2007-02-17

御言葉によって成長する

昨日は朝が-10.8度、
最高気温が-1.1度で、
火曜日から続く氷点下の日々が4日目。
でも、今日あたりはこれを脱出しそうです。

この後21日くらいと、26日くらいに天気が崩れそうですが、
もう、ここまで寒い日が続いたし、
とにかく一回雪が降ったし、
もう春になってもいいかなあ、と思います。
「おお雪だあ!」という興奮も今年はあんまり感じなくて、
年かも・・・。

日本ではNHKの「受信料」っていうものがありましたが、
アンテナでテレビが見えていましたよね。
でも、ここら辺ではケーブルが主流。
アンテナ立っている家もありますが、
室内アンテナとかでは全然見えません。
学生をやってて、寮に入っていたときは、
学内ケーブルでは日本語放送が見れなくて、
でも、どうしても日本語放送見たくて、
「高性能室内アンテナ」っていう50ドルくらいのヤツを買って、
窓にぴたっと貼り付けて、見てました。

でも、ここではケーブル。
そこに最近参入してきたのが、
ファイバーケーブルのTV。
電話やさんのV社が、ケーブルテレビのC社よりも、格安で参入してきました。
インターネット接続も早くて、安定していて、安い。
どうしようかなあ、と思っていた1月の半ば。
個別訪問のセールスにやってきました。
そんなの普通は相手にしないのですが、
今回は興味があったのと、より安くなる・・・これに弱い・・・、プラス100ドルのギフトカード・・・こういうのにも弱い・・・、最初の1ヶ月は無料、最初の1ヶ月以内の解約はペナルティーなし、ということで、話に乗ってしまいました。

設定には3日くらいかかっていましたが、おおむね満足。

まだ最初の請求書が来ていないので、
どれくらいお得なのか分りませんが、
ま、いいかな、と。

ちなみに電話はV社とは別のIP電話で月々20ドルくらいで済んじゃいます。
・・・V社にまとめる方が高くつく・・・
でも、ウチの場合は自宅内でも携帯の電波がいいので、
そのうち、一人一本ずつの携帯があれば、ウチの電話はいらなくなってしまうのでは・・・
なんて思い始めています。

あ、そうそう、何でも競争があるってのはいいみたいで、
C社のケーブルをキャンセルするときに、
「どうして?」と聞かれて、「乗り換えるんだ」と話したら、
「もっと安くするよ!」と言われました。
「もう遅いよ!」と答えたのですが、
はったりでもいいから、「もっと安くしてくれないと乗り換えちゃうよ」というのはいいかもしれません。
何事でも、交渉ですから、この国は。

昨日の聖書。
昨日はペテロ第1の手紙の2章でした。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」2節の言葉です。

御言葉によって成長する。
これの大切さを思わされました。
いいお話はたくさんあります。
言葉だけではなくて、いろんな暖かい態度や行動によって癒されます。

でも、御言葉には特別な力があります。
そのことを最近何度も何度も教えられています。

自分は口では「御言葉です」と言いながら、
ほんとうにその御言葉の力をどれくらい経験してきたか、
どれくらい信頼してきたか、
もう一度探られるような思いがしました。

私自身、御言葉によって成長する、ということを経験させて頂きたいですし、
教会のお一人一人が御言葉によって成長する、ために何ができるか、を
求めていきたいと思います。
励ましていきたいと思います。

主よ、
あなたの御言葉を感謝します。
御言葉によって私自身、成長させてください。
御言葉によって歩ませてください。
実を結ぶ者とならせてください。
そして、そのような教会形成をすることができますように。

2007-02-16

今日はお休み

毎月第3金曜日は、
夜我が家で集会があるので、
夜の更新は無理。
気持ちのいい集会で、
疲れはないのですが、
やっぱりまた明日の朝ゆっくり更新します。

今夜も寒いです。

ではでは。

2007-02-15

聖なる者となる

今日はまた寒い一日でした。
朝は-10度。
昼間の最高気温は-5度。
そして夜の10時でまたまた-9度。

これで氷点下daysは連続3日目です。
シカゴとかは連続19日にもなっているようですが・・・。

明日も寒い一日でしょう。
もう一日は確実に氷点下です。

でも、この寒波ももう出口が見えてきているみたいで、
あと一週間ほどで10度くらいまで上がる日も出てくるようです。
春はもうすぐです。

「証し」の第12章。

私は4人兄弟ですが、
それぞれ個性的ではあります。
その中で、兄貴はさすが長男!というところがあります。

その兄貴、名前は「氷小豆」(仮名)と申しますが、
子供の時から「ボクは牧師になるんだ!」と言っておりました。
そして、何においても一生懸命。
そして、積極的でした。
そしてまとめる力もありました。
うらやましいヤツでした。
というか、次男のかきごおりはそのように思っていました。

いつも兄貴のようになりたい。
いつも兄貴はいいなあ、と思っていました。
算数では負けない自信がありましたが、
リーダーシップや信仰ではかなわないと思っていました。
一生懸命友達を教会に誘ってきたり、
友達に神様の話をしたり、
「子供週報」とかを小学校5年生くらいから作って、
マンガとか書いて、配っちゃう氷小豆君にはかなわないと思っていました。

私の教会では、というか、私の中ではいつの間にか「氷小豆神話」が生まれていました。
「氷小豆はすごい」「氷小豆君はいかにも牧師になったらいい、という感じだよね」
そんな声が聞こえてきました。
それは、「うらやましい」と思うと共に「自分にはできない」という劣等感を持っている次男かきごおりには、「氷小豆君はいいけど、かきごおり君はねえ」という声に聞こえてきてしまうんですね。

ですから、第11章の「君は牧師には向いていない、止めた方がいいよ」というKGKの主事の言葉はいつもいつも自分の心の中にあった声でもあったのです。

「だよね・・・。やっぱ、向いていないよね。兄貴みたいに伝道もできないし、リーダーシップもない。クリエイティブなこともできない、話も下手。赤面症、恥ずかしがり屋・・・、向いてないよねえ」

それから悩みました。

そんな中で参加したのが、またまた「大島泉の家」のキャンプ。

集会の後で祈っていました。

「神様、どうしたらいいんでしょうか?私はあなたが召して下さったと思って牧師になろうと思いました。でも、客観的に見たら向いていないんです。兄貴のようにはできません。でも、止めてもいいんですか?止めた方がいいんですか?・・・」

しばらく祈っている中で、聖書の言葉が心に響いてきました。

「私の力はあなたの弱いところに完全にあらわれる」第2コリント12章9節の言葉です。

「ああ、神様の力だ、イエスの力だ、その力が私の『向いていない』ところに完全にあらわれるのだ。だったらいいじゃないか、だったら、神様の力を見せて頂こう。完全な力を見せて頂こう」そう思いました。迷いは完全に吹っ切れました。人の言葉も怖くなくなりました。ホントは人の言葉ではなくて、自分の劣等感だったのだと思います。でも、それでもいい、自分の弱さは自分が一番知っている。その弱さに神様の力を表して頂こう、と思いました。

そして、今、はっきりと申上げられることは、この聖書の言葉は、単に劣等感に捕らえられている人を励ますための言葉ではなく、事実なのだ、ということです。ほんとうに主は私の弱いところにご自分の力を表して下さってきた、ということです。私の弱い、不十分なところ、よくわかっていないところ、未熟なところにその力を表し続けて下さったのだということを思います。そして、これからも、この方は私を用いて下さるのだ、ということを信頼して言うことができます。

さて、今日の聖書。
今日はペテロ第1の手紙に進んでその第1章です。
「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」15節の言葉が心に留りました。

「聖なる者」
何か仙人のようになってしまうような感じがします。
世離れしてしまうような気がします。
それは誤解だろうという気持ちもあります。
でも、誤解ではなくてもいいのかもしれません。

「聖なる者」となりたいと単純に思いました。
聖書に書いてあるんだから。

「聖書にはそう書いてあるけど・・・」という生き方もあります。
でも、私は「聖書にはそう書いてあるから・・・」と生きたいと思いました。
そのように書いてあるんだから、神様に「聖なる者」とされたい、と思いました。

「聖」とは「他のものと区別された、特別な」という意味があると言われます。
神様に焦点を合わせた、
神様のみこころに焦点を合わせた、
神様の言葉に焦点を合わせた歩みをしたいと思います。

昨日の佐藤彰先生の言葉のように、
その背後に神様が見えてくるような、そのような者となりたいと思います。
神様がこの人と共におられる、ということがクリスチャン以外の方にも見えるような、
土の器である私の中にあるキリストという宝が輝き出るような者でありたいと思います。

主よ、
私をきよくしてください。
私を聖なる者として下さい。
あなたのことを指し示す、
あなたのすばらしさを表す者とならせてください。



2007-02-14

祈りの力

今日は朝早く起きたらsleetが降っていました。-7.7度C。
そして最高気温は-2.2度。一日中氷点下。
予定されていたメトロポリタン美術館の宗教画ツアーも中止になって、
朝9時頃、NYに車で行きました。道は結構シャーベット状で時速30マイル=50kmくらいで走っていました。NYに入ったらきれいになるだろうと思ったら、どうしてどうして、歩道も車道もぐしゃぐしゃ。こんな日はいくらNYでもスノーブーツですね。失敗しました。スニーカーで出かけた自分。日本の「つま先用ホッカイロ」が役に立った一日でした。
1時過ぎからは外は吹雪模様。NYにいると降っているのか、ビルの上から風で飛ばされているのか分りませんが、とにかく横殴りの雪が降っていました。
夕方からいろんな方にお会いして、帰ったら10時半。
帰りはすいすいでした。

雪の中の運転、ひどいのは嫌ですけど、ちょっとシャーベットくらいは緊張感があっていい感じです。

今は夜の11時半で、気温は-9.1度。今夜も鬼のように寒い夜です。

「証し」の第11章。

それから2年。大学の4年生になっていました。

お茶の水の学生キリスト教会館、現在のお茶の水キリスト教センター、略してOCCの2階男子トイレの中。一緒に奉仕していた仲間と連れだって用を足していたところにやってきたのが、KGKの主事。KGKは「キリスト者学生会」の略。KGKの主事の方の中には若い方も多いのですが、この方はすでにこのころ、かなり貫禄がありました。

「かきごおり君、牧師になるんだって、やめたほうがいいよ、向いてないよ。○○君、きみなんかどうかなあ。君、牧師になったらいいよ!」

自分が向いていないことなんて人に言われるまでもありませんでした。自分が一番よく知っていました。でも、ここまではっきり言われたことはずっと押さえていたことを表面に引っ張り出すのに十分な効果を持っていました。

さかのぼること4年半。高校2年生のかきごおり少年は理系に進むか文系に進むか迷っていました。将来どんな仕事をしたいか、と考えたときに、一つ当たり前のように出てきたのは、「天気予報のおじさん」。これは私にとっては非常に自然なことでした。今でこそ、「お姉さん」が多いのですが、そのころの天気予報は大体おじさんでした。それも真面目そうな地味系のおじさんでした。その天気予報のおじさんになりたかったのです。そうすると、ぜったい理系ですよね。気象大学校には入りたいと思っていました。もう一つは、「牧師」。これは親の姿を見て、そのような思いを持ちました。また兄が「牧師になるんだ」とよく言っていましたから、「お兄ちゃんがなるなら、ボクもなる」的な気持ちもありました。でも、もちろん、高校生くらいになると、そんな気持ちでは動けないことなんてさすがに分ってきます。悩みました、祈りました。

そして、高校3年生の履修科目を決めなければいけないその直前に、一つの言葉が、心に響いてきました。それは私が、「もしも伝道者になるなら、この言葉によってだけはいやだなあ」と思っていた言葉です。もっと違う言葉を語って欲しかったです。でも、この言葉が心に与えられました。与えられたら、もうかっこいいとか悪いとか、そんなことはどうでも良くなります。

「収穫は多いが、働き人が少ない。」マタイ9:37の言葉です。

この言葉を心に語られて、自分は牧師になる決心をしました。
そして、少しでも役に立つかと思い、文系の大学、「社会学部」を受けることにしました。
実際はあんまり関係なかったかもしれませんが・・・。

そして、「神様が私を召して下さったんだ」との思いを胸に大学4年になっても、就活もせずにいました。
大学の仲間達は売り手市場のそのころ、4月から、どんどん銀行に、商社に内定が出ていました。
その様子を見ながら、このまま牧師になるための学校に進んでいいのだろうか、そんな迷いを持ちながら過ごしていた春。主事の言葉が心に突き刺さりました。

「だよね・・・」

今日の聖書。
今日はヤコブの手紙5章でした。

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」16節の言葉です。

祈ろうと思いました。
祈りは聞かれる。
祈りは私を変える。
祈りは平安を与える。
祈りはひらめきを与える。
祈りは主からの語りかけに耳を澄まさせる。

いろんな出来事の中で、いろんな思いが駆けめぐる心。
でも、私には主がおられる。
祈るときに何が起こるか見せて頂こう。主の奇跡を見せて頂こう。
祈ろう。

今日読んだ、佐藤彰先生の著書から
「あなたが神様の前に出て静まり、祈りの時を持つなら、『ああ、この人の背後には神様を感じる。人生経験は私の三分の一しかなくても、この人は神様から立てられた人だ』ということにもなり得るのです。」(「教会形成の喜び」より)

主よ、祈ります。
どうか私を守り、
家族を守って下さい。
教会を守って下さい。
一人ひとりの心を守って下さい。
そして、何よりも御言葉によって支えられて、
御言葉によって砕かれて、主に従う者たちが起されますように。

2007-02-13

神に従う

今日はまた再び氷点下Day。
最高は未明の-0.2度C。
明け方-5度くらいに冷え込んで、
昼間ちょと上がった後、
夕方からどんどん冷え込んできています。
今は夜の9時半ですが、雪で-7.5度C。
うっすら白くなっています。

この後、温度はもう少し下がった後、
上がっていくでしょう。

そして、明日の朝には雪からIce Stormに変わっているでしょう。
Ice StormはSleetとFreezing Rainがありますが、
Sleetは雨が降ってくる途中で凍った氷の粒。
Freezing Rainは途中で凍らなかった雨が、
地面についたとたんに凍り付くやつです。
これはスケートリンクになります。
木や電線に凍り付きます。

場合によっては気温が氷点下を脱するかもしれません。
そうしたら、今度は雨です。

そして、午後はまた雪に戻るという予報が出ています。

と思って外に出たら、もうすでに雪からSleetになっています。

「証し」の第10章です。

「君はほんとうに傲慢な人間だね」と言われて、
どういう意味か分りませんでした。
自分のような、自分の愚かさ、醜さ、偽善性に落ち込んでいる人間は
「傲慢」なんかじゃない、砕かれているんだ、
と思いました。

でも、そんな気持ちを知っておられたのかどうか分りませんが、
先生は続けました。
「君はまだ自分に期待しているのかね。君はもう、あのキリストの十字架に共につけられているんだよ」と。

その時に、私は初めて分りました。
自分が一生懸命がんばっても、
せいぜい偽善者止まり。
外側を繕うことくらいしかできないからこそ、
そんな人間だからこそ、
イエスは十字架にかからなければならなかった。

自分でがんばって立派な人間になれるなら、
イエスは十字架にかからなくてもよかった。

自分がそんな立派な人間ではないから、
イエスは自分を投げ出されたのだ。

そして、その時に、子供の頃から耳にたこができるくらい何度も何度も聞いていた、
「神の愛」「十字架の愛」が自分に注がれていることが頭ではなく心で分りました。
こんな偽善者にしかなれないような人間のために、
命を投げ出して下さった方がいる。
そこまでして下さった方がいた。
その事実に、ほんとうに愛されている喜びを感じました。

大げさではなくて、
今もその愛が自分を生かしている。自分を動かしている。
そう感じます。

それまでは、人がどう思うかが私を動かしていました。
人の期待に応えるのが自分にとって一番大切なことでした。
こう期待されているから、こうしたい、(逆に、したくない、と意固地になったこともありました)
そのように生きてきました。
でも、この時からは、「ありがたい」「私には何ができるだろうか」という思いが、
私を動かすようになりました。

ここから、「伝道」が楽しくなりました。

さて、今日の聖書。
今日はヤコブの手紙の4章でした。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。」7節です。

単純な言葉ですが、
この言葉が私の心に留りました。
神に従う、
当たり前のことですが、
そのことにしっかり立っていきたいと思いました。

調整型の生き方をしてきたかもしれません。
あちらも立ててこちらも立てて・・・と。
でも、本気で神様を信頼して、
神様に従ってきただろうかと反省させられました。

本気で神様に従っていきたいと思います。
軋轢もあるかもしれない、
批判を受けることもあるかもしれない。
でも、主に信頼して、
主に従って歩んでいこうと思います。

主よ、
どうか私を導いて下さい。
私に語り続けてください。
そして、私が大胆にあなたに従っていくことができますように。
本気で従っていくことができますように。
勇気と愛を与えて下さい。

2007-02-12

BかMか

今日は暖かくなりました。
朝は-6度でしたが、昼間は5度まで上がりました。
でも、今、北の方から冷たい空気が下がってきています。
今夜はまたかなり冷え込むでしょう。

そして、明日の夕方から雪です。
昨日の朝までのBlizzardの声に変わって、
Mixed Precipitationの声が広がっています。
暖かい空気が南や東から入ってきて、
雪がSleetやFreezing Rainに変わるということです。
もっと暖かくなると、「雨」なんですが、
NYCはそうかもしれませんが、ここら辺は微妙みたいです。

まだまだ分らない状況です。
「大したことはない」
「Ice Stormで電線がやられる」
「吹雪でwhiteout!」
いろんな可能性があります。

積雪量も3-5センチから15センチ以上までいろいろありますが、
さすがに30センチ以上を予想するところはないみたいです。

明日にはもうちょっとはっきりすると思うのですが・・・。

今日はまた遅くなったので、
聖書の言葉に行きます。

今日はヤコブの手紙の3章を読みました。
「いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。」12節の言葉です。

結局、表面的なことではなく、
中身なんですよね。
中身がきよめられていないと、
どんなに表面的にいいものを出そうと思っても、
それは出るわけがない。
だから、いつもいつも心の内側に気をつけなさい、ということ。

心の中にあるものが表面に出てくる、
外側に出てくる。

だから、いつもいつも神様の前に歩む、
神様と共に歩む、
心を主に支配して頂く、
それがどれほど大切かと思います。

表面的にかざってもしょうがない。
一時的にだまされる人がいても、
やがて、ばれていく。

「隠れているもので、明らかにされないものはない」

主よ、
心の内側に目を留めます。
きよめてください。
砕いてください。
満たして下さい。
あふれて下さい。
外側はついてくる。
それを単純に信じて、歩ませて下さい。

2007-02-11

行いと共に働く信仰

今日も2日連続でプラスになりました。
朝は-8度くらいまで下がりましたが(ちゃんと記録していない)、
最高気温は1.9度まで上がりました。
今も夜の9時半ですが、まだ-3.3度です。

明日までは比較的穏やかな天気でしょう。
問題は火曜日の午後から水曜日です。

南にそれるという可能性はほとんどなくなってしまったようです。
水曜日の降水確率は100パーセントをつけるところも出てきてしまいました。
問題は、低気圧が昨日の予想よりも内陸を通るという可能性が出てきて、
雪が雨に変わるかもしれないと言うこことです。
変わらなければ、30センチから60センチくらいの大雪、
プラス強風のBlizzardになる可能性もあります。

48時間後の予報ですから、だんだん確率が上がってきます。
1996年1月のBlizzardの時にも、
あれは日曜日の昼頃から降り始めて、月曜日の昼まで24時間降り続いたのですが、
降り始める36時間前までは、「南にそれる」と言っていたのが、
24時間前には「こちらに来るでしょう」
6時間前には「この雪はインチではなくてフィートで測る雪です」と予報を変えてきました。
その日の朝のスーパーマーケットの買い物する人たちの目の色が違ったのを驚いて見ていたのを、
思い出します。

水曜日はメトロポリタン美術館の宗教画ツアーの予定があるので、
大雪はゴメンしたんですが・・・。

accuweather.comのHenryさんのブログを読むと、
「すごいのがくるぞー」と大騒ぎをしています。

さて、どうなることでしょうか?

今日は日曜日でした。
ちょっとお休みだった方もいつもより多かったのかなあ、と思います。
でも、今日の良かったのは、礼拝の後、
時間があったこと、あまり「ミーティング」「ミーティング」に忙殺されないで、
ゆっくりいろんな方とお話ができたこと。
私にとって、ほんとうに大切なことだと思います。

今、教会は自分たちの会堂を持つために動き始めています。
夕方には売りに出ているユダヤ教の会堂を見に行きました。
いいですねえ。
それなりの金額はしますが・・・。
神様が私たちをどこに導こうとされているのかまだ分りませんが、
楽しみです。

でも、それ以上に楽しみなのは、
神様がこのことを通して、どのように私たちを取り扱おうとされているかです。
私たちを御言葉によって取り扱い、整えて下さるかです。
それをもっともっと祈って、もっともっと神様のすばらしさを語り合って、
すばらしい御業を見せて頂きたいと思います。

今日の聖書。
今日はヤコブの手紙の2章を読みました。

心に留った言葉は、
「彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ・・・」という22節の言葉です。

信仰は行いが伴わないと、意味がない。
ほんとうにそう思います。
「信じている」と言うことは簡単です。
でも、それは行動にならないものでは、「信じている」ということにはならないのです。
信じているなら、そのように行動するはずです。
信じているなら、そのような言葉が出てくるはずです。

言葉だけの人間にならないでいたいと思います。
信じているなら、主を信頼しているなら、
聖書の御言葉を信頼しているなら、
そこに自分の人生をかけていく者でありたいと思います。

生活自体が神様の支配の元で守られていくようにと願います。

主よ、
どうか、私の信仰が、
あなたに対する信頼が、
私の人生を、生活を支配するように、
守って下さい。
生きた、ホンモノの信仰に生かしてください。
教会の中にもそれがあふれますように。