ています。
今年のクリスマスには期待出来そうです!


さて、おととい、10日(木)の聖書。
エレミヤ書4:5-18でした。


「 エルサレムよ。救われるために、心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか。」14節。

「邪念」なんてちょっと「どきっ」としますよね。
「どきっ」とするのはやはり自分の中に何かがあるからで・・・。

真実に主を愛することを願います。
そのような者にされることを求めます。
でも、これも自分の力を超えた神様の奇跡が必要だと思います。

得てして、「邪念よ、消えろ!」と念じても、
そこにこだわっても、
それはなくならないものです。

他のものによって心を満たして頂くことの方が、
ずっと現実的です。
芝生の雑草を抜くことも大切ですが、
芝生の種をまくことによって、
chokeさせることがもっと大切だ、と読んだことがあります。

神様のことで、イエスさまの愛で、
神様への感謝で心がいっぱいになるようにと願います。

主よ、
あなたが示してくださる罪、
聖霊様の働きに感謝します。
でも、本当に弱い者です。
いつもいつもあなたの愛と、喜びで満たし続けてくださいますように。
他のものが入る隙間がないくらい、
あなたの愛が私を支配しますように。

2009-09-11

8年目。

今日は8年目の9-11。
特別なことはなかったのですが、
一日の一つ一つの語り合い、祈り合いが、
祝福されました。

一年前のことも思い出していました。
一年前、とても幸いな時を持ちました。
そして、今年の春、ご遺族の一人にお会いしたとき、
一歩一歩前に進んでおられる姿に、
励まされました。

主が、私たちの歩みを過去に縛り付けないで、
前に引き出してくださっていることを感じます。

また更新は明日時間が取れたところで。

2009-09-10

Underneath the Tree

今週末から再開されるJOYJOYシンガーズのクリスマスで歌う曲を探しているのですが、その中で、こんな曲に出会いました。


Underneath the Tree


As a child on Christmas morning,
I would kneel before the tree
and my eyes would dance with wonder
when I saw the toys for me.
The sights, the sounds, the laughter, 
the smell of evergreen, treasured in my heart
these childhood memories.


Underneath the tree is where I found my presents,
the gifts wrapped with love, purchased just for me.
I will not forget the joy of that moment,
when all that I had longed for I found
underneath the tree.


The years have come and gone now,
and I've grown to understand
the greatest gift was given when God became a man.
Willingly He suffered and died to pay sin's cost.
I received forgiveness when I knelt before His cross.


Underneath the tree is where I found His presence,
the gift of new life purchased just for me.
I will not forget the joy of that moment, 
when all that I had longed for I found
underneath the tree.


サンプル(音が出ます。)


日本語にどう訳したらいいか、ちょっと格闘してみますが、
「木の下で」という木が、子供の時には「クリスマスツリー」で、
大人になった今は、「十字架」の木。
そして、そこで見つけて愛を感じたのが、子供の頃は「プレゼント」で、
大人になった今は、十字架の下で、神の「presence」つまり共にいてくださることを見つけた。
この私のために準備されたプレゼント。


自分が子供の頃、クリスマスツリーの下でプレゼントを見つけた経験はないので、
その部分は自分の経験と重なるわけではありません。
それでも、涙があふれてきます。
最高のプレゼントは十字架の木の元に。
それが私のために準備されていた、という事実に、心が震えます。


今年のクリスマス、たくさんの方々が、その木の下で、
最高のプレゼントである、神のpresenceを見出すことができますように!


さて、昨日、9月9日(水)の聖書。
昨日はエレミヤ書の3章19節ー4章4節。



「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。確かに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主に、イスラエルの救いがあります。」(3:22-23)

神でないものを頼っていた人々、
それによって満たされようとしていた人々が、
本当の命がどこにあるか、本当の救いがどこにあるかに気がついて、
神様の元に帰ってくるところです。

神様以外のものに頼ってそれに満たされることを求めるのは、
どうしてなんでしょうか?
たぶん、それが魅力的に見えるんでしょうね。
本当はそうじゃないのに。
むなしさだけが残るのに。
でも、一見魅力的に見えるんでしょうね。

でも、私たちを本当の意味で満たしてくれることはない。
決してない。
だって、私たちはそのように作られたのだから。

本当に私たちを満たしてくださる方、
本当に私たちに命を与え、喜びを与えてくださる方、
そこに身をゆだねて、そこに人生をかけて、
歩むことができるのはなんて素晴らしいのだろうかと思う。

時々、生きている間は好き勝手なことをして、
最後に「ごめんなさい」と神様にお詫びをして、
天国に入れてもらうのが一番幸せ、みたいなことを言う人がいる。

でも、ホントはそうじゃない。
そんなのは単なる神話。単なる勘違い。単なるイリュージョン。
ホントは、私たちが作られた目的、
神様と共に生きるときに、一番幸せなはずだ。

「痛い目にあって初めて気がつく」ということもあるかもしれない。
でも、本当は痛い目に遭う前に、気がつく方がいい。

そのためには自分自身、
本当に神様の愛に満たされて歩みたい。
この神様と共に歩む人生がどんなにすばらしいものなのか、
その生き証人として歩んでいきたい。

主よ、
あなたと共に歩む喜びに満たしてください。
あなたに救われている喜びに満たしてください。
最高のプレゼントをもらった喜びを、
私自身もっともっと味わうことができますように。
教会の一人一人がもっともっと経験することができますように。

ずっしりと。

今日もどんよりとしていた。
でも、思ったほど雨は降らず、
夜になってパラパラと始まったところ。


でも、いよいよ今夜から、あしたにかけて、
東海上の低気圧がゆっくりと進んでくるので、
雨と風が強くなりそう。


そして、その影響は土日と続き、
スカッと晴れるのは来週になりそうです。


今日の午後は待ちに待ったJOYJOYキッズクラブ。
始めての子もたくさんで、みんなで30人くらいの元気な仲間が来てくれました。
キャンプに来た子たちもたくさん来てくれました!
そして、学校が始まって、ストレスがたまってきた子たちにとっても、
とてもよい一時だったみたいです。
あとで、あるお母さんがそうおっしゃっていました。
子供たちの心の内に、神様の愛がとどまりますように。


さて、今夜はサキの小学校のBack To School Night
仕事の忙しいお父さん達も、
何とか、時間を作ってかけつけるのがこの夜です。
仕事が終わって、また仕事に戻る人も・・・。


先生達に会って話を聞くのですが、
結構きつかったです。
3年生になって、ReadingやWritingのポイントを
先生が丁寧にお話ししてくださったのですが、
頭がくらくらする内容でした。


日本語の補習校の宿題も大変なことになりつつある今日この頃ですが、
現地の学校も、大変なことになりそうです。
教育パパにはなりたくないのですが、
心を鬼にしなければならないかも・・・。


さて、9月8日(火)の聖書。
火曜日はエレミヤ書3章6-18節。


「背信の女イスラエル。帰れ。──主の御告げ──わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。──主の御告げ──わたしは、いつまでも怒ってはいない。ただ、あなたは自分の咎を知れ。」12-13節。

神に背く民に対しても、招きをされる主。
しかし、その一方で、「いいよ、いいよ」で赦される方ではない。
「自分の咎(とが)を知れ」と言われる。
私たちはそこら辺を勘違いしていることが多いと思う。

罪を指摘するときには、裁く態度になってしまって、
受け入れようと思うと、罪を曖昧にしてしまう。

本当の愛は罪を曖昧にすることができない。
本気で愛していたら、本気で誰かを大切にしていたら、
その人の成長のために、
その人の癒しのために、
その人の回復のために、
その人が神様との関係に生かされていくために、
ある時にははっきりと対決しなければならない。

それほど熱い愛、
それほど真剣な愛が、
自分の中に燃えているだろうか。
事なかれ主義になって、
自分が傷つくのが怖くて、
相手を心から信頼出来なくて、
ちゃんと対決できないことが多いのではないだろうか?

神様の愛を、イエスの愛を頂きたい、
そのように心から思わされました。

主よ、
どうか、あなたの愛の中に生かしてください。
あなたが愛されたように、愛する者とならせてください。
私の心を恐れから解放し、愛で満たしてください。

2009-09-09

大切なことはみんな幼稚園で習った。

今日はホントにどんより。
NYに来ていますが、2時頃外を歩いたら、
雨が降っていました。


昨日の夜は11時過ぎにはもう眠くて、
今日、NYに行く日なので、身支度とかも準備しておけばよかったのですが、
「明日はちょっと早めに起きなきゃ・・・」と思いながら、
寝てしまいました。
そして、予定通り5時過ぎには起きたのですが、
いろいろやっていたら、あっという間に6時10分前。
まずは教会での祈り会ということで、あわてて、家を出たら、
夜の集会の会場の鍵は忘れるは、
持っていくはずだった書類は忘れるは、
時間ができたら翻訳しようと思っていた本も忘れるは・・・。


そのあと、NYで7時半からの祈り会。
今日は夜集会があるから、ギターとか、歌集とか、
いろいろあるから、バスよりも車だな、と思って、車で行ったら、
地元の人しかわからないでしょうが、Route-4が大渋滞。
橋を渡るまで1時間以上かかりました。
着くまではほとんど2時間。
もう本当に踏んだり蹴ったりです。


いやあ、渋滞はもういかんともしがたいですが、「準備はちゃんと前の晩に」は鉄則ですね。
夜が弱い私にはこれは本当にきつい。朝は強い方だから(というか、何だか最近目が覚める・・・年のせい?)、「朝ちょっと早く起きれば大丈夫だろう」となるんですよね。
子供の頃、「明日の準備は夜のうちにやっておくもんだ」ってよく言われましたが、
本当にそうですね。朝、ぱぱ~っと準備ができる日が何回か続くと、
「大丈夫じゃん・・・」って思って、朝あわてて準備をするのが習慣になっています。


思い出してみると、自分は1年しか幼稚園行ってないし、
ここは思い切って、もう一度、幼稚園児に戻って、
ちゃんとすべて前の晩に準備するようにします!(キッパリ宣言!)


さて、9月7日(月)の聖書。
7日はエレミヤ3:1-5。


「それでも、あなたは・・・恥じようともしない。」3節。

「悔い改め」もいつの間にか慣れっこになってしまって、
ただ「帰れば赦してもらえる」と思ってしまうことがある。
三浦綾子さんの「ちいろば先生物語」の中で、
主人公が「あなたは罪はわかっている。でも、あなたは罪にもだえていない」というようなことを言われる場面が出てくる。
自分もそうなってしまうことがどれだけあることか。

でも、考えてみると、本当に自分が罪を深く示されるときって、
なんだか、自分ではコントロール出来ないように思う。
聖書では「聖霊の働き」と言われるけど、
本当にそうなんじゃないかと思う。

いつもは、ぼーっと「これはやばいよなあ、神様喜ばれないよなあ・・・」みたいなレベルで感じていることや、そればかりじゃない、「私は何にも悪くない」という気持ちにとらわれるときもある。

でも、ある時は、本当に「ああ、なんて自分は愚かなんだろうか?」「自分は神様に対してなんてことをしたんだろう」そんな風に思うときがある。

聖霊様がそのように示してくださっているのだと思う。
修養会の前から、まさに、そのように示してくださってきた。

だから、聖霊様の働きに、本当に従順でありたいと思う。
素直に従う者でありたいと思う。

神様、
私の心は今守られているでしょうか。
自分の罪に鈍感になっていないでしょうか?
もしもそうであるならば、あなたが示してください。
あなたが罪を示されるときに、
それに従順に従う者とならせてください。



2009-09-08

「理想的な教会?」

夜になりました。
順調に気温は下がって、今8時半ですが、20.7度。
曇っているおかげで冷え込みはしませんが、
朝は15度くらいまで下がるでしょう。


今日、自動的に録画されていた昨日のフジサンケイのニュースに
9月3日の記事に書いた、ハジの大学のSwine Fluの話が紹介されていました。
残念ながら(?)ハジは出てきませんでしたが、
ニュース自体はこちらのリンクから見ることができます。
さっき電話で話したら、結構周りにも感染した友だちがいるようです。
心配はしていませんが、元気でやっていて欲しいものです。


ついでに9月3日のニュースのアメリカの公的資金を受けた企業のCEOの平均年俸の話を見ましたが、1300万ドル以上!?だって。ひどーい。預金しても、金利はほとんどないような状態なのにねえ。どういう感覚なんでしょう。フツーの感覚が麻痺しているんでしょうか?


腹が立つ話はこれくらいにして、
神様に取り扱われた話。
修養会の最後の集会は、
「理想的な教会」という題のメッセージ。


普通、このような話だと、
整えられた教会の話になるかと思ったら、
趙先生が話してくださったのは、
「理想的な教会は、病院に病人が行くように、問題を持っている人が行きたくなる、そのような人が受け入れられる教会です」ということでした。
これは自分にとって、開会礼拝の中で自分が話した、「私たちの常識にチャレンジする」神の御業でした。
最近の私は、いろんな出来事を経験してきた中で、
無意識の中で「いい人」の教会を目指していたのかもしれません。


問題を恐れて、問題が起きないようにと一生懸命だったのかもしれません。
教会は霊的な病院である、というメッセージに本当に悔い改めさせられました。


Jim Cymbalaは「祈り会は霊的なERである」と言いました。




神様の救いの御業を見せて頂けるように、
祈りつつ歩んでいきたいと思いました。



趙先生が神様の導きを感じて、
メッセージの後に、牧師夫妻のために祈ろう、と
皆さんを招いてくださいました。
その後、役員のために祈り、お互いのために祈る幸いな一時となりました。
「教会」を感じた一時でした。
感謝します。


さて、日曜日、9月6日の聖書。
エレミヤ2:29-37でした。


「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」32節。

おとめのたとえ、花嫁のたとえは、
かれらは、本当に「あたりまえ」のように、
自分にとって大切なものを大切にして、忘れない、というたとえですよね。
それに対して、イスラエルの人々は神様を忘れてしまっていると。
それを本当に自分の生活に当てはめてみると、
もしも、神様を忘れてしまっている瞬間があるとするならば、
それは、本当に神様が「自分にとって大切な存在なんだろうか」
本当に自分は神様を大切思っているんだろうか、
それが問われているように思いました。
「神様のことを忘れないようにしなければいけない」ではなくて、
「神様のことを忘れるはずがない」というのが本当なんじゃないかと。
だったら、「忘れないようにがんばろう」「忘れないように気をつけよう」ではなくて、やはり、神様の愛、神様の救いの素晴らしさ、神様に愛され、罪赦され、生かされていることの素晴らしさをもっともっと深く知って、自然に「神様のことを忘れるわけがない」という思いにとらわれるようになることを求めるべきなんじゃないかと思ったのです。
主がどれほど大きな愛を持って、私たちを神の子としてくださったのか、
どれほど大きな犠牲を払って、私たちの罪を赦してくださったのか、
私がもっともっと深く知ることができますように。
私がもっともっと深く味わうことができますように。
主よ、
あなたの愛を感謝します。
あなたの救いを感謝します。
もっともっと深くあなたを知る者とならせてください。

試練に包まれた祝福。

さて、今日2回目の更新。


修養会で、主は趙南洙先生を通して、豊かに語ってくださいました。
近いうちに教会のHPでメッセージが聞けるようになると思います。


一つ、本当に心にとどまった言葉。
「すべてのことについて感謝しなさい」という聖書の言葉を解き明かされる中で語られました。


「『祝福』は『試練』という包み紙に包まれて届けられる」


そして、そこから語られた、先生ご自身の通られた試練と祝福。
次に試練がやってきたときには、その包み紙の中身を見せて頂くことを楽しみにしながら受け取ることができますように。・・・できるかな・・・。


さて、9/5(土)の聖書。
エレミヤ2:20-28でした。


「しかし、あなたは言う。『あきらめられません。私は他国の男たちが好きです。それについて行きたいのです』と。」26節。

いやあ、ぎょっとする言葉ですね。
でも、この言葉が私の心に深く刺さりました。
神様以外のものを求めてしまう愚かさ、
神様以外のものによって心を満たそうとする愚かさ、
神様が与えてくださったもの以外のもので心を満たそうとする愚かさ、
それを思わされました。

自分も、神様にそういう態度をとっていないだろうかと、
と思い知らされました。

主よ、
あなたによって心を満たしてください。
あなたご自身を求め、
あなたが与えてくださったもの、
あなたが与えてくださった立場、
あなたが与えてくださったパートナー、
あなたが与えてくださった人々、
あなたが与えてくださった人生、
それを喜びとする者とならせてください。

主の胸の内。

今日は一日どんより。
そして一日長袖がちょうどいい
涼しい一日でした。


でも、これからはいつ泣き出してもいい、
日本の梅雨のような日が続きそうです。


9月4日の聖書。
修養会のことも関係あるので、
まとめて書きます。


エレミヤ2:9-19を読みました。
「 わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」13節。
「今、ナイル川の水を飲みにエジプトの道に向かうとは、いったいどうしたことか。ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤの道に向かうとは、いったいどうしたことか。」18節。

今回、修養会の開会礼拝のために準備していたときに、
イエスが弟子達のために持ったリトリート、マタイ16章後半から17章前半のところに導かれました。
そして、3つのことを主に期待しよう、とお話ししました。

1.主が胸の内を明らかにしてくださる。
2.私たちの常識にチャレンジしてくださる。
3.従うことを教えてくださる。

しかし、3日の記事でも分かち合いましたが、
主は修養会が始まる前、先生が来られたときから、
私を取り扱い始められました。

その中で、示されたのが、「夫婦の関係の祝福を求めること」でした。

私の泉は神様です。イエスの救いです。その泉ある神様が与えて、導いてくださった人である妻との関係の祝福を求めなさい、という語りかけでした。

結婚の時に「主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。」という使徒行伝11:21の言葉が与えられていました。
この言葉は私たちに特別に語られた言葉です。他の人にとっては違うかもしれませんが、私たちにとっては、伝道の祝福は夫婦の祝福にかかっていると、その時に語られていました。

そのことを思い出させられて、自分自身の態度を悔い改めさせられました。
スタートに立ったところです。
まだまだこれから癒されなければならないことがたくさんあると思います。
主が守り、導いてくださいますように。

主よ、
あなたの胸の内を明らかにしてくださってありがとうございます。
どうか、私の心を守ってください。
愛することを教えてください。

2009-09-07

修養会感謝。

今日までのファミリー修養会(Retreat)、
とても祝福されました。
私自身、一人の人間としては、修養会前から始まって、
本当に深く深く取り扱われたので、
またゆっくりいろんなことを分かち合いたいと思いますが、
また牧師としては、皆さんがどのように取り扱われたのかを、
知っておくことも、本当に大切だな、と思わされています。

私自身、先生と今夜も個人的にお話しをする時間が与えられて、
フォローアップして頂いたのですが、
私もそのような働きをさせて頂きたいと思います。

「日々のみことば」もまたたまってきたのですが、
明日の朝、先生をお送りするので、
ちゃんと寝ておきたいと思います。

本当に心から主に感謝して。

リトリートちう・・・でした。