2009-02-26

はい、わかりません。



いやあ、今週末のStormですが、
本当にわかりません。


でも、2段階攻撃(「日曜日」と「月曜日の夜」)の可能性が
昨日よりも強まったように見えます。


そして、1段階目はNothingかもしれません。


そうだと助かるのですが・・・。


今夜は冷え込みはすっかりゆるんで・・・と思ったのですが、
今、夜の11時過ぎで0.8度。
最低気温5度くらい、とか言ってなかったかなあ・・・。

でも、明日は10度を超えて暖かくなるようです。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇の69篇1-12節。


「私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。」10-12節。

詩人の「何をしても悪く言われる」痛みを感じました。

詩人は何をしてもそしられ、笑われています。
そして、自分の噂が酒の席での肴になっているのです。

こんなひどい話があっていいのだろうかと思います。
こんなひどい目にあったら、どんな気持ちがするのだろうかと、
想像もできません。

でも、この詩は「メシヤの苦難の歌」と言われるように、
イエスの十字架の苦しみを預言した歌でもあります。

主はそのようなところを通ってくださった。
私たちが同じようなところを通る時には、
「主のみ苦しみをShareしてもらえる」ことでもある。

イエスの痛み苦しみを教えて頂くための
「苦しみ」というと病の苦しみとか、
経済的な困難であるとかを、
考えることが多いです。

そして、人間関係のトラブルは自分に問題があるんだから、
イエスの苦しみとは関係ない、と思いがちです。

でも、そうではなかった。
イエスもあの十字架への道の中で、
侮辱と、非難の嵐の中を耐えられた。

だから、私たちが人間関係の問題で痛みを覚える時に、
主は私たちの痛みをわかってくださる。
その痛みを通して、十字架の痛みがほんの少しでもわかる。

どんな中でも主を見上げていきたいと思いました。

主よ、
イエスさまの十字架の苦しみを覚えます。
この侮辱を耐えられる姿を覚えます。
どうか、私たちを痛みの中で、苦しみの中で、
あなたのすばらしさを知ることができますように。
あなたの解放を経験することができますように。

2009-02-25

心触れあう時。


今日も暖かい、ところまではいきませんでしたね。
でも6度まで上がりました。
そして、夜になっても昨日までよりはずっと冷え込みがゆるんでいます。

今、夜の12時半ですが、-0.6度。

この後もそれほど冷えないでしょう。

そして、週末のStormですが、
もう、なにがあるか、わかりません。
今夜のGFSは日曜日は雨ですが、
その後、月曜日の夜から火曜日にかけて雪の予報が出ています。

昨日は日曜日の夜から月曜日の朝が雪の予報でしたから、
大きく変わったことになりますが、
まあ、本当にこれはあと2日間くらい、あっちいったりこっちいったり、
予報がどんどん変わるんでしょうね。

さて、今日ある方とお話ししている中で、
「愛」について、また考えさせられました。

その中で、心が触れあうような瞬間の感覚を思い出していたのですが、
その時そこにあるのは、「今、ここで、心を開いても大丈夫」と思わせる空気を持ちながら、
そこにいる一人の人の存在、だったりするわけです。

そのような空気を持ちながら、そこにいる、
というのが、一つの愛の姿なのではないだろうかと思ったのです。

勿論、この定義が愛のすべてをいっているわけではないのですが、
今、自分がぶち当たっている問題への答えなのかなあ、と思わされました。

そして、神さまもある時には、そのような存在として、そこにおられる。

そのようなかたちで私たちに愛を注いでくださっている時が、あるのではないだろうかと思いました。

さて、今日の聖書。
今日は伝道者の書の結論、第12章。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」13節。

いろんなことを語りながら、
でも、最後は「いつも聞いていることだと思うけど」という結論。
神さまを恐れること。

それこそが、私たちの本分。
それこそが、人間が一番人間らしい時。
人間として生きるすべて。

そして、それを知るのは早ければ早いほうがいい。
「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ」と1節にあるように。

だから、これからもどんどん子供たちや中高生たちや、
若い人々や、それから、すべての人々に、
福音を伝えていく、神さまの愛を伝えていく使命を果たしていきたいと思いました。

最近、信仰のDNAの継承ということを考えさせられています。
信仰の姿勢という点でDNAを伝えていくことが、
何よりも、私たちの生かされている使命ではないだろうかと、
感じさせられています。

主よ、
どうか、あなたを恐れる思いを、私に与えてください。
そして、それを伝えていく、継承していく、
その使命を果たさせてください。
何のためらいもなく、
信仰のDNAを継承させてください。

2009-02-24

無駄に見えることも。



今日2回目の更新。
これで何とか追いつきます。


今12時前ですが-4度くらいまで下がってきています。
今朝より、風が弱い分、冷えて、-8度から10度くらいまでいくのではないでしょうか。


明日の昼間はまたちょっとだけ寒さがゆるみそうです。5度くらい。


また、今週の週末は雪の可能性が・・・
何度はずれているかわかりませんが、
今度も大雪かもしれないし、何もないかもしれない、
というまだよくわからない状態です。


でも、夜のGFSでは、雨から雪に変わって、
吹雪状態になる天気図が出てきています。


さて、早速今日の聖書。(いい響きですね・・・「今日の聖書」)
今日は伝道の書11章でした。


「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」1節。

「日々のみことば」には、
「神さまの御手に委ねる」ということが触れられていましたが、
ここには、やはり「無駄に見えることも」というニュアンスがあると思います。

それは後半の言葉の意味との整合性の問題です。

つまり、ずっと後の日になって見出すのだから、
伝道の種まきのことや、
子供たちのための働きは、
無駄のように見えてもいい。
無駄のように見えても、無駄ではない。
やがて芽を出し実を結んでいくという。

だから、どんどん無駄に思えることをやろう。
無駄に思えることも恐れないで、やっていこう。
すぐに芽が出なくても、
すぐに結果が出なくても、
いいじゃないか。

焦る必要はない。
短期的な結果に踊ったり、がっかりしたりする必要はない。

ただ、主を信頼して、
主のなさることを信頼して、
自分のなすべき「無駄に思えること」をやっていこう。

主よ、
すぐに結果が出るかでないかで、
決めてしまうことがないように守ってください。
すぐに結果が出ないからと言って、
投げ出してしまったり、落ち込んでしまったりすることが
ありませんように。


どんどん水の上にパンを投げ続けることができますように。




心の底から。



今朝は寒かったです。
-10度まではいきませんでしたが、
-6.7度まで下がりました。


昼間は2.7度。
やっぱりまだ冬は終わっていません。
そして、このあと2週間くらいのコンピューター予想を見ても、
「ぐっと暖かくなる」という感じもなく、
「真冬じゃないけど・・・」というそこそこ寒い日が多いようです。
自分は日本に行くのですが、
自分がいない時だからこそ、天気がどうなるか、気になるところです。


今は午後7時で-0.7度。
今夜も冷えます。
風が弱くなった分だけ、
より冷え込みそうです。


今日は午後の集会では、
自分を愛することと、隣人を愛することの関係を考えさせられました。


本当に自分を愛せなければ、
自分を受け入れられなければ、
人を受けいれられない、人を愛せない、
よく言われてきたことですが、
最近、本当にその通りだなあと思わされています。


勉強したわけではないので、
上手に説明できないのですが、
自分で自分を受け入れられない人は、
人に受け入れられなければ、生きていけない。
自分が生きていっていい、という肯定を、
自分自身ではなく、誰か他のものに求める。


だから、人を恐れて、人に合わせてしまう。


それは人を愛することでもなくて、
人を受け入れることでもない。


ただ、人を恐れているだけ。


「完全な愛は恐れを取り除く」


恐れと愛とは別物。
おそらく、恐れを取り除いて、
恐れるのをやめて、人に合わせることをやめた時に出てくるのは、
恨みだったり、怒りだったり・・・


それも醜いものだけれども、
そこまで来れば、恐れに縛られて、
合わせているよりずっといい。
一歩前進。


でも、そこでとどまっていないで、
愛に満たされますように、と祈る。


「完全な愛は恐れを取り除く」
の究極の完全な愛は、神さまの愛だから。


神さまの愛に満たされることこそ、
恐れからの解放への道。


神さまの愛に満たされることこそが、
愛することへの勇気を与えてくれる。

神さま、愛することを教えてください。


さて、昨日、月曜日の聖書。
昨日は伝道者の書12章12-20節。


「王をのろおうと、ひそかに思ってはならない。寝室でも富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を持ち運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」20節。

隠れたところで言ったことも、
やがて伝わっていくからねえ、
やめなさいよ、悪口を言うのは・・・。
というところなんでしょうが、

最近、思わされていること・・・表面的なところを繕ってもダメだよ、
心の底から、きよめられないと・・・ということを考えると、
やっぱり、呪うような言葉を思い浮かばないような心を与えて頂きたいと思いました。
心はいろいろ呪いたいような気持ちなんだけど、
それを表には出さないで、なんてのではなくて、
心の底から、人の弱さのために祈り、
普通だったら呪いが出てくるような人間関係でも、
そこに祈りと愛があふれるような
そんな心を与えて頂きたいと思いました。

そうですよね、
たとえ言葉に出さなくても、
そのような思いをもっていたら、
それはやがて伝わっていく。

誰もうわさ話をしなくても、
雰囲気で伝わっていく。

だから、本当に心の底からの愛を与えて頂きたいと思いました。

主よ、
私の心をあなたの愛で満たしてください。
ただの事なかれ主義ではなくて、
人の反応を恐れるのではなくて、
心の底からの愛と、祈りを与えてください。

2009-02-23

GMの次はShopriteにもの申す。



電球交換のための工具を買いに行く時に、
ついでだから・・・と牛乳とトマトの注文を受けましたんで、
がたがた震えながら車の電球を無事交換した後に、


「ああ、さむい~」と車の中で一人で騒ぎながら、
Shopriteへ。


注文された牛乳とトマトを買った後、
日本の親父から注文が良くはいる、Skippyというピーナツバターを見にいくと、
お、安くなっている・・・。
そして、更に同じメーカー(Unilever)の指定された製品を7個買うと、
次の買い物に使える5ドルの割引券+エコバッグ引換券がもらえる、
という表示が出ていました。


よし・・・と決断。


日持ちのするものをまとめて買って、7つ。
「なかなかいい買い物できたなあ~♪」とチェックアウト。


でも、「あれ?」です。


5ドルの割引券も、エコバッグの引換券もくれません。


あれ~?何か間違えたかなあ、と思いつつも店の外に出ましたが、
やっぱりこれは確認しないと・・・ともう一度店内に。


そして、今週の広告で、プロモーションの確認。
すると、なんと「9個買えば5ドルの割引券+・・・」とかいてあるじゃあ、ありませんか。
えー?最近自分は勘違いをすることも多いし、物忘れもひどい、でも9個を7個と読み間違えるなんて・・・と思って、もう一度商品の棚に・・・。


すると、やっぱり「7個買うと・・・」って書いてあるじゃないですか!


勇気百倍、クレーマーかきごおりのスイッチが入ってしまいました。


で、カスタマーサービスにいって、
「あの、これ7個買ったら・・・って棚のところに書いてあったから、買ったのに、5ドル引きの商品券くれなかったよ・・・でもこの広告は9個ってあるよねえ。どういうこと?」と聞いたら、意外な答え。「そうなのよ、わかってるわ」だって。
どうしてわかっているのに直さない!ですよね。


私みたいに確認をする人は本当に一部だと思います。
ほとんどの人たちは「まあ、いいか」でしょう。


7つ買えばいいものだと思って、
いつもよりも多めに買って、
何ももらえない、だったら、
ただ、お店にとって「おいしい」話なだけじゃないですか!


何考えているんでしょうか?
間違いに気がついたら、一人でも二人でも、その担当になって、
訂正して回ればいいじゃないですか。


お客さんの立場を全く考えていません。
クレームに対する対処は迅速で、
いいと思いますが、
(ちゃんと、5ドル引き券とエコバッグ券をくれましたし・・・)
クレームが付いたら、表示を直すべきでしょう!


さて、心を静めて日々のみことばです。
日曜日の聖書。伝道者の書10:1-11


「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」1節。

土曜日の聖書箇所と同じようなメッセージです、というか、
土曜日の聖書箇所と日曜日の聖書箇所はつながっている、
続いているのです。

小さな愚かさが、
大きな大きな結果をもたらしてしまう。
気をつけていたいと思います。
主よ、
小さなことが大きな結果に至ります。
罪を甘く見ることがないように、
私の心を守ってください。

教会の一人一人の心を守り、
サタンの働きから守ってください。

ホント、再建がんばって。



今、夜の10時半。
-5度。


この寒さの中、車のブレーキランプ、交換しました。
もう、死ぬかと思いました。(大げさですが・・・)


だいたい、ブレーキランプを交換するのは、
普通は、ちょっとどこかを開けて、手を突っ込んで電球を取り替えられるようになっているんじゃないんですか?今まで、いくつも車乗ってきましたが、こんなに面倒な車は初めてです。


星形のねじ回しを買って、
後ろのランプのユニットを外そうと思っても、どっちに引っ張ったらいいかわからない。
結局、まっすぐ引き出せば良かったのですが、
それも固くてなかなか出てくれない。


やっと出せたところで、そのふたを開けるのが一苦労。
寒い中でぶるぶる震えながら、やっているから、
手も痛くなるし、逃げ出したくなる。


やっと外しても、4つ電球がある中で
どれがブレーキランプかわからない。
もういい加減にしてくれ~、でした。


英語での説明はここで見ることができます。
http://wiki.answers.com/Q/How_do_you_change_the_brake_light_bulb_on_a_Chevy_Venture



それも、うっかり、ブレーキランプがつかない方の車で、
工具を買いにいってしまったので(何のためにもう一台の車の帰りを待っていたんだ!?)、
Home Depotの駐車場で電球交換を決断。(捕まりたくないし・・・)


だから、終わっても直ったかどうか、確認できない。
後ろの車に反射する光で確認していました。
駐車場なので、吹きさらしで、風は冷たいし、
泣きそうでした。(はい、半べそかいていました)


あ、それで、家に帰る途中、右のウインカーの挙動がおかしい。
着いてから、確認したら、やっぱり右の後ろのウインカーが切れていました。
もう、しらない。もういやだあ。とにかくまた明日電球買ってきて、
今日と同じ作業、もう一度ですね。ふう。


いやあ、GMさんの再建。
もっと簡単に電球が変えられる車を作るって、大切なんじゃないでしょうか。
もっともっと消費者サイド、運転して、大切に自分でメンテナンスをしようとしている人の立場に立った車を作って欲しいと思います。ハイ。応援しています。(きっと自分ではGMの車、買わないけど・・・ね。)


さて、土曜日の聖書。
土曜日は伝道者の書9章11-18節。


「ひとりの罪人は多くの良いことを打ちこわす。」18節。


ほんとにそうだなあと思います。
だから、小さなことにも気をつけていようと思います。
まず、自分自身がきよめられなければ・・・と思います。

どれだけ、多くの良いことが打ち壊されてきたか。
私たちの罪故に・・・。
私たちが神さまに従わなかったが故に・・・。

主に対して真実に従っていきたいと思いました。
罪に対して、はっきりとした態度で歩もうと思いました。

主よ、
どうか私をきよめてください。
私の罪故に、あなたの働きが止められることがありませんように。
多くの良いことが打ち壊されることがありませんように。

クライシスの中での傲慢さ。



今日は寒いですねえ。
さっき車を運転していて、信号で止まったら、
後ろの車の人が、つかつかと歩いてきて、
「ブレーキランプが両方消えてるよ」と、
すごいことを教えてくれました。


あわてて、電球を買ったのですが、
自分で取り付けようと、切れた電球を外そうと思ったら、
特別なドライバーが必要なことがわかって、一時断念。
そんな車で工具を買いに行くのもチケットが怖くていけません。


「電球切れているの知っているけど、今工具を買いに行くところだから・・・」と言えば、
見逃してくれるでしょうかねえ、ParamusのPoliceは・・・。


で、何が言いたかったかというと、そんな作業をしている時に、
ちょー寒かった、ということ。


今、夜の7時前。
外の気温は、-3度です。
今夜は、本当に冷えそうです。


もう一台の車が帰ってきたら、そっちの車で工具を買いに行こうと思います。


で、昨日書いた、みっどらいふくらいしす云々ですが、
今日、もう一回、そんなことを考えている時に、
思わされたのは、
「自分の人生を受け入れる」というのは、
確かに大切なのですが、
40代半ばの人間にとっては、
「まだまだ、わからないことがたくさんあるから、人生まだまだ未知数」
という思いを失ってはいけない、ということです。


「自分の人生を受け入れる」という時に、
もしも、それが「人生なんてのはこんなもんだ」なんて、
わかったような気になってしまったら、ものすごい傲慢なんじゃないかと。


今日も、先週の「プロフェッショナル」を見ていて、
日本では2月10日放送の分だったようですが、
メキシコで遺跡の発掘をしている考古学の先生の姿 を見ながら、
自分はまだまだチャレンジャーなんだと思わされました。


さて、金曜日の聖書。
金曜日は伝道者の書9章1-10節でした。


「というのは、私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめたからである。」1節。

神の御手の中にある。
今、神の御手の中に置かれている。
神の御手の中に生かされている。

そのことを感謝します。
そして、そのことを、単に言葉だけではなく、
本当にそうだ、と実感をもって歩ませて頂きたいです。
闘いもあり、痛みもあるでしょう。
でも、その中で、確かに主が守ってくださっている、
そのことを経験させて頂きたいです。

主よ、
あなたの御手の中に置かれていることに感謝します。
どうか、あなたの御手の中で歩ませて頂いていること、
あなたの御手の中にいることを、
もっともっと、肌で感じることができますように。



2009-02-22

リスク分散も必要?

もう一ついっちゃいましょう。
11時になりますが、気温は-0.5度。
下がり方が鈍くなりましたね。
風が強いと、体感温度は下がるのですが、
冷え込み自体は弱くなります。


風が弱い時の方が放射冷却が効く。


どうして?


うーん、知りません。


で、調べてみました。
どうやら、同じように放射冷却は起る。
それは地表の熱が宇宙に逃げていく現象。
風がない時は、冷えた地面に冷やされた空気が
地表にとどまるために、地表近くの気温は下がる。


でも、風で、冷えた空気がすぐに攪拌されてしまうので、
空気自体はそれほど冷えない。


ってなところでしょうか?


もうちょっと勉強しようかな、このテーマも、
「みっどらいふくらいしす」と「放射冷却」2つの宿題です。


今朝、お祈りの後、教会でいろいろ仕事して、
9時頃に家に帰ったのですが、
電話が通じない、という。
で、なんと、インターネットも通じない。
テレビも映らない。


そう、Cablevisionで電話とテレビとインターネット、3つのサービスにはいると、
2年間は合わせて月100ドル以内ですむ。
(+1年間のTV Japan付き)
で、去年の秋に契約しているので、
全部Cablevisionなんですね。


で、一気に何もなくなると、すごい不安になる。


幸い、携帯電話は不通に使えたので、
連絡はできたのですが、
Cablevisionに電話するのにも、
一々連絡先を保管していない。


「どうせ、インターネットで探せばすぐ見つかるから・・・」


その理由の一言に尽きます。
紙で取っておいてもそれで探すのは一苦労。
だから、インターネットで探すから・・・といろんなインフォーメーションを捨てているんですよね。


でも、そのインターネットがダウンすると、
もう、どうしていいのかわからない。


ちょっとしたOutageでしたが、
すごく不安になりました。


ちょっとリスクの分散を検討したいです。


さて、木曜日の聖書。
木曜日は伝道者の書8章9-17節。


「しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。」12節。

なにがしあわせなんだろうか?
神と共に歩むこと。
平安の中に歩むこと。

幸せな歩みを与えられている、と思う。

主がおられるから。
ただ、主がいてくださって、
私に時間を与えてくださっているから。
その時をどのように用いるか、
それだけを考えて生きていけばいいから。

感謝。

主よ、
どうか、あなたと共に歩む喜びに生かしてください。
幸せな歩みを感謝します。
あなたと共に歩むことのすばらしさを伝えるすべを与えてください。

みっどらいふくらいしす?



10時を過ぎました。
気温は-0.2度。
どんどん気温は下がってきています。


そう、表題の言葉、最近よく聞きます。
自分に関係があるから、気がつくようになったのか、
最近、よく使われるから耳にするのか、
どちらなのか、よくわからない部分もあるのですが、
とにかく、人ごとでなく、感じています。
中年期の危機。


ホルモンバランスよりも、
どちらかというと、
自分の人生を受け入れる、という意味で、
通ってきているかなあと思います。


20代はもちろん、30代の頃までは、
何でも可能なような気がしている。
男なんてのはそんなもんです。
自分の人生ではなくて、
「坂本龍馬の人生」・・・それも「司馬遼太郎が書いたような」坂本龍馬あたりを描いていたりする。
(まあ、実際龍馬は31歳で暗殺されるわけで、みっどらいふくらいしすもへったくれもないんですがね。)
でも、40代も半ばになり、いや後半になると、
逆にリミットを感じるというか、
それよりも、リミットを受け入れることが、
平安に過ごす秘訣であるかのように感じることが多い。


逆に、この時に、「こんなはずじゃない」と、
背伸びをして、強行突破する方も多いという。


人生の先輩から、「40代後半は一番いい時でしょう」といわれて、
もうちょっと無理しようかなあ、と思ったりもするのですが、
たぶん、「一番いい時」にするためには、
龍馬の人生じゃなくて、
自分の人生を受け入れる、リミットを受け入れる、
そのプロセスをちゃんと通ることかなあ、と思っています。


いろいろ葛藤はありますが、
たぶん、平和に受け入れつつある方かなあ、と思います。
このテーマ、これからちょこちょこ考えていきたいと思っています。


さて、水曜日の聖書。
水曜日は伝道者の書8章1-8節。


「風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。」8節。

そうですよねえ。
自分でコントロールできるものがどれだけあるか?
自分でどうにもならないこともどれだけあるだろうかと思います。
それを受け入れて、
主の支配の中に生かされていくことが、
どれほど大切なことだろうかと思います。

じぶんもそう。
いつの間にか、いろんなことを自分の手で支配しようとしているのかもしれません。

風がどこからきてどこへ行くのかわからない。
今、ちょうどゴミを出しに外に出た時に、
強い風が吹いていました。
その風がどこから吹いてきて、最後はどこに行き着くのか、わからない。
それと同じように、神さまのなさることも、
私たちはどこから始まって、どこへ行くのか、わからない。

だから、主の最善を信じて、
歩んでいこうと思います。

主よ、
あなたの支配の中に生きていることに、感謝します。
あなたに身を委ね、あなたの導かれるところに歩む者とならせてください。
あなたの御業を見せてください。

雪降りませんでした。

日曜日の夕方。
6時過ぎです。
この時間に更新ができるなんて、
すごすぎます。


今日の雪は完璧に外れましたね。
雨がちょっと降っただけです。


今、6時過ぎに帰ってきたら、ちらほらと小雪が舞っていましたが・・・。


こういう天気の予報は本当に難しいです。


明日からは晴れますが、すごく寒くなりそうです。
最低気温は氷点下10度くらいまで下がって、最高気温も0度くらいまでしか上がりません。


木曜日からは暖かくなるようです。


今夜はちょっとまとめて更新しないと、と思っています。
まずは、火曜日の聖書。

火曜日は伝道者の書7章15-29節。

「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。」21節。

これは悪意のある悪口のようなものを心に留めるな、ということであって、
何にも聞かないで耳をふさげ、ということではないことは明らか。

本当にそうだなあと思う。
勿論、謙虚に耳を傾けるべき言葉はある。
大切なことがある。
でも、それと共に、
気に留めてはいけない言葉もたくさんある。

そこをきちんと見分けて、
思い煩わないで、
聞くべき言葉を聞き、
忘れるべき言葉を忘れる、
そのことによって前進していきたいと思いました。

主よ、
どうか、あなたの知恵を与えてください。
聞くべき言葉を聞く謙虚さを与え、
忘れるべき言葉を忘れる強さを与えてください。
それを見分ける知恵を与えてください。