2009-05-16

土曜日の朝。

土曜日の朝です。
結構霧が深かったです。
教会の駐車場はそれほどでもありませんでしたが、
運転中は視界100メートル以内。

 

朝霧は怖いときがありますよね。
去年の2月にアトランタに行ったときも、
帰り、ワシントンDCあたりを夜明け前に通ったのですが、
前の車しか見えない、
だから、前の車から余り離れたくない、
でも、前の車も前が見えないだろうから、
あんまり近寄っても、急ブレーキはコワイ、って感じで、
緊張しながら運転しました。


でも、7時にはほとんど霧が晴れていて、
「朝霧が出ている日は暑くなる」ということが多いのですが、
さて、今日はどうでしょうか?


さて、昨日の聖書。
昨日はエペソ6:1-9を読みました。


「良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」8節。

報いを「主から」受けるというところに目が留まりました。
私たちが忠実に仕えていく中で、
仕えているところで、仕えている人に報いを受けるのではなくて、
主から受けるのだということ、その視点の大切さを感じました。

いろいろがっかりすること、イライラすることあるかもしれません。
でも、それは人からの報い、や組織からの報いを期待しているからなのではないか、
本当にわたしたちが期待して待ち望み、楽しみにしていくのは、
主からの報い、そこに集中することがどれほど大切かと思わされたのです。

何年か前に読んだ文章の中に、
戦前、日本で伝道をしていた宣教師の方の話がありました。
日米戦争のときに、外国人にいろいろな差別が始まっていく中で、
ある役人か、軍人かのひどい言葉に、一瞬「ここまで日本の人々のためにやってきたのに、こんなことを言われなければいけないのか」と思ったそうです。しかし、その時に主が彼女に語りかけた、「あなたは人々に認められるためにやってきたのか?」と。

主からの報いを待ち望み、
主に「よくやった、良い僕よ」と言われることを楽しみにしながら、
歩ませて頂きたいです。

主よ、
あなたからの報いを待ち望みます。
どうか、わたしたちが人の評価や、人からの報いに、心を集中させることがありませんように。焦点をあなたにぴたっと合わせることができますように。

2009-05-14

妻を愛しなさい。

今日はちょっとだけ雨が降りました。
ホントは花粉を流してくれるような雨が欲しかったのですが、
そこまでは行かなかったですね。


でも、空気がしっとりして良かったです。


明日は晴れるようです。25度を超えて汗ばむようになりそうです。


今日は早速聖書。
今日の聖書はエペソ5:22-33。


「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」25節。

まず、今日はイエスの愛を覚えました。
イエスが愛してくださっていることの幸いを感じました。
私のために自分を与えてくださったこと、
その大きな愛に感謝しました。

そして、そのような愛で妻を愛すること、
いつもそうですが、そこに足りなさを感じます。
愛すること、それも、イエスが私を愛してくださった愛で愛すること。
自分のからだのように愛すること。
これは永遠の課題ですね。

主よ、
わたしの愛はなんて身勝手な愛でしょうか?
愛ってわからない、と思います。
どうか、愛することを教えてください。
愛することを学ばせてください。
妻を自分のからだのように大切にすることができますように。

2009-05-13

主に求める。

今日もいい天気でしたね。
朝は寒いくらいでしたが、昼間には汗ばむくらい。
でも快適です。


明日は夕方から雨ですね。


しばらく晴れていたので、
うれしい雨です。


土曜日にはレオニアの教会でガレージセールですが、
天気は「微妙」。
40パーセントの確率で雷雨。
うーん、去年と同じかも。
くわしくはこちら。 


JOYJOYキャンプ、教会の子たちを入れない段階で24名まで行きました。
教会の子たちは油断して、まだ申し込んでいない子が多いですからねえ。
リピーターもたくさんおられますが、
ニューフェースもたくさん。
楽しいキャンプになりそうです。
できれば「抽選」とかしなくてすむ、ぴったりの人数だといいのですが・・・。


今日は一つの予定がキャンセルになってちょっと残念。
最近教会に来られている方とゆっくりお話しする予定でしたから。
でも、神様には他のご計画があったようです。


その時間に読んでいた、今年の修養会の講師で来られる先生が訳された
「家の教会」という本の中で、著者のヒューストンにある韓国語教会の牧師さんの言葉。


「祈りによって牧会をするのは、私が副牧師だからです。私が副牧師なら、主任牧師なるイエスの御声を必ず聞くべきです。そうしたとき、そのお方の御心に従って牧会することができるのです。私は祈りの時間に主の御声を聞こうと努めています。ヒューストン・ソウル教会に対する神の御心が何であるかを見出そうと努めています。」


この祈りについて書いてある章を読み終わったときには、
祈りに心が向いていました。
ニューヨークの市立図書館だったので、
勿論声を出してお祈りすることはできなかったのですが、
目の前にあるPCの電源を切って、私に祈りなさい、
と主が求めておられることがわかりました。


PC用の席、限られていて、一度席を立つともうなかなか取れないのですが、
何のためらいもなく、立ち上がって、他の席にいって祈ろうと思いました。


主の招きにこころから感謝しました。


さて、今日の聖書。
今日はエペソ人への手紙5:15-21


「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」19節。

互いに語る言葉が何か?
主に向かって歌う賛美。

ああ、自分の人々との会話が、
主への賛美に満たされますようにと思わされました。
主への賛美にあふれた、会話があふれますようにと祈りました。

無理して、わざとらしく、神様のことを話すのではなくて、
何だかわからないんだけど、話していると、最後は賛美で終わっている、
主への祈りに自然と導かれていく、
そんな会話があふれますようにと祈らされました。

主よ、
私の会話をきよめてください。
周りの人と話すときに、
どんな話も、主よ、あなたを賛美するところへと導かれますように。
あなたへの祈りへと導かれるものとなりますように。

2009-05-12

不思議な人間の頭。

今日も、私の目の前では雨も降らず、いい天気でした。
ちょっと平凡すぎてお天気的には余り面白くない。


そして、ざあーっと雨が降って、芝生を潤して欲しいし、
あと、花粉もすべて流して欲しいですが、
木曜日あたりにそんな雨が降るかもしれません。
でも明日も、もう一日晴れです。
そして、今夜はまた4-5度まで下がります。


どうでもいい話題ですが、
こんな記事 がありました。


その中の問題の文章をこぴぺすると・・・。


こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき 

その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく 




だって。皆さん、よめました?

フォントに何を使うかによってとか、
字の大きさによって、微妙に違うのですが、
かなり読めちゃいますよねえ。
でも、自分で適当に文章を作っても、ここまでうまくいかないですよ。
結構考えられているのかもしれませんね。


神様が造ったわたしたちの脳にはいろいろ不思議なことが起っています・・・。


今日の集会も感謝でした。
聖書の言葉に一人一人が応答されているのに、
こころから感謝します。
お一人一人に神様の語りかけが今もありますように。


さて、今日の聖書。
今日はエペソ5:8-14


「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」13-14節。

自分のこともそうだけれども、人のことだと本当に明るみに出してはいけないのでは・・・ということがある。勿論、人間の間で「明るみに出す」ことが間違いなことはたくさんあります。でも、それと「神様の光の前に引き出す」ということが混同されることがどれほどあるでしょうか?


神様の光の前に引き出された時に、
神様の前で明るみに出された時に、
本当の光の中に引き出された時に、
それは光となる。


それはすごいことだ。
大きな励ましになった。
誰かが罪を犯している時に、
それを放っておくのではなく、
共に神様の光の前に持ち出せるように、
祈り、導いていくことの大切さを思わされました。


光の中に出される時に、それが光になるのですから。


主よ、
御言葉に感謝します。
自分の罪もそうです。光の下に持ち出すことができますように。
また誰かが明らかな罪を犯している時、
11節にあるように「明るみに出す」あなたの光の前に・・・、
その働きができますように。
そして、光に照らされたものが、今度はまた光となることを、
経験させてくださいますように。
御言葉の真実を、もう一つ教えてください。

2009-05-11

きよい生活。

今日もいい天気でした。
雨が続くとちょっと気持ちも重くなりますが、
また、このようにいい天気が続くと、やっぱり物足りない。
雷雨とかあってほしいなあ、と思います。


明日も基本的にはいい天気ですが、
夕方には一時にわか雨もあるかも。


やはり夜9時に更新は難しいですね。
今日は朝は歯のチェックアップ。
特に問題なし。
あんまりまじめに磨いているとは言い難い方なのですが、
唾液の成分でしょうかね、
すごーく丁寧に磨くのんちにまけず、
歯は問題ありません。
でも、「ちゃんとフロスしてくださいねえ」と
優しいお兄さん(おじさん?でも自分よりは若い)先生に言われてしまいました。


夜になってから、ショッピングにつきあいました。
自分と関係ないショッピングでもなかったので、
ついていって、ちょっと意見を言ったりしたのですが、
やはりここらへんは、一番、男と女の違いが出るところですよね~。


中には奥さんの着るものも全部コーディネートする方もおられますが、
コーディネートに喜びを感じるご夫君もすごいですが、
まあ、それをそのまま着てくださる奥様もまたすごい。
ちょっと想像できません。


でも、最近、いっしょに出かけることも少なくなってきたので、
ちょっと貴重な一時。


ということで、更新が遅れました。
今日はエペソ5:1-7


「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」5節。

きよく歩むことを語られました。
罪に対して鈍感になってはいけない、
本当に自分の罪に泣く、もだえる気持ちを忘れないでいたいと思います。
そのような主の目を、自分自身にも持たせて頂きたいと思います。

あの、マタイの山上の説教の中で、
「悲しんでいる人は幸いである」という言葉がありますが、
それは「罪に悲しんでいる人は」という意味だと言われます。
自分が罪を犯した時にも
人が罪を犯し続ける時にも、
それに対して悲しみを覚えるような、
そのような霊的な感性を持たせて頂きたいです。

主よ、
私の心を守ってください。
子供の頃に比べると、
だんだん罪に対して鈍感になっていないだろうかと思います。
「自分の弱さ」でごまかしてしまっていることがないでしょうか?
罪に対して泣く者でありますように。

2009-05-10

憤ったまま日が暮れてはいけない。

もう10時ですが、とにかく追いついておきたいので、もう一回更新。

今日、日曜日の聖書。
今日はエペソ4:25-32。


「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」26節。

まあ、いろいろありますよねえ。
でも、怒ったとしても、憤ったとしても、
そのまま夜を迎えるようではいけない、と。

これは象徴的な意味でとらえることが多いと思います。
でも、やはり、これは文字通り取って、心がけることが大切だと思いました。
怒った時に、憤りが収まらない時に、
何とか、その日のうちに解決するようにする。
その日のうちに答えをもらえるように祈る。
それを実際に実行していこうと思わされました。

翌日まで持ち越さない。
夜寝るまで持ち越さない。
とにかくその日のうち、日が暮れるまでには、
(いや、日が暮れてからのバトルもあると思いますが・・・)
答えをもらって、解決をして、
自分の心の中でも、また人との関係においても、
解決をもらって、進んでいこうと思います。

主よ、
御言葉に感謝します。
この通りに行動できる者としてください。
この通りに実行することができますように。
いつまでもいつまでも憤っていない、
そのような者でいたいと思います。

母の日。

今日はホントに風が強い日でした。
でも、もう、冷たい風ではなくて、
春が来たんだなあ、というか、もう初夏。
新緑が目にまぶしい季節になりました。


今日も強風でたくさん花粉が飛んでいたと思いますが、
このあと、落ち着いて欲しいものです。


明日はまた一日晴れ。
でも、今夜はよく晴れるので、
ちょっと冷えそうです。6-7度くらい。


今日は母の日。
ここも読んでくれている母に、
こころから感謝。

朝電話してたら、私はすぐ話す事はなくなってしまうのですが、
のんちのほうは、結構いろいろ話し込んでいました。
こういうのはやっぱり女同士なんでしょうかね。
男ばかりの兄弟でしたので、
母はこの年齢になるとちょっと淋しいかもしれませんね。
ま、実家にちょくちょく行ってくれる兄弟もいるので、
遠く離れて親孝行できない息子の分までやってもらって感謝しています。


そして、昨日、土曜日の聖書。
土曜日はエペソ4:17-24。


「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」24節。

神のかたちに作られたわたしたち。
ちょっと前にも書いたように、
この神がわたしたちを造られた時に、
どれほど、喜びを持って、
どれほど喜びにあふれて、造られたかということを思わされています。
それ故に、またどれほどこの神に背を向け、罪を犯したことが、
神にとってはどれほどの痛みだったか、
神にとってはどれほどの悲しみだったかと言うことを思わされます。
罪の恐ろしさ。

でも、わたしたちのために、もう一度神にかたどって作られた新しい人があるというのです。
悔い改めて、信じる時に与えられる新しい人に、
また、神はどれほどの喜びを込めておられるかを感じました。

この喜びを私も頂いて、歩きたいと思います。
主が私を喜んでくださっている、
その喜びを自分も喜びとして、歩んでいきたいと思います。

主よ、
あなたの喜びを感謝します。
あなたが私に着せてくださった、新しい人の中に、
どれほどの思いを込めてくださっているか、
知って、こころから感謝します。
どうか、あなたの喜びを私の喜びとさせてください。
新しい人を着て生きる喜びに生かしてください。