2010-05-07

「モンスター」にされないために。

今日は爽やかないい天気でした。
でも、今夜これから、天気は急速に下り坂。
明日の朝は激しい雷雨の可能性があります。


午後には晴れてくるみたいですが、今度は風が強くなりそうです。
日曜日は先週とは打って変わっての肌寒い風の強い日になるみたいです。


最近読んでいるBill Hybelsの本の中の一節。


「誰かとの人間関係が断絶した場合、すぐに対応しないとしたら、それは相手を串に突き刺すようなものです。あなたは何度も何度も串を回転させ、そのうち怒りの火が燃え上がるようになる。あなたはその人の悪いところを次から次へと考え出す。怒りの火であぶり続け、気づいたら、相手は変わり果てた姿になっているのです。この時点では和解することなど、全く考えられません。そう、これは殺人です。ここまで来ると、謙虚になって相手を赦すことなどできない、ということになるのです」


彼はそう言って、早く対応することを勧めている。


これは幸せなことなんだろうけれども、
私は人間が根本的にいいヤツばかりだと思っている。
ちょっと困ってしまうような人がいたとしても、
それはその人がそうせざるを得なかった事情があるわけで、
そんな悪いヤツはこの世にいないと思っている。
まあ、脳天気な人間だ。


でも、この文章を読んだ時に、
「自分は誰かをモンスターにしてしまうことはないかもしれないけれども、もしかしたら、自分は誰かにとって、とんでもないモンスターになってしまっているかもしれない」と思わされたのだ。


誰かが私を串に刺して、怒りの火であぶり続けているかもしれない、
そう思ったら、なんて、自分はうかつだったのだろうかと思った。


自分が「結局はみんないいヤツだ」と思っているから、
いつの間にか、「みんなも自分のことをそんなひどいヤツだなんて思うわけがない」とたかをくくっていたのだ。


でも、それはとんでもない思い込みで、自分はモンスターにされてしまうかもしれない、ということに気がついたのだ。


自分が誰かをモンスターにしてしまわないようにしよう、そのようにいつも思っている。でも、それと共に、私自身も誰かの心のなかでモンスターに化けているようなことがないようにしなければいけないのだ。そして、それはその人の心をしばり、蝕んで行く。


そのような事にならないように、自分の方から、心を配っていくこと、感情的なわだかまりがある時に自分の方から、「誤解されていないか」とわびていくこと。コミュニケーションをとっていくこと、そして、私であれ、他の誰かであれ、串刺しにして、火で炙っている人がいたら、「早くそこから抜け出せるように、行動を起こしなさい」と勧めていかなければ、そして、そういうことに囚われたときに相談したくなるようなオーラを発していかなければ・・・。


大切な事だと思わされました。


さて、今日の聖書。
今日は42:1-14。


「どうぞ、私たちの願いを聞いてください。私たちのため、この残った者みなのために、あなたの神、主に、祈ってください。ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」2-3節。

この人達は、このとき、どこまで本気だったのだろうか?
どこまで、神様に真実に従うつもりだったのだろうか?
もう少しストレートに言うと、
どこまで、エレミヤが言う神様のメッセージに聞くつもりだったのだろうか?

結果として、彼らはエレミヤを通して語られる神の言葉に聞くことができなかった。

でも、それはこの人達が最初から、いい加減な気持ちだったことを表しているのだろうか?それとも、彼らはこの時点では、本気で従うつもりだったのだろうか?

私はこの後者のような気がしている。

それなりに真剣だった。
でも、現実に自分が願う道が閉ざされて、違う道が開かれた場合、
そこに進むようにと語られたときに、従うことができなくなってしまった。
そうなのではないだろうか?

そして、それは私たちの人生にありがちなことではないだろうか?

本気であることは大切なこと。
でも、それに負けないくらい、じゃなくて、それとは全く違うレベルで、
自分の弱さを知っている、自分の弱さに泣いている、
それがもっともっと大切な事だと思う。

「信じます。不信仰な私をゆるしてください!」と悪霊につかれた少年のお父さんはイエスに懇願しています。

私はそれこそ、信仰なのだと思います。

信仰という最高のものの中にも自分の弱さを見せつけられるのです。
でも、そこにこそ、自分の弱さを知ったところにこそ、
神様の御業がなされていくのです。

主よ、
私の中にある弱さをあなたはご存じです。
それをも用いて、あなたのご栄光が表されますように。
従えない私を赦してください。

2010-05-06

20年目の再出発。

昨日は私達が結婚して20年目の記念日でした。
本当に赦され、支えられてきたことを思わされました。


そして、昨年の夏に日本から持ってきていただいた
「ファイアーストーム」見ましたよ。とうとう。
もともとは、はちこさんのところで、Fireproofという英語の題で紹介されていて
その後、日本語版が出たと、でも、題が何故か「ファイアーストーム」となってしまったと、紹介されていて、見たいと思っていました。そしたら、集会にこられていた方が何の気なしに図書館で借りたらそのDVDだった、とても感動したと、言っておられました。


ウチの場合、英語版だと自分も不完全だし、のんちは、絶対寝ちゃうから、日本語版じゃないと・・・ということで、去年、わざわざ日本のアマゾンから日本の知り合いのところに送ってもらって、JOYJOYキャンプのヘルプのために来るときに、持ってきていただいていたのでした。でも、何故か、日本のDVDが見れる機械が見当たらない。どうしても見つからない、ということで、のびのびになっていたのでした。


この機会を逃してはいけない、と、PCを1つ日本のDVD専用にしてしまう決意で、PCの前に二人で座って見ましたよ。


よかったですねえ。
特に最初の二人の言い合いの場面。
あるある〜と互いに心が痛みながら、苦笑いしながら見ていました。


もうひとつは、主人公が限界のところに来た場面かな。


本当にイエスの恵みを思わされました。


そして、主の前に、再出発を祈り合って、今日の朝を迎えました。


今日は我が家での家庭集会、先月一回休んだので1ヶ月ぶり。
祈りつつ、楽しみに待ち望んでいました。
でも、連絡する方が次々と「ちょっと用事が・・・」なんですよね。


でも、小さな集まりでも、主が送ってくださる方は、特別に祝福してくださるから、と祈って時間を迎えたのですが、なんと、どなたも来られない。


いつも楽しみにしておられる方々が数人おられるので、少なくても5-6人にはなるのですが、今朝は二人で始めることに。


でも、祈っていましたから、平安がありました。
いろんな理由はあるでしょうし、私自身の問題もあるかもしれませんが、でも、すべての背後には主がおられて、その主が今日はどなたも来られなかったということは、特別に二人で集会を持ちなさい、特別な時を持ちなさい、と言われていることを感じました。


そして、本当に幸いな時となりました。
主の前に、普段できない話も沢山して、賛美もして、聖書を共に読んで、立ち上がりました。


ここから教会を育ててくださる。
この二人の関係から教会を建て上げさせてくださる。
そのことを思わされました。


日曜日からずっと一直線につながっているように思います。


主がすこしずつ、その心のなかにあることを、私に分かち合ってくださっている喜びを感じています。


さて、昨日から今日の聖書。
エレミヤ40-41章。
実は、昨日も「この後どうなるんだろう」と思ったら、止まらなくて、日曜日のところまで読んでしまいました。もう何回も読んで知っているところなんですが、毎回ハラハラさせられます。

「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているのだ」40:16。

ゲダルヤは、「あなたのことを暗殺しようとしている者がいる」と忠告する人がいても、「何を言っているんだ?」と取り合わなかった。それだけではなくて、彼を守ろうという人達に「あなたは偽りを言っている」と語っている。

でも、実際にゲダルヤはイシュマエルに殺されてしまう。

人を信じたい自分。

いつでもひとを信じていていたい。バカを見てもいいから、裏切られてもいいから、ひとを信じていたい、そう思っている。

それが正しいとさえ思っている。

でも、今日の聖書箇所を読むと、現実に目を背けて、実際の人の心を見ないことは、やはり愚かなことなのかなあ、と思います。

逃げているのかもしれない。
わかっているのに、目をそらして、ちゃんと正しく対決したり、誤解を解いたり、そういうことをしないのは、やはり不誠実なんだろうと思う。

何度も書いているテーマだけれど、
アンパンマンと同じで「愛と勇気」は本当に大切だと思わされた。

主よ、
ありがとうございます。
20年目の再出発を感謝します。
もっともっと愛することを教えてください。
また逃げない愛を与えてください。

2010-05-05

立ち上がる前に。

朝になりました。
涼しい、爽やかな朝です。


今日は一日綺麗に晴れそうです。


昨日の朝、夢を見ました。
「私はあなたにこれから私の心の中を明かす」と神様に言われる夢でした。
それと同時に目覚ましがなりました。


ですから、すかっと目覚めて、「夢だしなあ・・・」「でも、神様が何か特別なお考えがあって、あんな夢を・・・」と思い巡らしながら、わくわくしながら教会に向かいました。


ちょうど、神様の導きを祈っていることが幾つかあったので、ビジョンが与えられることを願いながら。


でも、向かっている車の中で、与えられた思いは「悔い改めなさい」だったのです。


日曜日は子どもたちと大人と一緒にメッセージを聞く、という礼拝でした。難しさを感じながらも、子どもたちにも我慢させないで、でも、それと共に大人の一人ひとりが神の声を聞くことができるようにと祈りながら、語らせていただきました。


説教題は「さあ立ち上がろう」
聖書箇所はマタイ28:16−20。
復活のイエスが弟子たちに使命を与えて派遣するところ。


その中で、復活のイエスの前にひれ伏した弟子たちの姿に触れながら、「立ち上がるためには、普通は座っているところから立ち上がるんだけれども、神様のために立ち上がるときには、主の前にひれ伏して立ち上がる」「それまでもイエスの前にひれ伏した人たちはいたけれども、みんな『助けてください』ということでイエスの前にひれ伏した。でも、この時の弟子たちは、イエスを神として、人生の王として、その前にひれ伏したのだ」と自分が語られたことを分かち合ったのでした。


それが、昨日の朝、心に響いてきて、本当にまさに、自分自身こそが、まず、主の前にひれ伏さなければ、主の前に悔い改めるべきことを悔い改めることなければ、主は用いてくださらない、そのことを思わされ、悔い改めに導かれました。


それこそが、主の御思いの中心なんだと思います。
でも、もっともっと御心を開いてくださることを楽しみにしています。


さて、昨日の聖書。
昨日はエレミヤ39:11−18でした。


「それは、あなたがわたしに信頼したからだ。」18節。

王に進言してエリヤを助けたエベデ・メレク。
主はその神への信頼に、特別な守りをもって報いてくださった。

主を信頼するものは慌てることがない、と。

私たちが神様に頼るのを忘れて、
人を恐れると、失敗をする。

主を信頼して、risk takingをしよう。

主がなしてくださることを見せていただきたい。

主よ、
あなたの事を信頼して、なすべきことをなす者とならせて下さい。
あなたの語りかけに感謝します。
続けて、あなたがみこころを示してくださいますように。


今日の一日がお一人ひとりにとって、幸いな一日となりますように!

2010-05-04

また明日。

今日は朝から、分かち合いたいことがあったのですが、
プライベートの方で、
ちょっと母の日(父の日も兼ねる)用に作業をしていたら
12時前になったので、もう休みます。
10年分の写真のデータの中から百数十枚をピックアップ。

では、また明日。

皆さんにとって、明日が、素晴らしい一日となりますように。

2010-05-03

寄り沿う。

今日は朝と夕方に一回ずつ激しい雨。
でも、その他の時間は穏やかな一日でした。
昨日ほども暑くなく、
夜になったら、昨日ほど蒸し暑くもありません。


明日はもう少しいい天気です。


にわか雨もあるかもしれませんが、
それほど心配ありません。


まだ薬は飲んでいますが、
先週とは全然体調が違います。
そして、何よりも頭と心がスカッとしています。


なんだったんだろうと思います。


パウロが自分の肉体の刺をとっていただけるようにと3回祈ったとありますが、私もアレルギーを取り去っていただけるように祈ろうかと思います。これからの季節、いちごやさくらんぼ、桃、梨など、大好きなフルーツがほとんど食べれないのも辛いですが、でも、この春の花粉の季節の厳しさ、取り去っていただきたいです。


でも、先週思わされたことがありました。
先週の金曜日、いろいろな仕事が溜まっている中でしたが、
迫りを感じて、ある方を訪問してきました。


90代のおばあちゃん。
いつもそうなんですが、
最初は「初めてですよね」と言われてしまいます。
(「博士の愛した数式」みたいだ)
そして、何度も「子供は何人?」「男、女?」「何歳?」と聞かれます。
同じことを何度もお話します。


でも、だんだん、だんだん、話が合ってきます。
話が広がってきます。
そして、だんだん会話になっていくんですよね。
これって、すごい、と思いました。


いつもほとんど日本語を使う場面がないおばあちゃんなので、
それもあるんでしょうが、日本語を使っていくと、
どんどんいろんなことを思い出してくる。


30分くらい話をしたあとで、
聖書を開いてお祈りをしようとしました。


でも、目も細かい字は良く見えませんし、
耳も、日本語、英語、中国語、みんなごっちゃになるのでしょうか、
それとも、私の発音の問題でしょうか、余り聞きとってもらえません。


何とか聖書を読もうと思って開きかけたところが、
昨日の礼拝の聖書箇所。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
というマタイ28:20にあるイエスの言葉。


でも、その時に思わされたのです。


「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように」というパウロの言葉。コリント第2の手紙(5月4日訂正・第1の手紙でした)です。


聖書の言葉が通じているか通じていないか、とにかく伝えて行く事の大切さも知っています。その力をも信じていますし、何度も経験させられました。でも、ここでは、自分がイエスの代わりにはなれないけれども、少なくとも、自分があと30分、ここでおばあちゃんと一緒にいることの方が、ここで一つの聖書を開いて帰るよりも、正しいと思ったのです。


聖書をそこにおいて、膝をついて、おばあちゃんに話しかけました。


「今日はおばあちゃんと一緒にいられて、ほんとに嬉しい。」と。
毎朝、わたしが祈りの中で、主に言っていただく言葉を思いながら。


だから、「とげ」があった方がいいのかな。
(言葉のとげ、じゃないですよ、肉体の弱さの方です)
トンネルの中では、「もう、何とかして欲しい!」と思うんですけどね。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ39章1−10節。


「ユダの王ゼデキヤとその全ての戦士は、彼らを見て逃げ・・・」4節。

神のみ思いを知っていながら、従えなかったゼデキヤ。
最後、彼はイザという時には、民を捨てて逃げてしまったのでした。

ネブカドネザル王によって滅ぼされることは、
エレミヤの予言で知っていたのに、
そこに従えなくて、最後は逃げ出す。

なんなんだろうかと思います。

でも、昨日も書きましたが、
人を責めるのは簡単ですが、自分はどうだろうかと思います。

本当に主に御声に従い、
最後まで逃げないで、自分の使命を果たす、
そのように歩みたいと、思います。
このことをイザという時に思い出して、
主に従い、責任を果たせますように。

主よ、
どうか、逃げることがありませんように。
主の導きに従い、主の与えてくださる使命に生きる者とならせて下さい。
あなたの使命を見極める目、聞き分ける耳を与えて下さい。

2010-05-02

JOYJOYキャンプ申し込み開始!

今年もこの季節がやってきました!
いよいよJOYJOYキャンプの申し込みの開始です!


上の画像をクリックしても大丈夫ですが、
コチラのPDFファイルの方が綺麗なプリントアウトが出来ます。
今年のテーマは「おどろき!!なぞ解き、探偵団」です。
みんなで「なぞ解き」に挑戦です。


締め切りは5月29日!
たくさんのみなさんの申し込みをお待ちしています!


今日は本当に暑かったです。
お約束の雷雨は・・・どうなったんでしょうか?


ペンシルベニアではかなり降っているようですが・・・。


でも、本当に昨日あたりから花粉症は楽になってきました。
今週はすこしずつ本調子になってくるでしょうか、楽しみです。


さて、昨日から今日にかけては、エレミヤ38章。


「イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。』」17節。

「石橋を叩いてもわたらない」という題が「日々のみことば」にはついています。
この章に出てくるゼデキヤ王は本当にそんな感じです。
神様の答えを聞きたい。
でも、実際聞いたら、そこに従うことはできない。

実際のところ、もうエレミヤの言うことはわかっている。

そう、もうわかっていたのです。

でも、何度も何度もエレミヤを呼び出して聞くのです。
そして、実際に聞くと、そのとおりに行動できるかと言うとできない。

エレミヤの言葉を受け入れるのには、
それなりのリスクがあったのです。
一番大きなのは反対する人々の存在でした。
そして、結局、エレミヤを保護しながら、
また彼が神の僕であることを認めながら、
彼の言葉に従うことができなかったのです。

愚かなことです。

でも、他人のそのような姿はわかりやすいけれども、
自分の姿は分からないのです。

私もどうだろうかと思います。
主の導きを見分け、
そして、そこに勇気を持って進んで行く、
そのような従順さを持ちたいと思います。

主よ、
あなたのみ声を聞くことができますように。
そしてそこに勇気と従順さをもって進んでいくことができますように。
それが人気がないことであっても、主がみちびかれるならば、それに従っていくことができますように。