2007-04-07

主が避け所

今日もまた寒い日でした。
朝は6時過ぎに出て教会の祈り会だったのですが、その時点で-3度くらい。
昼間も6度くらいまでしか上がりませんでした。

ちょっと買い物に出た時には肩をすぼめて歩く・・・という冬の力の入り方、でした。

明日はイースターで、あちらこちらの教会で早朝野外礼拝をすると思いますが、
かなり寒いのではと思います。

確か、アトランタのストーンマウンテンのてっぺんでもありますよね。
ちなみに、その付近の明日の最低気温は-3~4度C。
かなりきつそうです。
でも山の上からの日の出を見ながらの礼拝、すばらしいでしょうね。
超教派の礼拝のようです。
ここら辺ではそういうところはないのでしょうか?
NJの西の方の山の上とか・・・。
マンハッタンの方から日が昇ってくるなんて、いいですよね。

イエスさまの復活の日曜日を待ち望みつつ。

明日の礼拝の準備、
通訳の方には申し訳なかったのですが、
本当にいろんなことを思わされて、
今日の昼過ぎまでかかってしまいました。

本当に御言葉と格闘する1週間でした。
というか、月報にも書きましたが、
自分にとって、イエスの復活はどんなものなのかをもう一度問われたこの数週間でした。

イースターはアメリカではお祭りムード一色ですが、
2000年前のイースターの朝は、
涙に暮れている人々に、
good newsが届いた日なんですよね。

明日の礼拝も、
痛みの中にある方々、涙の谷を通っておられる方々に、
慰めと癒し、そして立ち上がる力が与えられるような
礼拝となりますように。

今日の聖書。
今日は詩篇の14篇でした。

「おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所である。」6節の言葉です。

悩みの中で、考え抜いて、悩み抜いて歩み出したことさえも、
はずかしめられる、ようなことがあるのだという。
屈辱的なこともあるのだろう。
しかし、そんな時にも、主は私の避け所。
主にこそ救いがあり、
主にこそ答えがある。

Jesus is the answer...という歌があった。

今、自分は本当に主にあって答えをもらいたいと思う。
主が導いておられるのはどこなのかを、教えて欲しいと思う。

そして、どこにあっても、
単純に、イエスを証ししていく者でありたいと思う。

他の何ものでもなく、
主を避け所として、
主を慰め主、癒し主として、
そこに解決を頂いて、歩んでいきたいと思う。

主よ、
あなたに解決があることを、
あなた御自身に答えがあることを、
教えてください。
経験させてください。


目の輝き

今日も寒かったです。
朝は0度くらいで、最高気温も5度くらい。
冬に戻ってしまったみたいです。

明日も寒いでしょう、ってゆーか、ずっと寒いでしょう。

そしていつ小雪が舞っても不思議ではないでしょう。
NJの南の方では、積るほど降る予報が出ています。

日本は入学式の日でしょうか?
みんな元気に学校いったでしょうか?
今年帰ったS君もR君も・・・。

今日はGood Friday。十字架の日です。
サンディエゴのO倉先生のページにこんな話が・・・。
人の話を聞ける者でありたいと思います。
そう、「どうしてこんな目に遭うの・・・」ということが私たちの歩みの中には起こってきます。納得いかない、どうしてこうなるか分らないことが・・・そんな私たちのところに来て下さった主に感謝。

今日の夜は教会に集まって聖餐式をしました。
イエスさまの十字架をもう一度覚えて祈る時。
とても幸いな聖餐式でした。

「ふさわしくないままで・・・」という言葉。今日は特にズシンと来ました。本当なら私もふさわしくなかった。私もふさわしくない。でも、あの十字架ゆえに、罪赦され、受け入れられている。そして、特別に聖餐式を導く立場を与えられている。厳粛な思いがしました。

今日の聖書。
今日は詩篇の13篇でした。

「私の目を輝かせてください。」3節。

この言葉が心に響きました。
自分の目は今日は輝いているだろうか?
自分では分らないことかもしれません。
でも、「輝かせて下さい、神様!」という思いがあふれてきています。

10年前、JOYJOYキャンプを始める時に、
「皆さんはご存じですか?子供が子供になる瞬間。その目の輝き。JOYJOYキャンプは子ども達の目の輝きを大切にします・・・」なんて文章を書きました。今読んでみるとちょっとくさいかな、と思いますが、あのころは本気でした。子ども達の目が輝くときって、うれしいですよね。

でも、今自分の目は輝いているだろうかと思います。
子ども達の目の輝きを引き出すためには、
僕らが輝いていないとダメだよな、と思います。

教会の一人ひとりの目が輝くことを期待する前に、
私の目が輝いているだろうかと思います。

いつもいつも主から力を頂いて、
主から命を頂いて、答えを頂いて、
輝いて歩んでいけるようにと思います。
どんな状況の中でも・・・。

主よ、
どうか私の目を輝かせて下さい。
私の内側にあなたの光を満たして下さい。
あなたの命にあふれさせて下さい。

2007-04-06

誰が支配者?

4/5の聖書。
詩篇の12篇を読みました。

「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」4節。

これは詩人を苦しめる人々の言葉です。

言葉は武器です。
ヒットラーが雄弁であったことはよく言われますが、
妙な説得力を持った人がいると、
その意見にぐーっと人々の気持ちが流れていきます。

私は雄弁な方ではないので、
それほど心配はしていないのですが、
どうしたらわかってもらえるか、どうしたら伝わるか、ではなくて、
どうしたら自分の思った方向にことが進んでいくか、
ということを考え始めたらまずいな、と自戒することがあります。

「誰が我々の支配者なのか」
とうそぶく人々。

自分たちが支配者だと思っているのです。
わたしはどうだろうかと思います。
自分の人生の主人は自分ではない、神様。

神様の支配の元に歩むことがどんなことか、
一つ一つ教えて頂きたいと思わされます。

主よ、
あなたが私の主です。私の王です。
このことが単なる言葉ではなくて、
実際にどんなことを意味しているのか、
一つ一つ教えて下さい。
実生活の中で、あなたを私の王として歩んでいくことを教えて下さい。

感謝

日付が変わってしまいました。
昨日、4/5は予想通り、雪が降りましたね。
ヤンキースの中継をしている時にも雪が舞っているのが映っていました。
今は夜中の12時過ぎですが、
0.6度で小雪が舞っています。

これから1週間、いつ小雪が舞ってもおかしくないような
日が続くでしょう。

朝晩は氷点下、昼間は10度止まりです。

今日は連れ合いのBirthdayだったので、
夜は家族でゆっくり過ごしました。

家族とされたことを主に感謝しつつ。
もっともっと理解することができるように祈りつつ。

詩篇の12篇はまた明日の朝に・・・。

2007-04-04

主に身を避ける

今日は予想通りの冷たい雨。
予想よりも寒く、一日中5-6度の寒さでした。

今朝のニュースでは東京も19年ぶりの4月の雪だったそうですね。
こちらもかなり冷たい空気が入るので、
夏の「夕立」のように、
夕方になると、4月の日差しで暖められた空気が上昇して、
積乱雲を作り、そこから雪やみぞれが降ってくる可能性はあります。

明日からは最高気温が8度くらい。
朝晩は-3度くらいの日が続くみたいです。

今日はいろいろ考えさせられる記事に出会った。
asahi.comに行って、
「アスパラクラブ」の中の「家族」という連載。
ここはメンバーになってログインしないと見れない。

でも、無料でメンバー登録をすればいい。
記事によっては朝日新聞を取っていないと読めないけれども、
この連載は取っていなくても読める。

特に今連載している
「ある少年の更生」。
4回連載のうちの3回まで進んでいる。

傷害事件を起して少年院に行った経験のある末息子と、
会社が倒産して150億円の借金を抱える親父。

その心のすれ違いとふれあいを記事にしている。

特にお父さんがクリスチャンになったことで、
聖書の「放蕩息子」のたとえ話になぞらえて話が展開していくのが興味深いです。

一番のテーマは、
息子達のよい子のところを喜ぶ親と、
その期待に答えようと自分を偽る子ども達。

でも、これって本当にたくさんあるんだろうなあと思います。

牧師としての働きの中でも、
「信徒に期待する牧師とその期待に表面的に答えて、自分を偽る信徒達」
ということはあるのではないかと思います。

本当の心の叫びを聞くこと、
それがどれほど大切なことかと思います。

時々、もっと強いリーダーシップを持つべきなのかと思う時があります。
でも、人を黙らせて、表面的に従っていく人々を作ってもしょうがない、と真剣にそう思います。
聞く耳を持ちつつ、伝えるべきことを伝えていく、本質的なところでは一致を求めながら、広さを認めるそんな働きができればと思いますが、「絵に描いた餅」でしょうか。

さてさて、今日の聖書。
今日は詩篇の11篇。
この詩も、敵に脅かされている中で歌われた詩です。

心に留まったのは
「主に私は身を避ける。」という1節の言葉です。

主の許に答えがある、
今朝、そのように思いました。
いろんな声が聞こえてくる時、
そこに恐れを感じる時にも、
主の許に答えがある。

いつもいつも主に聞いていく、
そこからぶれてしまってはいけないと思います。

他のところに身を寄せるのではなくて、
主の許で安らぎをえて、
主の許で解決を頂く、
そのような者でありたいと思います。

主よ、
どうか私を守って下さい。
いつもいつもあなたの元に身を寄せて、
あなたから守って頂いて、
あなたの語りかけを待ち望んで、
あなたの御言葉によって生かされて歩ませて下さい。

2007-04-03

見ておられる主

今日は、暖かくなりましたね。
朝のうちは昨日と同じような感じでしたが、
9時頃にはもう明るくなって、
晴れてきました。20度くらいまで上がりました。

でも、この後、ちょっと春はお休み。

明日からはまた寒くなります。
あちらこちらの天気予報で「S」の字が躍っています。

東京の場合は一番遅い雪が4月17日(1969年)・・・自分は5歳?

ニューヨークはなかなか見つかりませんが、
確か5月に降った記録もあると聞いたことがあります。

まだ4月の初めですから、何が起こっても驚かないようにしましょう。

日曜日の説教の中でお話しした。
「私は主を愛しているだろうか」
「私は教会を愛しているだろうか」
「私は人々を愛しているだろうか」
「私は家族を愛しているだろうか」

考えさせられます。

大体、メッセージは語った一週間、特に、自分が問われます。

「私は自分の夢のために主を利用しようとしていないだろうか」
「私は自分の夢のために教会を利用しようとしていないだろうか」
「私は自分の夢のために人々を利用しようとしていないだろうか」
「私は自分の夢のために家族を利用しようとしていないだろうか」

余り考えたことがありませんでした。

でも、考えたことのないこと自体が危険なことなのかもしれません。
おそらく、周りを利用しようとする人は自分がそういう傾向があること自体、
気がつかないのでしょうから・・・。

今夜ある方と学びをしている中で、
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)
というイエスのペテロをいさめる言葉が、心に深く響きました。

神様が私たちをどう見ておられるのか、
神様が私たちに何を望んでおられるのか、
それをもっともっと求めていきたいと思います。

人々を愛することは、どういうことなのか、
もっともっと教えて頂きたいと思います。

さて、今日の聖書。
今日は詩篇の第10篇を読みました。

「彼は心の中で言う。『神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。』」(11節)

「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。」(14節)

私たちが苦しみに遭う時、
神様が私のことを忘れてしまっている、
神様が私のことを見て下さっていない、
そんな風に思うことがあります。

忘れられる、
見られていない、
それは何と悲しいことでしょうか?

人は忘れることもある。
人に覚えてもらっていない時もある。

私も失礼なことをしてしまう時もある。

でも、主は忘れていることはない。
主はいつも見ていて下さる。
私たちを御手の中に収めるために。
その御手で守るために。

疑わないことにしよう、
忘れないことにしよう、
主が私を心にかけて下さっていることを。
主がJCCNJを愛し、
心にかけて下さっていることを。
教会の一人ひとりを愛し、
心にかけて下さっていることを。

主よ、
感謝します。
あなたが居て下さることに。
あなたが見ていて下さることに。
あなたが御手を延べて守って下さることに。
私があなたの愛を疑うことがないように、私の心を守って下さい。
あなたが私をいつもいつも心にかけて下さっていることを、
忘れないように守って下さい。

人が誇らないように

また日付が変わってしまいました。

昨日(月曜日)はもっと暖かくなるはずだったのですが、
なかなか雲が取れずに、ひんやりした一日になりました。
特に午前中は10度以下。どんよりとして、肌寒かったです。
午後はちょっと日も差して、15度くらいまで行きましたが、
期待していた20度はほど遠かったです。

今日(火曜日)も昨日と同じで、何時頃から晴れてくるかがポイントでしょう。
今日よりは早いと思いますが、
それでも、午前中はどんよりしていると思います。
そして、この次の暖かくなるのは10日以上先のことだと思います。
お体には気をつけて・・・。

2週間ほど前に雪が降りました。
その後Sleetがかなり降ったのですが、
それが悪かったのか、翌日の土曜日、
教会の車のワイパーが、走っている途中で突然動かなくなったのです。

え~、これはまずい、と思いました。
雪の後は、道路の凍結を防ぐために撒いた塩が
フロントガラスについて、真っ白になってしまうので、大変なんです。
ただ、近所だったので何とか帰ってきました。

後で気がついたのですが、
Highなら動くんですよね。
つまり、ぽつぽつと雨が降ってきた時も、
ワイパーをHighにしなきゃいけないわけです。
みんなが間欠ワイパーで時々「カッチャン・・・カッチャン・・・」と使っている時も、
一台だけ、「カシャ、カシャ、カシャ・・・」とものすごい勢いで動かさなければいけない。
すごい勢い、というよりも、「せわしない」という感じですよね。
しかも、High 以外のところに合わせると、その場で止まる・・・。
それもカッコ悪いです。

で、次の週に直してきました。
ついでに助手席側の窓が開かないと言う症状も出ていたので、
直してもらいました。
まだ5年まで延長しておいた保証期間内だったので、タダ。
よかったです。大体、3年保証の車は3年を越えるとあっちこっち、がたが来始めますから。

でも、この間の金曜日に、今度は「窓を開けると閉まらない」という症状が出てきました。
運転しながら、運転席から、助手席側の窓が閉まらない。
今時、窓の開け閉めを手でやる車はかなり少数派でしょうが、
こう言う時は電気仕掛けは困ります。
「開かない」というのよりもたちが悪い。
だいたい、そういう時って、
「あれっ」と思って、スイッチをがちゃがちゃするじゃないですか。
そうすると、開く時は動くわけだから、どんどん窓が大きく開いていくんですよね。

雨が降ってきたらどうする?
焦りました・・・。

幸い、助手席のスイッチでは閉まるので、ホッとしました。
「ああ、よかった・・・」

でも・・・土曜日、
出かけた先で、今度は、運転席側の窓が閉まらない、という症状が出ました。
これはまた焦った。
マジで焦りました。
今度は他のスイッチはないですからね。
運転席側の窓のスイッチは運転席の横にしかないわけですよね、普通。
でも一生懸命あっちこっち探してしまいました。
どこかにスイッチがないだろうか?
もう一つ、どこかにスイッチがあったら、それは動くかもしれない・・・と。

ま、最終的には何回かトライしているうちに、窓が閉まったのですが、
雨の中でそんなトラブルがあったら大変です。
時間ができたらまた修理に持っていきますが、
何だか、窓を開けるのが怖くなってきてしまいました。

ちなみに、「サンルーフ」が閉まらなくなって、
ひどい目にあった、という話も聞いたことがあります。
「オープンカー」なんかも大変でしょうね。電気系統が雨の中トラブったら・・・。

さて、昨日、月曜日の聖書。
詩篇の9篇を読みました。

心に留まった言葉が、
「主よ。立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために。」19節の言葉です。

神様の力です。
人の力ではなくて、
神様の力を見せて頂きたいと思っています。
今、私たちの教会は大きな転機を迎えようとしています。
人間の力で、見えてくるものもあります。
何とかなるかなあ、と思います。

でも、なかなか思い通りに行かない。
人間の力ではないんだろうと思います。
神様の力が必要なんだと思います。
そこに目を留めるべきなんだろうと思います。

私たちが誇ることがないために・・・。
自分が何かをしたことや、
「強い信仰」を持っているかのように思うことさえ、
分っているかのように思うことさえ、
誇ることがないために、
主は私たちを「思い通りに行かない」ところに導かれるのだろうと思います。

主が介入して下さいますように。
主が御力を表して下さいますように。

あのモーセと共にあって下さった主が、
その幕屋に雲を満たして、
光を満たして、
「確かにここに私はいるんだよ」と
示して下さった主が、
今日も私たちと共にあって、
「確かに私はここにあなたがたと共にいる」
と、示して下さいますように。

主よ、
どうか、あなたの臨在を表して下さい。
あなたが共にいて下さっていること、
あなたが導いていて下さっていること、
私たちに分るように表して下さい。

2007-04-01

神の力

礼拝から帰ってきました。
この時間に、時間ができるなんて、すごい久しぶりです。
こういう日が必要だなと思います。

雨も今のところ大したことはありませんが、
ちょっとこれから降るようですね。

そして、明日は20度近くまで上がって暖かい日になるでしょう。

その後水曜日からの一週間が寒の戻りで、
氷点下の日もあるみたいです。

予報にはsnowの字もちらほら見えます。

今日は月に一度の聖餐式。
それも「受難週」イエスが十字架にかかったのが、今週の金曜日。
十字架の一週間。
聖餐式のパンとぶどうジュースはイエスのからだと血を表します。
今日もそのイエスの十字架ゆえに神様の前に出れることを
感謝しました。

「ぶどうジュース」・・・教会によってはぶどう酒を使います。
イエスもぶどう酒を使ったんだろうと思います。

なぜ、ぶどうジュースを使う教会が多いのかというと、
「未成年者への配慮」「元アルコール中毒の方への配慮」
が大きいと思います。

あと、アメリカは20世紀前半に「禁酒法」があったくらい、
教会と禁酒運動とのつながりは強いです。

私もそのような伝統の中で育ってきました。

私たちの教会も、教会のプログラムの中はいっさいノンアルコールです。
結婚式を教会でする方で、レセプションも教会でする場合、
ゲストの方々に理解して頂くのは難しいことかもしれません。
でも、そのようにやってきました。

ある牧師さんは、
近所の方々を招いてBBQをしたあとに、こう言われたそうです。
「ノンアルコールであんなに楽しい時を過ごせるなんて新しい発見だった」と。

でも、私たちが建物を借りている教会はドイツ系の教会で、
元々私たちが日本語教会であるような意味での、
ドイツ語教会でした。

その教会は教会行事の中でも、
アルコールが入ることがありました。
確か100周年記念集会に出た時に、レセプションでアルコールが出ていました。
みんな車で来ているのにね・・・。不可解でした。
日本も去年の9月に日本に行った時には、
ちょうど問題になっていて、かなり厳しく取り締まられていましたが、
今はどうなんでしょうか。

運転する人は論外ですが、それ以外は文化と言ってしまえばそれまでですが、聖書の中に、

「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」エペソ5:18-19

とありますから、一滴も飲んではいけない、とは思ってはいませんが、酔うほど飲むべきではなく、何よりも、私たちは「御霊に満たされること」を求めていくべきなんだと思います。

さて、今日は詩篇8篇を読みました。
心に留まったのは、2節の言葉です。
「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。
それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」

幼子や乳飲み子の口から出る言葉によって、
神様は力を打ち立てられる。
私たちの弱いところに働いて、
御業をなされる。

子ども達の「あぶあぶ~」という声も主は用いられる。
主の力はどんな中に表されるのか、
私たちの思いを越えていると思う。

大人達のいろいろ考えて理屈をこねて作り上げられたものよりも、
子ども達の、それも乳飲み子のような子ども達の
喃語を主はそのご栄光を表すものとして用いられるのだ。

大きな声を出さなくていい。
理屈をこねなくていい。
素朴な主への声が上がっていくところに、
主の力が表されるのだ。

主よ、
必要な休息を感謝します。
ありのままの主の前の叫び、
嘆き、ホッとした一息、それらがあなたに受け入れられることを心から感謝します。
どうかあなたの命を私の中に満たして下さい。

主の許に身を避ける

昨日は暖かい中で、JOYJOYイースター。
去年がみぞれの中だったことを考えると、
穏やかな日で本当によかったなあと思います。

でも、天気がよかった+日本の春休みシーズンで、土曜補習校が休みだったので、お出かけされた方も多かったのでしょう。参加者は50名と、みぞれの中の去年並、でした。

でも、昨日も元気な子ども達の声が教会に響き渡りました。

初めての子も何人かおられてうれしかったです。

今日は雨のようですね。

でも、まあ、大したことはないでしょう。

昨日は詩篇の7篇を読みました。
心に留まったのは1節の言葉。

「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。」

自分は行き詰まった時、
攻撃を感じた時、
どこに行っているだろうかと思った。
本当に主の許に行っているだろうか?

主の許に身を避けているだろうか?

他のことでストレスを発散したり、
反撃に出たり、
そんなことで解決していないだろうか?

主の許に行く。
きつい時だから、
しんどいところだから、
どう受け取ったらいいか分らないような状況だから、
主の許に行く、
それが大切なことなのだと思わされた。

主よ、
どうか助けてください。
あなたを避け所とします。
あなたの元に隠れます。
あなたのところで平安を頂いて、
進んでいくことができますように。
私の心の目があなたからぶれてしまう時に、
どうか私を守ってください。