2006-10-07

聖霊が注がれる

あっという間に夜です。
でも、今日は何か気分がいいです。

というのは、日本から帰ってきてからずっと気になっていた、
バスルームの蛇口からポタポタと流れ出るお湯。
どんなに締めても止らなかったんです。
そして、自分で直そうと思っても、ねじ山が潰れたり、
中の構造がどうなっているか今ひとつ分からなかったりで、
時間がかかっていたのですが、
今日、ねじ山が壊れたヤツを何とか壊して、
分解して、元に戻してみたら、何と水漏れが止ったではありませんか。

うーん、不思議。

どうしてか分かりません。

どうして水漏れしていたのか、
どうしてそれが止ったのか、
分かりません。

でも、とにかくよかった。


いろんなモノ分解するのは好きですが、
分解して、元に戻らなかったら、どうするんだろうと思いますよね、

特に水回り。

だって、
分解して元通りにならなかったら、元栓開けられないし、

元栓を止めたら家中の水が出ないし、

お客さんもいるのにどうしよおおおお!

と恐る恐るでした。

めでたしめでたし。

今朝の祈り会、よかったですよ、人数は少なかったですが・・・。

教会堂が与えられるように祈りました。

天の窓が開かれて、すべての必要が満たされますように。

私たちの神さまは全能の神さまですから・・・。


ということで、今日の聖書箇所。
今日は使徒の働きの2章を読みました。
ペンテコステのところ、聖霊様が教会に注がれたところです。

その中で、

18節の言葉が心に留りました。

「その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」

聖霊様が私たちに注がれている。
私たちには聖霊様が与えられていることは確か。

でも、本当に「注がれている」ということができるんだろうか。
満たされていると言うことができるのだろうか。

もっともっと求めることを主は望んでおられるのではないだろうか?

「注がれているんだからいいんだよ」という態度は違うのではないだろうかと思った。
もっともっと主よ、注いでください、と思わされた。
ただ、このペンテコステの時に起ったようなすばらしい神の業が起るようにと願った。

主よ、
どうか聖霊様を与えて下さい。
注いで下さい。
満たして下さい。
そしてあなたのことを語らないでいられない者としてください。
今夜の休みを祝福し、
明日、喜びに満たして、礼拝を守らせてください。



祈りに専念する

昨日からぐーんと涼しくなりました。
この週末から来週前半くらいはまあ、
こんな感じか、もうちょっと暖かいようですが、
来週後半からぐーんと寒くなるみたいです。

まあ、もう再来週は10月後半ですから・・・。

今から13年前かな。93年の10月はアトランタにいましたが、
そのハローウィンにはアトランタで小雪が舞っていましたから・・・。

昨日の午前中の集会のあと、
何でか熊の話になって、
北海道に行った時の「熊に注意」の看板のことを思い出しました。

今から15年前。
日本の教会で副牧師をしていた時。
主任牧師の先生に許可をもらって、
若者達を連れて車で北海道の教会を回る旅に行きました。
観光と「伝道」をかねて・・・と思ったのですが、
実際のところ、北海道の教会の皆さんに励まされる旅でした。

熊の看板があったのは支笏湖のそばの「苔の洞門」
写真がどっかにあると思うのですが・・・
家の中を捜すよりwebを捜した方が早いので・・・
これです。

これ、下の方の「それでも熊に出会ったら・・・」っての、
けっこうインパクトありました。
だって、「これはダメです」「これをすると襲われる」って感じで、
じゃあ、いったいどうしたらいいの?と思いますよね。
「死んだふり」も「木に登る」ってのもダメなんですよね。

まあ、総合的に読むと、
「目を離さないで、背中を見せないで、熊が興味を持ちそうなモノを落としながら後ずさりする」
ってことでしょうか?
でも、最後の文章を読んでも、「時間が稼げます」で終わっているところがコワイ。


昨日は「蜂蜜持っていったらいいんじゃない?」という話もありましたが、
熊に出会ってから、カバンの中を捜して、蜂蜜を見つけて、そのふたを開けて・・・ってやってられるかなあ、と思います。


まあ、熊に出会うって、大変なことなんですよね。やっぱり。


お気をつけください。


NJで出る熊はヒグマほどこわくはないんでしょうが・・・。


金曜日の聖書。
「使徒の働き」に入って第1章。
口語訳では「使徒行伝」、新共同訳では「使徒言行録」
でも、今回は新改訳で読んでいるので、「使徒の働き」です。

1章の14節の言葉が心に留りました。

「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、
みな心を合わせ、祈りに専念していた。」

「祈りに専念する」
ってすごいですよね。

そのことだけやっていた。
自分はやったことあるだろうかと、振り返らされた。
いろんなことに追われて、
祈る時がまた貧しくなっていないだろうかと。

今読んでいる本のように、
「祈れないほど急がしい?」
ってか。

今日は明日の礼拝のために祈りながら、説教の準備をしていますが、
そういうことを抜きにして、祈る時、必要だと思います。

「祈りに専念する時」必要だと思います。

神さま、
また祈りに招いてくださってありがとうございます。
祈ることに専念する時が自分には必要だと思います。
どうか今晩の祈りを、
明日の朝の祈りを豊かな一時としてください。
あなたにお会いした喜びと感謝に溢れて、
明日の礼拝で皆さんにお会いすることができますように。

終わっちゃいましたね

なんか、あっけなくおわっちゃいましたねえ。
ものすごいメンバーだったんですがね。
2戦目で逆転されてから、全然打てなくて。
勝負の世界はわからないもんです。
でも、勝ち負けだけではなくて、
エキサイトする瞬間が全然なかったのが、残念だったかな。

まあ、寝不足とかにならなくていいんですが・・・。

あとで、昨日の分と今日の分、更新します。(^_^)

2006-10-06

今日はお休み

今日は遅くまで集会でしたし、
明日は早朝祈祷会ですので、
今日の更新はお休みです。

また明日。

また負けましたね。

もう後がありません。
明日はしっかり勝って欲しいな。

2006-10-05

主の栄光をあらわす生き死に

今日、野球は昼間だったんですね。
負けちゃったみたいですね。

明日も集会中ですね。

まあ、いいか。

朝の集会はたくさんの方々が来られて、
また歌とお話もとてもよかったです。
その後も、皆さんゆっくり過ごされました。
感謝。

明日の朝は歌手の方は他の教会に行かれます。
私の方は自分の教会の集会です。
それもまた楽しみです。

今日はさっそく聖書の言葉。
ヨハネによる福音書21章を読みました。
ヨハネによる福音書の最後の章です。

そこに、ヨハネ自身の注釈がイエスの言葉に付けられています。
「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。」
19節の言葉です。

イエスが、ペテロがやがて手を縛られて、行きたくないところに連れて行かれるだろう、
とのイエスの言葉に対して、ヨハネが書いた言葉です。

「神の栄光を表す死に方」と言うことを考えさせられました。

今週の月曜日はペンシルベニア州のアーミッシュの村で、
学校に押し入った男に5人の女の子が殺されるという痛ましい事件が起りました。
手足を縛られて、黒板の前に並ばされて、
処刑をするように撃たれていった女の子達、
想像するだけで、本当に心が痛みます。

自分の子供がもしもそんな目にあったらと思うと、
また自分自身がもしもそんな目にあったらと思うと、
恐ろしくて、体が震えます。

でも、犠牲者の家族はアーミッシュの信仰の中で、
神の御手を信じました。
犯人への憎しみを口にしませんでした。
犯人の家族が弔問に来ることをも、拒みませんでした。

納棺の時に、遺体を前にして、犠牲者のおじいさんが、
「決して、これによって、犯人への憎しみに支配されてはいけない」と語ったそうです。

また、犯人、彼にも熱心なクリスチャンの妻がおりました。
3人の子ども達もいたと言います。
彼らはどんな思いで過ごしているでしょうか?
でも、そこにもサポーターが与えられて、共に祈る仲間や牧師が与えられているそうです。

昨日の夜のCNNのLarry King Liveで、
犠牲者、加害者を取り巻く多くの人々が、インタビューを受けていました。

当然憎しみを感じていいところで、
憎しみを感じても、誰にも非難されないところで、
あえて憎しみに支配されないで生きる彼らに、
心からの尊敬を覚えました。


私は「神の栄光を表す死に方」をできるだろうかと思いました。

私の死によって、人々の心が神さまに向くような、その様な死を経験したいと思いました。
もちろん、それは私自身が見ることはできないのですが・・・。
自分にはどうにもできないことですが・・・。

だから、神さまに助けて頂きたいと思いました。

主よ、
どうかわたしがあなたの守りによって、
あなたの助けによって、
「神の栄光を表す死に方」をすることができますように。
神さま、私を助けてください。

そして、生きている時にも、
もっと神さまの栄光を表すような生き方ができますように。

2006-10-04

なぜ泣いているのか

中止になっちゃいましたね。野球。
まあ、お天気牧師的に言えば、正解。
今11時ですが、我が家の方では雷が鳴って、激しく雨が降っています。
やってたら、終わるのは夜の2時とかになっていたことでしょう。

明日の夜の方がゆっくり見れるし・・・(自己中心)・・・
いや、待て、Back to School Night、最後の1人のが残ってた!帰るの10時前だ・・・。
でも、まあ、10時から見るくらいがちょうどいいか。

今日の夜はゴスペルシンガーの方が、NYの日系人会のホールで歌って下さいました。
声の調子は悪いようでしたが、
その歌と語りの中にとても力強いメッセージが込められていて、
集われた方は一握りだったのですが、後で伺うと、お1人1人にとってタイムリーな集まりだったようです。
感謝。

だから、結局人数ではないんですよね。
もちろん、いつもいつもたくさんの方々に来て頂きたいけれども、
おいでになれた1人1人にとってそれがいい時になれば、それがいいことなんですよね。
神さまがその様にして下さったんだと思いました。

朝の集まりにはたくさんの方が来られていましたが、
出かけにいろいろ作業をしていたので、遅刻。失礼しました。
次回からは「パンクチュアルかきごおり」をめざしてがんばります。

今日の聖書。
ヨハネによる福音書20章です。

今日、心に留ったのは、泣いていたマグダラのマリヤに、天使達と、復活したイエスが語った言葉、
「なぜ泣いているのですか」という13節と15節の言葉です。

私たちは、いかに「泣かなくていい」場面なのに、目がふさがれているがゆえに、泣いていることがあるでしょうか?

本当は神さまの御手が、広げられて、私たちが守られているのに、
不安を感じて、慌てていることがないでしょうか?

泣かなくていい。主はその様に言われます。
大丈夫だよ、と言われます。

でも、私たちの目はふさがれている。
私たちの耳は鈍感になっている。

神さまの存在が見えない、
神さまのみ声が聞こえないんですね。

「なぜ泣いているのか」

今も、私たちに語られていると思いました。
私自身に語られていると思いました。

神さま、
あなたが今も共にいて、
「なぜ泣いているのか」と聞いて下さる方であり、
「泣かなくてもいいんだよ」と語ってくださる方であることに感謝します。

私の心の目を開いて、物事の本質が見えるようにしてください。
私の心の耳を開いて、あなたのみことばが分かる者にしてください。

明日の集会の上にも、祝福をいっぱい満たしてください。


2006-10-03

家族とされて

昨日は更新後、間もなく床について、
今朝までぐっすり休みました。

うーん、一日おきですねえ。

今日はお約束の野球を最後の方だけ見て、
その後、明日の朝の集まりの準備をしながら、一冊の本を読みふけって、
遅くなってしまいました。

明日の朝の集まりは、他の教会のプログラムなのですが、
どちらかというと「聖書を読む」ということが目的ではなくて、
文化クラスの最初の15分間、聖書の話をする、というプログラムなので、
いろいろ作戦を考えさせられます。

「ああ、15分遅れていくくらいがちょうどいい」なんて絶対に思われないようにと、
ちょっと意地になっているかも・・・。

なんか、「常識にくさびを打ち込む」みたいな話ができればいいなあ、と思います。
私たちは「これが常識だ」と思っていることがいろいろあります。
でも、こうやって、日本で育って30年くらい経って、アメリカに住んで14年くらい。
ん?足し算するとちょっと多すぎですねえ。でも、まあ、それくらい。
日本では「これ常識」というものが、アメリカではとんでもない話だったりしますよね。

最近一番戸惑うのが、
「つまらないものですが・・・」と贈り物をする日本の習慣。
こちらでは絶対変ですよね。
「何で私につまらないものなんかくれるの!?」ですよね。

逆に「すごいいいのなんだよ!開けて開けて!」って感じ。
自分の場合、完全にアメリカナイズされている訳ではないんですが、
日本式にもものすごい抵抗があります。
でも、やっぱり日本ではそう言っちゃうんですよね。
もちろん、タメ口の親友とかだったら別ですが・・・。

まあ、その手のことなら、「郷に入りては郷に従え」なんでしょうが、

「絶対」だと思っていたことが、異文化に触れることによって「絶対」じゃなくなっちゃうんですよね。

聖書に触れても、そんなことが起る、それをお話しできればと思います。

だから、もう少し作戦を考えてから休もうと思っています。

今日の聖書はヨハネによる福音書19章でした。
イエスが十字架にかけられる場面です。

その中で、今日心に留ったのは、26-27節の十字架の上からのイエスの言葉です。
ヨハネに対して言った「子よ、これがあなたの母です」
マリヤに対していった「おかあさん、これがあなたの息子です」
言葉です。

十字架の上で、イエスは弟子のヨハネに「お母さんを頼むよ」、母親に「これがあなたの息子だからね」と言われたのです。それは一見、「自分が死んでしまうから、お母さんを頼むよ」という言葉に見えますが、それ以上の意味を持っている言葉です。

私たちは十字架の下で、周りの人々を「この人を頼むよ」とイエスから言われているのです。

十字架の元で一つの家族にされて、
お互いの存在を任されているのです。

自分はどこまでそれを本気に受け止めているだろうか、
それをどこまで真剣に受け止めているだろうかと思います。

「個人主義」「プライバシー」・・・それは尊重したいと思います。
でも、その上で、お互いを「神さまから任された存在」として、
一つの家族とされた存在として、
受け止めているだろうかと思ったのです。

教会ではお互いのことを「兄弟姉妹」と呼びます。
○○兄弟、××姉妹と呼んだりします。
でも、それは単なる「夫の方か妻の方か」を言い分けるための便宜上の呼び方になったりすることもあります。
「田中さん」がご夫妻で教会に来られているとしましょう。
そのご主人の方を指す時に「田中兄が・・・」と言って、
奥さんの方を指す時に「田中さん、田中姉の方がさ・・・」
と言ったりします。

でも、本当にお互いを兄弟姉妹として、言葉だけではなくて、受け止めているだろうかと。

家族として、受け入れているだろうかと。

愛することを、敬うことを、尊敬することを、信頼することを
教えて頂きたいと思いました。

神さま、
あなたが私の人生に与えて下さった、
私に与えて下さった、兄弟姉妹を心から感謝します。
どうか、私がその兄弟姉妹を本当に主にある家族の1人1人として、
受け入れ、愛し、尊敬していくことができますように、
本当に、痛みを覚える人がおられたら、
その痛みを、自分の痛みとして感じることのできる者にして下さい。

明日の朝の集まりを祝福して下さい。


2006-10-02

イエスは私たちの王

今朝はまた朝3時に目が覚めました。
一日おきに「よく眠れた!」「ああ、起きちゃった・・・」が繰り返されています。

でも、今日3時に起きたのは、
何か神さまの目的があるんだろうと思って、
ガバッと起き出したら、やっぱり意味がありました。
詳しくは申し上げられませんが・・・。

いつも「夜中に目が覚めるのは、神さまが『起きなさい』と私たちに誰かのために祈らせるために起こしているんですよ」と言っていますが(本当にそう信じています。不眠症の方には不評ですが、それでも、そう信じています)、今朝は「ああ、本当にそうなんだな」と思いました。

神さま、ありがとう。
起こしてくれて・・・。

でも、今日は夜8時にして、もう眠いです。
午後3時頃からずっと・・・。

朝2時間、夕方2時間のドライブだったのですが、
帰りは30分くらいでギブアップ。カミさんに交代しました。

ですから、今日は更新、いつもより早め。
たぶんまた早めに夢の国に旅立ちます。

今日読んだのはヨハネによる福音書18章でした。
イエスが逮捕されて、裁判を受けるところです。
その中で、イエスが、ローマ帝国から派遣されていた総督ピラトに、
「おまえは王なのだな」と聞かれて、
「そのとおり、わたしは王です」と答えたくだりが、心に留りました。

イエスは王になるためにこの世に来られました。
それは武力で人々を治めるためでもなく、
経済力で人々をまとめるためでもありませんでした。

自分を私たちの罪の身代わりとして与えて、
私たちの罪を赦し、愛によって支配するために、
愛によって私たちを支配するために来られたのです。

今、私はこのイエス・キリストを王としているだろうか、と問われているように感じました。

本当に王にしているだろうかと。

生活の中心をこの方にしているだろうか?

この方を第一にしているだろうか?

昨日の礼拝の中で、献金の感謝の祈りを捧げた方がお祈りされていたように、
お金も、健康も、才能も、時間も、すべて神様のもの、
その様に生きているだろうか?

この方を「王」とすることの意味を、具体的に、
一つ一つ教えて頂きたいと思いました。

一つ一つの場面で、「ああ、私はイエスを王としているだろうか」「この決断は、イエスを王としていることと矛盾しないだろうか」と問うて歩んでいきたいと思いました。

忘れやすい、私です。

一瞬一瞬、イエスさまが王であることを覚えていたいと思いました。

神さま、
イエスさまが私の王でいてくださることを感謝します。
具体的に、私の生活の中で、
何が、「イエスを王とする」ことなのかを、
教えてください。
一つ一つの決断の場面で、
「イエスを王である」という前提で、決断をしていくことができますように。
傀儡の王ではなくて、形だけの王ではなくて、
「王」の権威を語ってわがままをするのではなくて、
あなたを本当の王としてあがめていけますように。

2006-10-01

一つになる

3週間ぶりのJCCNJでの礼拝。
やはり「帰ってきた!」という感じです。
心から主を賛美しました。

今日のメインイベントは、

洗礼式。

1人のご婦人が洗礼を受けられました。

祈られてきた、1人のクリスチャンの方のお母様。

喜びの中での受洗となりました。

その前の一つの集まりで数年前に洗礼を受けられたある方がおっしゃってたこと。
「私が洗礼を受けて変わったことが一つあります。それは次に洗礼を受ける方が起った時に、
それがとてもうれしかったことです。それは私にとって、驚きでした。」
感動しながら、その一つ一つ言葉を選んでお話になる言葉を聞いていました。

神さまのなさる奇跡ですね。

今日、洗礼を受けられた方は、
住んでおられるところがちょっと遠いので、
いつもいつもご一緒に聖書を読んだり、
礼拝を守ったりできないことが、
ちょっと残念+心配でもありますが、
「主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。」(使徒29:32)の思いで、
祈っていきたいと思います。

みことばが守り、導き、支えて下さいますように。

今日の聖書は、ヨハネによる福音書17章です。
最後の晩餐の中で、イエスが祈られた祈りです。
神に弟子たちの守りを祈られた言葉が書かれています。

その中で、今日、私の心に響いてきたのは、
20節の言葉です。

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」

ここで、イエスが祈られたのは、弟子たちのためだけではなくて、
私たちのためでもありました。
いつも聖書を読む時には、弟子たちへの言葉は私たちへの言葉として受け取ります。
でも、このイエスの言葉は、直接的に、私たちのために祈られた言葉なのです。
感動を覚えました。

イエスさまが私たちのことも心にかけて祈って下さった。
私たちのことも心にかけておられる、ことが本当によくわかりました。
そして、その祈りは「彼らが一つになることです」という祈りです。

「一つになる」

そして、私たちが一つになった時に、周りの人々にたいする影響を持つことができるというのです。

どうすれば一つになれるのでしょうか?

それを思いめぐらしました。

それは誰かが大きな声を出して、
他の人がその人を恐れて黙ってしまうことによる一致ではないはずです。
余りお互い言いたいことを言わないで、「いいでしょう」という一致でもないはずです。

神さまの前にへりくだる一致。
神さまの前にひれ伏す一致。
それを求めていきたいと思いました。

自分の願い、自分の夢、自分のビジョンがすべて砕かれて、
神さまの御心を求めていく中での一致。

主がそれを与えて下さることを祈っていきたいと思いました。

主よ、
あなたが私のことを、私たちのことを心にかけて下さっていることに感謝します。
どうか、あなたが祈られた一致を、私たちに与えて下さい。
あなたの前にへりくだった一致を与えて下さい。