2009-07-04

どっちが主人?

今日は久しぶりに一日いい天気の気持ちのいい日でした。
特に朝、ハドソン川沿いの公園での祈り会はとても爽快。

青空の下、July 4thの祝日をエンジョイしようと、
朝早くから公園にやってきた方々に混じって、
賛美と御言葉と祈りの集会。
特に今年はハドソン川沿いで大きな花火大会が開かれるせいか、
たくさんの方々が朝早くから詰めかけていました。

そして、夜になってもいい天気。
9時過ぎから、近所の町の花火大会も始まったようです。

私はまだまだ明日の準備があるので、
ここはぐっとこらえて、
明日の夜のParamusの花火大会をたのしみに待つことにします。

明日の礼拝の準備をしながら、思わされたこと。

明日のテーマは、

あなたがイエスのしもべになるのか、
あなたがイエスをしもべにするのか。

ということです。

でも、そんなメッセージを準備しながら、
自分のこの準備の姿勢はどうだろうかと問われたように感じました。
同じことが説教の準備をしている自分に問われている。
自分自身がそのことによって取り扱われなければ、
偽善であり、欺瞞になってしまいます。

自分が聖書の言葉を料理するのか、
自分が聖書の言葉に料理されるのか。

そして、

自分が御言葉を準備するのか、
自分が御言葉に準備されるのか。

このメッセージを準備する、という感覚よりも、
聖書のメッセージに自分が説教をする者として「準備される」という感覚がどれほど大切かと思わされました。

ある程度の経験と知識があると、
説教の準備は何時間かあればできます。
でも、説教者として準備される、というのには、
ものすごい時間が必要だと思わされます。

もっともっと、主によって語られて、備えられて、整えられて、
礼拝の講壇に立つ者でありたいと思わされます。

正直に告白すると、
その礼拝説教の準備の時間、
何だかすごくピリピリしている自分がいました。
他にもいくつかすべきこともある中で、
「時間が限られているのに、まとまらない」
「どのように展開したらいいか、迷いがある」
そんな状態の中で、周りにいる家族に対しても、
とげとげしい言葉が出てきたりしました。

子供たちに対して
「イエスさまによって輝ける!」と語りながら、
自分自身が一番身近な人たちの中で、
とげとげしたものを発してしまう。
それも、一番恵まれているはずの、礼拝の準備の間で。

「あなたは私を主としているか?王としているか?」
と問われたように思いました。
本当に自分を王にしないで、主イエスを王にする。

私のために命を与えてくださったお方を王とする。

その愛と恵みに感謝して生きる。

ああ、一番身近な家族の中で、
一番自分の素顔を知っている家族の中で、
「パパは礼拝の準備をしている時間が一番楽しそう!」
なんて言われる牧師でありたいです。

ずいぶん遅れていますが、6/29(月)の聖書。
29日は出エジプト記40:1-16でした。


「第一の月の一日にあなたは会見の天幕である幕屋を建てなければならない。」(2節)

年の初めにまず神の家を建てたイスラエルの人々。
神様がそれを命じられたのでした。
わたしたちがまずすべきことは何かということを問われているように思いました。

神様を第一とすべきこと、
神様をわたしたちの生活の中心に置くこと。
新しい年の最初にまず神様の前に出ること。

それは一週間の歩みでも、
一日の歩みでもそうですよね。

まず、神様の前に祭壇を整えて、
それから、一日をスタートする、
一週間をスタートする、
そのような歩みをさせて頂きたいと思います。

まず、明日から・・・。

主よ、
あなたを見上げます。
あなたと共に歩むことを教えてください。
あなたと共に歩む喜びを与えてください。
まず、一日を、一週間を、一年をあなたへの礼拝からスタートすることができますように。
明日は一週間のスタートです。
そして来週の火曜日はアメリカに来て18年目のスタートです。
あなたに感謝をささげてスタート出来ますように。

2009-07-03

明日は・・・早朝祈祷会。

明日は独立記念日なのですが、土曜日なので、
今日が振り替えだった人たちも多かったみたいですね。

今週も来週も、月曜日が休日返上なので、
どこかで、休んでおかなければ・・・と思うのですが、
ちょっと難しいです・・・。

ということで、明日はハドソン川沿いの公園での早朝祈祷会なので、
何とか夜早く休むことによって、
体力維持を図りますので、更新はお休み・・・。

では、ごきげんよう!

主が命じられたとおりに。

今日もまたNJ版梅雨空。
時々日がかっと照るのですが、
またどーっとにわか雨が降ります。


明日もまだ不安定な一日になりそうです。
でも、その先はだんだん天気が安定して晴れる日が多くなってくる予報が出ています。
それでも最高気温は20度台の夏らしくない天気になりそうです。
暑すぎないのは助かりますが、プールのシーズンパスを買うかどうか、悩ましいところです。


今朝は、ちょっと失敗があって、凹みましたが、
夜にはJOYJOYシンガーズの感謝会。
日本に帰る子たち、大学に進む子たち、
本当にすばらしい出会いに感謝しました。


最後にはみんなで今まで歌ってきた歌を次々にメドレーで歌いましたが、
子供たちの一生懸命歌う姿に、本当に感動。


自分が子どもの時、中高生の時もそう思ってきましたが、
歌って、みんなの前で聞かせようって時よりも、
みんなで「歌いたい!」という思いで、
空いた時間に、「歌おうよ」と歌った方が、ほんとっぽい。
そういう意味で、感動を新たにした夜でした。


さて、日曜日の聖書。
日曜日は出エジプト記の39:22-43でした。


「こうして、会見の天幕である幕屋の、すべての奉仕が終わった。イスラエル人は、すべて、主がモーセに命じられたとおりにした。そのようにした。彼らは幕屋と天幕、および、そのすべての用具をモーセのところに持って来た。」(32-33節)

この後には、そのもってきた用具のリストが一つ一つ挙げられています。
その一つ一つにどんな思いが込められていたことかと思わされます。
主が命じられたとおりに一つ一つ正確に、丁寧に作っていった職人達。

主が与えられる御霊の実の中に「忠実」というのがあるのを思い出しました。
何事もおおざっぱな私にとって、
この「忠実」というのは大きな課題です。
丁寧に丁寧に、真実を込めて、
忠実に主に仕えていく者でありたいと思いました。

この御霊の実も求めていこう、
自分の力で何とかしていくのではなくて、
主が与えてくださる実を主によって実らせて頂きたい、
そのように思いました。

今回のキャンプでも、その忠実の実を結んでおられる方々の、
支えがあって、このようにできたのだと思わされています。

「よい、忠実な僕だ」と天国に行ったときに言って頂けるように、
主に対して、真実で、誠実で、丁寧に従う者でありたいです。

主よ、
私はあなたから与えられるべき、
忠実の実を軽んじてきたのかもしれません。
自分はそういうのは向いていないと、決めつけて、
求めようともしなかったのかもしれません。
今日、あなたが与えてくださる、と約束された、
「忠実」のという御霊の実を求めます。
どうか、私も忠実な者とならせてください。



2009-07-01

エキサイティングな3日間。

お祈りありがとうございました。
写真だけUPし続けましたが、
おとといから2泊3日のキャンプに行ってきました。

数年前から、子供たちのために、
特に教会に来ている子供たちのために、
キャンプができないか、それも泊まりがけの・・・と
思ってきたのですが、
昨年、ファミリーキャンプの子ども集会で中心的に準備してきたメンバーの中に、
同じ思いが与えられて、
5つの教会から26人の子供たちが参加して、
楽しく、また熱く、また核心に迫る、キャンプをすることができました。

毎年のJOYJOYキャンプでは「教会が初めて」という子たちが、
かなりの割合を占めるので、入口の話だけになりやすいですが、
今回のキャンプでは、かなり深いところまで話すことができました。

帰った子供たちもお父さんやお母さんに、
どんな話をしたか、聞いたか、一生懸命話をしているそうです。

まあ、うちは家族全員参加だったので、
もう、疲れ切って、寝てるヤツがほとんどですが・・・。

感謝。ホントにエキサイティングな3日間でした。
お祈りくださった皆さんに感謝。

「日々のみことば」はもう一日休ませて頂いて、
あしたから、出来るだけ早く追いつけるようにがんばります。

上ると。

ハイキング中。

2009-06-29

キャンプ初日

待ちに待ったキャンプの初日。

子供たちはなんだか、やたら元気です。

早く寝かさないと。

2009-06-28

とりなし。

昨日はまた雨が降りましたが、
今日は一日雨も降らず、どんよりもせず、いい天気でした。
昨日は中高生を連れて、遊園地。
明日からは2泊3日で小学生キャンプです。


よく体が持ちますね、と言われますが、
自分でも不思議なくらい守られています。
でも、無理は禁物。
昨日は更新はギブアップ。
今日も明日に備えて、早く休みます。


さて、昨日、土曜日の聖書。
土曜日は出エジプト記39:1-21。


「これらの宝石は、イスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい、十二個で、十二の部族のために印の彫り物が、一つの名につき一つずつあった。」14節。

これは、祭司が身につけた衣装の宝石についての説明です。
祭司が12部族にちなんで12の宝石を身につけていた、
それも胸に付けていたことに、
祭司の大切な働きである「とりなし」について考えさせられました。

もう以前に書いたことがあったかもしれませんが、
ある方が、一つの集会で、息子さんのことで悩んでおられることを分かち合ってくださいました。
息子さんがいつも学校の帰り、一人で歩いて帰ってくる。
他のお子さんたちが仲間で固まって帰ってくるのに、
彼は一人で帰ってくる。
友だちができないみたいだ、どうしたらいいのか、
そんな悩みを抱えておられました。

その時に、私は「祈りましょう」と言って、
そこで祈りました。
その方にとって、そんな家族のこと、祈ってもらうのは初めて。
なんだか、戸惑う気持ちと共に、
「祈ったって・・・」という気持ちもあったことでしょう。

でも、その日の午後、息子さんが帰ってくる時間に、
いつものように「そろそろかな」と外を見ていたら、
彼がもう一人の少年と一緒に歩いてきたそうです。

その方は、「こわくなった」と言っておられました。
うれしかったというよりも、「こわくなった」と。
祈りが聞かれるって、私も思います、うれしいよりも、畏れを感じると。

そのことを思い出していた、ときに、
自分はどれだけとりなしの祈りを捧げているか、問われているように感じました。
教会のかたがたのことも覚えて祈りました。

そして、祈るべき一人の人のことを思いだました。
「一人の人」ってゆーか、ユキなんですけどね。

その方のお子さんのためにとりなしの祈りをした、
そして、それが聞かれて、ひとりの方が神様との出会いを経験した、
そんな経験を与えられていながら、
自分は自分の娘に本当に波長の合う仲間が与えられるように、祈ってきただろうかと。
けっこう一人でいる時間の多い彼女のために、
共に人生の問題を語り合ったり、
祈り合ったりすることのできる友人ができるように、祈ったことがあっただろうかと。

他の人のために祈ることはあっても、
どうしても家族が後回しになっている自分がいます。

兄妹の中でも一番何も要求しない娘であるが故に、
一番後回しになってしまうヤツです。

祭司が民のために祈ったように、
主イエスが私のために祈ってくださっているように、
私も教会の一人一人のことを、また家族のことを、とりなしていくことができますように。

主よ、
イエスさまが私のためにとりなしをしてくださっていること、
心から感謝します。
私もとりなしの祈りを捧げさせてください。
教会の一人一人のために、
そして、家族のために、
出会いが与えられた一人一人のためにとりなしの祈りを捧げる者とならせてください。


早速、とりなしのお願いです。
明日から2泊3日で教会の小学生のキャンプに行って来ます。
子供たちが、イエスさまをはっきりと知って、救い主として、お迎えすることができるように、お祈りください。