2011-02-25

少しずつだな。

今日は午前中雨でした。
午後になって上がって、夕方には夕焼けも。


明日はぐっと寒くなりそうです。
明後日の明け方にはちょっと雪も降るかも。


そして、月曜日はまた雨です。


2月も後半は、一人で祈って主に求める段階を終えて、少しずつコミュニケーションを取って、思わされていることを分かち合う段階に入っています。


元々この段階があまり得意ではなかった自分。
多分、それは自分が語り合っている中で、「何が正しいかわからなくなる」ことがあったからですが、それは実際のところは、「自分の考えがわからなくなる」ことが多かったからだと思います。ですから、今回、日曜日の集会と祈り会以外をすべて休んで、祈る時を持って、自分の中の芯がはっきりする中で、コミュニケーションの楽しさやダイナミズムを感じています。かえって、いろんな方々と話をする中で、自分の考えがまとまって行くのです。そして、どのように伝えればいいのか、自分の内側にある思いをどのように伝えればいいのか、自分の伝える方法の中で、どこの部分が一番弱いのか、伝わらないのか、そこにもヒントが与えられます。この感覚は本当に新鮮で、エキサイティング。


だから、本当に自分の中に芯を持つことが、どれほど大切なことか、principleを持っていることがどれほど大切なことか、思わされています。


特に広がりを持った働きをするために、開かれた働きをするために、芯を持つことの大切さを思わされます。そして、「そのためにはやはり静かに祈る時間が必要、牧師の日常の中では無理」(キッパリ!)というのが、今回の経験で学んだこと!


ま、何事も焦ってはいけませんね。


さて、今日の聖書。
第一ヨハネ4章1-10節。


「愛する者たち、私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」7節。

この愛する、ということも芯が必要なことですよね。
自分が大切。自分の中にあるものが大切。
「金銀は私にはない、しかしあるものをあげよう」とペテロが言った言葉を思い出します。
そして、それは神から出ている。
その芯は神から出ている。
神に愛されて、神に赦されて、生かされている、それが芯となるのだ。
それゆえに、愛することができる。
愛する力が与えられる。

だからやっぱり、神の愛に注目することが大切。
誰か他の人の愛に注目してばかりいると失望する。
芯を失って行く。
そして、そこにあるのは「恐れ」。
受け入れられるだろうか、喜んでもらえるだろうか、相手は自分をどう思っているか、どんな目で見ているのだろうかという恐れ。

「イエス・キリストから目を離さないでいなさい」ですね!

主よ、
あなたの愛に感謝します。
あなたの与えてくださっている豊かなものに感謝します。
あなたの愛に満たされ、
はっきりと芯を持った生き方に導かれ、
愛することができる者となりますように。

2011-02-24

使命だな。

今日も朝は寒かった。
でも、昼間はグンと暖かくなって、
7度くらいまで上がりました。


夜になって雨が降って来て、
明日一日雨のようです。


今夜も明日の夜も雪が混じることがあるかもしれません。


今日は、2週間前にNJに引越して来られた方にお会いしました。
教会の祈り会に来られました。
幸いなひとときでした。


「NJにどれくらい住んでおられるんですか?」と聞かれて、考えるのは、その年に生まれた娘の年。おおお、そんなに長く住んでいるのか〜と、自分で驚く。


でも、その16年前には、自分もホントに大変な思いをしたよなと。
その中で手を差し伸べてくれた方々がおられた。
自分が車がなかった何週間か、ライドをオファーしてくださった方々がいた。
道がよくわからなかったとき、教えてくれた皆さんがいた。
教会で、以前から一緒にいたかのように、受け入れてくれた人たちがいた。


だから、今、自分がここで何ができるか、
何をすべきなのか、を考える時に、
こういうことをもっともっと大切にしていきたいと思う。


「たましいが喜ぶこと」だ。


さて、今日の聖書。
今日はヨハネ第一の手紙3:11-24。


「子供たちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」18節。

そうだよなあ。
何度も何度もここでつぶやいているけど、
言葉だけじゃなあ。

行いと真実の中で人を大切にしていく、
聖書の言葉を実践して行く。
もちろん、「律法主義」になってはいけない。
でも、その言葉を恐れるが故に、
聖書に書いてある「行いなさい」ということをしようとしないで、
言い訳をして、そこにじっとしている。
一生懸命「これはどんな意味だろう」と研究したり、
黙想したり、暗唱したり、そんなことで、
何か良いことをしたかのような勘違いをすること、
どれほどあるかと思う。

何度も読み返している「仕える喜び」(チャールズ・スウィンドル)にもあるけれども、自分たちは神様の前に「あなたの指示を何度も読み返して、解釈についてディスカッションしたり、暗唱したり、『ああ何てすばらし言葉だ』と感動したり、音楽をつけて歌ったりしてきた」と平気な顔をして言うのだろうか?

それとも、「あなたの指示通り生きて来ました。たくさん失敗もしました。でも、あなたの助けでここまで来ました。あなたが愛してくださったから。あなたが豊かなものを与えてくださったから」と言うのだろうか。

御言葉を行う者となろう。

主よ、
あなたの御言葉に従って、言葉だけではなくて、行動で愛を表す者とならせてください。でも、それを誇るのではなく、神様の愛の中に生かされていることを感謝して歩む者とならせてください。

2011-02-23

たましいが喜ぶこと2。

NYCでの一日。
今夜も帰ってから更新は無理だと思うので、
ちょっと一休みして更新。


今朝も寒かったですね。
温度計見て来なかったですが、
多分-10度C近くいったんじゃないかな。


特にバス待ってたから寒く感じた。


なんだか最近ぐっと朝が明るくなって来た。
6:40にはもうすっかり朝。


春は近いんだけど、昼間も結構寒い。


明日の夜から、明後日は冷たい雨みたいです。
ちょっとまとまった雨。
先日の雪をかなり流してしまう雨になりそうです。


先日書いた「たましいが喜ぶこと」
またちょっと考えています。


イエスを信じることは、
イエスに従うことは、
決して「たましいが喜ぶこと」を捨てることではない。
「自分のやりたいこと」を捨てることではあるかもしれないけれど、
「たましいが喜ぶこと」を捨てることではない。
そうではなくて、イエスに従うことは、
「たましいが喜ぶこと」へと導く。


なぜなら、私たちを造られたのは、
一人一人の個性を大切に造られたのは神だからだ。


私を私に造られたのは神だからだ。
私にいのちの息を吹きかけ、生きる者とされたのは神だからだ。
だから神に従うこと、キリストに従うことは、
私たちを「たましいの喜び」に導く。


こんなことを考えるきっかけは、
Twitterでフォローしているある方が、
自分が30年前にトロンボーンを吹いていた高校のオペラで、
照明を担当しておられたことを知ったこと。


http://twitter.com/nj_otenki/status/39546848117006336


あの経験を共有していた人を見つけたのはホントにうれしかった。


30年の昔にタイムトリップした。
ウェーバーの「魔弾の射手」。
序曲の一部は讃美歌の「主よ御手もて」にも使われている。


その著書にこんなことを書いておられるそうだ。


照明を当てていた彼の全身が震えたその時、
確かに、自分もそこにて、たましいを震わせていた。


荒削りの高校生のトロンボーン吹きにとって、
歌手の声を消さないように音を抑えて吹くのは至難の業。
しょっちゅう、怒られていた。


出番だって多くない。


でも、指揮者の「トロンボーン、もっと抑えろ」の指示に従いながら、一つの音楽に参加しているときに、自分のたましいが喜んでいた。


好き勝手に吹いていたら、ぶちこわしだっただろう。
好き勝手なことをしていたのではなかった。
指揮者に従っていても、音を外したりもした。


でも、自分のたましいの喜ぶことをしていた。


神に従うこともそう。


人の顔色を見て生きることとは違う。「なんか違うんだけどなあ」と思いながら、人を喜ばせることだけを考えて生きることとは違う。反応を恐れて生きるのとは違う。


みんなのたましいが喜ぶ、そのような教会となりますように。


さて、昨日の聖書。
昨日はヨハネ第一の手紙2:12-27。


「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」16節。

この聖書の言葉を読むと、
やはり、欲に従って生きることを主が喜ばれないことがわかる。
だから好き勝手なことじゃないんだよな。

世から出たものがある。

神を神としない世。
自分を神とする世。

そこに惹かれてはいけない。
そこに調子を合わせてはいけない。

イエスから目を離さないでいることができますように。

主よ、
私の心を守ってください。
肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などに
喜びを見いだすのではなく、
あなたご自身に喜びを見いだす者でありますように。

2011-02-22

何を守るのか?

夜の11時になろうかというところで、
もう一回更新です。


外の気温はなんと-5.6度C。
5時間ほどで6度も下がりました。


明日の朝はどこまで冷えるんでしょう。
でも、明日が今回の寒さの底。
明日の日中から少しづつ緩んできます。


次のstorm、金曜日は・・・うーん、雨だろうな。


リビアの民主化への叫びに対して、
カダフィが今夜の段階でも、
自分の立場を捨てないでいるそうだ。
最後の一軒まで回って反体制分子を粛正するようにと
呼びかけているという。


彼は何を考えているんだろうか?


60代後半になって、
自分が今までして来たことを否定されることが
どれほどの恐怖であるかということは想像に難くない。


自分の人生を否定されるような感覚があるのだろうか?


それとも、チュニジアの大統領だったか、
ものすごい蓄財をしていたそうだが、
やはりそんなところがあるんだろうか。


客観的に外側から見ると、
早く身を引けばいいのにと思うのだが・・・。


彼は何を守ろうとしているのか?



中国や北朝鮮、その体制を守ろうとする人々は何を守ろうとしているのだろうか?
管理をして、情報統制をして、脅かして、何をしようとしているのだろうか?


翻って、自分の姿を見ると、
自分は何を守ろうとしているのだろうか?


イエスがいのちを投げ出して買い取ってくださった教会。
その教会を守っているつもりで、何を守ろうと思っているのだろうか?
一人一人の魂を、一人一人の存在を守ろうとしているだろうか?


さて、昨日の聖書。
昨日は第1ヨハネ2:1-11。


「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。」9節。

古い命令なんだけど、新しい命令。
表面上は古い命令なんだけど、
イエスの十字架の恵みによって、
聖霊様の力によって、
私たちのために取りなしてくださるイエスによって、
新しい意味を持った命令になった。

自分でがんばるのではなく、
私の内側に力が注がれている故に、
守ることのできる命令。
神の光によって、憎んでもおかしくない相手を愛することができる。

ただ、ただ、神様の助けと癒しと支えを祈らされる。

主よ、
あなたがいてくださるからありがとうございます。
聖霊様が与えられていることに感謝します。
愛することができますように。
私の中には愛はありません。
あなたの恵みによって、愛することができる者とならせてください。

見つけた!

今日2回目の更新。


今日の気温は1度Cくらいまでしか上がらず、一日寒かったですが、昼間は太陽が明るくて、やっぱりもう春だよねえ、って感じです。日が暮れるのも6時前になりました。


今5時40分ですが、気温は0.3度C。
今夜はもう一日-9度Cくらいまで下がるようです。


さて、左のTweetをご覧の方々はご存知だと思うのですが、
昨日の朝、雪かきの最中に車の鍵をなくしました。


車の中に手袋があったので、車を開けて、手袋を取って雪かきを始めたわけで、ポケットに入っているはずの鍵がないのです。正確に言うと、「鍵の束」の中に車の鍵がないのです。


今時の鍵はプログラムがされていて、鍵の形と、チップのコード両方合ってないと、エンジンがスタートしないみたいです。


だから簡単には合鍵が作れない。
盗難防止のシステムなんですね。


教会の車なんですが、中古で買ったときに既に鍵が一つしかなくて、これを紛失したら、どうするんだろうと思っていましたが、それが昨日起こってしまった訳です。


焦りましたねえ。


というか、ディーラーに電話するまで、そんなに慌てていなかったのですが、ディーラーに電話したら、「車を持って来ないとダメ」と言われ、「え、だから話しているように、鍵がないんだけど・・・」「わかってるよ、トーイング(レッカー車で運ぶこと)してもらって持ってくるんだよ」・・・ここで、「やべえええ!」と始まった訳です。


で、「じゃあ、もう一回探して、必要だったらもう一回電話する」と電話を切りました。まずはポケットの中、車の中、etc...探してもないので、もう残った可能性は「雪の中」!雪融けを待っていればいいんでしょうが、そうも行かず、探しましたよ・・・。


下の娘には、「最後に使ったのはどこ?よく思い出してごらん」「他の鍵と一緒にあるんじゃないの?見せて!」などと、言われ、20年後を思わせられるような会話もしました。


この時はさすがに祈りました。「全能の神様、あなたはいつも必要を満たしてくださる方ですよね。どうか、私の目を開いて、見つけさせてください。あなたを信頼します。」と。「多分雪かきした山の中だよなあ」とひとすくいひとすくい、調べて行きました。「これかな?」と思ったら、木の枝だった・・・ということを何回も経験して・・・。


そして、何個か目の山の一番上の雪をすくったときに、「キラ!」っと輝く金属が・・・






再現映像です。こんな感じ。
その場では写真を撮る余裕なんてないですよ。
あ「あ、これかな!!!!」と拾ってみると、まさにその鍵だったのです!


想像できますか?その時の気持ち?


聖書の中のルカによる福音書の15章8-10節を思い出しました。
また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。


正直、自分がこの聖書の箇所を読むたびに、「そんなに大騒ぎしなくても・・・と思っていたのですが、わかりましたよ。大騒ぎしたい気持ち。
わたしも「みんな一緒に喜んでください!」って感じでした。


でも、イエス様のポイントは、「これが一人の人が神の元に返ってくる時の喜びなんだよ」ということですよね。


ああ、自分のことも、神様はこんなに喜んでくださるんだなあと、思いました。感謝。


ちょっとお金がかかっても、早いうちにちゃんとスペアを作っておかないと。万が一、この一つをなくしたらレッカー車だもんね。


さて、日曜日の聖書。
日曜日からはヨハネ第一の手紙。
1章を読みました。


「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」3節。

私たちの交わりは神様との交わりに繋がってくる。
互いに神様との交わりを持って行くときに、互いの関係が深められて行く。

大切なことを語っていると思う。

ただ、気が合うとか、意気投合するとか、わかってくれるとか、共通の話題があるとか、そういうことを超えて、神様と繋がって行くがゆえに繋がってくる関係。

私たちはそこに招かれているんだと思う。

その喜びをもっともっと経験したいと思う。

先日の日曜日に「酒に酔わないで聖霊に満たされなさい」というところを読んだけれども、酒を飲んで楽しく過ごすこととは段違いの喜び、段違いの楽しさ、もっともっと経験させていただきたい。

主よ、
あなたとの交わりの中に生かしてください。
そして、私たちの交わりを祝福してください。
あなたとともにある喜びの中に生かしてください。

振り出しには戻らない。

ここ2週間ほどのあたたかな日々のおかげで、雪がどんどん融けて、先週末には、ほぼ2ヶ月ぶりに芝生が見え始め、春ももうすぐ、という感じだったのですが、


昨日の朝の雪で、すっかりもとの風景に戻ってしまいました。5センチ程度と予報されていたのですが、15センチまで降りました。


一気に「雪融け」とならなかったのは残念ですが、
まだ2月。でも、もう2月の下旬。
今朝も-9.5度C、今夜も冷えそうですが、
少しずつ春は近づいてきています。
「振り出しに戻る」とまではいきません。
確実に前進しています。


人生もそうですね。
多少後戻りしたり、「あ〜あ、ふりだしに戻るだ」と思っても、決して戻っていない。進んでいるんですね。


さて、今日は何回か更新することにして、
まず、先週土曜日の聖書。
アモス書の9章でした。アモス書の最後の部分。


「私は彼らを彼らの地に植える」15節。

直接はユダヤ人のバビロン捕囚からの帰還をさしているのかなあと思うのですが、その後の「もう引き抜かれることはない」という言葉を見ると、世の終わりの永遠の世界の救いのことを言っているんだろう、と思わされます。

でも、私たちの日常でも、これは大切なことだと感じます。
私をこの地に植えてくださったのは神様だということ。
私たちの一歩一歩を導いてくださること。

今日の一日にも感謝します。
今日も、私はここに植えられている。

闘いがあり、迷いもあります。
でも、主が私をここに植えてくださったが故に、
ここに生きることの幸いを感じます。

主よ、
あなたが、私をここに植えてくださったこと、
ここに導き、ここに生かしてくださっていることを、
心から感謝します。
これからも、あなたの御手をもって、
私を導いてください。