2020-03-13

2020レント第3回「ペテロのための祈り」ルカによる福音書22:31-34

今年は「イエスの苦難の中での祈り」というテーマで学びの時を持っています。

 1回目と2回目の学びの中では、十字架に向かって歩まれるイエスが、父なる神との関係の中で、祈りの中で力を受けて歩まれた姿を読みました。「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」である三位一体の神は永遠の交わりの中におられるのですが、その「子なる神」がイエス・キリストとしてこの地上を歩まれた時に、「父なる神」「聖霊なる神」との交わりは、「祈り」という形で私たちの前に表されました。イエス様にとっては、その祈りこそがまさに命綱だったのです。
 日曜日の礼拝(http://jccofnj.org/202038-『神の子の特権』/)でお話をさせていただいたように、「神の子である」「父なる神との信頼関係の中に生きる」ということはイエスにとって、本質的なことでした。アイデンティティーに深く関わることでした。そして、イエスによって「神の子」とされた私たちも、同じように父なる神との交わりに招かれており、「三位一体の神」の交わりの中に招かれているのです。

 3回目の今回と、4回目の次回は、イエスの弟子たちのための祈りに焦点をあてます。

今日は特にペテロのための祈りです。

1)サタンの策略
 22節に「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された」と書かれています。それは「麦を殻とをふるいにかけて分けるように、イエスと弟子たちとを別れさせる」ことでした。サタンの元々の策略はイエスを十字架にかからせないことでした。イエスの生涯の中で、何度「十字架なんてやめておけ」と語りかけてきたことでしょうか。しかし、それをことごとく退けて、十字架への道を歩み続けられたイエスの姿に、サタンは弟子たちを攻撃することにしたのです。
 たとえ、イエスが十字架にかかられようとも、弟子たちがイエスから引き離されるならば、弟子たちがつまずいて去っていってしまうならば、それを伝える人々がいなければ、イエスの十字架は無駄になってしまうだろうと思ったのでしょう。

2)イエスの祈り
 イエスはサタンが弟子たちをふるいにかけることを知られた時に、たとえそういう事があっても、彼らの信仰がなくならないようにと、父なる神に、執り成しの祈りをささげられたのです。イエスと弟子たちとが物理的に引き離されてしまっても、信仰がなくならないならば、大丈夫だと知っておられたのです。
 イエスは弟子たちとずっと一緒に歩んでこられました。ですから、弟子たちのことをどれほど愛しておられたであろうかと思います。それとともに、弟子たちの弱さや、愚かさもよくご存知だったことでしょう。そのイエスは、たとえ、自分と彼らが引き離されても、彼らがイエスを信頼し、神を信頼して歩んでいれば大丈夫だと、「信仰がなくならない」ことを祈り求められました。
 その祈りは、弟子たちへの励ましの言葉にも現れています。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1-3

「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。」(ヨハネ14:18-19

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33

 今の私たちの置かれている状況も、本当に厳しいものです。共に集まって、礼拝を捧げ、祈り合い、励まし合うことができないことが、どれほど大きなことかと思わされます。しかし、今日も、主は私たちの信仰がなくならないように祈ってくださっています。

 また、反対に、教会に毎週行っているから、安心、ということは言えないこともわかります。大切なのは「信仰がなくならないこと」です。主への信頼の中で歩んでいるかどうかです。放蕩息子の兄息子がお父さんのそばにいたのに、そのお父さんの思いがわからず、お父さんに信頼を寄せることができなかったように、私たちが「神様に近くいる」生き方をしているように見えても、信仰がなくなっていることはないでしょうか?

 今も、私たちのために、私たちの信仰がなくならないように祈ってくだっている、とりなしてくださっている、イエスに感謝しましょう。



3)ペテロの応答
 ペテロは「イエス様、これからどんな事が起こるかわかりませんが、私のために祈ってくださってありがとうございます。これからも私がそのように生きることができるように祈ってください」と言うことができませんでした。彼は、そんなことはありえない、と思いました。そして、「イエス様、わたしは、獄までも、死に至るまでも、どこまでもあなた従っていきます。」と答えました。しかし、そんな彼にイエスは言われるのです。「ペテロよ、今日、鶏が鳴く前に、あなたは、私のことを3回知らないと言うだろう」と。

 このやり取りの中で浮かび上がってくるのが、ペテロの「わたしは大丈夫」という思いです。彼は自分の弱さを知らなかったのです。わかっていなかったのです。

 第1回目の学びの中で書いたとおり、イエスの十字架への歩みの始まりは、ペテロ自身の信仰告白です。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とペテロが信仰告白をしたところから、イエスはご自分が苦しみに遭われることを弟子たちに分かち合い始められました。

 それからのペテロの言葉を拾ってみます。

マタイ16:22-24
22この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。 22すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

・・・ここでは、ペテロはイエスの言われたことをはっきり否定して、自分の考えを押し付けようとしています。

マタイ17:4-5
 4ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 5彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。

・・・ここでは、ペテロはイエスに対して「もっとここにいましょう」と提案してますが、天からの声が、「あなたはイエスに聞くのだ」と命じられます。

マタイ18:21-22
21そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 22イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

・・・これは、普通は3回までと言われていた、赦しを、頑張って「7回まで」、と言ってみたのですが、イエスは「どこまでも赦すのだよ」と言われるのです。

マタイ19:27
27そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。

・・・ここでは、自分がイエスのために「ここまでした」ということをアピールしています。

ヨハネ13:8
8ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

・・・ここで、ペテロは、自分はイエスに足を洗ってもらうべき者ではなく、自分がイエスのためにすることのほうが大切だ、言いたかったのでしょう。

 ペテロはずっと、イエスのために何かをすることに一生懸命でした。それ自体が間違いではないでしょう。しかし、それと共に、それ以上に、それ以前に、彼は、イエスが自分のためにしてくださることに注目する必要があったのです。「わたしはあなたのために祈った」と言われた時に、自分が祈られなければならない存在であることを彼は知らなければならなかったのです。

 実際、ペテロはこのあとイエスのことを3回「知らない」と言ってしまう経験を通して、自分の弱さを徹底的に知らされます。それによって、神に用いられる存在となっていくのです。

 あなたはどうでしょうか?どうしようもなく「祈ってもらわなければならない存在」であることを知っているでしょうか?

 主は今日もあなたのために祈っていてくださいます。信仰がなくならいように祈っていてくださいます。感謝しましょう。そして、あなたのために愛と恵みを注いでくださる主に感謝して歩んでいきましょう。